憲法調査会

2000-05-02 参議院 全146発言

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会議録情報#0
平成十二年五月二日(火曜日)
   午後一時一分開会
    ─────────────
   委員の異動
 五月一日
    辞任         補欠選任
     本岡 昭次君     円 より子君
    ─────────────
  出席者は左のとおり。
    会 長         村上 正邦君
    幹 事
                久世 公堯君
                小山 孝雄君
                鴻池 祥肇君
                武見 敬三君
                江田 五月君
                吉田 之久君
                魚住裕一郎君
                小泉 親司君
                大脇 雅子君
    委 員
                阿南 一成君
                岩井 國臣君
                岩城 光英君
                海老原義彦君
                扇  千景君
                片山虎之助君
                亀谷 博昭君
                木村  仁君
                北岡 秀二君
                陣内 孝雄君
                世耕 弘成君
                谷川 秀善君
                中島 眞人君
                野間  赳君
                服部三男雄君
                松田 岩夫君
                浅尾慶一郎君
                石田 美栄君
                北澤 俊美君
                笹野 貞子君
                高嶋 良充君
                角田 義一君
                直嶋 正行君
                円 より子君
                簗瀬  進君
                大森 礼子君
                高野 博師君
                福本 潤一君
                橋本  敦君
                吉岡 吉典君
                吉川 春子君
                福島 瑞穂君
                平野 貞夫君
                佐藤 道夫君
   事務局側
       憲法調査会事務
       局長       大島 稔彦君
   参考人
        元連合国最高
        司令官総司令
        部民政局調査
        専門官     ベアテ・シロ
                タ・ゴードン
                君
        元連合国最高
        司令官総司令
        部民政局海軍
        少尉      リチャード・
                A・プール君
           (通訳 池田  薫君)
           (通訳 長井 鞠子君)
           (通訳 西村 好美君)
    ─────────────
  本日の会議に付した案件
○日本国憲法に関する調査

    ─────────────
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村上正邦#1
○会長(村上正邦君) ただいまから憲法調査会を開会いたします。
 日本国憲法に関する調査を議題といたします。
 本日は、憲法調査会設置後、明五月三日、初めての憲法記念日を迎えるに当たり、日本国憲法のいわゆるマッカーサー草案起草に携わった当時の連合国最高司令官総司令部民政局関係者の方々から日本国憲法の制定過程について御意見をお伺いした後、質疑を行いたいと思います。
 本日は、参考人といたしまして、当時、調査専門官として草案起草に携わり、人権に関する小委員会に所属されていたゴードン女史、また、当時、海軍少尉として草案起草に当たっては、天皇・条約・授権規定に関する小委員会の責任者をされていたプール氏に御出席をいただいております。
 なお、当時、陸軍中尉として草案起草に当たっては、行政権に関する小委員会に所属されていたエスマン氏にも御出席をお願いしておりましたが、健康上の理由により、私のところに出席不可能の通知を診断書を添えていただいております。残念ながら、そういうことで欠席されることとなりました。
 この際、参考人の方々に一言ごあいさつを申し上げます。
 本日は、本調査会のため、はるばるアメリカよりお越しいただきまして、まことにありがとうございます。調査会を代表して厚く御礼申し上げます。拍手
 また本日、委員各位におかれましても、大変、連休の谷間に何かと御用御煩多の折にもかかわらず、全員御出席を賜って御協力を賜っておりますことを会長として厚く御礼申し上げます。
 参考人の方々から忌憚のない御意見を賜りまして、今後の調査の参考にいたしたいと存じますので、よろしくお願い申し上げます。
 本日の議事の進め方でございますが、ゴードン参考人、プール参考人の順にお一人二十分程度御意見をお述べいただきまして、その後、委員各位からの質疑にお答えいただきたいと存じます。
 なお、参考人、委員ともに御発言は着席のままで結構でございます。
 それでは、まずゴードン参考人からお願いをいたします。ゴードン参考人。
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ベアテ・シロタ・ゴードン#2
○参考人(ベアテ・シロタ・ゴードン君)(通訳) 参議院の皆様、私は、本日呼ばれましてこの重要な場でお話をすることができますことに御礼を申し上げます。
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ベアテ・シロタ・ゴードン#3
○参考人(ベアテ・シロタ・ゴードン君) 私は、ベアテ・シロタ・ゴードンと申します。
 きょうは遠くから来た方もいると思います。しかし、私が一番遠いところから来たと思います。ニューヨーク市から来ました。憲法調査会が私を呼んでくださったことを大変光栄に思います。ありがとうございます。
 そして、憲法調査会ときょうのお客様の間にこんなに多くの女性も参加しているのは本当にうれしいです。これは第二次大戦の前には考えられなかったことですので、五十五年の後にこのようなことが実際に起こるというのは夢みたいです。女性参議院議員四十三人が今活躍していることは、本当におめでたいです。アメリカのセナトよりずっといいです。アメリカで女性はセナトに九人だけです。ですから、日本の女性たち、おめでとうございます。
 一九四五年の十二月に、私はアメリカの軍属としてニューヨークから日本へ飛んできました。私は五年間日本を見なかったので、破壊された東京を見たときに心が痛みました。私はウィーンで生まれましたが、五歳半のときに家族と日本に移りましたので、東京はオーストリアのウィーンより私のふるさとでした。
 私の両親は戦争中、軽井沢にいましたので、私はマッカーサー総司令部の仕事を始める前に軽井沢へ行きました。食料不足と燃料不足で苦労した両親は、私に戦争中の様子を教えてくれました。また心が痛かったです。二日間滞在の後は、私は東京へ帰ってマッカーサー総司令部の民政局に入って仕事を始めました。
 私の最初の仕事は、女性政治運動そして小さい政党の運動のリサーチでした。そして、一カ月そこで勤めたころ、二月四日の朝十時に民政局長ホイットニー准将が私たちを呼んで、次のことを発表しました。あなたたちはきょうから憲法草案制定会議のメンバーになりました、これは極秘です、あなたたちはマッカーサー元帥の命令で新しい日本の憲法の草案をつくるのが任務です。これを聞いたのは二十人ぐらいでした。みんな随分びっくりしました。
 マッカーサー元帥は、その二月四日まで自分のスタッフにこの仕事を与えるつもりは全くなかったので、松本烝冶無任所大臣に何度も民主的な憲法の草案を頼みました。松本さんはいつも明治憲法と余りにも変わらない草案を書きましたので、最後にマッカーサー元帥はこの仕事をホイットニー准将に頼みました。
 ホイットニー准将の発表が終わった後、ケーディス大佐が憲法草案の仕事を振り分けました。人権に関する草案は三人に与えられました。男性二人女性一人、その女性が私だったのです。
 その後、三人で人権の草案についてはだれがどういう権利を書けばいいかと相談したときに、二人の男性が、ベアテさん、あなたは女性ですから女性の権利を書いたらどうでしょうかと言いました。私はすごく喜んで賛成しました。しかし、女性の権利のほかにも学問の自由についても書きたいと言いました。みんなで賛成して、私は間もなくジープに乗っていろんな図書館へ行っていろんな国の憲法を参考に集めました。この仕事は極秘だったので、一カ所の図書館だけに行ったら、図書館長がなぜ司令部の代表者はこんなにいろんな憲法に興味があるのか疑うといけないと思い、私はいろんな図書館に行きました。事務所へ帰ってきたら、みんながこの本を参考に見たがったので、私は引っ張りだこになりました。
 マッカーサー元帥の命令ではこの憲法を早く書かなければなりませんでした。それで、私は朝から晩までいろんな憲法を読んで、何が日本の国に合うのか、または自分の経験で日本の女性にはどういう権利が必要であるかをよく考えました。
 私は、戦争の前に十年間日本に住んでいましたから、女性が全然権利を持っていないことをよく知っていました。だから、私は憲法の中に女性のいろんな権利を含めたかったのです。配偶者の選択から妊婦が国から補助される権利まで全部入れたかったんです。そして、それを具体的に詳しく強く憲法に含めたかったんです。
 例えば、最初の私の草案には次のことを書きました。
 「家庭は、人類社会の基礎であり、その伝統は、善きにつけ悪しきにつけ国全体に浸透する。それ故、婚姻と家庭とは、両性が法律的にも社会的にも平等であることは当然であるとの考えに基礎を置き、親の強制ではなく相互の合意に基づき、かつ男性の支配ではなく両性の協力に基づくべきことをここに定める。これらの原理に反する法律は廃止され、それに代わって、配偶者の選択、財産権、相続、本居の選択、離婚並びに婚姻及び家庭に関するその他の事項を、個人の尊厳と両性の本質的平等の見地に立って定める法律が制定さるべきである。」。
 ほかの条項には私は次のことを書きました。
 「妊婦と乳児の保育に当たっている母親は、既婚、未婚を問わず、国から守られる。彼女たちが必要とする公的援助が受けられるものとする。嫡出でない子供は、法的に差別を受けず、法的に認められた子供同様に、身体的、知的、社会的に、成長することにおいて機会を与えられる。」。
 そしてまた、私は次の言葉を書きました。
 「養子にする場合には、夫と妻、両者の合意なしに、家族にすることはできない。養子になった子供によって、家族の他のメンバーが、不利な立場になるような偏愛が起こってはならない。長男の単独相続権は廃止する。」。
 そのほかにも私は子供の教育の平等についても条項を書きました。
 すなわち、「公立、私立を問わず、国の児童には、眼科の治療を無料で受けさせなければならない。また、適正な休養と娯楽を与え、成長に適合した運動の機会を与えなければならない。」。
 そういう詳しい点を草案に含めました。
 それで、カーネル・ロウストとプロフェッサー・ワイルズに私の草案を見せて、二人とも賛成して、次に民政局の運営委員会と私たちのコミッティーの会議があったときに、それを推薦しました。
 その運営委員会には三人がいました。カーネル・ケーディス、ケーディス大佐ですね、コマンダー・ハッシーとコマンダー・ラウエル。みんな弁護士であってみんな男性でありました。
 そして、その男性は、私が書いた草案にあった基本的な女性の権利に賛成しましたが、私が書いた社会福祉の点について物すごく反対しました。そういう詳しいものは憲法に合わない、そういうものは民法で決めなければならないというようなことを私に言いました。私はがっかりして、こういう社会福祉の点を憲法に入れなければ、民法をつくる男性はそういう点を絶対民法に入れないと私は言いました。
 ケーディス大佐は、あなたが書いた草案はアメリカの憲法に書いてあるもの以上ですよと言いました。私は、それは当たり前ですよ、アメリカの憲法には女性という言葉が一項も書いてありません、しかしヨーロッパの憲法には女性の基本的な権利と社会福祉の権利が詳しく書いてありますと答えました。
 私はすごくこの権利のために闘いました。涙も出ました。しかし、最後には運営委員会は私が書いた条項から次の言葉だけ残しました。すなわち今の第二十四条、「婚姻は、両性の合意のみに基づいて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。」、それだけが残りました。
 ホイットニー准将がこの草案を日本の政府に渡したときには、私が一番最初に書いた基本的な女性の権利についての言葉がまだ入っていました。すなわち、「結婚と家庭とは、両性が法律的にも社会的にも平等であるとの考えに基礎を置き、親の強制ではなく、相互の合意に基づき、かつ男性の支配ではなく、両性の協力に基づくべきことをここに定める。」、日本の政府は、その「親の強制ではなく」と、「かつ男性の支配ではなく」という言葉をカットしたんです。
 とにかく、私は運営委員会が私が書いた草案をあんなに縮めたということについてはもちろん随分がっかりしました。しかし、運営委員会が私みたいな若い者より、私はそのときに二十二歳でした。だからその運営委員会が私より随分権力を持っていたので仕方がないと思いました。一番基本的な権利が第二十四条に入っていることで、心が重たくても受け入れなければならないと思いました。
 一週間の間に憲法の草案ができ上がって、民政局部長ホイットニー准将がマッカーサー元帥にそれを提出しました。その次にホイットニー准将は草案を日本の政府の代表者に渡しました。それで私たちの仕事が終わったと思いました。でも、そうではありませんでした。
 三月四日にまた極秘の会議が開かれました。この会議に参加したのは民政局の運営委員会と日本政府の代表者でありました。
 私もその会議に呼ばれたのは、草案を書いたからではなく、通訳として呼ばれました。通訳は五人いましたので、通訳部長はジョセフ・ゴードン中尉でした。一年半ぐらいたった後、私はそのゴードン中尉と結婚しました。だから、憲法の草案の仕事からいろんな結果が生まれました。
 十時に極秘会議が開かれました。会議が終わるまで部屋からは出られないことが命令されました。お食事もその部屋で食べなければならなかったんです。おいしくないアメリカの陸軍から出たCレーション、お肉などの缶詰と、そしてKレーション、これは乾物。そういう食事が出ました。
 私は、会議が三、四時間で終わると思いました。しかし、最初からいろんな議論がありました。特に天皇制についての議論が長かったです。意味だけではなく、言葉の使い方、どういう字を使うか、全部議論になって、大騒ぎでした。日本側は、我々のつくった草案ではなく、日本政府がまた新しくつくった草案を基本にして、私たちは私たちでつくった草案を基本にして、それを比べるのは本当に複雑でした。日本側は英語がわからず、アメリカ側は日本語がわからないので、通訳の仕事はとても大変でした。日本政府が新しくつくられた憲法の条項を順番に翻訳しなければならず、そしてそれを運営委員会が読んで日本側に返答しなければならず、随分時間がつぶされました。
 私は通訳が速かったので、アメリカ側と日本側の両方の通訳をしました。日本側は私によい印象を持ちました。運営委員会議長ケーディス大佐はそれにすぐ気がつきました。夜中の二時に男女平等の条項がまた大変な議論になったのです。日本側は、こういう女性の権利は全然日本の国に合わない、こういう権利は日本の文化に合わないなどと言って、また大騒ぎになりました。天皇制と同じように激しい議論になりました。もう随分遅く、みんな疲れていたので、ケーディス大佐は日本の代表者の私への好感をうまく使いたいと思いました。そして、こういうことを言いました。ベアテ・シロタさんは女性の権利を心から望んでいるので、それを可決しましょう。日本側は、私が男女平等の草案を書いたことを知らなかったので、ケーディス大佐がそれを言ったときに随分びっくりしました。そして、それではケーディス大佐が言うとおりにしましょうと言いました。それで、第二十四条が歴史になりました。
 翌朝の十時まで通訳の仕事を続けました。二十四時間通訳の仕事をしました。ケーディス大佐はうちへ帰りなさいと言って、私は神田会館へ行きました。その日はよく寝ました。ジョセフ・ゴードン中尉は憲法の仕事を続けて、午後の六時まで働きました。いろんな詳しい言葉の使い方を調べました。
 さて、日本の国民は新しい憲法を喜んで受け入れました。日本の政府はそのときに余り喜ばなかったのです。日本の国民は、日本の憲法がマッカーサー元帥のスタッフによって書かれたということは知りませんでした。しかし、一九五二年に占領軍がアメリカに帰ったときに、ある日本の学者と新聞記者はそのことを知って、この新しい憲法は日本に押しつけられたものであるから改正すべきだと主張しました。
 マッカーサー元帥が憲法を日本の政府に押しつけたということが言えますでしょうか。普通、人がほかの人に何か押しつけるときに、自分のものよりいいものを押しつけませんでしょう。日本の憲法はアメリカの憲法よりすばらしい憲法ですから、押しつけという言葉を使えないかもしれません。特に、この憲法が日本の国民に押しつけられたというのは正しくありません。日本の進歩的な男性と少数の目覚めた女性たちは、もう十九世紀から国民の権利を望んでいました。そして、女性は特別に参政権のために運動をしていました。この憲法は、国民の抑えつけられていた意思をあらわしたので、国民に喜ばれました。
 憲法草案に参加した我々は、この仕事について長い間黙っていました。一つの理由は、これが極秘であったからです。もう一つの理由は、次のような私の気持ちから出たものです。
 憲法を改正したい人たちが私の若さを盾にとって改正を進めることを私は恐れていました。それだから黙った方がよいと思って、私は日本の新聞記者のインタビューを受けませんでした。五年前まで親しいお友だちにも何も話しませんでした。一回か二回だけ、一九七〇年ごろ、ある学者に少しこの話をしました。
 私は、私の若さについて一言申し上げたいと思います。
 当時の二十二歳と今の二十二歳の人を比べれば、大きな違いがあります。私は、二十二歳のときに六カ国語をしゃべれました。私は、十九歳半で大学を卒業しました。六歳のときからピアノとダンスを習いました。六歳のときからいろんなコンサート、オペラ、芝居などを日本で見ました。第二次大戦が始まったときにアメリカにいた私は、日本にいた両親から隔離されたので、一人でお金を稼いで生活しなければならなかったのです。十九歳から二十二歳まで三年間、難しい翻訳、リサーチとジャーナリズムの仕事をしました。その上に、私の大学ミルズ・カレッジは進んでいた大学であって、フェミニズムがまだ流行ではないときにフェミニストでありました。私は、二十二歳のときにも世界を回ったことがあって、ヨーロッパとアジアのいろんな国に旅行しました。
 私は、小さいときから日本の軍国主義を自分の目で見ました。私は、憲兵隊のことをよく知っていました。憲兵隊は、毎日私のうちへ来て、私の女中さんたちにいろんなインフォメーションを頼みました。
 私は、六歳のときから日本の社会に入って、日本のお友達と遊んで、虐げられた女性の状況を自分の目で見ました。私は、奥さんがいつでも主人の後ろを歩くことを自分の目で見ました。
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村上正邦#4
○会長(村上正邦君) 大変恐縮ですが、おまとめをお願いいたします。
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ベアテ・シロタ・ゴードン#5
○参考人(ベアテ・シロタ・ゴードン君) 私は、奥さんがお食事をつくって、だんなさんとだんなさんのお友達にサービスして、会話には参加しないで、お食事も一緒にとらないで、全然権利がないことをよく知っていました。好きな人と結婚できない、離婚もできない、経済的権利もない、それもよくわかりました。
 家庭の中では女性が力を持っていることも知っていました。女性は、子供の教育と主人がうちへ持ってきた給料をコントロールしていました。それも私は知っていました。ですから、私は、二十二歳のときに何にも知らない小娘ではありませんでした。
 ある方は、この憲法は外から来た憲法であるから改正されなければならないと言います。日本は、歴史的にいろんな国からずっと昔からよいものを日本へ輸入しました。漢字、仏教、陶器、雅楽など、ほかの国からインポートしました。そして、それを自分のものにしました。だから、ほかの国から憲法を受けても、それはいい憲法であればそれでいいではないですか。若い人が書いたか、年とった人が書いたか、だれがそれを書いたということは本当に意味がないでしょう。
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村上正邦#6
○会長(村上正邦君) お時間でございます。
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ベアテ・シロタ・ゴードン#7
○参考人(ベアテ・シロタ・ゴードン君) いい憲法だったらば、それを守るべきではないですか。
 この憲法は五十年以上もちました。それは世界で初めてです。今まではどんな憲法でも四十年の間に改正されました。私は、この憲法が本当に世界のモデルとなるような憲法であるから改正されなかったと思います。
 日本はこのすばらしい憲法をほかの国々に教えなければならないと私は思います。平和はほかの国々に教えなければなりません。ほかの国々がそれをまねすればよいと思います。
 一九九九年の五月十五日に……
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村上正邦#8
○会長(村上正邦君) 恐れ入ります。大体結論が出たようでございますので。
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ベアテ・シロタ・ゴードン#9
○参考人(ベアテ・シロタ・ゴードン君) 少しだけ、それじゃ一番最後のことを済みませんですけれども言いたいと思います。
 私は、日本の女性をすごく尊敬しています。日本の女性は賢いです。日本の女性はよく働きます。日本の女性の心と精神は強いです。
 私は専門家ではありません。私はシロタと申します。けれども素人でございます。私はお母さんでありおばあさんです。だから、私は子供と孫の将来について心配しています。平和がないと安心して生活ができないと思います。私は外人ですから、皆様日本人は私の声を聞かなくてもいいと思います。私は日本で投票できません。
 しかし、日本の女性の声を聞いていただきたいのです。私の耳に入っているのは、日本の女性の大数が憲法がいい、日本に合う憲法だと思っているということです。
 日本の憲法のおかげで日本の経済がすごく進歩しました。武器にお金を使わないで、そのお金をテクノロジー、教育、建築などのために使って、日本が世界の中で重要なパワーになりました。隣のアジアの国々も日本について安全な気持ちを持っています。日本の女性はそれをよくわかっています。
 だから、私は一つのお願いがあります。日本の女性の声を聞いてください。
 ありがとうございました。拍手
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村上正邦#10
○会長(村上正邦君) きょうの女性議員の皆さん方の晴れやかな、あでやかなことだと思って聞いておりました。
 では、次にプール参考人にお願いをいたします。プール参考人。
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リチャード・A・プール#11
○参考人(リチャード・A・プール君)(通訳) それでは、まず本会の主催者であられる方々に対しまして、御招待いただいたことを御礼申し上げます。
 憲法について述べよということでございますけれども、本論に入ります前に、ぜひ御紹介申し上げたい本がございます。新刊書でございまして、セオドア・マクネリーという人が書いた本なんです。この方は一九九七年に開催されましたフォーラムに参加なされた方でありまして、著名な学者でもあり歴史家であられるということで、特に日本における進捗については権威的な存在の方でございます。
 マクネリーさんから御依頼を受けましたので、ぜひ皆様方にこの本を差し上げたいと思います。調査会の方々、ぜひお受け取りくださいませ。進呈させていただきます。
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村上正邦#12
○会長(村上正邦君) ありがとうございます。
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リチャード・A・プール#13
○参考人(リチャード・A・プール君)(通訳) それでは、私の日本での経歴をかいつまんでお話し申し上げたいと思います。
 まず、私は横浜生まれでございまして、誕生日は一九一九年の四月二十九日です。もうかなり年をとってしまったんですけれども。たまたま私の誕生日は実は昭和天皇と同じ日ということでございまして、これは単なる偶然なんですけれども、その後になりまして複雑なことになりました。日本では五世に当たります、私の兄弟も含めまして私の代で。私の曾曾祖父の一人は、一八五四年にペリー提督が締結した条約のもとで日本に初めて派遣された二人の米国領事の一人でございまして、以来、私の家族の各世代はそれぞれ、私の世代も含めてずっと日本に滞在した経験を持っているという家系です。私の先祖のうちの四名は、実は日本のお墓に眠っております。
 横浜に住んでおりまして、一九二三年の関東大震災が起こりまして、幸いにも命は助かりました、その他はすべて失ってしまったんですけれども。その後、神戸で二年過ごしまして、予想に反して私の父は、当時勤めていた会社の命令でニューヨークの事務所の長になるということで転勤を余儀なくされましたので、一九四五年に私が日本に戻ってくるまで私の家族は日本を離れていたわけです。
 しかし、私は日本に対して深い愛着の心を持っております。また、日本の国民に対してもそうです。アーマといいましょうかお手伝いさんと申しましょうか、私の母のお手伝いをしていた人たちが私の面倒を見てくれたということで、とても愛着心を持っています。そして、時々連絡が途絶えたこともあったんですけれども、その連絡を後で復興させることができましたし、深いきずなを日本に対して抱いております。
 そして、日本の文化からも大いに影響を受けております。例えば、掛け物ですとか広重の浮世絵ですとか家具ですとか、いろいろなもの、伊万里焼などのお皿も持っておりまして、私の先祖から代々伝わってきた日本の工芸品をたくさん我が家が所蔵しております。そして、日本の文化に対して、また日本の文化的な進捗に対して深い敬意を持っておりますし、また西欧に対しても日本の文化が大きく影響を与えたということを十分踏まえております。
 一九四五年に、また私は日本に戻ってまいりました。当時は若い海軍将校でありました。当時、外交官としての勤務から、休暇を与えられてこちらに参っておりました。当時、そもそも陸軍と海軍との合同の形で九州に上陸、侵攻の計画でしたが、それは免れて横浜という私の出生地にまず上陸いたしました。
 横浜に二度目参ることができたということで、当時、GHQ、スキャップの民政局の方に配属されました。連合国最高司令官総司令部です。そして、一週間のうちに憲法草案を起草する仕事を補佐するように命じられまして、驚きました。それから、二人で構成する天皇及び条約改正、条約締結などのその他の事項を担当する委員会の長となりました。ベアテさんほど若くなかったんです、当時私は二十六歳でしたから。それでも、私自身も外交官としての経験がございましたし、国際法、商法ですとか憲法ですとか海洋法ですとか、国際関係、歴史等々の学問を修めておりました。そして、常に私は日本に対して関心を生涯を通じて持ち続けておりましたので、それも関係して、私はまだ位は低かったんですけれども、この職に多分配属されたんだと思っています。
 ケーディス大佐は民政局の長であられたということで、かつ運営委員会の議長を務めておられていたということで、ケーディス大佐いわく、占領軍にかかわっている人たちは、長い間日本に住んだ経験を持っているアメリカ人については猜疑心を持っているんだといったような話をしていました。でも、私の場合は例外になるかもしれない、六歳のときに日本を去っているからというふうに言われたものです。
 さて、憲法の起草の背景については皆様方もうよく御存じだと思います。この件については九七年の憲法フォーラムでも詳細が語られております。これは日本の国会議員の先生方がスポンサーになって開かれたフォーラムでありまして、皆様方の憲法調査会の背景情報の源にもなっているかと思います。
 当時、私ども三人招待されました。今回は二人だけですが、我々起草にかかわった人たちで生き残っている数はもはや少ないんです。
 東アジア・太平洋に対して行った日本の侵略によりまして、明治憲法は改正すべしということになったのです。というのは、狂信的国粋主義者と軍国主義者が明治憲法を隠れみのにして侵略を行ったからです。ポツダム宣言及びその他の連合国の声明も、変更を要求しておりました。
 このようなことから、連合国最高司令官は、占領当初から、日本政府に対して、民主的な行動をとることと憲法改正に着手することを指示いたしました。米国政府がガイドラインを示しましたが、これはSWNCCナンバー二二八ということで国務、陸軍、海軍三省調整委員会が提示しておりましたけれども、ベアテ・シロタさんがおっしゃったように、マッカーサー元帥は、日本の人たちにまずは憲法改正をするようにと最初は考えていたわけでありますが、同時に発生した二つの出来事により急遽スキャップ、連合国最高司令官が直接かかわるようになったのです。
 まず第一は松本案で、これがあるということをスキャップは知らなかったんです、新聞に漏れるまでは。そして、結局その松本案は明治憲法の表面的な改正だけのものであるということがわかりまして、受け入れられないものだということが判明いたしました。
 ですから、そのような案をもとに討議するよりは、連合国最高司令官が草案をつくることを決定いたしました。いわばこういった例がありますよということを日本側に提示することで討議を進めようとしたわけであります。そして、それをたたき台に討議をいたしましょうというふうに提案いたしました。
 そして、もう一つの要素は、ソ連がちょうど極東委員会に加わったということで、同委員会では米国、英国、中国、ソ連が拒否権を与えられたということから、ソ連がベルリンの場合と同様な問題を起こすおそれがありました。そして、連合国軍として民主的なことを達成したい、しかしその邪魔をするかもしれないと思ったわけです。
 またもう一つ、達成不可能なことがありました。それは四月十日の選挙に間に合うような形で憲法を起草できないかという点でした。国会が憲法草案を承認し、国民投票といったような形で総選挙の機会を得て、憲法に対しても国民の審判を仰いだ方がいいんじゃないかという話もあったんです、当時は。しかし、これは時間がなくて無理でした。
 そして、連合国最高司令官からの圧力を含めて、異常な状態で憲法改正議論が始まったことに不満のある方は、次のことに留意してほしいと思います。
 すなわち、最高司令官の草案は、数多くの日本の学者や研究機関及び有識者の方々の見解を反映させたものであること、そして内閣との御検討もされまして、その結果、ある程度改正について合意されたということ、そしてその結果、政府の承認した改正案として国会に提出されたということ、そして結果、長時間の討論の末に追加の修正が合意をもって行われ、最終的には圧倒的多数で承認されたということをぜひ御留意いただければと思います。
 さらに、忘れてならないのは、天皇陛下御自身が内閣での意見対立の解消に尽力され、草案の国会提出を支持されたことです。
 ちょっとそれますけれども、約五年前のことだと思いますが、新しい天皇皇后両陛下がワシントンにお見えになりました。ちょうどケネディ・センターで日本の芸能をなさるということでそのオープニングにいらしたんですけれども、そのときに、天皇陛下は自由にお客様と交わられておりました。私は、向こう見ずにも陛下に自己紹介し、実は日本の憲法の起草に加わったんだということ、特に天皇条項について私は役割を持っていたということを申し上げましたら、天皇陛下はお笑いになって、そうですね、私の指示だったんですよというふうにおっしゃったわけです。つまり、私の印象では、皇室の方々は、天皇陛下の役割については、憲法の草案に入っていた条項について満足なさっていたということだと思います。もちろん、最終的には若干修正された形で採択されたんですけれども。
 私の考えでは、憲法起草の過程よりも、その結果に焦点を当てる方が重要であると思います。
 連合国が意図したところは、平和な日本に真の意味での民主主義を樹立することでありました。そして、歴史に逆らおうとする人たちが悪用できないような制度をつくろうということだったのです。そして、制度として正式に記載するのは、主権在民であり、基本的人権であり、真の民主主義であり、政治的権限を持たない立憲君主制であり、戦争の放棄であり、またこれらの原則がいかなる理由によっても縮小されたり停止されたりしてはならないということだったのです。
 憲法は、これらの原則を樹立し、それらを実現するための機構を定めていることから、私は、これによって日本国民の利益が守られ、日本が西側の民主主義国家に仲間入りできるようになったと信じております。
 しかし、だからと申しまして、憲法改正の可能性が否定されるものではありません。改正は憲法自身が認めているところです。しかし、私の意見では、憲法全体を改正しようとすれば、手に負えないような提案がなされてパンドラの箱をあけるようなことになるので、必要が生じた場合にのみ個々の問題についての改正を検討すべきだというふうに思っております。
 憲法問題に関係する人たちもしくは憲法修正に関心ある人たちは、国民の間に本当に憲法改正への要求があるのか、またそうした要求がもたらす結果を和らげる方策があるのかについて、広く意見に耳を傾けるべきであると思っております。
 ある人によっては、二十一世紀のニーズを満たすために憲法を近代的なものにすべきと言う人もいます。例えば、環境問題、人口増加、世界的な疫病、麻薬、犯罪、さらには新技術の発展を規制する問題等々です。しかし、これ以外にどんな問題が発生するのか予見するのは困難です。
 このように指摘されている問題及び予見できないような問題を憲法改正で処理しようといたしますと、細かい事柄まで立ち入ることから、さらに多くの変更が必要となるので、むしろ法律や司法上の解釈によって解決されるべきだと私は考えております。したがって、憲法というのは幅広い文書であるべきだから、日本政府としましても法律制定もしくは司法上の解釈によって解決できるものではないでしょうか。
 それでは、二つの具体的な条項について意見を述べたいと思います。
 一つは、天皇に関する条項です。
 これには私自身直接関与しておりました。私の少人数の委員会は、ケーディス大佐を長とする運営委員会と密接な協議も行っておりました。ですから、協議を行った上での草案ということです。
 明治憲法では主権はすべて天皇に付与されておりましたが、この規定と憲法上の権利を停止させる権限を悪用して、天皇の名において軍事的な侵略を行い、反対者を抑圧したのが内閣と枢密院内部の狂信的国粋主義者と軍国主義者でありました。これは改正する必要があったのです。
 さらに、連合国の一部と米国議会からは、裕仁天皇を戦争犯罪人として裁判にかけ、天皇制を廃止すべきだと要求しておりましたが、そのようなことをすれば、占領軍にとって重大な問題が発生したでありましょう。
 日本の侵略について天皇御自身が個人的にどのように思っていらっしゃったかはだれにもわかりませんが、天皇が放送で降伏を表明し、武装解除を呼びかけたこと、一般大衆が天皇の声を聞いたのはこのときが初めてだったんですけれども、及び一九四六年一月一日にみずからの神格を否定して改革を呼びかけたことは、結果的には連合国にとって都合のよいことでありました。新憲法草案では天皇の役割を大幅に削減することになっておりましたが、天皇がこれを支持したことも有益でありました。
 我々が目指したのは立憲君主制で、そこでは天皇は統治権を持たず、国家及び主権者である国民統合の象徴としての役割を果たすものでした。しかし、天皇には、儀礼的な行事を行う以外に、内閣の承認を条件に数多くの役目を付すことで、ある程度の意義ある役割が与えられたのです。
 「象徴」という言葉の翻訳には困難が多少ありましたが、しかし、この問題は、起草者の意図した、また草案を承認した日本政府の意図した意味を備えた「象徴」という言葉を使うことにより満足裏に解決されたのです。ですから、私の印象としては、この言葉は我々が意味し、日本国民が一般的に理解し受け入れた意味を伝えたのです。
 天皇の地位についての当初の論争はおさまり、その後これについて改正しようという要求は私の知る範囲では出ていないと思っております。
 二番目は、第九条についてです。
 第九条は、いまだに憲法での最大の論争となっていると伺っております。もちろん、一九四六年に国会は疑念が生じないように修正を行ったにもかかわらずです。
 現在の第九条のもとになった考え方は、ホイットニー准将及びマッカーサー元帥かあるいは二人が発案して幣原首相に伝えられたのか、またはマッカーサーのメモワールにあるように幣原の発案だったのか、また、この条項及び民政局へのその他の指示を含む鉛筆書きのノートがマッカーサーによって書かれたのか、あるいはマッカーサーの指示でホイットニーが書いたのか、これらの疑問点については多くの書物が書かれております。
 でも、私はもう今となってはどちらでも構わないと思っております。余りにも遠い昔のことでありますし、問題は現在だからです。
 私自身は第九条については何ら関与はいたしませんでした。
 ただ、将来、日本が平和条約を締結して主権を回復した後でも軍事力を永久に放棄するのかという点について懸念を表明したことはあります。起草委員会が初めのころ、全体で会合を開きましたときに、意見を言い合う機会が与えられました。
 その議長を務めたのはケーディス大佐だったんですけれども、最終的に第九条に盛り込まれた幾つかの点というのは、前文に意図表明として書かれるのはよいが、憲法本文に書くのはどうかという疑問を持って私は発言したのです。ケーディス大佐いわく、この条文の由来はどこだか知っていますかというふうに言われまして、彼は大佐でしたし、私は一本線の一介の海軍将校でしたから、いや知りませんというふうに言いました。そしたら、これは元帥から来た考えなんですよというふうに言われたわけです。元帥といえば一人しかいません。何かこれ以上質問があるかねと言われまして、もうありませんと私は答えました。この問題と私のかかわりはこれですべてです。でも、この問題についてはずっと私の個人的な関心として残っております。
 私は、憲法改正をしてもいいんじゃないかというふうに思っております。でも、憲法全体を見直すという大変な作業のことを言っているのではありません。しかし、この点は検討してもよいのではと。
 特に、第九条の前段の部分は、戦争と武力による威嚇または武力の行使を国際紛争解決の手段としては放棄しております、国権の発動たるということで。そして、一九二八年のケロッグ・ブリアン不戦条約に合致するものであり、この条約は約六十五カ国によって受け入れられていたことから、この第一項は論争の対象にはなっておりません。
 しかし、論争が起きるのは第二項の方です。そちらのところでは、上記の目的達成のために陸海空軍を永久に保持しないと定めてあります。そして、交戦するという権利も認められないというふうに書いてあるというふうに思いますけれども、でも、日本は自衛隊という名のもとに軍隊を持っておられることは事実です。ただ、名称が違うということでありまして、軍隊であることに変わりはございません。
 今日の現実に照らし合わせ、そして日本が他の主要な民主国家と同様に国際問題で責任を果たす必要があることを考えれば、現在のあいまいさは終止符を打つべきだというふうに私は考えております。そのために軍隊の役割は防衛に限定すべしと定めるのです。ここで言う軍隊とは、既に存在しているものですから、この役割とは既に制度的に存在するものについてであり、その役割は防衛に限定されるが、防衛とは自衛のみでなく、最近見られるケースのように、自分の国境を越えての防衛行為も正当化される場合があります、特に国際協力の枠組みのもとにおいて。ですから、自衛ということだけではなく、国際平和維持活動等にも参加するということで、国連のみならず、もちろん最たるものは国連だと思いますけれども、枠組みとしては。でも、そのほかにも国際合意がされる場合もありますので、その中で活動をするといったようなことで、この場合、日本国民の意思を明確にし、日本国民及び過去において日本の侵略に苦しんだ国々に対して、二度とそのような行動をとる意思が全くないことを保証することが不可欠でありましょう。
 以上です。御清聴ありがとうございました。拍手
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村上正邦#14
○会長(村上正邦君) ありがとうございました。
 今のお話の中に、五年前天皇訪米の折と、こういうお話がございましたが、これは単なる訪米の時期の間違いだと思いますので確認をいたしますが、恐らくこれは昭和五十年、一九七五年に訪米なさったときの、昭和天皇のときのお話であると、こう思います。間違いございませんでしょうか、参考人。
 今の天皇様が憲法に携わったということについてのお話になるものですから、この憲法調査会、正確にこれは議事録に残ってまいりますので、後ほどでも結構でございますので、その点のひとつ精査をお願い申し上げておきます。
 次に、本日欠席されましたエスマン氏から発言の予定原稿が提出されておりますので、幹事会の協議によりまして、武見幹事に代読していただきたいと思います。
 武見幹事、どうぞこちらへ来て、私のところへ来てやってください。
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武見敬三#15
○武見敬三君 それでは、エスマン氏の予定原稿を読み上げさせていただきます。
  一九四六年二月に連合国最高司令官総司令部民政局所属の人たちが日本国憲法を起草する任務を受けたが、彼らは当然のことながら政府についての米国的な哲学や経験に影響されていた。米国での憲法という概念は、国民の基本的権利と自由を守り、常に変化する社会のニーズを満足させるために十分な権限を政府に与え、政治的秩序の安定と継続性を保障する、立憲政治の憲章である。憲法は何十年、何百年という長期間にわたって存続するよう意図されたものであるから、政府の生きた憲章として、制定された当時には予想されなかったような状況の変化にも対応できるような柔軟性を持たなければならない。
  当時、私は新憲法起草のために選択された方法には反対を表明した。権威主義的な明治憲法に取ってかわる民主主義を鼓舞する新しい政府の憲章が必要ではあったが、私は民主主義的考えを持つ日本の学者とオピニオンリーダーが新憲法起草の仕事に参画し担うことが重要だと考えた。それができないことには、新憲法は外国から押しつけられたものと見られ、占領時代が終わった後には存続できないと考えたからだ。当時の私は総司令部の中では若い下級将校だったために、私の反対意見は簡単に退けられた。しかし、その後の展開で私の考えが間違っていたことが証明された。すなわち、日本国民の大多数はマッカーサー昭和憲法を自分たち自身のものとして受け入れ、熱心にこれを擁護してきた。その理由は、憲法の条文がぎこちないものであったにもかかわらず、彼らの真の政治的願望を表現しているからである。
  当時、私と私の同僚が日本政府の高官から頻繁にかつ厳しく受けた警告は、日本の大衆は民主的政府を運営するまでには成熟してもいなければ、そのような教育も受けていないということ、それに必要な教育を施すには少なくとも一世紀はかかるということ、そして民主主義体制を性急に設立しようとすれば、その意図が善意なものであっても何らかの災難につながるということであった。私たちは、こうした警告を真剣には受けとめなかったし、日本国民の政治的成熟度と健全な判断に対して私たちが抱いていた尊敬の念が正しいものであったことが十分に証明されてきている。
  どの憲法でも同様だが、昭和憲法にも個々の条項が盛り込まれている。しかし、何よりも重要なのは憲法に生命を吹き込んだ基本的原理である。これらの原理は、憲法の条文を将来の新しい課題や変化するニーズに対応させるための指針である。私は昭和憲法には九つの指針が含まれていると思う。
 一、日本国は主権者たる国民が選挙された代表者を通じて国会で発言し、行動する立憲君主国である。これらの代表者は定期的に、選挙によって自由に選ばれる。
 二、行政権は総理大臣を長とし、すべて文民によって構成される内閣によって行使される。内閣は国民の代表者に責任を負い、常に衆議院の過半数の信任を得ていなければならない。
 三、すべての個人に与えられた信仰、表現、結社、集会等の基本的人権は不可侵のものであり、政府によって保護されなければならない。
 四、すべての人々は法のもとに平等である。人種、信仰、性別、民族、門地によるいかなる差別も不平等な取り扱いもあってはならない。
 五、法の支配が常に優先し、何人も、法の定めによらない限りは生命、自由もしくは財産を奪われ、またはその他の刑罰を科せられない。裁判官は政治的影響に一切左右されることなく、憲法と法律を適用しなければならない。
 六、政府は社会福祉、社会保障及び公衆衛生を促進し、学校教育を無償で、義務として、かつ平等に提供しなければならない。
 七、国会の具体的承認なしに税を徴収したり、支出を行ってはならない。
 八、地方公共団体は可能な限り最大限の自治権を持たなければならない。
 九、日本は二度と再び侵略的軍事行動を起こさず、平和を愛する諸国の国際社会に積極的に参画する。
 五十五年近くも前に総司令部民政局で昭和憲法の起草に尽力した人は私たちを含めて数少なくなってしまったが、彼らがもう一度一堂に会することができるならば、彼らが最も重要だと考え、後の日本政府に求めたものは、啓蒙された民主主義政府のためのこれらの原則であったということに全員が賛成するだろう。これらの指針としての原則が尊重される限り、日本国民と政府が将来直面するであろう問題は憲法の条文によって十分に対応できるであろう。
 それならば、憲法を新しい時代に即したものにし、将来の世代に効率的に役立つようにするにはどうすればよいのか。個々の条文を超えたり、国家の基本的制度を変更するためには正式な憲法改正が不可欠になることもある。私の国でも、奴隷制度の廃止、婦人参政権の採択、大統領の三選禁止のような場合には憲法改正が必要であった。また、日本で総理大臣または大統領を直接選挙で選出しようとすれば、これは国家体制の変更であるから、同じく憲法の正式な改正が必要となる。しかし、日本でも我が米国と同様、正式な憲法改正の手続は煩雑で、国民の大多数が改正を必要だと考えても、団結した少数派によってこれが阻止される嫌いがある。
 そこで、憲法を変化する状況に適合させる一般的な方法は、上記の指針としての原則に照らして、新しい状況にふさわしいようにその条文を解釈することである。米国ではこうした方法によって、連邦政府が航空機の運行規制、インターネットでのプライバシーの保護、化学的物質からの環境の保護というような二百年前の憲法起草者には考えられなかったような新しい問題を解決してきた。五十五年前に昭和憲法を起草した人たちも、憲法の解釈によって政府が必要なことを行い、国際的義務を果たせるのだということを知っていた。
 憲法が具体的権限について明記していなくても、政府は憲法の条文から合理的に導き出せる行動をとることができる。したがって、すべての国家が自己防衛のための権利を持っているとの理由から、国会と裁判所が第九条の解釈を通じて自衛隊を認知したのは正しいことだったと私は考える。同様に、憲法前文に、「いづれの国家も、自国のことのみに専念してはならない」と規定していることは、国際平和と秩序の恩恵を大きく受けている日本が、国連の平和維持及び平和強制活動に応分の金銭的、物質的、そして軍隊を含む人的貢献をすることを義務づけられていることを意味する。
 ここで私が思い出すのは、一九四六年当時の私の同僚たちは、欧州とアジアで六年間にわたる悲惨な戦争を経験してきたばかりの人たちだったということだ。彼らは核戦争を恐れ、人類が過去の教訓から国際協力を通じて戦争をなくすることを希望し、戦後の日本が平和を愛する諸国と力を合わせて国際平和の維持に積極的に参加することを望んでいた。彼らが、日本による国連平和維持及び平和強制活動への参加を禁止したり制限したりするような条項を憲法に挿入しようとしたとは考えられない。
 この憲法調査会に次の三つのことを言い残しておきたい。
 一、一国の憲法は、国民の選ばれた代表者が慎重かつ十分な討議の末に国家のために必要だと考える政策または行動を促進するためのものであり、これらを妨害したり阻止するためのものであってはならない。
 二、新たな課題に直面し政策を変更するための最も一般的かつ実践的な方法は、憲法の条文とその底流となる大原則に基づく合理的な解釈によるべきである。正式な憲法改正は最後の手段として残すべきである。
 三、一九四六年に民政局にいた人たちは、新しい国連について楽観的な希望を持っていた。国際協力の必要性を強く感じていた。さらに、日本が国際社会に復帰したら、国連が主宰する国際平和と秩序の維持のための活動に主導的役割を果たして参画することを彼らは希望していた。
 以上でございます。拍手
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村上正邦#16
○会長(村上正邦君) 以上、参考人の意見陳述を行いました。
 時間も大分超過いたしておりますが、話が非常におもしろいものですから、なかなか時間どおりここでおやめくださいというわけにもいかないし、遠いところから来てもいただいておりますし、時間が延びておりますことをおわびいたします。
 本来ならば十五分の休憩をとる予定でございましたが、五分の休憩ということで、五分後に再開いたしたいと思います。
 五分間休憩いたします。
   午後二時十五分休憩
     ─────・─────
   午後二時二十三分開会
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村上正邦#17
○会長(村上正邦君) ただいまから憲法調査会を再開いたします。
 休憩前に引き続き、日本国憲法に関する調査を議題といたします。
 これより参考人に対する質疑に入ります。
 なお、時間が限られておりますので、委員の御発言は、まずお答えをいただく参考人のお名前をお示しいただいた上で簡潔にお願いをいたします。
 質疑のある方は順次御発言願いますが、あらかじめ事務局の方へお名前を各会派から提出いただいておりますので、各会派一応一巡をさせていただきたいと思いますので、よろしくお願いいたします。まず、久世公堯幹事。
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久世公堯#18
○久世公堯君 日本国憲法の生みの親とも言うべきお二方には、遠路はるばる来日をされ、ただいまはまた大変貴重なお話を拝聴いたしまして、ありがとうございました。
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村上正邦#19
○会長(村上正邦君) 所属会派をおっしゃってください。
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久世公堯#20
○久世公堯君 自由民主党・保守党でございます。
 日本国憲法の制定以来五十数年、我が国の社会経済環境は内外ともに大きく変化をいたしました。国際的には、冷戦構造の終結による国際情勢の変化、それに伴いまして我が国の国際社会における役割、使命はますます大きくなってきております。国内的には、産業構造や国民生活が変化をし、国民の価値観も大きく変革をいたしております。
 社会経済的環境の変化によって憲法と実態との乖離は極めて大きくなっております。このような変化に対応するために今日まで憲法の最大限の拡大解釈をいたしてまいりましたが、しかし限界でございます。憲法の見直し、憲法改正論がほうはいとして起こり、今衆議院、参議院には憲法調査会が設置されている次第でございます。
 私は、そこで、国際的、国内的危機管理と憲法という視点から、お二方に御質問をしたいと思います。
 ここ十数年来、国際的、国内的に人心を震駭するような事件が多発をいたしております。北朝鮮ミサイル発射事件等朝鮮半島に係る安全保障問題、あるいは阪神・淡路大震災、サリン事件等、我が国の安全神話が崩れかかってきております。予測できない多様な危機が発生し、今また有珠山の噴火を憂慮するところです。国家や国民の安全を脅かす多様な危機にいかに対応するか、国民的に大きな関心事となっております。
 そこで、まずプール氏に御質問いたしたいと思いますが、プール氏は、先ほど、憲法全体を改正しようとすれば手に負えない、憲法改正は必要が生じた場合にのみ個々の問題について改正を検討すべきであると、こう御指摘になりました。そして、その例として憲法九条を御指摘になりました。プール氏は、憲法九条につきましては、防衛と国際平和維持活動だけに役割を限定された軍隊の規定を明確にすべきであるという御意見でございました。
 御指摘のとおり、私どもは、一九五四年の自衛隊法を初めとして、PKO法やあるいは日米ガイドラインによる周辺事態法によりまして、防衛面における危機管理体制を整備しております。さらに、現在、有事法制についても検討中です。日米安全保障体制のもとに半世紀、この五十四年の間、憲法九条を最大限に拡大解釈して対応してまいりました。今後、国際情勢の変化に適切に対応し、我が国の安全確保に万全を期するためには、解釈の対応だけでは限界でございます。
 ただいま御指摘ありましたように、防衛や国際平和維持活動に関する限り、そのネックとなる点、例えば集団的自衛権や国連の集団安全保障等について、拡大解釈ではなく国民合意のもとで九条をきっちりと改正をすべきであると思いますが、この点について御所見を承りたいと思います。たしか、一九九七年、先ほどお話にありました、来日をされましたときには、九条を改正すべきであるということを明言されたことを記憶をいたしております。
 危機管理、特に国内的な危機管理と行政権の対応について実はエスマン氏に質問を予定しておりましたが、エスマン氏は来日されません。もしプール氏に御回答願えればありがたいと思います。
 危機は多岐多様にわたり、本来的に予測不可能であり、かつその生起に対して万全の即応体制が必要でございます。憲法には、非常時の規定として五十四条の参議院の緊急集会があるだけで、行政上の特別の規定はございません。加えて、行政権の主体は合議制の内閣であって、総理大臣の権限は弱うございます。危機管理体制の万全を期する上で、非常時における危機管理体制の整備は憲法見直しの重要事項であると思いますが、これについてのプール氏の見解を承りたいと思います。
 最後に、ゴードン氏に対して質問を申し上げたいと思います。
 ゴードン氏は、女性の権利、女性の福祉について憲法制定当時にさまざまの提案をされたことを先ほど承りました。我が国におきましても、昨年、一九九九年に男女共同参画社会基本法が制定されまして、女性の立場は一段とまた高くなってきております。さらなる前進でございます。
 基本的人権の確立や実現はもちろん重要でございますが、他方、危機等におきましては、公共の福祉、安全確保のために事態によっては個人の権利が大きく制約されることも想定されます。天災を初めとして内外にわたる危機に備えるため、国家と国民、公への義務と個人の自由との関係をどのように考えられるか。国民の生命、財産はもちろん、国民の暮らしや社会を守るという公共の福祉による人権の制約についてのお考えを承りたいと思います。
 この点に関連いたしまして、先ほどお話がありましたように、憲法の起草当時、「家庭は、人類社会の基礎である」という条文を憲法に入れるべきだということを主張されたということでございますが、今、我が国の社会の現状においてこの必要性は非常にございます。それを痛感するだけに、この点について現在どうであるかということを承りたいと思います。
 以上でございます。
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村上正邦#21
○会長(村上正邦君) では、プール参考人から今の御質問に対してお答えいただければありがたいと思います。どうぞ。
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リチャード・A・プール#22
○参考人(リチャード・A・プール君)(通訳) もう一度質問を明確に言い直していただければ大変助かるんですが。より単純な言い方に言いかえていただければと思います。あなたの声が大き過ぎて通訳がよく聞こえませんでした。ですから、もう一度申しわけありませんが繰り返していただけますでしょうか。
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久世公堯#23
○久世公堯君 大変失礼をいたしました。
 先ほど御指摘になりましたように、憲法九条については……
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村上正邦#24
○会長(村上正邦君) 久世さん、演説はいいから、一つこれ、一つこれと。
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久世公堯#25
○久世公堯君 憲法九条については、防衛と国際平和維持活動だけに役割を限定された軍隊の規定を明確にすべきであるということをおっしゃいました。それは私も同感でございまして、この問題についてネックとなる点、例えば集団的自衛権や国連の集団安全保障について拡大解釈を今までしてまいりましたが……
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村上正邦#26
○会長(村上正邦君) 一つ一つね。一つ一ついかないと、どうもやっぱりお年を召しておられるから。
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久世公堯#27
○久世公堯君 九条改正についてどのように思っておられるか。憲法九条についてのお考えを重ねてお願いいたしたいと思います。
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リチャード・A・プール#28
○参考人(リチャード・A・プール君)(通訳) 既に申し上げたことになるかと思いますが、繰り返しになるかと思いますが申し上げたいと思います。
 憲法九条については明確化すべきだと思います。やはり兵力、軍隊ということの役割をより明確にすべきであります。というのも、軍隊というのは別の名称のもとに既に存在しているからです。憲法九条によって軍隊がつくられたわけではありませんが、既に軍隊が存在しているということがあります。ですから、その点を明確にすべきであります。憲法と現実とを沿ったものにすべく明確にすべきであります。その明確化によって、希望としては、今九条をめぐって意見が分かれている点にある程度の解決が見られればと思います。いわゆるアームドフォーシズ、軍隊、兵力のあり方が、防衛ということ、そして国際的な平和維持活動への参加ということに制限されるということを明確にすればということです。それだけのことです。
 さて、その論拠はということなんですが、日本は今や世界の大国になっております。しかも、民主主義諸国の一つの国であります。ですからこそ、ほかの民主主義国と同じベースで国際的な平和維持活動に参加すべきだと思うからです。しかし、日本の占領のもとで苦しんだ国々からは確かに問題視されることもあるでしょう。しかし、私の提案は、新たに軍隊をつくるというものではなく、既にある、存在している兵力をどのような意図のもとで行使されるのか、使われるべきなのかということを明確にするということだけであります。
 そして、日本は、例えば湾岸戦争やカンボジアの紛争に助力を提供されました。非常に有益な助力を貢献されたわけです。そして、それがほかの国からも感謝されております。しかし、日本は、ほかの国々とともにもし必要とするならば国際的な平和維持活動のもとで軍事活動に携わるということにちゅうちょしています。もちろんこれは慎重に進めるべきことであります。というのも、特に昔、日本の占領のもとで苦しんだ国々の反応を考えますと。
 しかし、私が憲法の改正と言った場合、その意図するところは、あくまでもそれらの国々に対してもより明確化すべきであるということです。明確にすべきことは、以前のような侵略戦争は一切するつもりはないということ。私が提案した文言は当然改善し、よりよいものにできましょう。これが私の提案です。そしてまた、日本の侵略によって苦しんだ国々に対しても安心感が与えられます。ただ、そのような修正を必要とするかどうかは日本の国民が決めるべきことです。
 これでお答えになるかどうかわかりませんが、私の最善のお答えをいたしました。
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ベアテ・シロタ・ゴードン#29
○参考人(ベアテ・シロタ・ゴードン君) もう私は余り、しゃべりましたから簡単に返事いたします。どうも済みませんでした、本当に。
 私は、人権をカットするということは非常に危ないことだと思うんです。だから、そのために今度憲法を改正するのはまた危ないと思います。だから、こういうことについては、どうしても、法律をつくることはできるので、民法か何かの中にそういうことを決めてもいいんじゃないかと思うんです。
 それで、とにかく、日本は自由権規約委員会に入っていますね。そして、それを一九七九年にサインしたみたいなんですね。だから、そこからもそういう言葉が出てきているみたいです。いろんな何ですか、パブリックウエルフェアというものを、いろんな使い方があるから、それがちょっと危険があるから、危ないから、よく考えなければならないから、もちろん私は政治学者じゃないですけれども、こういう場合にはどうしても気をつけて、憲法を改正しなくてもいろんなほかのインタープリテーションして、どうか、法律か何かつくることが多分できると思います。
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