小林節の発言 (憲法調査会)

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○参考人(小林節君) では、座ったままで失礼いたします。
 国民主権と国の機構につきまして現行憲法をめぐる問題点の指摘をという御下命でございましたので、レジュメに従って説明させていただきます。
 最初に、御無礼を承知で用語の確認をさせていただきたいと思います。つまり、この国民という概念と主権という概念がそれぞれ文脈によって意味が異なることがありますので、その組み合わせ方次第でどこへでも話が行ってしまいますので、その点をまず確認させていただきたいと思います。既に御承知の方が多いと思いますけれども、御無礼をお許しください。
 この国民という概念でございますが、民族と有権者集団とどちらかに使い分けられることがございます。つまり、民族となりますと、過去、現在、未来、この国にいたし、いるし、いるであろう人々の総体でありますから、もとより抽象的な存在でそこに実力は帰属しようがない主体になりまして、でも逆に言えば、過去、現在、未来の流れでありますから、メンバーが変わることによって意思の取り直しが必要ない一貫した意思の主体に逆になり得るわけで、それに対して有権者集団を指して国民と呼ぶ場合がございます。それは、ある一定の時点でいわば統計をとるような形で時をとめて見詰めるわけでありまして、これは実在する存在でございますから、例えば第何回総選挙のときの有権者団ということでございますから、これは実在しますから権力掌握が可能な存在になります。
 主権という概念につきましては、三つ確認させていただきます。主権は、文字どおり権力、実力、つまり物事を決めていく力、国の名で物事を決めていく力ととらえる場合と、逆に力では全くなくて、その力を暴力とせず正義と呼べるその根拠になるありがたみのたぐいでございますが、正当性の由来を示す権威という意味で用いる場合がございます。また、次元が異なりますが、これは国際関係でありまして、内政干渉は許さないといったような場合に使われます対外的なその国の独立性を意味する場合がございます。
 本論に入らせていただきます。
 現行憲法について国民主権と国の機構という観点で私が問題点であると思いますものは、まず前提問題として、この憲法はもちろん標準的には間接民主制を原則とし例外的に直接民主制を採用しているわけでありますけれども、ただこのバランスをどう読んでいくか、あるいは二十一世紀に向けてよりよい国という道具をつくる場合にはどう組みかえていくかということで、どちらに重点を置くかということで改正の話題になっていくと思います。つまり、国民投票制とか首相公選制とか、こういう話題をどんどん切り込んでいきますと、今の憲法における間接民主制中心の原則からは離れていくのではないかということでございます。
 それから、立法府と行政府と司法府について順次申し上げてまいりますが、先生方はひしひしと感じておられると思いますけれども、国の三権のあり方について、機能不全という思いで今国民の不満が、いわばフラストレーションが高まっている状況にあると思います。
 そういう観点で、まず立法府につきましては、現行制度では国会議員はリコールできませんが、これに対する期待も一部に根強くございます。
 それから二院制の問題でありますけれども、要は二院制というのは、衆議院は典型的な民選院であって、あと参議院をどうするかによってそのパターンが違ってくるわけでありますから、参議院を一番よくない選択は第二衆議院にしてしまうことでありますが、むしろ参議院をいわゆる比較法の用語としての上院にするにはどうするか。となりますと、元老院型とかそれからアメリカ上院のような地方代表院のような形にするとなると、人口比例はとらないし、直接選挙はとらない方がいいのではないかという話になってまいりますと、現行憲法とも無理が出てくる。
 それから、立法権に対するフラストレーションとして国民投票制というのがさまざまに提案されておりますが、これをやりますと、では議会はどうなってしまうのかということももちろんですけれども、まずそもそも現行制度では国民投票というのは法的拘束力を持つ形ではできないというのが標準的な理解でありますから、これも憲法改正の課題になっていくと考えます。
 行政府については、最近非常に熱心に主張する方がふえてきました首相公選制の問題でありますが、これ、もちろん現在は御存じのとおり議院内閣制ですから、首相公選などというのは現行制度では全くあり得ないわけでありますが、ただ、世論調査というものが法的正当性、場合によっては社会科学的正当性を持つのかという疑問も一応留保します。
 その上で、一応世論調査などを参考にする限り、今、国の行政府のトップリーダーが、我々が選んだ覚えがないとか、我々の思いを体現してくれていないというフラストレーションのピークに達している歴史的瞬間であると思います。
 そういうギャップが出て、国民が主権者でありながら参加意識を持たなくなってしまう突破口として、首相公選制というのが大いに主張されているわけでありますけれども、しかし、こうなりますと、完全に、準大統領制とあえて申し上げますけれども、準大統領制になっていくわけでありまして、全国一人区で全国民から一気に選挙で押し上げられてくるという存在は、今の議院内閣制、積み上がるようにして総理の地位につき、またそれを集団で支えていく今の仕組みと全く違って、これはもろ憲法改正の話題であると考えます。
 それから、司法府に対するフラストレーションは、これも最近吹き出してしまっているようでありますけれども、要するに、国民というか一般庶民の常識からかけ離れた世界に行ってしまっているのではないかという疑いであります、実証されているとは私は思いませんけれども。
 そのために、司法の民主化とか開かれた司法とかいうことになるわけでありますが、ただ、これはちょっと気をつけなければいけないと思いますのは、司法というのは、わかりやすく言ってしまいますと、非民主的であるところにその本質、存在価値がある、あえて言いますけれども。つまり、民主的ということは、つまるところ国民の多数決過程によって裁かれると。国会がそうですね。それは、突き詰めてみると、人気、不人気で裁かれるということなんですが。
 そういうときに、つまり、世の中の全部がある一人の人を、やっちまえ、殺してしまえ、あいつ悪いんだと興奮していても、一カ所で、冷静な国家機関が、ちょっと待て、冷静に手続を踏んでみようじゃないか、彼にも言い分があるのではないかと言って、興奮した多数派から少数派の権利を守るときに冷静でいられるということは、多数決民主主義に支配されない、その外にいる、そういう意味で非民主的な機関であることに司法府の意味があったはずなんです。ですから、司法の民主化とか開かれた司法ということは、逆に言えば司法の独立を脅かすことになるのではないか。これは本当に微妙なバランスの問題で、気をつけてお考えいただきたいと思います。
 そういう意味で、陪審制、参審制、もちろん一面で司法も人間を裁くんだから人間的常識がなきゃいかぬとか、それから国民主権国家における権力であることに変わりはないわけで、他者から牽制されない権力は必ず堕落するわけでありますから、そういう意味では司法もどこかで民主的コントロールがきいていなきゃいけないんですが、きかせ過ぎると司法が司法である意味がなくなる。この緊張した問題があるということを指摘だけさせていただきます。
 あと、天皇について問題が未解決であると私は思います。第二次世界大戦で日本が負けて、この今の憲法ができたわけでありますが、その前と後で天皇制なるものは続いているという事実をとらえて、わかりやすく言ってしまえば、国体は護持せられたりというような説明で古きものがそのまま続いているような認識を殊さらに主張をする人々と、それから標準的な今風の理解でいくと、あの段階で天皇主権から国民主権に変わったではないかということで、今度逆に形ばかりである天皇制が残っているにもかかわらず、それを無視するがごとき、憲法改正で消すなら話は別ですが、現に存在する天皇制を無視するがごとき認識を振り回す、この二つの極端に分かれて、それが半ば平行線になっているような気がするわけであります。むしろ、きちんとこの問題を公平、率直に議論して、恐らく正義は真ん中にある、現行法の認識としてはですね。
 私は、誤解を恐れず、天皇制の廃止も含めて議論の対象とすべきである。つまり、国民主権国家日本において国王のたぐいがあること、こう言っただけで怒り出す人は随分いるんですけれども、話は最後まで聞いていただきたいと思うんですけれども、つまり議論はすべきだということを申し上げたかったんであります。
 これは、一国のあり方について、象徴というのは他国で言えば大統領とか女王とか、やはり国家がある意味ではつかみどころのない人間集団である以上、その国家のしるしになる、儀式では、あるいは対外的儀式では特に不可欠な人的存在があるわけですね。それが象徴であり、それを元首と呼んだり君主と呼んだり、いろんな種類があるわけですけれども、やはり日本国にもそれは必要なわけでありまして、ただそれについて国民的合意が存在しない言葉は現行憲法の重大なる運用上の問題点である。である以上、現段階でこれを検討してみる意味があるという意味であります。
 そうなりますと、先年法制化された君が代・日の丸、私はあのときも参考人として衆議院でしたか呼ばれて、賛成発言をさせていただいたんですが、ただ、君が代の君の意味づけについていまだに事実国民の中に定着していない。つまり、天皇を象徴としていただくこの国という理解が国語的にかなり苦しいんではないか。と同時に、やはり国民主権国家である以上、アクセントの置き方は国民の側にあるべきではないか。となると、いわゆる象徴君主にすぎない天皇を、昔のように形ばかりではあってもアクセントをつけ過ぎるのは意味づけとして無理があるような気が私はするんです。
 それで、むしろ、あのとき主張しましたように、日本語というのは当て字で、しかも、古来いっぱい歌われてきた歌でありますから、詠み人知らずで、むしろよく使われるように、あなたのよわいが長く、つまり相手の健康と長寿を祝い、願い、歌い合うような歌のような意味確認の方がよほど日本国憲法の時代における君が代の意味ではないかというような問題が残っているんではないかと指摘させていただきます。
 以上でございます。

発言情報

speech_id: 115114184X00320010307_002

発言者: 小林節

speaker_id: 20442

日付: 2001-03-07

院: 参議院

会議名: 憲法調査会