杉井靜子の発言 (憲法調査会公聴会)
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○公述人(杉井靜子君) 私は、女性や子供や障害者など、ハンディを負っていたり弱い立場にある人の人権が本当に守られる社会こそ、すべての人々の人権が守られる社会だと思っていますが、長年弁護士として仕事にかかわってくる中で痛感することは、様々な差別や人権侵害がある中で、とりわけ女性や子供の人権が十分に保障されていないことです。
妻に対する夫の暴力については、数多くの離婚事件で見聞してきました。夫から包丁を突き付けられ命からがら逃げてきた母子が、行くところもなく相談に来たということもありました。
昨年扱った事件では、六十三歳の女性ですが、夫から包丁の入った箱をぶつけられ、それが目に当たって片目を失明し、その前にも夫の暴力によって足が不自由になっている、そういうふうな女性がやっとの思いで家を出て姉のところに身を寄せ、とにかく離婚さえできればということで私のところに相談に来ました。この女性は四十年間も夫の暴力に耐えていたのです。家を出ても行き場がなかったからです。姉のところに身を寄せられたのは、姉の夫が亡くなって一人になったという事情でありました。夫は七十三歳で、妻の厚生年金を当てにしているので、離婚になかなか応じなかったのですが、何とか調停で離婚できました。
ところで、離婚事件を扱っている中でよく耳にする夫の言葉は、例えば深夜に夫が帰ってきて妻にセックスを迫る、そのとき、妻が今日は疲れているからやめてというふうに断ると、夫が何と言うかというと、だれに食わせてもらっていると思っているのかとどなるわけです。この言葉、この言葉に妻は愕然とするわけです。妻はこの言葉に自分の人格と人間性を、人権を否定されたと実感するわけです。このときに妻は離婚を決意します。また、ある夫は裁判で、暴力を振るったことについて、妻が自分の言い付けを守らなかったからだと平然と言ってのけました。
しかし、どんなに暴力を振るわれ、暴言を吐かれ、望まない性交渉を求められても、経済的に自立できない妻はなかなか離婚もできないのです。子持ちの中高年の既婚女性には正社員で就職する口はほとんどありません。パートで月七、八万の収入ではとても親子では生活できない、自立できない、そういう現状があります。
児童虐待も今日では大きな社会問題になっていますが、まだまだ氷山の一角で、深刻なケースが山積していると思います。私は、一九八〇年当時、日弁連の親権と子どもの人権に関する調査研究委員会の委員をやっていましたが、この調査研究委員会に養護施設関係者から親による児童虐待のケースの申立てがございました。余りにもショッキング過ぎて、にわかには信じられない気持ちでした。しかし、一九八三年には厚生省の報告書が出たり、その他の調査をする中で、改めて本当に親による子供の虐待があるのだということを確認したわけですが、身体的暴力に加え、近親相姦にも当たる性的な暴行も含めて、加害者の圧倒的多数が実は実の父母なのでした。
もちろん、児童虐待の背景には、様々な社会的要因、経済的な貧困の問題やあるいは子育ての知恵が伝承されていない、地域からも孤立している家庭、そういう中での親の育児不安、そういう問題があるわけですが、それにしても、虐待についてしつけのためにやったと言う親が大変多いこと、そして、煮て食おうと焼いて食おうと、おれの、親の勝手ではないかというふうな言葉の中に、子供を一人の人間として見ていない、子供は親の所有物だといった間違った親権者意識があることも感じました。
このような我が国の現状を見るにつけ、私は、この国にはまだ人権思想が国民の意識の中に定着し切れていない、つまり血肉化されていないことを感じるわけです。憲法では、すべての国民の法の下の平等、また二十四条では家庭生活での男女の平等、十三条では個人の尊重をうたっています。憲法が目指しているのは、自分も他人も一個の人権として人間としての価値は変わらずみんな平等なのだという人権思想ですが、それがまだ十分に国民の中に定着し切れていないと思うのです。
そして、この定着し切れていない原因の一つに、私は政治の責任を痛感します。つまり、憲法では今述べたような自由や権利が保障されているわけですが、その憲法を具体化する立法、行政を積極的に進めることが政治の責任だというふうに思うのですが、それがなかなか十分ではなかったと思うわけです。御存じのように、憲法は最高法規であり、すべての公務員には憲法遵守義務があるわけでして、この憲法を具体的に政治に生かす、そういう義務が公務員にはあるというふうに思うわけです。
例えば、妻への夫の暴力の問題について見ますと、昨年四月に配偶者暴力防止法が成立しました。しかし、この法律ができる前は、夫から大変な暴力を受けて一一〇番して警察に来てもらっても、警察は、何だ、夫婦げんかかと言ってすぐ引き揚げてしまうというのが普通でした。この法律で夫婦間の暴力は犯罪であるということが明記されたわけで、その意義は大変大きいと思います。
しかし、正直言って内容的にはまだまだ不十分だと思います。例えば保護命令も、六か月間の接近禁止命令、二週間の退去命令ではほとんど実効性があるのかという疑問があります。何よりも、夫の暴力から逃れてきた女性たちのシェルターが公的にほとんど整備されていないということです。
また、児童虐待防止法も制定されましたが、虐待された児童の心身ともの回復のための措置、あるいは虐待した親に対する指導やカウンセリングについても具体策が講じられていないのが現状です。
こうした現状を見るとき、一つは、配偶者暴力防止法や児童虐待防止法をもっと早く制定されるべきだったというふうに思います。そしてまた、実効性のある法律に早く改めるべきだというふうに思います。ハンセン病患者の隔離政策を法律的に支えてきたらい予防法は一九九六年三月まで廃止されなかったわけですが、こうした人権侵害を許す立法があれば、これを直ちに廃止する、そして誤った行政を改めなければならないと思います。
一方で、国民の人権を守るための実効性のある法律を制定し、それにのっとった行政をする義務が政治にはあると思うのです。政治にかかわる者がこれに消極的だったということが国民の中での人権意識の定着を妨げてきたということも言えるのではないでしょうか。
次に、環境権、知る権利、プライバシー権等の新しい人権について憲法に明記するために憲法を改正すべきだという意見がございます。
私は、環境権については、公害訴訟の中で、憲法十三条やあるいは憲法二十五条の具体例として主張され、現在では判決等でも確立されてきていると思います。しかし、考えてみますと、こういう環境権という考え方は公害反対運動の中で作られたもので、それは、高度成長期の企業の十分な安全・公害対策を取らない、それについて放置してきた政治の中で反対運動として起きてきたわけですが、本来、政府はもっと早い時期に憲法の立場に立って公害をきちんと規制する諸立法を制定すべきだったというふうに思うわけです。
ところで、憲法は普遍的、網羅的なものです。個々具体的なものは諸立法、諸政策で、諸行政で実現するものです。憲法を具体化する立法を怠ってきた自らの責任を棚に上げて、憲法に環境権の規定がないのは憲法に欠陥があると言うのは本末転倒だと思うのです。環境権を保障する姿勢があるのであれば、環境基本法などにも環境権という言葉をきちっと明記すべきだというふうに思うわけです。
また、知る権利やプライバシー権ですが、これも言葉としては憲法には書かれておりませんけれども、憲法から当然認められる権利です。
ところが、現在国会に上程されている個人情報保護法を見ますと、取材の自由や報道が著しく制限され、そのために国民の知る権利が大きく侵害される、そういうふうな危険性があります。憲法を改正して知る権利を明記するということよりも、知る権利を侵害するこのような法律を作らないことこそが必要なのではないでしょうか。
確かに、昔では問題にされていなかった人権問題が新しく提起されてくることは当然です。本当にすべての人々の人権が保障される社会にするには、次々と多くの人権課題が出てきますけれども、それは憲法の原点に立ち戻れば必ず解答が出せると思います。憲法が不十分なのではありません。憲法が時代後れなのでもありません。憲法に合わせた政治をすることこそが大事なのではないでしょうか。
最後に、私は、今、国会に上程中の有事三法案について触れたいと思います。
この法案は、国民の人権保障という点からも大変な問題点を持っています。大きく言えば、憲法がその前文において平和のうちに生存する権利を有することを確認しているわけですが、この平和的生存権を根っこから侵すものだというふうに思います。
また、具体的に言えば、武力攻撃事態法では、必要最小限という限定付きではありますが、国民の自由と権利が制限される場合があることを明確に規定しています。国会での政府答弁によりますと、公共の福祉のためには集会や報道を制限することもあり得ることが明らかになっています。また、国民にも協力義務があるとされているわけで、戦争に信念を持って協力できないというそういう人がいた場合に、やはりその人の思想、良心の自由が奪われる可能性もあります。
このように、憲法上の権利や自由を侵害する、実質的に憲法を骨抜きにする法律を作ることは、日本国憲法について広範かつ総合的な調査を行っている先生方の御努力をないがしろにするものではないでしょうか。こういう姿勢そのものが問われなければならないというふうに思うのです。
憲法を改正するより、憲法を日常生活に生かす、憲法を政治の指針とすることの方が大事だということを最後に強調をして、私の意見を終わりたいと思います。
どうもありがとうございました。