2002-07-04
衆議院
八木秀次
憲法調査会政治の基本機構のあり方に関する調査小委員会
八木秀次の発言 (憲法調査会政治の基本機構のあり方に関する調査小委員会)
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○八木参考人 本日は、本来二時から開会のところを、私の都合で三十分おくらせていただきましたことを、まことに感謝にたえません。四十分という限られた時間ですので、早速本題に入らせていただきたいと思います。
与えられたテーマは、明治憲法下の統治構造ということであります。レジュメを八枚及び別紙を最後に一枚つけておりますので、それをごらんになった上でお聞きいただければと存じます。
明治憲法、大日本帝国憲法は、今日ではいわば過去の遺物として、だれもまともに取り上げようとしないもののように思われます。しかしながら、憲法論議をするに当たって、明治憲法という存在は無視してはならないものだと私はとらえております。
と申しますのは、憲法とは何よりコンスティチューションのことであり、コンスティチューションとは国柄のことであります。であるならば、憲法論議は、まず国柄に関する議論でなければならないはずであります。明治憲法は、まさにその点を重視して制定されたものであります。明治憲法は、我が国の国柄とは何かという、その点を重視して制定した。また、その点において、我々は今日、憲法論議をするに当たって、明治憲法に学ぶべきものがあると私は思うわけであります。
国柄の上に憲法が成り立つべきであるという論議は、これは明治憲法の起草者ばかりが持っていたわけではありません。実は明治維新以降、我が国が近代憲法を制定するに当たって、折に触れてその点は確認されているところであります。
二つ目の白丸をごらんいただきたいと思いますが、明治九年九月に国憲起草の勅語というものが出されます。これはその後の憲法起草の指針となったものでありますが、この中に、何より「我建国ノ体ニ基キ広ク海外各国ノ成法ヲ斟酌シ以テ国憲ヲ定メントス」、こういう理念が掲げられているわけであります。すなわち、「建国ノ体」、我が国の政治伝統と、「海外各国ノ成法」、これは近代憲法ということであろうと思いますが、その両者の融合ということが、明治期において、憲法、国憲を制定するに当たっての何よりの指針であったという点であります。我が国の国柄、ここを重視したという点であります。
さて、明治十三年に元老院という組織が第三次の国憲草案を出しますが、その際に、後に憲法の起草者となる伊藤博文は、この元老院の国憲草案が何より我が国の国柄に基づいていないという点をとらえて、これを否定的に評価したという点も忘れてはならないと思います。
次に、私たちが明治憲法に学ぶべきものとして、これは明治憲法の中身というよりは、むしろ明治憲法を制定したその姿勢、心構えではないかと思います。心構え、姿勢と申しますのは、先ほどから言っている、憲法とは国柄のことである、国柄の議論の上に憲法論議は成り立たなければならない、そういう点であります。
ここで、幾つかエピソードを申し述べたいと思います。一つは、伊藤博文が明治十五年の三月に我が国を出発して、ヨーロッパに憲法調査に出かけます。その際に、ベルリン大学のグナイスト、ウィーン大学のシュタインという二人の学者に憲法について学ぶわけであります。しかし、伊藤は、この二人から憲法の中身を学んだというよりは、実は憲法をつくっていく上での姿勢、心構えの面であったということであります。
と申しますのは、伊藤は、帰国後、彼らの考えに全面的に依拠したわけではありません。彼らに学んだのは、憲法構想の内容というよりは、憲法起草に際しての姿勢であります。
グナイスト、シュタインともに、歴史法学という、法は民族精神の発露であると考える学派に連なる学者でありました。そして、彼らは伊藤に、憲法はその国の歴史や伝統の上に成り立つものでなければならないと教えたわけであります。この点を伊藤は何より重視したわけであります。伊藤は、それゆえに、憲法ができ上がった後、シュタインに、「いかなる点においても、他国のあれこれの憲法の単なる模倣ではなく、徹頭徹尾日本的なものである」との書簡を送っております。
次に、もう一人の憲法起草者でありますが、井上毅は、彼はもともとドイツ法学一辺倒の考え方をとっていた人ですが、憲法についての研究を重ねていく中で、我が国の歴史典籍の研究が必要であるという認識にたどり着きます。我が国の歴史典籍、これは古事記、日本書紀に始まるものでありますけれども、それを研究した上で我が国の国柄を明らかにし、その上に我が国の憲法を起草する、そういう認識にたどり着くわけであります。いわば日本版の歴史法学と言っていい認識であります。
ここに、井上の代表的な言葉を引用しておきました。井上は、憲法ができ上がった後に、「我が国の憲法はヨーロッパの憲法の写しにあらずして、すなわち遠つ御祖の不文の憲法の今日に発達したるものなり」という認識に至っております。
井上の場合は、古事記の中に発見した治す(しらす)と領く(うしはく)という二つの統治理念をとりわけ重視いたしまして、後に憲法の第一条のもとになります彼の案でありますけれども、その中に、「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇ノ治ス所ナリ」という有名な条文を起草しているわけであります。ただ、この条文は、後の明治憲法の成文に必ずしも反映されたかどうかについては議論のあるところであります。
井上が重視したのは、この治す(しらす)という概念の中に、天皇統治の公共性というものを見たわけであります。二枚目、はぐっていただきますと、一行目に書いておりますが、「憲法義解」という、後に明治憲法の公定解釈書として発行されたものですが、その中に、「一人一家に享奉するの私事にあらざる」、こういう言葉があります。天皇統治は、天皇個人やその一族のためになされるものではなくて、すぐれて公共的なものである、こういうことを井上は特に強調したところであります。
次の引用は飛ばします。
もう一人、金子堅太郎という人物もその起草に携わっておりますが、金子の場合も、保守主義という一つの思想的な立場に立脚し、また、歴史法学という一つの立場に立っている人であります。彼は、我が国の歴史、伝統の上に憲法というものはなければならないという点を強調したわけであります。
以上、三人取り上げましたが、三人三様別々の経緯をたどりながらも、期せずして、憲法というものはその国の歴史、伝統の上に成り立つものでなければならない、そういう認識に至ったという点であります。
彼らは決して、歴史、伝統を重視するということから、復古主義の立場に立ったわけではありません。近代憲法を制定するに当たって、ここは日本の憲法だという、日本という視点を忘れなかったという点であります。さらに、憲法というものはその国の歴史の所産である、そういった点をも認識したということであります。
今日の憲法論議は、日本の憲法がどうあるべきかについての調査研究であります。そうである以上、やはり日本という視点を忘れてはならないと思います。そして、この点こそが明治憲法の起草者たちがこぞって重視した視点でありまして、この意味におきまして、私は、明治憲法起草者の憲法制定の姿勢、心構えといった点に学ぶべきであろうと思っているものであります。
その次の問題でありますが、今日において、明治憲法は甚だしくその評価が低いものとなっております。私の本を読んだ若い読者から、明治憲法というものは、ショッカー、すなわち仮面ライダーの悪の軍団がつくったものであるかのように自分たちは認識していた、しかし、実際によく読んでみると違うんですねという感想を漏らしておりました。私は全くそのとおりだと思うんです。
それではその次に、今日の学校教育で明治憲法がどのように教えられているのかという点を、代表的なものを挙げております。
全部読む時間がございませんのでかいつまんでとらえてまいりますが、まず、ここで二つ引用しておりますが、言わんとしているところは、天皇が最高の権力者であるというふうに定めているということ、そして、「帝国議会・内閣・裁判所も天皇を助けるものと位置づけた。」あくまでも天皇が主体である、天皇が権力の担い手である、こういう点です。さらに、「天皇が軍隊を統率し、指揮する」、天皇自身が軍隊を統率し、指揮するようにここでは読めてしまいます。
あるいはその次の引用でありますが、「天皇の権限は強く、議会の召集・解散、軍隊を指揮すること、条約の締結や戦争を始めることなどは、天皇の権限(天皇大権)とされた。」これまた天皇の権限というものが実際に非常に強いものである、憲法上の名目的なところのみならず、実際のものとして非常に強いものであったという点がここで強調されているわけであります。一言で表現するならば、天皇制絶対主義という考え方が、学校教育で教えられている明治憲法の基本にあるものではなかろうかと思います。
いずれにしても、天皇が実際に権力を振るったかのように見えるわけであります。しかし、これは正確な理解ではありません。何より大臣責任制についての言及がここではないからであります。この点については後ほど述べたいと思います。
このような学校教育における明治憲法観というものがどのようにしてでき上がってきたかといいますと、その後少し書いておりますが、省略させていただきまして、いわゆる講座派の明治憲法観の影響というものが学校教育において見られるわけであります。これは学校教育のみならず、憲法学者の多くも何らかの形で講座派の明治憲法観の影響を受けているわけであります。簡単に言いますと、天皇制絶対主義という理解をしているということであります。
ここから明治憲法悪玉論というものが出てくるわけであります。これに対して、日本国憲法善玉論というものが対置されると思われます。明治憲法、日本国憲法との対比で、日本国憲法を少しでもよく見せようというトリックが私は働いているように思うのであります。しかし、これは明治憲法を不当におとしめる、いわばためにする議論ではないかと私は思っております。
次に、本題であります明治憲法下の統治構造について説明申し上げます。特に、内閣制度と天皇との関係であります。
この問題を考えるに当たって、明治憲法は伊藤博文と井上毅との間で認識にかなり差があるということを注意しておきたいと思います。すなわち、両者の間の天皇観の相違によって、内閣制度をどうとらえるのかということが異なってくるわけであります。実際、明治憲法下の内閣制度は、両者の妥協の産物であると言えます。したがって、解釈、運用に明瞭ならざるものが残っております。
しかし、結論として言えば、大きく言えば、伊藤の憲法観がほぼ反映されたと言っていいかと思います。伊藤博文の天皇観は、一言で言えば、受動的君主ということであります。彼は、天皇を非政治化して、政治争点化させないことを考えました。すなわち、天皇の不可侵性、政治的法的無責任性をいかにして確保するのかということを考えるわけです。これによって、あくまで総理大臣が政治主体となる政治システムを構想したというわけであります。その点が憲法第五十五条にあらわれていると考えられております。
五十五条では、「国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス 凡テ法律勅令其ノ他国務ニ関ル詔勅ハ国務大臣ノ副署ヲ要ス」、こういう条文でありますが、ここで言わんとしていることは、特に大臣の副署ということでありますけれども、大臣の副署がないものは詔勅としての効果がないんだと、すなわち、大臣が実質上の政治責任者になるんだということがここで述べられているわけであります。天皇の大権行使は国務大臣の副署がない場合は無効とされる。これによって、天皇の恣意的、個人的意思行為が排除される趣旨であります。これは国務大臣の輔弼責任を明らかにすることで、天皇の不可侵性、政治的法的無責任性を確保する趣旨であります。
そのように、大臣責任制ということを前提といたしますと、憲法第三条、「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」という、今日では、これは学校教育あたりでも天皇の神格性をあらわす表現という記述が見受けられますけれども、そういうものではなくして、これは立憲君主制の国家においてはごくありがちな規定でありまして、立憲君主としての天皇の無答責条項をいうものであります。
この点については少し長く引用しておりますが、明治憲法下において通説的な見解を形成した美濃部達吉の見解を紹介しております。
長いのでかいつまんで述べますけれども、天皇が無責任である、つまり、無答責であるということは、国務大臣がその責任者である、したがって、すべての国政について君主が自分の御随意に専行したまうことはできない、こう言っているわけであります。すべての国務について、君主は国務大臣の輔弼によらなければ大権を行わせらるることがない、そのために君主は無責任である、無答責である、こういう点を述べているわけでありまして、天皇の不親裁ということを指摘しているわけであります。
この点は、国務大臣のみならず枢密院においても、これも伊藤が構想したものでありますが、これも天皇親裁を回避するための機構として位置づけられているわけであります。その点については、ここにやはり美濃部達吉の見解を出しております。
すなわち、伊藤によれば、国務大臣や枢密顧問を含むところの何重もの意味での天皇という名の集団指導体制を構想していたという点であります。個人としての天皇は、政治主体ではない、いわば政治運営の精神的よりどころ、さらに言えば政治理念の具現者として位置づけられているという点であります。
それでは、憲法第四条が言う統治権の総攬とはどういうことなのか。この統治権の総攬というところをもって絶対主義的天皇制という評価があらわれているところでありますが、これも実は誤解であります。「憲法義解」の中に、統治権を総攬することを主権の体といい、憲法の条規によりこれを行うのを主権の用という。主権の体、主権の用、こういうふうに区別しているところがあります。
これは、ドイツのヘルマン・シュルツェの憲法理論を採用したものと考えられております。このシュルツェの憲法理論を少し説明させていただきます。シュルツェは、国家権力の保持と行使とを区別しました。国家権力の主体ないし担い手はただ一つでなければならない。このただ一つの主体ないし担い手も、国家権力の個々の作用の行使に当たっては、それぞれの憲法の定める特定の機関を用いなければならない、このように考えたわけであります。
これを主権の体と用というように言っているわけであります。主権の体として、統治権を総攬する。しかし、統治権を総攬しながら、その下の問題については、これは特定の機関に委任するということを言っているわけであります。
一番下の白丸をごらんください。いわば、天皇による統治権の総攬のもとで権力の分立が行われいたというのが明治憲法下の統治構造であります。すなわち、行政権は国務各大臣、すなわちこれは内閣のことですが、これに預けられ、立法権は帝国議会に、司法権は裁判所に、軍の統帥は輔翼機関にそれぞれ委任されていたということであります。
伊藤の内閣構想は、内閣総理大臣主体の政治運営というものを考えたということであります。この点は、内閣制度が発足したときの明治十八年十二月の「内閣職権」に、その辺の伊藤の考え方が強くあらわれていると言われているものであります。特に最後のあたりであります。内閣総理大臣が「大政ノ方向ヲ指示シ行政各部ヲ統督ス」と。内閣全体の方向を指示する。同輩中の筆頭者ではないという点であります。
さて、これに対して井上は、天皇を能動的な君主ととらえております。天皇を実質的な政治主体であると考え、その上で公平な徳治的君主としての統治理念を治す(しらす)というふうにとらえているわけであります。内閣は政治の中心ではなく、あくまで天皇大権のもとで天皇を補佐する役割を負っている。憲法第一条及び第四条の「天皇」とは、文字どおり天皇個人であるととらえているという点であります。彼の考え方があらわれている、これはその憲法の試案でありますけれども、ここに引いております。「内閣ハ天皇臨御シテ万機ヲ親裁スルノ所トス。」こういうところであります。
さて、実際の明治憲法第五十五条及び明治二十二年十二月、すなわち憲法ができ上がった後の「内閣官制」では、伊藤と井上の異なる内閣構想、その妥協の産物であったという点に留意しておきたいと思います。
もっと具体的に申しますと、憲法第五十五条一項の「国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス」の解釈は、規定のどの部分に重点を置くかにその両者の見解が分かれております。伊藤においては、その重点は「輔弼」、つまり内閣が全体として政治運営の主体となるという点に置かれた。井上においては「国務各大臣」、つまりあくまで天皇が政治主体であって、国務大臣が個別に天皇を輔弼、補佐するという点に置かれたわけであります。この井上の考え方が取り入れられまして、明治憲法では内閣という言葉が使われておりません。
第五十五条は、繰り返しになりますけれども、両者の構想の妥協の産物であった。それゆえに、その後、解釈及び政治運営に明瞭ならざるものを残しております。ただ、その後の展開は、伊藤の構想の線にほぼ沿ったものと言ってよろしいかと思います。
明治憲法が、当初、イギリス流の議院内閣制、政党内閣制を忌避するものでありました。しかし、それが次第に許容するものとなってまいります。明治三十一年六月に、伊藤の決断によって初の政党内閣、隈板内閣が組織されます。そして、明治三十三年九月には、何より伊藤みずからが政党を組織しまして、第四次伊藤内閣を組織しているという点を我々は注目したいと思います。
この点について、大隈重信、もともとイギリス流の議院内閣制、政党内閣制を構想していたがゆえに、明治十四年の政変で政権から追いやられた人物でありますが、その大隈重信が、これは明治憲法が発布された十日後のことでありますけれども、憲法の妙は運用にある、したがって、法文がいかに不十分であっても、政党内閣はこの憲法で十分できるんだということをここで述べているわけであります。実際、大隈が言ったとおりになったわけであります。
大正七年の九月に初の本格的な政党内閣、原敬政友会内閣が成立しております。これも大隈の期待したところであったかとは思います。しかし、総理大臣の統制権が実は弱かったというところから、軍部に、陸海軍大臣の現役武官制や統帥大権などを理由に政治介入を許してしまったという点も見落としてはならないとは思います。
さて、天皇と内閣との関係については、その通常の状態は、昭和天皇が大東亜戦争、太平洋戦争の開戦の手続と終戦の手続の相違を説明したものの中に的確にあらわれております。もう読んでいる時間がございませんが、昭和二十一年二月の昭和天皇の回想でありますけれども、終戦のときと開戦のときでは全く事情が異なったということが述べられているわけであります。
我が国においては厳として憲法がある、天皇はこの憲法の条規によって行動しなければならない。憲法によって、国務上ちゃんと権限をゆだねられ、責任を負わされた国務大臣がいる。この国務大臣がいるのに、天皇がその意思によって勝手に容喙し、干渉し、これを制肘することは許されないんだ。したがって、憲法上の責任者が慎重に審議を尽くして、ある方策を立て、これを規定に従って提出して裁可を請われた場合には、私はそれが意に満ちても意に満たなくても、よろしいと裁可する以外にとる道はない。こういうことをおっしゃっているわけであります。
この点は、昭和天皇の憲法の師匠であります清水澄の憲法講義の中にも、次のように「もし天皇が、国務大臣の輔弼なくして、大権を行使せらるることあらば、帝国憲法の正条に照らして、畏れながら違法の御所為と申し上ぐるの外なし」、このような表現で語っていることであります。ここで引用しております「帝国憲法」というのは、これはまさに昭和天皇の憲法の教科書であります。
ところで、明治憲法の特色として、権力の割拠性ということが言われます。先ほど、統治権の総攬のもとに権力が分立しているということを言いましたけれども、横のつながりがないという点が明治憲法の欠陥といえば欠陥であります。しかし、本来はそれを統括するのが天皇の役割であります。しかし、天皇はその役割を果たさないということが憲政の常道とされていたわけであります。
したがって、いわば統治の中心が不在になった。しかし、天皇がそれを行使しないかわりに、元老という役割があって、元老がそれを天皇にかわって担っていたわけでありますが、元老が消滅することによって統治の中心が不在になっていた。ここに軍の独走を許した昭和の悲劇があると私は考えております。
さて、昭和天皇は、立憲君主としては逸脱しながらも、民の父母としての天皇として、そういう役割として終戦を決断されたということが述べられております。
七枚目の一番目の黒丸でありますが、明治憲法は、いわば常態においては公議を尊重するということであります。これを憲政の常道としております。法律の裁可から始まって戒厳令に至るまで、これはいずれも天皇大権でありますが、これは天皇がお一人で、あるいは独断で行使し得るものではありません。いずれも輔弼者が存在するわけで、その輔弼者が事実上の責任者とされるわけであります。
このように見てまいりますと、明治憲法下の政治体制は立憲君主制であるということが言えるかと思います。
それでは、明治憲法に対して、日本国憲法の象徴天皇制度はどうであるのかということであります。
結論を先に述べますが、私は、明治憲法下の伊藤の構想と象徴天皇制度は、それほど差はないというように考えております。
象徴天皇制度、これはどういうところから出てきたのかといいますと、これについては既に証言があります。GHQの民政局に所属していたネルソンとプールという二人の若い軍人たちが象徴天皇制度の規定を起草したと言われております。彼らは、英国のような王室に日本の皇室をすることが不可欠であるというように考え、さらに、天皇に権限ある地位ではなく、意義ある地位を与えようということであります。意義ある地位です。
彼らが象徴天皇制度を考えるに当たって参照した文献があります。これがウォルター・バジョットの「イギリス憲政論」という本であります。一八六七年の著作であります。
一番下の黒丸をごらんください。このバジョットのイギリス憲政論の中にこういう部分があります。
国民は党派をつくって対立しているが、君主はそれを超越している。君主は表面上、政務と無関係である。そしてこのために敵意をもたれたり、神聖さをけがされたりすることがなく、神秘性を保つことができるのである。またこのため君主は、相争う党派を融合させることができ、教養が不足しているためにまだ象徴を必要とする者に対しては、目に見える統合の象徴となることができるのである
こういうことですね。まさに国民統合の象徴という言葉は、このバジョットの中で使われているわけであります。
バジョットの考えをまとめてみます。
バジョットは、君主の役割を、党派をつくって対立している国民を融合させる、目に見える統合の象徴であることに見出したわけです。それは、君主が政務、つまり実際政治と無関係で、それを超越しているがゆえに可能なのだというように考えているわけです。国民統合の象徴とは、バジョットの文脈でいいますと、立憲君主の有する機能を言った表現であります。
さて、バジョットの立憲君主制論について若干説明をしておきたいと思います。
バジョットは、政治を二つの部分から成るものと考えます。一つは尊厳的部分、もう一つは実効的部分。尊厳的部分を担うのが君主、王室であるということ、実効的部分を担うのが内閣その他であるということであります。
これを日本国憲法の第一章と突き合わせてみるとどうなるかといいますと、このバジョットの立憲君主制論を参照しますと、第一章が非常に明快に理解できるわけであります。第一章の第六条、第七条で言っている国事に関する行為、天皇が行う国事に関する行為とは、政治の尊厳的部分であります。
「国政に関する権能を有しない。」とされて禁じられている国政に関する権能とは、政治の実効的部分であります。第四条一項「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない。」というのは、まさにこのバジョットの立憲君主制論をここで述べているわけであります。さらに、国事行為に関しては、内閣の助言と承認を必要とし、内閣がその責任を負う、大臣責任制がここで述べられているわけであります。
日本国憲法は、第一条を見る限り、バジョット流の立憲君主制憲法であると言えると思います。既に政府解釈では、我が国の現在の政治体制は立憲君主制であると言っても差し支えないであろうと思うということが言われているわけであります。
さて、このバジョットの議論、さらに象徴天皇制度、これを理解するに当たって、福沢諭吉の「帝室論」というものが非常に参考になります。と申しますのは、この福沢諭吉の「帝室論」というものは、バジョットの「イギリス憲政論」を下敷きにして書かれたものであるからであります。したがって、この「帝室論」の考えを参照するならば、日本国憲法第一章の理解が深まる、象徴天皇制度の理解が深まるということであります。
福沢諭吉は、「帝室は政治社外のものなり」と言っております。これはバジョット流に言いますと、政務と無関係であるということを言っているわけであります。さらに、「我帝室は日本人民の精神を収攬するの中心なり。」これは国民統合の象徴ということを言っているわけであります。その次に、「国会の政府は二様の政党相争うて、火の如く、水の如く、盛夏の如く、厳冬の如くならなんと雖も、」云々以下は、これはバジョットの考え方をそのまま福沢流に書き直したものであります。
この福沢諭吉の「帝室論」でありますが、これも興味深いことでありますが、今上天皇が皇太子の時代に小泉信三から帝王教育を受けますが、その際に二人で御一緒に輪読した本の一つがこの福沢諭吉の「帝室論」であるということであります。したがって、戦後の新しい帝王学、帝王教育は、この「帝室論」あるいはバジョットの「イギリス憲政論」、こういったところが下敷きであるという点であります。
この「帝室論」あるいはバジョットの打ち出した立憲君主制でありますが、これはいわば受動的な君主というものを想定しているわけであります。政務と無関係で超越している、それゆえに不可侵性を確保できる。また、それゆえ相争う国民を統合させる象徴となることができる。そして、天皇というものは、儀礼的、精神的な存在である。政治の主体ではなくて、政治の精神的なよりどころである、あるいは政治的伝統の体現者であるということを言うわけですね。その点がこの辺のところで確認できるかと思います。
最後でありますが、実は、日本国憲法の第一章は、これは繰り返しになりますけれども、バジョット流の立憲君主制の憲法と言うことができるかと思いますけれども、これは実質的に明治憲法を継承していると考えてよろしいかと思います。
その意味は、明治憲法はイギリス流の立憲君主制にだんだんと転じていくわけであります。当初はドイツ流の君権主義の立場に立っておりますが、それがだんだんと立憲君主制に転じていく。そういう意味での明治憲法を継承していると考えられます。伊藤の想定した立憲君主制とそれほど大きな差はありません。
ただ、現行憲法は六十八条で首相に国務大臣の任免権を与えておりますので、これは立憲君主制としてはいささか異例な規定であります。立憲君主制である以上は、名目上は君主に国務大臣の任免権は与えるべきでありますが、この点、アメリカの大統領制とイギリスの立憲君主制とがミックスされた結果と見られております。
ともあれ、象徴とは、政務と無関係で、それを超越しているがために国民を融合させるという、立憲君主の機能の面を言った表現であります。その意味で、決して象徴にすぎないというものではありません。
そういうことを申し述べまして、私の意見陳述とさせていただきます。(拍手)