町村信孝の発言 (文教・科学委員会)
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○国務大臣(町村信孝君) 日の丸・君が代は、これはもうすべての学校でしっかりとやっていただかなきゃならぬことは言うまでもないので、新しくできる中高一貫校だけでやってそれでいいというわけにはまいりません。
それはさておきまして、今、私は大変重要な御指摘があったと思います。一体日本の教育の座標軸はどこにあるのか。これは非常に根源的なお問いかけで、なかなか私も短い時間でうまくお答えをするだけの能力も知識もございませんけれども、例えば、委員は宗教というお話を言われた。日本に宗教というのがあるのかないのか、もちろんあるわけでありますが、諸外国のように、例えばイスラムのような形で国を挙げてみたいなことはもとより日本ではございません。およそ宗教というものは、何かすべて学校教育の中で触れられていないような感じがするわけです。指導要領を見ると、宗教の重要性は教えなさいと言っているんですが、率直に言って余りそれはなされていない、一部の私立の学校においてのみではないのかなと思います。
例えば、どの宗教がいいですよとか悪いですよと言う必要はありませんけれども、世界にはキリスト教もあるしイスラム教もあるし仏教もあるし、それぞれこういうことを教えているんだ、こういうのが教義である、こういうのはそれぞれ人間生きる上にとって大切なんだということをもっとしっかりと公立の学校の中でも指導してもいいのではないんだろうかなと私は思っております。
しかし、それはあくまでも勉強じゃないかと。まあ身につけてほしいんですが、では何が戦後の日本の教育の座標軸であり得るか、もっと言うと、日本の教育の中でどういう人間に育ってもらいたいかということに関して私は文部大臣就任以来いろいろ考えておりますけれども、正直言って、答えはないんじゃないのかなと私は思っております。
戦前であれば、よかれあしかれ一つの修身という姿があったし、あるいは江戸時代からのある意味ではよき遺産といいましょうか、武士道とか商人道とかいろいろな道というものがありました。そういうものは戦後ほとんど否定をされてしまった中にあって、例えば昭和二十七、八年ごろ天野文部大臣がある種のそういう望ましい人間像みたいなのを出そうとして葬り去られました。昭和四十一、二年ごろに期待される人間像というのを中央教育審議会が出したけれども、それも葬り去られました。いずれも上からの押しつけはだめだという形で葬り去られて今日に来ております。
ですから、日本の教育で一体どういう姿が望ましい人間像なのか、教育の目標は何なのかということについて、率直に言って日本はコンセンサスがないまま今日に来ているところにいろいろな問題点が実は生まれてしまっているのではないのかな、こう思います。ではつくればいいじゃないかと言っても、またこれは文部省がやれば三回目の失敗になってしまうでしょう。
ですから、今こういう時期だからこそ、むしろ民間の有識者が幅広く集まって下から盛り上がった形で、こういう教育、こういう人間像がいいのではないのかなということをむしろつくっていただきたい、そんなことを僕は今まで数多くの民間有識者、マスコミの方等々を含めてお話をしているのでありますが、よしやってみようかという方がなかなかいらっしゃいません。本当に何をもって座標軸とするか。それはあるんですよ、形式的というか、教育基本法も憲法もあります。
しかし、それはそれでいいんですけれども、ちょっと表現が不適切だったらお許しをいただきますが、どうもいま一つ建前に過ぎているような感じがして、日本人としてという部分がいささか見えてこないのが今の憲法、教育基本法といったものの制約というか限界というか、何かそんな感じがして、ちょっと取りとめのないお話で申しわけないのでありますが、中高一貫からどんどん離れた答弁になって申しわけありませんでした。