瀬谷英行の発言 (国会等の移転に関する特別委員会)

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○瀬谷英行君 関東大震災が一九二三年ですが、私が生まれたのは一九一九年、したがって関東大震災は四つのときに体験しました。ただ、体験をしたと言っても、そのときの状況を正確には覚えていない。正確には覚えていないけれども、畳の上でおもちゃの電車を転がして遊んでいたときに突然体が宙に浮いた。母親が私を横抱きにして表へ飛び出した。飛び出した瞬間に向かい側の二階家の屋根から屋根がわらが土煙を上げて落下をしてきたわけです。土煙を上げて落下をしたそのちょっと早く、そこの家の奥さんが裸で飛び出したんです。裸で飛び出したというのは、今と違って服装が違いますから、まだ九月一日は暑いときだったのでその奥さんは腰巻き一つでいたんですね。あの向かいの奥さんは腰巻き一つで飛び出したなということを、四つの年でしたけれども、まだ覚えています。そういうことがあったんです。
 当時私が住んでいたところは、今で言う文京区です。小石川だったんです。その瞬間的な横揺れの怖さというのは記憶にないんですけれども、それが日が暮れて真っ暗になってから、神田の方面が、あるいは東京では下町と言いましたが、本所、深川の方向の空が真っ赤になったんですよ。空が真っ赤になったのが何だかさっぱりわからない。ともかく父親は帰ってこない、母親は子供を抱いておろおろすると。何が起こったんだか情報が全くなかったんですね。当時は、テレビもなければラジオもない。それから、情報というのは新聞とか号外とか、こういうものしかなかったんです。だから、一体どこで何が始まったかということが全然わからないまま、大人も、もちろん子供も、ただ真っ赤な空を見て、あの火の手がこっちへ向いてくるのかこないのかわからないからみんな恐怖におびえていたわけです。そういうことを今でも覚えているんです。
 小学校から中学に入った段階でもって、関東大震災というものを詳しく学校の先生からも聞かされました。そして、何が一番問題だったかというと、密集地域でもって火災が起きたと。それを消すための手だてがなかった。そして、それがどんどん広がってきたと。どうしてそうなったかというと、特に浅草からあの近辺ですね。どういうわけだか知らないけれども、観音様だけ焼け残ってあの周辺は全部焼けちゃった。四方八方から火災が攻めてきて、それが被服廠跡という広場に、どういうわけであそこに広場があったかわかりませんが、被服廠跡と言うんですから前は被服廠があったんでしょう、そこへみんな逃げ込んだ。逃げ込んだ人の周辺から火災が来て、その炎が一緒になって一つになっちゃった。そのために、その炎の下に逃げ込んだ人たちは焼け死んだというよりも酸欠でもって窒息死した。こういうことを当時中学のときの先生から聞いた覚えがあるんです。そういうことは、自分が体験した震災の詳細の説明でしたから、今でも覚えているんです。
 その結果どうなったかというと、十何万だかの人が死んだということですね。一遍に十何万の人が死ぬということがあり得るのかと思いましたが、戦争の末期、三月十日に東京大空襲がありました。東京大空襲があったときに、米軍はわざわざ下町を選んで焼夷弾を雨のように降らせた。焼夷弾の壁をつくって真ん中から逃げられないようにして、そして火災を起こした。そのためにあの三月十日の空襲では何万だか何十万だかの数え切れないほどの人が、詳細を調べようがないぐらい大勢の人が焼け死んだということを聞いているんです。
 さっきのスライドで見ましたけれども、やはりバスがすれ違うのがやっとという道路が今でも東京にはあるんです。それは私は非常に怖いと思うんです。
 その震災を受けた当時は今で言う豊島区でしたけれども、父親はやはり下町の方は物騒だと。だから、父親の同僚は練馬に、あのころは田園地帯でしたから練馬に土地を買ってうちを建ててそこに住むと。新しいうちができたから見に来いと言われて子供のときに父親に連れられて行った記憶があるんですが、そのときにおれはあんな田舎には住みたくないと。だけれども、今で言うと練馬区の江古田の近辺なんです。今はもう住宅地になっちゃったんです。あんな田舎になんて失礼な話は言えない状態なんですよ。
 だから、そういうことを考えてみますと、やはり密集地帯がまだたくさん残っておるということは、ほうってはおかれないと思うんです。東京の人は、やはりああいう超過密地帯というものをどうするかということを考えなきゃならぬと思うんです。
 道路を広げるといったってそう簡単に広がらないですよ、道路は。それから、密集住宅というものを解消するといったってそう簡単にいかないですよ。東京湾でも埋め立てをするというなら別だけれども、そうもいかないだろうと。そうかといって、一度ああいう大震災があったんだから当分もう東京には地震は来ないだろうというふうに断言できるかというと、どなたもその自信はないだろうと思います。
 だから、そういうことになりますと、いつ起こるかわからない大地震に対して、やはりどうしたらいいかということを考えなきゃいかぬと思う。東京を何とか首都として残そうと思うならば、やはり狭隘な道路とか密集住宅とかいうものを解消する方向でいかなきゃいかぬ。
 ドイツのお話が出ましたけれども、ベルリンを私どもが訪れたときには、裏町まで行ったわけじゃありませんから裏町の状況はわかりませんが、我々が歩いた範囲では自動車がすれ違うのに困るような道路というのはなかったような気がするんです、ドイツでもフランスでも。それが日本では、いまだにバスがすれ違うのがやっとこさっとこというところがあるんですからね。
 そうすると、こういう状態をそのままにしておいて、そして震災対策とかいろいろなことを言ってみても、抜本的な解決策というのはないと思うんです。だから、そうなると、そのためにはどうしたらいいかということを真剣に考えなきゃいかぬだろうと思う。
 江戸時代に大地震があったという事実があるんだから、関東大震災からこれだけたったんだからもう来ないだろうということはこれまた断言できないだろうと思う。だから、その点をやはり考えて、東京をスリムにするためには根本的にどうしたらいいかということを考えなきゃいかぬだろうという気がいたします。
 実際に大地震がもし起こったら、これはとんでもないことになると思います。これはもう阪神の大震災なんかも一つの教訓にしなきゃいかぬだろうと思う。教訓にして、この東京のあり方というのを考えるのが我々としては大事な任務ではないか、こういう気がいたします。一言お願いします。

発言情報

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発言者: 瀬谷英行

speaker_id: 591

日付: 1998-03-12

院: 参議院

会議名: 国会等の移転に関する特別委員会