田英夫の発言 (外交防衛委員会)

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○田英夫君 一九五六年の日ソ共同宣言というのは、まさに戦後の日ソ、今のロシアとの関係を進めていく上のスタートであった。非常に重要な、しかも国交回復ということをやったスタートですから、しかも当時五一年にサンフランシスコ平和条約でアメリカを中心にしたいわゆる西側陣営と平和条約を結んだと。これに対して、冷戦構造になっていた中でむしろソ連から日本との国交正常化を望んだというそういう中で出てきたんです。
 これは私ごとですけれども、実は日ソ国交正常化の発端になった点にちょっとかかわったことがあります、新聞記者でしたけれども。河野さんの父上も大変重要な役割を果たされたわけですが、ソ連が鳩山内閣が発足した一九五四年の十二月ですか、十二月十日に発足しているんですね。その直後に、共同通信の記者がソ連代表部にたまたま行ったら、ドムニツキーという参事官がいて、今度着任したけれども、発足早々の鳩山内閣の首相に会いたいと。国交のない国の一参事官が首相に会いたいということ自体、外交常識からすると異常ですけれども、しかし、私どもはそれを聞いて、私は共同通信の実は外務省記者クラブ、霞クラブのメンバーだったんですが、我々で相談をして、杉原荒太参議院議員にこういうことをソ連が言ってきているということをいわば取り次いだわけです。
 それが実は発端になって、全く意外なことに、翌年の一月二十五日にドムニツキー氏が音羽の鳩山邸を訪ねて、文書で国交回復の話し合いを始めようという申し入れをしたというのが日ソ国交回復正常化に向かっての発端の話なんですね。
 そういういきさつがありますから、その結果として五六年の日ソ共同宣言になっていく。ここのテンポは物すごく速いですね。それは河野一郎さんを中心にして松本俊一さんが専門家として進められた。
 そういう中で、私が申し上げたいのは、私どもが外務省記者クラブでそのソ連代表部からの話を聞いたときに、共同通信のそのときのキャップの先輩は、即座にこれはデスクに話すのはよそうと。デスクの中には吉田派と親しい人もいるから、それをやればすぐに吉田派が妨害に出るだろうと。ということになってはいけないから、我々だけで対応しようと。それで、杉原さんに直接話をしたんです。
 保守合同したばかりの自由民主党ではあったけれども、それにしてもまさに派閥の間でソ連との国交回復を進めるかどうかという意見が全く違う。しかも、外交担当の重光外務大臣は、この日ソ交渉、国交回復を進めるということから全く除外されていた、こういう異常の中で行われたということがその後、後々まで尾を引いているんじゃないか。
 もちろん、ソ連という国は非常に難しい国で、北方領土という非常に解決しにくいテーマを含んでいるということはあったにしても、日中は国交回復から平和条約まで六年でやっていますが、日ソの場合は今四十五年たちますよ、五六年から。そういう難しさをつくった一つの原因は、日本側の、しかも自由民主党の中の派閥の論理が外交の前進を阻害したんじゃないか。
 もちろん、繰り返して言いますけれども、北方領土の問題というのは非常に難しい問題。しかし、原点に返ろうと今度は確認したわけですが、その原点の五六年の日ソ共同宣言は、歯舞、色丹と国後、択捉を初めて分けて考えているんですね。その原点に返るということは、北方領土問題についてそういうふうに考えると。そうすると、ややもすると反対する人は、それじゃ、日本政府は二島返還でもう済ますつもりなのかと、こういうふうに敵側は、反対派側は言うから、それも確認しなくなると。
 そういう意味で最後に外務大臣に、五六年を確認したということは、歯舞、色丹と国後、択捉は分けて考えますよということを確認したというふうに考えていいんですか。

発言情報

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発言者: 田英夫

speaker_id: 16046

日付: 2001-03-29

院: 参議院

会議名: 外交防衛委員会