ベアテ・シロタ・ゴードンの発言 (憲法調査会)
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○参考人(ベアテ・シロタ・ゴードン君) 私は、ベアテ・シロタ・ゴードンと申します。
きょうは遠くから来た方もいると思います。しかし、私が一番遠いところから来たと思います。ニューヨーク市から来ました。憲法調査会が私を呼んでくださったことを大変光栄に思います。ありがとうございます。
そして、憲法調査会ときょうのお客様の間にこんなに多くの女性も参加しているのは本当にうれしいです。これは第二次大戦の前には考えられなかったことですので、五十五年の後にこのようなことが実際に起こるというのは夢みたいです。女性参議院議員四十三人が今活躍していることは、本当におめでたいです。アメリカのセナトよりずっといいです。アメリカで女性はセナトに九人だけです。ですから、日本の女性たち、おめでとうございます。
一九四五年の十二月に、私はアメリカの軍属としてニューヨークから日本へ飛んできました。私は五年間日本を見なかったので、破壊された東京を見たときに心が痛みました。私はウィーンで生まれましたが、五歳半のときに家族と日本に移りましたので、東京はオーストリアのウィーンより私のふるさとでした。
私の両親は戦争中、軽井沢にいましたので、私はマッカーサー総司令部の仕事を始める前に軽井沢へ行きました。食料不足と燃料不足で苦労した両親は、私に戦争中の様子を教えてくれました。また心が痛かったです。二日間滞在の後は、私は東京へ帰ってマッカーサー総司令部の民政局に入って仕事を始めました。
私の最初の仕事は、女性政治運動そして小さい政党の運動のリサーチでした。そして、一カ月そこで勤めたころ、二月四日の朝十時に民政局長ホイットニー准将が私たちを呼んで、次のことを発表しました。あなたたちはきょうから憲法草案制定会議のメンバーになりました、これは極秘です、あなたたちはマッカーサー元帥の命令で新しい日本の憲法の草案をつくるのが任務です。これを聞いたのは二十人ぐらいでした。みんな随分びっくりしました。
マッカーサー元帥は、その二月四日まで自分のスタッフにこの仕事を与えるつもりは全くなかったので、松本烝冶無任所大臣に何度も民主的な憲法の草案を頼みました。松本さんはいつも明治憲法と余りにも変わらない草案を書きましたので、最後にマッカーサー元帥はこの仕事をホイットニー准将に頼みました。
ホイットニー准将の発表が終わった後、ケーディス大佐が憲法草案の仕事を振り分けました。人権に関する草案は三人に与えられました。男性二人女性一人、その女性が私だったのです。
その後、三人で人権の草案についてはだれがどういう権利を書けばいいかと相談したときに、二人の男性が、ベアテさん、あなたは女性ですから女性の権利を書いたらどうでしょうかと言いました。私はすごく喜んで賛成しました。しかし、女性の権利のほかにも学問の自由についても書きたいと言いました。みんなで賛成して、私は間もなくジープに乗っていろんな図書館へ行っていろんな国の憲法を参考に集めました。この仕事は極秘だったので、一カ所の図書館だけに行ったら、図書館長がなぜ司令部の代表者はこんなにいろんな憲法に興味があるのか疑うといけないと思い、私はいろんな図書館に行きました。事務所へ帰ってきたら、みんながこの本を参考に見たがったので、私は引っ張りだこになりました。
マッカーサー元帥の命令ではこの憲法を早く書かなければなりませんでした。それで、私は朝から晩までいろんな憲法を読んで、何が日本の国に合うのか、または自分の経験で日本の女性にはどういう権利が必要であるかをよく考えました。
私は、戦争の前に十年間日本に住んでいましたから、女性が全然権利を持っていないことをよく知っていました。だから、私は憲法の中に女性のいろんな権利を含めたかったのです。配偶者の選択から妊婦が国から補助される権利まで全部入れたかったんです。そして、それを具体的に詳しく強く憲法に含めたかったんです。
例えば、最初の私の草案には次のことを書きました。
「家庭は、人類社会の基礎であり、その伝統は、善きにつけ悪しきにつけ国全体に浸透する。それ故、婚姻と家庭とは、両性が法律的にも社会的にも平等であることは当然であるとの考えに基礎を置き、親の強制ではなく相互の合意に基づき、かつ男性の支配ではなく両性の協力に基づくべきことをここに定める。これらの原理に反する法律は廃止され、それに代わって、配偶者の選択、財産権、相続、本居の選択、離婚並びに婚姻及び家庭に関するその他の事項を、個人の尊厳と両性の本質的平等の見地に立って定める法律が制定さるべきである。」。
ほかの条項には私は次のことを書きました。
「妊婦と乳児の保育に当たっている母親は、既婚、未婚を問わず、国から守られる。彼女たちが必要とする公的援助が受けられるものとする。嫡出でない子供は、法的に差別を受けず、法的に認められた子供同様に、身体的、知的、社会的に、成長することにおいて機会を与えられる。」。
そしてまた、私は次の言葉を書きました。
「養子にする場合には、夫と妻、両者の合意なしに、家族にすることはできない。養子になった子供によって、家族の他のメンバーが、不利な立場になるような偏愛が起こってはならない。長男の単独相続権は廃止する。」。
そのほかにも私は子供の教育の平等についても条項を書きました。
すなわち、「公立、私立を問わず、国の児童には、眼科の治療を無料で受けさせなければならない。また、適正な休養と娯楽を与え、成長に適合した運動の機会を与えなければならない。」。
そういう詳しい点を草案に含めました。
それで、カーネル・ロウストとプロフェッサー・ワイルズに私の草案を見せて、二人とも賛成して、次に民政局の運営委員会と私たちのコミッティーの会議があったときに、それを推薦しました。
その運営委員会には三人がいました。カーネル・ケーディス、ケーディス大佐ですね、コマンダー・ハッシーとコマンダー・ラウエル。みんな弁護士であってみんな男性でありました。
そして、その男性は、私が書いた草案にあった基本的な女性の権利に賛成しましたが、私が書いた社会福祉の点について物すごく反対しました。そういう詳しいものは憲法に合わない、そういうものは民法で決めなければならないというようなことを私に言いました。私はがっかりして、こういう社会福祉の点を憲法に入れなければ、民法をつくる男性はそういう点を絶対民法に入れないと私は言いました。
ケーディス大佐は、あなたが書いた草案はアメリカの憲法に書いてあるもの以上ですよと言いました。私は、それは当たり前ですよ、アメリカの憲法には女性という言葉が一項も書いてありません、しかしヨーロッパの憲法には女性の基本的な権利と社会福祉の権利が詳しく書いてありますと答えました。
私はすごくこの権利のために闘いました。涙も出ました。しかし、最後には運営委員会は私が書いた条項から次の言葉だけ残しました。すなわち今の第二十四条、「婚姻は、両性の合意のみに基づいて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。」、それだけが残りました。
ホイットニー准将がこの草案を日本の政府に渡したときには、私が一番最初に書いた基本的な女性の権利についての言葉がまだ入っていました。すなわち、「結婚と家庭とは、両性が法律的にも社会的にも平等であるとの考えに基礎を置き、親の強制ではなく、相互の合意に基づき、かつ男性の支配ではなく、両性の協力に基づくべきことをここに定める。」、日本の政府は、その「親の強制ではなく」と、「かつ男性の支配ではなく」という言葉をカットしたんです。
とにかく、私は運営委員会が私が書いた草案をあんなに縮めたということについてはもちろん随分がっかりしました。しかし、運営委員会が私みたいな若い者より、私はそのときに二十二歳でした。だからその運営委員会が私より随分権力を持っていたので仕方がないと思いました。一番基本的な権利が第二十四条に入っていることで、心が重たくても受け入れなければならないと思いました。
一週間の間に憲法の草案ができ上がって、民政局部長ホイットニー准将がマッカーサー元帥にそれを提出しました。その次にホイットニー准将は草案を日本の政府の代表者に渡しました。それで私たちの仕事が終わったと思いました。でも、そうではありませんでした。
三月四日にまた極秘の会議が開かれました。この会議に参加したのは民政局の運営委員会と日本政府の代表者でありました。
私もその会議に呼ばれたのは、草案を書いたからではなく、通訳として呼ばれました。通訳は五人いましたので、通訳部長はジョセフ・ゴードン中尉でした。一年半ぐらいたった後、私はそのゴードン中尉と結婚しました。だから、憲法の草案の仕事からいろんな結果が生まれました。
十時に極秘会議が開かれました。会議が終わるまで部屋からは出られないことが命令されました。お食事もその部屋で食べなければならなかったんです。おいしくないアメリカの陸軍から出たCレーション、お肉などの缶詰と、そしてKレーション、これは乾物。そういう食事が出ました。
私は、会議が三、四時間で終わると思いました。しかし、最初からいろんな議論がありました。特に天皇制についての議論が長かったです。意味だけではなく、言葉の使い方、どういう字を使うか、全部議論になって、大騒ぎでした。日本側は、我々のつくった草案ではなく、日本政府がまた新しくつくった草案を基本にして、私たちは私たちでつくった草案を基本にして、それを比べるのは本当に複雑でした。日本側は英語がわからず、アメリカ側は日本語がわからないので、通訳の仕事はとても大変でした。日本政府が新しくつくられた憲法の条項を順番に翻訳しなければならず、そしてそれを運営委員会が読んで日本側に返答しなければならず、随分時間がつぶされました。
私は通訳が速かったので、アメリカ側と日本側の両方の通訳をしました。日本側は私によい印象を持ちました。運営委員会議長ケーディス大佐はそれにすぐ気がつきました。夜中の二時に男女平等の条項がまた大変な議論になったのです。日本側は、こういう女性の権利は全然日本の国に合わない、こういう権利は日本の文化に合わないなどと言って、また大騒ぎになりました。天皇制と同じように激しい議論になりました。もう随分遅く、みんな疲れていたので、ケーディス大佐は日本の代表者の私への好感をうまく使いたいと思いました。そして、こういうことを言いました。ベアテ・シロタさんは女性の権利を心から望んでいるので、それを可決しましょう。日本側は、私が男女平等の草案を書いたことを知らなかったので、ケーディス大佐がそれを言ったときに随分びっくりしました。そして、それではケーディス大佐が言うとおりにしましょうと言いました。それで、第二十四条が歴史になりました。
翌朝の十時まで通訳の仕事を続けました。二十四時間通訳の仕事をしました。ケーディス大佐はうちへ帰りなさいと言って、私は神田会館へ行きました。その日はよく寝ました。ジョセフ・ゴードン中尉は憲法の仕事を続けて、午後の六時まで働きました。いろんな詳しい言葉の使い方を調べました。
さて、日本の国民は新しい憲法を喜んで受け入れました。日本の政府はそのときに余り喜ばなかったのです。日本の国民は、日本の憲法がマッカーサー元帥のスタッフによって書かれたということは知りませんでした。しかし、一九五二年に占領軍がアメリカに帰ったときに、ある日本の学者と新聞記者はそのことを知って、この新しい憲法は日本に押しつけられたものであるから改正すべきだと主張しました。
マッカーサー元帥が憲法を日本の政府に押しつけたということが言えますでしょうか。普通、人がほかの人に何か押しつけるときに、自分のものよりいいものを押しつけませんでしょう。日本の憲法はアメリカの憲法よりすばらしい憲法ですから、押しつけという言葉を使えないかもしれません。特に、この憲法が日本の国民に押しつけられたというのは正しくありません。日本の進歩的な男性と少数の目覚めた女性たちは、もう十九世紀から国民の権利を望んでいました。そして、女性は特別に参政権のために運動をしていました。この憲法は、国民の抑えつけられていた意思をあらわしたので、国民に喜ばれました。
憲法草案に参加した我々は、この仕事について長い間黙っていました。一つの理由は、これが極秘であったからです。もう一つの理由は、次のような私の気持ちから出たものです。
憲法を改正したい人たちが私の若さを盾にとって改正を進めることを私は恐れていました。それだから黙った方がよいと思って、私は日本の新聞記者のインタビューを受けませんでした。五年前まで親しいお友だちにも何も話しませんでした。一回か二回だけ、一九七〇年ごろ、ある学者に少しこの話をしました。
私は、私の若さについて一言申し上げたいと思います。
当時の二十二歳と今の二十二歳の人を比べれば、大きな違いがあります。私は、二十二歳のときに六カ国語をしゃべれました。私は、十九歳半で大学を卒業しました。六歳のときからピアノとダンスを習いました。六歳のときからいろんなコンサート、オペラ、芝居などを日本で見ました。第二次大戦が始まったときにアメリカにいた私は、日本にいた両親から隔離されたので、一人でお金を稼いで生活しなければならなかったのです。十九歳から二十二歳まで三年間、難しい翻訳、リサーチとジャーナリズムの仕事をしました。その上に、私の大学ミルズ・カレッジは進んでいた大学であって、フェミニズムがまだ流行ではないときにフェミニストでありました。私は、二十二歳のときにも世界を回ったことがあって、ヨーロッパとアジアのいろんな国に旅行しました。
私は、小さいときから日本の軍国主義を自分の目で見ました。私は、憲兵隊のことをよく知っていました。憲兵隊は、毎日私のうちへ来て、私の女中さんたちにいろんなインフォメーションを頼みました。
私は、六歳のときから日本の社会に入って、日本のお友達と遊んで、虐げられた女性の状況を自分の目で見ました。私は、奥さんがいつでも主人の後ろを歩くことを自分の目で見ました。