中曽根康弘の発言 (憲法調査会)
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○中曽根委員 私は、昭和二十二年の、新しい今の憲法が施行されました第一回国会からこの国会に出席させていただいております。言いかえれば、憲法と同じように歩んできて、憲法のもとに政治家として成長した者でありますが、今日の事態におきまして、政治と憲法というものがどういう関係にあり、どうすべきか、そういう観点から申し上げてみたいと思うのであります。
歴史の流れと申しますか政治の流れと申しますか、いずれも生命力があるものであり、おのおの光と影を伴っているものであると思います。この憲法についても、それは歴史の流れで生まれ、歴史の過程でその成果が問われるものであり、いまだに生命力はあると思いますけれども、いつまでそれが続けられるかという問題もあると思うのであります。
そこで、第一次の憲法調査会に私は出席いたしました。今、第二次の憲法調査会にも出席させていただいておる。そういう歴史の流れから見て、今日どこに問題点があるかという点も考えてみたいと思うのであります。
第一次憲法調査会と第二次憲法調査会の相違はどこにあるかと考えますと、第一次のそれは冷戦下にあった。つまり、アメリカとソ連との冷たい戦争で、陰惨な対立の世界にあった。それから第二に、この憲法が制定されてからある程度時間がたっていますが、憲法調査会の第一回が開かれましたのは昭和三十二年八月であって、これは、いわば日本が政治の独立を回復してから数年後というまだ短い時間であります。現在、我々は、既に四十八年、約五十年近くを経過しておる、我々が第二次調査会をここにおきまして開始したときから考えてみますと。
それから、あの当時は、国会につくるか内閣につくるかという問題がありましたが、内閣の方を選んだのは、国会の中でも社会党や共産党の人たちは賛成しないだろう、そういうところで、やはり内閣につくるのが適当だというので、自民党と参議院の緑風会を中心に、民間のいろいろな権威者を集めてつくったものであります。
そういうようなものでありましたが、つくられた経過を私の経験から考えてみますと、私は、当時、GHQ、マッカーサー司令部に何回も通って、法律案の意見を聞き、修正させられたものであります。例えば石炭国家管理法とか、そのほか幾つかの問題があります。憲法も同じような状態で実はつくられ、それ以上に、強い米軍の指導力によってつくられたものです。ですから、マッカーサーがこの憲法をつくるというときに三原則を指示しまして、よく知られているように、第九条はそれによってできたということは御案内のとおりである。
憲法がつくられた昭和二十一年というのはまさに敗戦直後であって、米軍にすれば、日本の解体の時期に当たっておった。日本の軍事的措置を全部廃止する、そういうような考えのもとに行われて、マッカーサー三原則もそのもとに提示されたものであります。当時でありますから、戦争直後で、平和を望み、厭戦思想が充満しておった時代であります。
しかし、吉田内閣が終わって、鳩山内閣、岸内閣とできましたが、この両内閣ができた一番大きな理由は、吉田さんが占領政策のもとに管理的政治を行った、悪い言葉で言えば、下請的政治を行った。それに対して、独立体制を整備しよう、そういう民族的な情熱が沸き上がって、そして鳩山内閣ができたのは、一つは、憲法改正と日ソ交渉を選挙の最大の焦点にして訴えたものであります。
当時、冷戦下にあって日ソ交渉を言うのは、やはりアメリカに対する独立体制の明示というような鳩山さんの意気もあったし、日本国民の意思もあった。その上に、憲法改正というものも、独立体制の整備、占領政策からの脱却という面で実は行われたものであります。これは私が経験したことであります。
そういうような状況でできました憲法調査会において、最初の一番大きな問題は、今の憲法の性格でありました。我々は、他の大勢の諸君とともに、これは米軍が原案をつくって、米軍の大きな圧力下にできた、自由意思のない状態でできたものであるから、自由意思のもとに回復すべきである、そういう議論をいたしました。
言いかえれば、デュベルジェが言っているように、主権在民と言うけれども、主権在民の根拠は、憲法を制定する力を持つことである。フランス語でプーボワール・コンスティテュアンという言葉をデュベルジェは言って、プーボワール・コンスティテュエ、憲法典とは違う、そうデュベルジェは言っていますけれども、憲法制定権力というものが主権在民の基礎にあるものである、それを我々はまさに実践すべきである、そういう議論でやったものです。それに対して消極意見も少数ありましたが、しかし、憲法調査会長をしておった高柳賢三博士は、これは日米合作憲法ですね、そういうようなことであり、いろいろな諸般の情勢も考えて、この憲法の性格に関する委員会の小委員長であった細川隆元さんが、これは米国の強い影響力のもとに日本がある程度自主的につくった憲法である、そういうような定義で締めくくった記録があります。
今の第二次憲法調査会というものは、会議を始めたのは十二年の一月からでありますが、まず第一に、前と違うのは、冷戦後の時代である、もう一つは、独立後四十八年、約半世紀経過して、いろいろな経験を経た、歴史的な経験を経たということであり、そして世論も非常に変化してきた。
あの第一回の憲法調査会の当時の世論調査を見ますと、昭和三十二年八月、憲法改正について賛成は四四%、反対が三二%です。朝日新聞は、昭和三十二年十一月、賛成が二七%、反対が三一%、答えがないが三八%。こういう状態で、この調査をしたときは、これは多分、岸内閣の時代あるいは鳩山内閣の末期であって、両首相とも憲法改正に非常に熱心で、そして国民世論も相当動いてきた、吉田さんの政治の時代からようやく動き始めたという時代であります。
現在においてはどうかといえば、どの調査を見ても、賛成が六〇%から七〇%、反対が三〇%から四〇%ぐらいです。この国論の大きな変化というものを、やはり政治家は心にとめなければならぬものだろうと思うのであります。
そこで、冷戦後の問題でございますが、冷戦中は、アメリカとソ連の大きな磁力のもとに、鉄くずがそこへ引きつけられておった、アメリカ圏、ソ連圏と。しかし、ソ連が崩壊して、これは一九九〇年ごろでありますけれども、電気が切れた。ソ連圏は散乱状態になって、ポーランド、チェコ、そのほかが独立した。アメリカも電気を切った。一番出てきたのはアイデンティティーの問題で、EUがロシアやあるいはアメリカに対抗して、あそこの共同体建設ということでEUが出現し、通貨の統一までやった。しかし、ほかの国々も、電気が切れたということで、自分は何だということを個人も民族も国家も自問自答し始めた。それが非常に強く出てきた時代であります。
一番強いのは、やはり中国とかアメリカあたりでしょう。中国は、共産主義の腐敗を断って、そうして体制を整備するために、最近の江沢民政権はアイデンティティーを極めて強くしておる。アメリカは、依然として世界の支配力を握っている民族としてのプライドからも、非常に強いアイデンティティーを持って、この間のニューヨークの事件があれば、アメリカ国民がみんな国旗を手にするという状態になっておる。
一番散漫で、放浪しておったのは日本である。その日本でバブルが崩壊して、政治のバブル、これは十年間に十人の総理大臣が出る。経済のバブル、これは不良債権、特に銀行の不良債権の処理ということが急務になってきている状態で、要するに護送船団方式の崩壊といってもいいでしょう。第三は社会のバブルの崩壊で、犯罪と教育の崩壊だろうと思うのです。
そういうような中に、国民心理も非常に変化してきて、非常な不満があり、いわゆる自民党の密室談合の政策に対する猛反対が出た、マグマが動いた。それに火をつけて、爆発的に総裁になったのは小泉君だろうと私は見ておる。それはまだ続いているだろうと見ておる。これを小泉フェノメノンと私は称しておりますが、それだけ人心も変わってきている。
一九九〇年代と二十一世紀に入ってからは、人心が非常に大きく変わって、これは持続していくだろう、そう見ておる。それはもう既に前兆として、千葉県知事で、全く千葉に住んだこともない女性が知事に当選するとか、長野県の知事選挙も栃木県の知事選挙もみんなそうです。そういうのを小泉君は見ていて、火をつけて爆発させた、そう思いますよ。
そういうように大きく日本が今変わりつつある。そして、独立後四十八年の歴史的経験で、光と影を国民自体がわかるようになってきたし、政治家は最も敏感になってきた。その上に、世論の変化がそれを後ろで支持しておる。こういうことは何であるかといえば、特に世論調査を見ると、憲法改正に割合に消極的なのは六十、七十で、年寄りである。支持をして、改正すべしというのは三十、四十代が一番強い。これは、六十、七十は戦争のトラウマがまだ残っておるからだ。三十、四十は、いいはいい、悪いは悪い、そういうのは割り切りで、強く改正を主張してきている。
私は、そういうのを見まして、これは、歴史を消化して、伝統的な自主的な国民の意識の力で新しい国家を形成していこうという民族的な、伝統的な同化力が出てきたものだろう、そう私は考えておる。言いかえれば、漢字が入ってきて、紫式部が流麗な「源氏物語」を書くというような同化力ですね。あるいは、プロシア憲法を大日本帝国憲法にして、日本化して、日清、日露の戦争に勝って国民共同体を建設した、そういう同化力。今また、同じような同化力が五十年たってこの民族に出てきたことを私は喜ぶものであります。
それで、最近の政治の事態を見るというと、憲法的課題が現実に出てきておる。法的問題もあるし、政治的問題もあります。
一つは、ニューヨーク・テロにかんがみた集団的自衛権の問題であります。
これは日本人も相当やられ、米国がやられて、米国が今アフガニスタンで戦争と称するものをやっておりますが、これは本来ならば集団的自衛権の対象になるべきものであろう。しかし、政府は、集団的自衛権はとらないで、なぜなれば、行使ができない、そういうことを言ってきておるからであります。
しかし、行使ができないという今の憲法論等には、私は疑問を持っておる。なぜなれば、行使ができないというのは、今の第九条に関するものもそうですが、必要最小限を超えるからだ、そういうことであります、法制局長官以下は。が、必要最小限というものは客観情勢によって変化するものである。今の言われている必要最小限というものは、マッカーサー司令部の相当な影響力のもとに指示されてできた法制局の解釈であって、平和で安全であって、米軍が完全に日本を守り、日本の軍事力を否定した時代の必要最小限、それを延ばすために必要最小限ということで自衛隊を認めた、その限度まで認めたというもので、そういう歴史的所産です。
しかし、日本が、独立や平和が、国民の生命財産が危急存亡の場合になった場合には、そのようなあの時代の必要最小限より変わるはずだ、必要最小限というものは変化し移動すべきものだろう、そう私は思っている。だから、集団的自衛権行使は可能である、そう私は言ってきているものであります。
この間も実は小泉首相に、特措法を出す、自衛隊をインド洋に出す、これは憲法何条によるのかね、そう質問したら、首相は、前文ですと。前文はどこだねと言ったら、「名誉ある地位を占めたいと思ふ。」そこにあると言う。あれはしかし、願望であって、実定法的な力はないんじゃないかね、もし前文を使うというならば、むしろ前文の一番最後の「われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、」これが大事なところです、「普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。」こっちじゃないかね、そう言ったら、まあそれも一つ考えましょうというような調子でした。しかし、条文からいったら七十三条、これは内閣の権限だよ、そう言っておきました。七十三条の外交権によるんだ、国連協力とか国連軍とか国際協力とかというものは外交権の手段だ、そういうふうに自衛隊法を直さなきゃいかぬ、そう言っておいたところであります。
それから第二は、教育基本法の改正が中教審に文部科学大臣によって諮問されたことです。
この教育基本法には前文があって、これは、今、憲法が制定されたことにより、その精神に従ってこの教育基本法をつくると書いてあります。これは憲法と一体である。
これは大体前例があるのであって、明治憲法は明治二十二年に施行されましたが、教育勅語は明治二十三年にできている。現在の憲法は、昭和二十一年に制定されて、二十二年に施行された。そして、今の教育基本法ができたのは昭和二十二年です、同じ年です。つまり、憲法の心を教育基本法で出してきている。
こういうような状況で、教育基本法の改正が問題になってきた以上は、憲法の改正も当然問題にさるべき段階に来たと思うんです。そういう時代的要請等も考えてみて、今、戦後日本のいろいろな歩みを総括して、新しい体制を確立する時代である。そして、日本の二十一世紀の新しい国家像を明確にして、国民とともに歩んでいく、そういう段階に入ったと私は考えている。
そういう意味において、憲法の点検すべき点を申し上げてみると、まず問題であり点検すべき点は、前文である、九条である。それから、非常事態に対する条文がない。これは、安全保障も災害もあります。それから、私学助成に対する八十九条、この違憲的性格。それから、環境。憲法改正の条項。それから、首相公選。参議院のあり方。それから、最高裁判所の国民審査、あれもいろいろ議論がありますし、憲法裁判所設置の必要性。こういうようなものがやはりまじめに検討さるべき対象であり、改正さるべき内容を持っていると私は思うんです。
憲法調査会については、でき得べくんば、五年間ということであるけれども、論憲は三年にして、四年は各党がその要綱を提出して、それをお互いが討論し合う、五年から憲法改正への予備運動、準備運動に入る、その程度でスピードアップしたらどうか。時代はどんどんどんどん激流のように流れているのであって、我々の政治もおくれてはならない、そう思っておるわけであります。
どうもありがとうございました。