東門美津子の発言 (憲法調査会)
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○東門委員 社会民主党の東門美津子でございます。
私は、沖縄と憲法について述べたいと思います。
ことしもまた、沖縄が過ぎし戦争を思い、未来永劫の平和を祈念する季節になりました。四月から六月にかけてのこの三カ月間、県民にとって恐怖の記憶と鎮魂の祈り、そしてさらにやりきれない怒りと不安、焦燥感が複雑に交錯する季節です。何とかして、我々自身が不運だった歴史、負の遺産を克服して、後世に平和な世界を残さなくてはならないと決意を新たにする季節でもあります。
一九四五年四月一日は、三月末の慶良間列島の悲惨な集団自決を経て米軍が沖縄本島に上陸した日です。その日から鉄の暴風が吹き荒れ、三カ月後の六月二十三日は、沖縄の終戦記念日で沖縄慰霊の日。一九五二年四月二十八日は、戦争の結果、沖縄を長期にアメリカの施政権下に置くことになったサンフランシスコ平和条約発効の日です。それから二十年後の一九七二年五月十五日、日本に復帰した記念日はことしで二十九回目になりました。その間に、五月三日の憲法記念日があります。これは七二年の復帰後の施行ですから、記念日は一九七三年が第一回のはずですが、実際には憲法が高ねの花であった一九六五年に、日本国憲法の施行を記念し沖縄への適用を期すると、当時の立法機関、立法院で全会一致で決議して住民の祝日とした歴史があります。ですから、ことしは二十九回目ではなく、三十七回目の記念日になります。つまり、沖縄にとって憲法は、県民総意でみずから積極的に選んだものなのです。
戦後五十六年がたちました。この間、沖縄は、国策によって分断され、自由を奪われ、犠牲を強要されながら、それと闘い続けた五十六年であり、今なお闘い続けています。太平洋戦争敗北から占領の七年、サンフランシスコ講和条約によって北緯二十九度線で日本から分断され、天皇メッセージによって米軍直接支配にゆだねられた二十年、そして、人々の反戦復帰の願いもむなしく、今なお米国の世界戦略基地であり、そして人々の生きる権利が侵害され続けている施政権返還後の二十九年です。
数えてみれば、占領、軍事支配の二十七年よりも、返還後、復帰後の方が二年ほど長くなりましたが、人々の暮らしはどうでしょうか。温暖な気候の沖縄では、街路樹のデイゴ、フクギ、ヤシの木など、しっかり手をかけて植えつければ、およそ二年で活着し、日陰をつくり、花を咲かせ、心を和ませてくれます。適用から二十九年たった憲法はどうでしょうか。平和主義、基本的人権の尊重、そして地方自治は、沖縄の人々の暮らしに根づき、そして心のよりどころとなっているでしょうか。
ここで、米施政権下での平和的生存権を検証してみたいと思います。
壮絶な地上戦が行われた沖縄には、敗戦後もそのまま占領軍が居座り、朝鮮戦争を契機に、次々と新たな基地建設が図られ、布令百九号、土地収用令を公布し、抵抗する住民に銃剣を突きつけ、家屋をブルドーザーでひきつぶすという強硬手段で軍用地を接収していきました。抵抗した住民と完全武装した米軍との間で流血の騒ぎが繰り返されました。
一九六五年、アメリカのベトナム戦争への本格的介入に呼応して、沖縄基地はますます拡大されていきました。米国の核戦略基地として、毒ガスが持ち込まれ、B52爆撃機が飛来し、連日、ベトナム爆撃が繰り返され、太平洋戦争で大変な被害を受けた沖縄が、今度はベトナムの人々への加害の島と化していきました。
朝鮮戦争、ベトナム戦争、その他アメリカが行う世界戦略で、沖縄基地は常に太平洋のかなめ石として位置づけられ、兵たん補給基地、発進作戦基地、輸送、通信の中継基地、訓練基地など、不沈空母沖縄として機能しました。
土地取り上げ反対、ベトナム戦争反対闘争とともに、人間らしく生活したい、平和な島を取り戻したいという熱い反戦平和の願望は、やがて祖国復帰運動へと集約されていきました。それは、主権在民、平和主義、基本的人権を高らかに掲げた再生日本への復帰であり、その当時人々が掲げた日の丸の小旗は、そのシンボルでした。
一九七二年五月十五日、沖縄の施政権は日本に返還されましたが、その内実は、県民の期待を裏切るもので、日米政府の返還協定に見られるとおり、米国主導による、人々の悲願を逆手にとった、米軍基地の恒久的な強化案でした。返還までの二十七年間、米国の世界戦略の展開と深くかかわる基地周辺の住民は、前線へ向かう荒れすさんだ米兵によるおびただしい事件、事故、凶悪犯罪と人権侵害に苦しめられ、環境汚染に泣かされました。七二年の日本復帰は、平和憲法のもとへの復帰であり、沖縄にとって、名実ともに一大転機となるはずのものでした。復帰に際し、県民が切実に求めたのは、少なくとも本土並みの基地の縮小であり、人権の回復、自治の確立でありました。
しかしながら、復帰後二十九年たった現在も、沖縄の状況はほとんど変わっていません。依然として、広大かつ過密な基地は存在し、基地に起因する事件、事故や基地公害も絶えることなく発生しています。米兵による殺人、放火、女性や子供に対する性暴力、航空機騒音、実弾射撃演習による環境破壊、有害物質による水質、土壌汚染等、危険と隣り合わせの生活を県民は余儀なくされています。これは、県民が望んだ日本復帰とはほど遠いものです。
在日米軍地位協定第二条は、安保条約に基づき、日本国内のどこにでも基地を置くことが許される、全土基地方式と言われています。ですから、なぜ沖縄だけが過重な負担を背負わなければならないのか、理解に苦しむのです。安保条約が日本にとって重要だというのであれば、その責任と負担は全国民で引き受けるべきではないかと思っています。そうでなければ、それは差別であり、法のもとの平等に反するのではないかと沖縄県民は主張しているのです。
復帰に際し、国会では、速やかに基地の整理縮小を行う趣旨の決議が採択されましたが、それはほとんど実現しませんでした。沖縄に基地があるというより、基地の中に沖縄があると、ある著名なアメリカ人記者をして言わしめたように、沖縄の軍事基地は過密をきわめています。
沖縄の面積は国土面積の〇・六%にすぎませんが、在日米軍の専用施設の約七五%がこの狭い県土に集中しています。米軍基地は、県土総面積の約一一%、沖縄本島の約二〇%を占めていますが、とりわけ、基地施設は日本でも有数な人口稠密地域である沖縄本島中南部に集中しています。その上、地位協定によって、二十九カ所の水域と十五カ所の空域も米軍の管理下に置かれています。その結果、陸地だけでなく海も空も自由に使えず、これでも主権国家と言えるのだろうかと県民は疑問を抱いています。
一体、いつから日本は、主権在民と民主主義、平和主義を放棄し、米国に追随し、国民を締めつける道をたどり始めたのでしょうか。沖縄の人々が追い求め、探し求めた祖国、再生日本はこんなものではなく、世界に向かって高らかに積極的平和主義を誓った、誇りと気品のある社会だったのです。
日米安保条約を締結した自民党政権の外交政策は、アメリカの核の傘意識がありました。その前提には、もし敵国が撃ってきたら撃ち返す、目には目を、力には力でという武力によるバランス意識が根底にありますが、日本は、敗戦ですべてが灰じんに帰した時点で、二度と武力行使はしないと世界に誓ったのです。軍事バランス論が際限のない軍備拡張を招くことは、東西冷戦時代の米ソの軍拡競争が既に実証しています。
世界で初めて原子爆弾の被害を受けた日本、中国、朝鮮を初めアジア諸国を侵略し、多くの犠牲者を出し、その経験を踏まえて戦争放棄を誓った日本がアジアや世界の人々から信頼される唯一の道は、たとえ正義の戦争と米国が判断しようとも、他国と同じように武器をとって殺し合うことではなく、徹底して非戦、不戦に徹することではないでしょうか。そして、同じ思いの非戦、不戦国家を一つでも二つでもふやしていく努力を、日ごろから交流でつくり出す努力が大切ではないでしょうか。
今、憲法調査会でなすべきことは、憲法を改定するための議論ではなく、世界に誇る規範を持つ憲法がありながら、なぜいまだに差別がなくならないのか、なぜ人権が脅かされ、安心して平和に暮らすことができないのか、憲法が暮らしの中に生き生きと輝いていないのはなぜなのかを検証するための真剣な調査が行われるべきだと私は思います。