北岡秀二の発言 (文教・科学委員会)

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○北岡秀二君 私は、大臣の御認識というのはまことに結構な御認識をされていらっしゃるだろうと思います。これはもう数字を見てごらんのとおり、こういう状況だからといって日本の子供たちが伸び伸びと生活をしていらっしゃるかというと、そうでもない。アメリカの、中国の子供たちが本人の自由でいいという部分が非常に意識が少ないから、じゃ抑圧されているかというと、そうでもない。逆にこれはアメリカでも中国でも、私らがいろいろなメディアを通じて拝見をさせていただく限りにおいては、日本と比較をして決して不健全な状態でもないし、逆になお一層自立心を持って非常に元気に活動されていらっしゃる子供たちが多いというような感じもしないではない。
 そういう状況から申し上げますと、今の大臣のお話のとおりいろいろ問題があるんじゃなかろうか。つい先日、日教組が教職員の悩み相談ということで、これは新聞にも大きく出ましたが、アンケートをとられた。この数字の中にも、子供の自己中心的、無気力、無責任等々の傾向があって、それに対して先生方が悩んでおられるというような数字も出ておるわけでございまして、決してこのアンケートだけがたまたまこういう結果が出たんじゃないというふうに私は認識をしておるわけでございます。
 先ほど大臣のおっしゃったことにも関連するわけでございますが、なぜこういう現象になっているのかということを考えてみますときに、いろいろ問題はあろうかと思います。しかし、たまたま今大臣が答弁の中でもおっしゃられましたが、豊かな社会人をはぐくむ、社会人としての人格形成をはぐくんでいくという観点での基本のキーワード、これはすなわち、先ほど大臣もおっしゃられましたが、権利でありますとかあるいは自由でありますとか、あるいは平等とか個性とか、さらに人権、これはもう本当に一番原点の部分の言葉の定義に対して、認識に対して非常に大きな誤解があるんじゃなかろうかというふうに私は感じるわけでございます。
 先ほどおっしゃられましたとおり、権利という言葉には当然のごとく義務がついて回るものである。そしてまた、自由という言葉にはルールを守るという責任があって、それを守った上での自由である。
 さらに、平等ということを考えてみましても、平等というその解釈の中には結果平等と機会平等、チャンスの平等という二つのとらえ方があるわけでございますが、本来の平等の意味というのは、あくまでチャンスは平等ですよと、機会平等の平等が私は本来の平等の意味じゃなかろうか。部分によっては結果平等という認識もあって当然なんですが、基本論としては、チャンス平等が本来の平等の意味ですよということもあろうかと思います。
 そしてまたさらに、個性ということを考えてみましても、教育の現場で、結果平等思想を上げながら、なおかつ個性をはぐくんでいきましょうといううたい文句をよく私は拝見させていただくわけでございますが、これはおのずと皆さん方おわかりのとおり、結果の平等を押しつける以上は、個性は出てくるわけは絶対ない。逆に人間性が抑圧されて、個性というのはそういう状況の中では決して出てこない。そしてまたなおかつ、個性ということを考えてみますときに、社会の中で生きていく上に当たっての個性であり、社会の中で個性を発揮するという状況でございますので、本来の教育の観点からの個性ということを考えてみますときには、反社会的な個性が本来の教育の場での個性であるとか、本当に社会的に受け入れていただけないような個性というのは決して教育の場で論ずる個性じゃない。
 さらに、人権という言葉でもそうでございますが、これはもう人権を主張する以上、当然他者の人権も認めなければならないから、その裏には大きな大きな社会に対する、他人に対する思いやりも当然なければならない。
 こういうもろもろの言葉の表と裏と申しますか、いろいろな意味で、歴史的に醸成してきたそういうキーワードというか、一つ一つの原点の言葉には大変大きな重みと意味がある。
 ところが、先ほどちょうど大臣もおっしゃっておられましたように、非常に今の学校現場での、当然大人社会も含めてでございますが、基本論の部分のそういう肝心な言葉の解釈に大きなゆがみ、大きなずれがあるからこそ、結果的に無責任な子供たちであったり、さらには無気力、自己中心的な子供たちが出てきておるのでないか、それが一つの原因じゃなかろうかというふうに私は思うわけでございます。
 ちょっと話が横へずれますが、この各国比較でもおわかりのとおり、よく外国との比較の中で、日本の常識は世界の非常識ですよ、世界の常識が日本の非常識ですよというような言葉もよく使われるわけでございますが、こういうところにも非常に大きな原因があるんじゃなかろうかというふうに感じるわけでございます。
 そういう観点から申し上げますと、このたびの教育改革、そしてまた心の教育を大きく推進していく過程の中で、今申し上げました権利でありますとか自由でありますとか、あるいは個性であるとか平等であるとか人権であるとかいう部分の、これはもう本当に世の中をなしていく根幹の部分の言葉の定義を、ぜひとも共通の認識をしていただけるような指導をしなければならないのでなかろうかというふうに感じる次第でございます。
 そういう観点から申し上げますと、今取り組んでおる具体のことで考えてみますと、例えば学習指導要領の総則の中に自由だとか個性だとかいう文言を入れておりますが、こういう文言をただ単純に入れるんじゃなくて、そのあたりの重さというのを十分に理解できるような形で表現をする。そしてまたさらには、先ほどのお話ではございませんが、道徳教育の中でそういう部分を十分に子供たちに理解できるような何らかの形で広めていく、そういう努力が私は必要じゃなかろうかと思うわけでございます。
 そのあたりについてお伺い申し上げたいのと、それに関連してでございますが、子供たちを指導していく学校の先生方にもそれを基本的には十分理解していただかなければならないということから考えてみますときに、教員養成課程の中でもそのあたりの指導を十分すべきだろうと思うわけでございますが、大臣の御所見をお伺い申し上げます。

発言情報

speech_id: 114215074X00819980312_020

発言者: 北岡秀二

speaker_id: 13059

日付: 1998-03-12

院: 参議院

会議名: 文教・科学委員会