谷川和穗の発言 (憲法調査会)

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○谷川委員 発言の機会を与えていただきまして、ありがとうございます。
 京都から大阪湾へ向かって流れる淀川に沿って、秀吉がつくった京街道が走っておりますが、伏見、淀、枚方に続いて守口、その守口のすぐわきに門真市がございます。この門真市一番町に、幣原喜重郎とそのお兄様の坦博士のお生まれになった土地に公園がございまして、終戦後、対馬が日本領に帰属したのは坦博士の研究によるものですという記念碑が建っております。さらに、吉田茂首相の「幣原坦博士の学徳は万世の師表 同喜重郎首相の経綸は永遠の平和 この偉大なる兄弟の生地を敬存して切に次代の奮起を待つ」という言葉が刻まれております。
 第一次世界大戦が終わって十年目、フランスのブリアン外相がアメリカのケロッグ外相に、せめて二国間だけでも戦争放棄の協定を締結しようと呼びかけたのが始まりで不戦条約が締結されました。
 ここに不戦条約を持ってきております。この不戦条約というのはわずか三条しかない条約ですが、第一条、「締約国ハ国際紛争解決ノ為戦争ニ訴フルコトヲ非トシ且其ノ相互関係ニ於テ国家ノ政策ノ手段トシテノ戦争ヲ抛棄スルコトヲ其ノ各自ノ人民ノ名ニ於テ厳粛ニ宣言ス」とございまして、この条約は誕生するまでに実に難しい国際環境だったんですが、ついにこれがやり遂げられました。日本国でこの条約を推進しました内閣総理大臣が浜口雄幸、そして外務大臣男爵幣原喜重郎、こういう署名になっております。
 戦後つくられました各国の憲法には、国際紛争解決の手段として武力を使わない条項が入っている憲法がたくさんございます。日本が不戦条約締結のオリジナルメンバーカントリーの四つのうちの一つであった。しかも、これだけ難しい中でこの条約をつくり上げるまでに日本が実に懸命に働いて、その中心的な働きをしたのが日本であったということは、今日の我々日本人にとっても十分誇りとしてよろしい問題だ、こう思っております。さらに、この条約そのものは昭和二年から三年にかけてつくられた条約でございますけれども、まさに当時の大正デモクラシーの息吹がそのまま国際会議の中で反映した、私はそう思っております。
 ところで、戦後、我々日本人が何となしに誇りを失ったのは、日本民族というのは、日本の国民というのは極めて好戦的な国民である、日本は侵略国家であるという烙印を押されたことがその原因の一つだ、こう思いますけれども、不戦条約をつくり上げる立て役者が日本人であった、日本だったんだということを忘れる必要はさらさらないと私は思います。誇るべきことは、いつ、またいかなるときでも誇り続けるべきだ、こう考えます。
 さて、私の驚きは、この二十世紀が終わって振り返ってみて、後半の五十年のうちの四十年間は冷戦時代における比較的な平和が、それに先立つ前半の五十年、あの類を見ないほどの野蛮さに比べて余りにも対照的だということでありまして、それがここへ来てさらにもう一つ輝きを増しつつあるように私は見えておるわけです。
 ペルー日本大使館人質事件の折、ペルー政府はシュプリアーニ大司教を交渉担当者に起用するという決定を行いました。いかに宗教的な問題を抱えている国とはいえ、外国公館内の事件に政府以外の民間人を調停役に起用するというようなことは普通では思いも及ばないことだと思いますが、これはやはり時代の転換が始まってきたんだ、私はこういうふうに解釈いたしております。
 国連は、既に第二国連と呼んでもいいほどNGOの活動を大事にしております。国際間の紛争の間に立ってみずからの使命感と信念に燃えて調停あるいは和解に奮闘するNGOの姿は、今や世界のあらゆるところの紛争地帯で見受けられます。私は、個人としての尊厳、人間としての誇りを持って立ち上がる次世代の若者を一人でも多くつくり上げる、そうした国家に日本がなる、これが新しい憲法に求められる一つの大きな理念だ、こう考えております。
 以上でございます。ありがとうございました。

発言情報

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発言者: 谷川和穗

speaker_id: 18568

日付: 2001-06-14

院: 衆議院

会議名: 憲法調査会