阿部幸代の発言 (本会議)

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○阿部幸代君 私は、日本共産党を代表して、学校教育法の一部を改正する法律案など、教育三法案について、小泉総理並びに遠山文部科学大臣に質問いたします。
 質問に入る前に、大阪教育大学附属池田小学校における悲惨な事件で亡くなった子供たちに対し、心から哀悼の意を表するものです。こうしたことが二度と繰り返されることのないように、医療と法律、両面からの検討が必要です。また、学校の安全性の確保という点から、教職員と父母、地域が協力した学校づくりの重要性を一層痛感するものです。
 法案について、まず高校の通学区規定の廃止の問題について伺います。
 今日、日本の教育が抱えている問題は、国連子どもの権利委員会が指摘しているように、極度に競争的な教育制度によるストレスのため、子供が発達のゆがみにさらされているということです。その是正こそが求められているのです。総理はこのことをどう受けとめているのでしょうか。
 実際、埼玉県の例を見ると、百六十二校の公立高校のうち、百二十七校の公立普通科高校が八つの通学区に分けられ、隣接学区も受験できるため、ある学区では最高七十四校のうちから一校を選ぶことになっています。七十四段階もランクづけされ序列化された学校にふるい分けられる子供たちの気持ちがわかりますか。
 通学区は、もともと教育の機会均等と入学競争の弊害の排除を目的に設定されてきたのではありませんか。ところが、それに逆行する事態がここまで進んでいるのです。通学区規定を廃止して全県一区も可能になれば、競争を一層激化させ、改善の方向に逆行するのではありませんか。
 この際、学区の弾力化と称して競争を激化させるのはやめて、高校希望者の全員が入学できる希望者全入にこそ踏み切るべきではありませんか。総理の見解をお聞かせください。
 法案は、飛び入学を物理、数学のみでなく、すべての教科に拡大しようとしています。物理、数学のみの飛び入学についても、日本数学会や日本物理教育学会、芸術家からも、人間的成長なくして才能の真の開花もないと異論が出ていたにもかかわらず、何の検証もなく子供たちに押しつけるのは余りにも無謀ではありませんか。これは、高校教育の意義を一層低めるものと言わざるを得ません。
 次に、社会奉仕体験活動の事実上の義務づけについて伺います。
 文部科学大臣は、衆議院の答弁で、一方で義務づけないと言いながら、他方では評価の対象にすると答えました。評価の対象になる以上、子供たちにとっては強制されることと同じことです。これでは、自主的、自発的に行われるボランティア活動をゆがめることになりませんか。
 学習は、児童生徒の人間としての成長と発達に不可欠な、憲法上の根本的な権利です。それだけに、出席停止は慎重の上にも慎重を期す必要があります。
 現行法でも、市町村教育委員会が、「性行不良であつて他の児童の教育に妨げがあると認める児童があるときは、その保護者に対して、児童の出席停止を命ずることができる。」と定めてあり、出席停止措置が可能です。にもかかわらず、出席停止措置の要件を法制化するのは、教育改革国民会議の議論にもあるように、問題を起こす子供を隔離、排除すれば教育が成り立つという考え方を押しつけようとしているからではありませんか。
 先に排除ありきではなく、問題行動を起こす背景をとらえ、それに対する適切な改善を実行し、子供や家族に対する援助を行うことこそ、教育の営みというものではありませんか。
 法案は、出席停止期間中の学習の支援等の措置を講ずることとしています。
 文部科学省の調べでは、一九九九年に出席停止措置を受けている子供で、二十一日以上というのが六件ありましたが、出席停止期間の主たる居場所はすべて本人の家庭でした。
 法制化に当たり、期間の定めもなく、居場所は家庭及び学校外の諸施設というのでは、子供にとっては懲罰であり、子供は切り捨てられたという深い傷を負ってしまうのではないでしょうか。これがなぜ教育的営みと言えるのでしょうか。
 とりわけ問題なのは、子供の意見を聞くということが法案には明記されておらず、子どもの権利条約第十二条の意見表明権を全く無視していることです。これでは、子供の人権と教育の条理を無視した隔離、排除としか言いようがありません。教育は子供と教師の信頼関係の上に成り立つものです。学ぶ権利が剥奪されるときに、なぜそうされるのかを知らされず、弁明の機会が与えられなければ、子供の理解と納得が得られず、教育的効果も期待できないのではありませんか。
 次に、いわゆる指導力不足教員の問題についてです。
 法案は、教育委員会が指導力不足と判断すれば、本人の同意なしに配置転換を可能にするものです。
 それでは、指導力不足教員とは一体何なのでしょうか。適格性を欠く教員、つまり反社会的行為やセクハラ等は現行法でも処分が可能であり、近年急増しているメンタルヘルス上の問題を抱える教職員のことも、医療上の問題として考えるのが当然です。これらを指導力不足教員とは言いません。
 文部科学省は、衆議院段階の審議で、指導力不足について、専門的知識などの不足、指導方法が不適切、児童生徒の心を理解できず意欲に欠けるという三つの具体例を挙げただけで、指導力不足教員の定義を明らかにすることができませんでした。そもそも指導力とは何なのですか。簡潔に答えてください。
 文部科学省から委嘱を受けた埼玉県教育委員会の検討で、指導力不足の具体的事象として、学級経営がうまくできない、学習指導について画一的な授業しかできない、児童生徒、保護者、同僚職員とよくトラブルを起こす、自信過剰、偏屈で校長や保護者の意見を聞こうとしない、児童生徒への教員としての愛情が不足している等を挙げていました。
 自信過剰、偏屈など、これがなぜ指導力とかかわるのでしょうか。これはまさに画一的な教師像の押しつけではありませんか。これでは、だれもが該当者になりかねません。ある学校では高い指導力を持つと言われた教員が、別の学校で十分に力を発揮できないこともあり得るし、その逆もあるのです。教員の指導力とは、子供の状況、教職員集団の力量や職場環境などの関係において成立するものです。
 求められているのは、だれが指導力不足教員なのかを特定することではなく、学校全体の教育の力をどう高めていくかということではありませんか。何よりもまず指導力不足教員を出さないようにすることが肝要なことで、教員同士が相助ける仕組みや、父母、子供、教師が一体となった学校づくりを進めることではないでしょうか。そうでなければ、難しい子供たちや難しい学級や学校を受け持つ先生がいなくなってしまいます。それとも、難しい子供は排除をすればよいということなのでしょうか。
 本法案の強行によって、そもそも教育の条理に反する排除の仕組みを児童生徒にも教職員にも持ち込もうとしていることは、これこそ、憲法と教育基本法に基づく国民が願う教育本来のあり方と理想に満ちた未来に通ずる教育の基本理念に背き、重大です。制度を振りかざして子供にも教職員にも管理と統制を強めれば、教育現場は一層指導に困難を来すのではないでしょうか。
 二十一世紀の社会的基盤というべき教育改革において、拙速は許されません。国民の教育要求にこたえるためにも、会期末の短期間に結論を出すことなく、競争と管理を強め奉仕活動を押しつけるこの教育三法案を廃案にすべきことを主張して、質問を終わります。(拍手)
   〔内閣総理大臣小泉純一郎君登壇、拍手〕

発言情報

speech_id: 115115254X03220010615_015

発言者: 阿部幸代

speaker_id: 30672

日付: 2001-06-15

院: 参議院

会議名: 本会議