憲法調査会公聴会

2002-05-15 参議院 全172発言

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会議録情報#0
平成十四年五月十五日(水曜日)
   午前九時開会
    ─────────────
   委員の異動
 五月九日
    辞任         補欠選任
     又市 征治君     大脇 雅子君
    ─────────────
  出席者は左のとおり。
    会 長         上杉 光弘君
    幹 事
                市川 一朗君
                加藤 紀文君
                谷川 秀善君
                野沢 太三君
                江田 五月君
                高橋 千秋君
                魚住裕一郎君
                小泉 親司君
                平野 貞夫君
    委 員
                愛知 治郎君
                荒井 正吾君
                景山俊太郎君
                木村  仁君
                近藤  剛君
                斉藤 滋宣君
                桜井  新君
                陣内 孝雄君
                世耕 弘成君
                中島 啓雄君
                中曽根弘文君
                福島啓史郎君
                舛添 要一君
                松田 岩夫君
                松山 政司君
                大塚 耕平君
                川橋 幸子君
                北澤 俊美君
                小林  元君
                角田 義一君
                直嶋 正行君
                堀  利和君
                松井 孝治君
                柳田  稔君
                高野 博師君
                山口那津男君
                山下 栄一君
                宮本 岳志君
                吉岡 吉典君
                吉川 春子君
                田名部匡省君
                松岡滿壽男君
                大脇 雅子君
   事務局側
       憲法調査会事務
       局長       桐山 正敏君
   公述人
       弁護士      杉井 靜子君
       全国生活と健康
       を守る会連合会
       事務局長     辻  清二君
       歯科医師     柳  時悦君
       都留文科大学教
       授        横田  力君
       桃山学院大学大
       学院教授     徐  龍達君
       主婦       福島依りん君
       早稲田大学大学
       院生       柳原 良江君
       神奈川肢体障害
       者団体連絡協議
       会会長      前田  豊君
        (前田公述人陳
         述補佐人   薗部 英夫君)
    ─────────────
  本日の会議に付した案件
○日本国憲法に関する調査
 (基本的人権
 —私たちにとっての人権)

    ─────────────
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上杉光弘#1
○会長(上杉光弘君) ただいまから憲法調査会公聴会を開会いたします。
 日本国憲法に関する調査を議題といたします。
 本日は、「基本的人権」のうち、「私たちにとっての人権」につきまして、お手元の名簿の八名の公述人の方々から御意見を伺います。
 午前は、弁護士杉井靜子君、全国生活と健康を守る会連合会事務局長辻清二君、歯科医師柳時悦君及び都留文科大学教授横田力君、以上四名の公述人の方々に御出席いただいております。
 この際、公述人の方々に一言ごあいさつを申し上げます。
 本調査会は、本年四月から「基本的人権」について調査を開始したところでございますが、本日は、「国民とともに議論する」という本調査会の基本方針を踏まえ、現在、我が国が置かれている国際化、情報化、高齢化の進展など、大きな変化の流れの中で、憲法と人権の在り方についてどのように考えるべきなのか、人権の保障を一層確かなものにするため何が必要なのか、公述人の方々から幅広く忌憚のない御意見をお述べいただき、今後の調査に反映させてまいりたいと存じますので、よろしくお願いをいたします。
 議事の進め方でございますが、まず公述人の方々からお一人十五分程度で順次御意見をお述べいただきまして、その後、各委員からの質疑にお答えいただきます。
 なお、公述人、委員ともに御発言は着席のままで結構でございます。
 それでは、まず杉井公述人にお願いいたします。杉井公述人。
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杉井靜子#2
○公述人(杉井靜子君) 私は、女性や子供や障害者など、ハンディを負っていたり弱い立場にある人の人権が本当に守られる社会こそ、すべての人々の人権が守られる社会だと思っていますが、長年弁護士として仕事にかかわってくる中で痛感することは、様々な差別や人権侵害がある中で、とりわけ女性や子供の人権が十分に保障されていないことです。
 妻に対する夫の暴力については、数多くの離婚事件で見聞してきました。夫から包丁を突き付けられ命からがら逃げてきた母子が、行くところもなく相談に来たということもありました。
 昨年扱った事件では、六十三歳の女性ですが、夫から包丁の入った箱をぶつけられ、それが目に当たって片目を失明し、その前にも夫の暴力によって足が不自由になっている、そういうふうな女性がやっとの思いで家を出て姉のところに身を寄せ、とにかく離婚さえできればということで私のところに相談に来ました。この女性は四十年間も夫の暴力に耐えていたのです。家を出ても行き場がなかったからです。姉のところに身を寄せられたのは、姉の夫が亡くなって一人になったという事情でありました。夫は七十三歳で、妻の厚生年金を当てにしているので、離婚になかなか応じなかったのですが、何とか調停で離婚できました。
 ところで、離婚事件を扱っている中でよく耳にする夫の言葉は、例えば深夜に夫が帰ってきて妻にセックスを迫る、そのとき、妻が今日は疲れているからやめてというふうに断ると、夫が何と言うかというと、だれに食わせてもらっていると思っているのかとどなるわけです。この言葉、この言葉に妻は愕然とするわけです。妻はこの言葉に自分の人格と人間性を、人権を否定されたと実感するわけです。このときに妻は離婚を決意します。また、ある夫は裁判で、暴力を振るったことについて、妻が自分の言い付けを守らなかったからだと平然と言ってのけました。
 しかし、どんなに暴力を振るわれ、暴言を吐かれ、望まない性交渉を求められても、経済的に自立できない妻はなかなか離婚もできないのです。子持ちの中高年の既婚女性には正社員で就職する口はほとんどありません。パートで月七、八万の収入ではとても親子では生活できない、自立できない、そういう現状があります。
 児童虐待も今日では大きな社会問題になっていますが、まだまだ氷山の一角で、深刻なケースが山積していると思います。私は、一九八〇年当時、日弁連の親権と子どもの人権に関する調査研究委員会の委員をやっていましたが、この調査研究委員会に養護施設関係者から親による児童虐待のケースの申立てがございました。余りにもショッキング過ぎて、にわかには信じられない気持ちでした。しかし、一九八三年には厚生省の報告書が出たり、その他の調査をする中で、改めて本当に親による子供の虐待があるのだということを確認したわけですが、身体的暴力に加え、近親相姦にも当たる性的な暴行も含めて、加害者の圧倒的多数が実は実の父母なのでした。
 もちろん、児童虐待の背景には、様々な社会的要因、経済的な貧困の問題やあるいは子育ての知恵が伝承されていない、地域からも孤立している家庭、そういう中での親の育児不安、そういう問題があるわけですが、それにしても、虐待についてしつけのためにやったと言う親が大変多いこと、そして、煮て食おうと焼いて食おうと、おれの、親の勝手ではないかというふうな言葉の中に、子供を一人の人間として見ていない、子供は親の所有物だといった間違った親権者意識があることも感じました。
 このような我が国の現状を見るにつけ、私は、この国にはまだ人権思想が国民の意識の中に定着し切れていない、つまり血肉化されていないことを感じるわけです。憲法では、すべての国民の法の下の平等、また二十四条では家庭生活での男女の平等、十三条では個人の尊重をうたっています。憲法が目指しているのは、自分も他人も一個の人権として人間としての価値は変わらずみんな平等なのだという人権思想ですが、それがまだ十分に国民の中に定着し切れていないと思うのです。
 そして、この定着し切れていない原因の一つに、私は政治の責任を痛感します。つまり、憲法では今述べたような自由や権利が保障されているわけですが、その憲法を具体化する立法、行政を積極的に進めることが政治の責任だというふうに思うのですが、それがなかなか十分ではなかったと思うわけです。御存じのように、憲法は最高法規であり、すべての公務員には憲法遵守義務があるわけでして、この憲法を具体的に政治に生かす、そういう義務が公務員にはあるというふうに思うわけです。
 例えば、妻への夫の暴力の問題について見ますと、昨年四月に配偶者暴力防止法が成立しました。しかし、この法律ができる前は、夫から大変な暴力を受けて一一〇番して警察に来てもらっても、警察は、何だ、夫婦げんかかと言ってすぐ引き揚げてしまうというのが普通でした。この法律で夫婦間の暴力は犯罪であるということが明記されたわけで、その意義は大変大きいと思います。
 しかし、正直言って内容的にはまだまだ不十分だと思います。例えば保護命令も、六か月間の接近禁止命令、二週間の退去命令ではほとんど実効性があるのかという疑問があります。何よりも、夫の暴力から逃れてきた女性たちのシェルターが公的にほとんど整備されていないということです。
 また、児童虐待防止法も制定されましたが、虐待された児童の心身ともの回復のための措置、あるいは虐待した親に対する指導やカウンセリングについても具体策が講じられていないのが現状です。
 こうした現状を見るとき、一つは、配偶者暴力防止法や児童虐待防止法をもっと早く制定されるべきだったというふうに思います。そしてまた、実効性のある法律に早く改めるべきだというふうに思います。ハンセン病患者の隔離政策を法律的に支えてきたらい予防法は一九九六年三月まで廃止されなかったわけですが、こうした人権侵害を許す立法があれば、これを直ちに廃止する、そして誤った行政を改めなければならないと思います。
 一方で、国民の人権を守るための実効性のある法律を制定し、それにのっとった行政をする義務が政治にはあると思うのです。政治にかかわる者がこれに消極的だったということが国民の中での人権意識の定着を妨げてきたということも言えるのではないでしょうか。
 次に、環境権、知る権利、プライバシー権等の新しい人権について憲法に明記するために憲法を改正すべきだという意見がございます。
 私は、環境権については、公害訴訟の中で、憲法十三条やあるいは憲法二十五条の具体例として主張され、現在では判決等でも確立されてきていると思います。しかし、考えてみますと、こういう環境権という考え方は公害反対運動の中で作られたもので、それは、高度成長期の企業の十分な安全・公害対策を取らない、それについて放置してきた政治の中で反対運動として起きてきたわけですが、本来、政府はもっと早い時期に憲法の立場に立って公害をきちんと規制する諸立法を制定すべきだったというふうに思うわけです。
 ところで、憲法は普遍的、網羅的なものです。個々具体的なものは諸立法、諸政策で、諸行政で実現するものです。憲法を具体化する立法を怠ってきた自らの責任を棚に上げて、憲法に環境権の規定がないのは憲法に欠陥があると言うのは本末転倒だと思うのです。環境権を保障する姿勢があるのであれば、環境基本法などにも環境権という言葉をきちっと明記すべきだというふうに思うわけです。
 また、知る権利やプライバシー権ですが、これも言葉としては憲法には書かれておりませんけれども、憲法から当然認められる権利です。
 ところが、現在国会に上程されている個人情報保護法を見ますと、取材の自由や報道が著しく制限され、そのために国民の知る権利が大きく侵害される、そういうふうな危険性があります。憲法を改正して知る権利を明記するということよりも、知る権利を侵害するこのような法律を作らないことこそが必要なのではないでしょうか。
 確かに、昔では問題にされていなかった人権問題が新しく提起されてくることは当然です。本当にすべての人々の人権が保障される社会にするには、次々と多くの人権課題が出てきますけれども、それは憲法の原点に立ち戻れば必ず解答が出せると思います。憲法が不十分なのではありません。憲法が時代後れなのでもありません。憲法に合わせた政治をすることこそが大事なのではないでしょうか。
 最後に、私は、今、国会に上程中の有事三法案について触れたいと思います。
 この法案は、国民の人権保障という点からも大変な問題点を持っています。大きく言えば、憲法がその前文において平和のうちに生存する権利を有することを確認しているわけですが、この平和的生存権を根っこから侵すものだというふうに思います。
 また、具体的に言えば、武力攻撃事態法では、必要最小限という限定付きではありますが、国民の自由と権利が制限される場合があることを明確に規定しています。国会での政府答弁によりますと、公共の福祉のためには集会や報道を制限することもあり得ることが明らかになっています。また、国民にも協力義務があるとされているわけで、戦争に信念を持って協力できないというそういう人がいた場合に、やはりその人の思想、良心の自由が奪われる可能性もあります。
 このように、憲法上の権利や自由を侵害する、実質的に憲法を骨抜きにする法律を作ることは、日本国憲法について広範かつ総合的な調査を行っている先生方の御努力をないがしろにするものではないでしょうか。こういう姿勢そのものが問われなければならないというふうに思うのです。
 憲法を改正するより、憲法を日常生活に生かす、憲法を政治の指針とすることの方が大事だということを最後に強調をして、私の意見を終わりたいと思います。
 どうもありがとうございました。
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上杉光弘#3
○会長(上杉光弘君) ありがとうございました。
 次に、辻公述人にお願いいたします。辻公述人。
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辻清二#4
○公述人(辻清二君) 今紹介いただきました、私、全国生活と健康を守る会連合会の辻と申します。
 まず最初に、この意見陳述の機会を与えていただいた皆さんに心よりお礼を申し上げます。
 私の意見陳述は、配付いただいた、「国民の命と医療を受ける権利を守るため、国民健康保険制度の改善を」とのレジュメに沿い、資料も引用しながらお話しさせていただきます。
 まず最初に、今国保はなぜ滞納者が増えるのかについてです。
 国民健康保険制度は、国民だれもがお金の心配なく医療を受けることができる国民皆保険の基幹的な制度として発足をしました。この間の国保をめぐる特徴は、不況などによるリストラと失業や企業倒産、高齢化の進行などにより国保に加入する世帯が急増しており、ますます国保の果たす役割が大きくなっているというふうに思います。
 全国商工団体連合会の調査によると、中小業者は経営難や病気を苦にした自殺が六割を占め、六割以上の業者が健康診断で異常と指摘されています。中には、企業側が経費節減のために政府管掌の健康保険をやめて従業員に国保の加入を勧めるところさえあります。
 さて、この十年間で国民健康保険税・料を滞納する世帯が百五十三万世帯も増え、平成十三年度では三百九十万世帯にも達しています。三百九十万世帯というのは、国保の加入世帯の二割近い、一八%にもなります。こうした滞納は、借金をしてまで払わざるを得ない人がいるように、個々の国保加入者の努力を超えて納め切れない国保税・料の実態によるものです。
 その第一は、健康保険などと比べて国保税・料の負担率が高いことがあります。負担率とは加入世帯の年間所得に対する負担率のことです。九八年度の厚生労働省の資料を基に計算をすると、負担率は、健康保険組合で平均四・二%、政府管掌の健康保険で六・二%、国民健康保険で八・六%となり、国保は健康保険組合の二倍以上の負担率になります。
 第二に、国保の加入者の大半は低所得者であり、低所得者ほど滞納世帯が多いことです。徳島市の統計によると、滞納世帯の七三%が年間所得が百万以下になっています。
 第三に、厚生労働大臣が定めた生活保護基準以下でも極めて高額の国保税・料が掛かってくることです。福岡県春日市で私たちの組織が試算したところ、五人家族のある世帯では、年間所得が生活保護基準の六二%にも満たないのに、国保税が年間三十万円以上になっています。
 次に、大きな第二の問題は資格証明書発行の問題点についてです。
 御承知のとおり、二〇〇〇年四月より国民健康保険法が改定され、国保税・料を一年以上滞納した世帯に対して資格証明書の発行が原則義務化されました。資格証明書を発行された世帯は、いったん窓口で医療費の十割を支払った上で、後日、市区町村など保険者に七割の保険給付分を請求することになります。平成十三年度で資格証明書が発行された世帯は全国で十一万世帯となっています。
 その問題点の第一は、患者の受診抑制を引き起こし、医者に掛かれない事態が広がっていることです。全国保険医団体連合会の試算によると、平成十二年度で資格証明書の発行世帯が一番多い福岡県では、資格証明書が交付された被保険者の受診率は一般の被保険者の百三十七分の一にもなっています。
 第二に、受診抑制が進み、札幌市などで手後れで死亡する事件まで起きています。
 札幌市では、一万世帯を超える世帯に資格証明書が発行され、発行件数は全国平均の七倍以上になっています。そうした中で、昨年十一月、資格証明書が交付された豊平区の男性が救急搬送先の病院で二時間後に死亡する事件が起きました。その直後、札幌市の北区でも同様の悲劇が起き、ある男性が腹痛で耐え切れず、受診したときには既に胃がんが末期まで進行し、入院二か月後の今年二月初めに死亡をしました。
 二人の死亡した男性は、不況などの被害で国保税・料を滞納し、医者に掛かるまで命を削って必死に働き続けざるを得ませんでした。豊平区の男性の奥さん、お姉さんは、何で死ぬときしか病院に掛からなかったのと変わり果てた弟をしかり、絶句したとのことです。北区の男性の奥さんは、資格証明書で保険証がないために、実は今朝、病院の玄関先でも受診しようかどうか足が止まりましたと話しておられます。命を守るべき国保が命を奪うものになっています。
 次に、短期保険証の問題についてです。
 正規の保険証は市区町村で一年や二年の有効期限を決めて発行しています。二〇〇〇年四月より国民健康保険法施行規則が改定され、保険税・料の滞納を理由に、正規の保険証の有効期限よりも短い短期保険証を市町村が発行できるようになりました。全国的には加入者全体の三%を超える六十九万世帯に発行されています。短期保険証の有効期限は、市区町村が三か月とか六か月などの期限を定めています。
 この問題点は、滞納せざるを得ないそれぞれの世帯の実情も考慮されずに、国保税・料の滞納額に応じて保険証の期限が決められ、強引な保険税・料の取立てがされていることです。また、期限が切れた場合は資格証明書を発行する自治体があるなど、資格証明書の発行とつながっていることです。
 例えば、福岡県北九州市では一か月の短期保険証を発行しています。ある左官の仕事をしておられる方は、毎月一万円ずつ国保料を支払い、四年以上にわたって一か月の短期保険証となっています。この方は、短期保険証の期限が毎月切れることから、急に具合が悪くなったときは我慢して病院に行かないこともあるようです。
 もう一つの問題点は、短期保険証に赤枠や赤い字でマル短の表示をしている自治体があることです。
 私たちの調査では、この間、大阪市や新潟市、青森市などで、人権上問題があるとこの表示をやめました。しかし、今でも福島市や熊本県水俣市、福岡県頴田町、愛知県蟹江町などで、まだこうした表示のある短期保険証が発行されています。この表示は一目で滞納者と分かり、プライバシー保護に反する人権侵害に当たるものです。子供たちが修学旅行などに短期証を持参した場合、いじめの原因にもなりかねず、子供たちも含めて差別を作り出すものです。
 最後に、憲法に照らして、私は国保行政を改善することを求めるものです。
 第一に、短期保険証の赤枠、マル短の表示を即刻中止すべきです。大阪府は昨年三月に、平成十三年度からはこのような取扱いは不要であるとして、赤枠、マル短の表示をしないように各市町村に通知をしています。厚生労働省が全国的な実態も調べ、こうした表示をなくすよう必要な措置を取るべきだと考えます。
 第二に、憲法十三条や十四条に反する資格証明書や短期保険証の発行は中止すべきです。国保税・料を払いたくても払えない人が医療を受けられないということがあってはなりません。
 憲法十三条は、「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」と定め、第十四条は、「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。」と定めています。
 国保税・料を納め切れずに滞納したことを理由に、生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利が侵害されてはなりません。一部の人に期限を切った短期保険証は国民の中に差別を持ち込むもので、法の下に、法の下の平等に反するものです。
 第三に、憲法二十五条に基づき、国の責任で、払いたいと願っている国保加入者の願いにこたえて国民健康保険税・料を是正することです。
 二十五条は、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」と定めています。
 国連人権規約A規約の第十二条は、あらゆる人は達成可能な最高水準の心身の健康を享有する権利を持つことを認めることを世界各国に求めています。
 滞納者が増大した大きな原因は、国が一九八四年に医療費の国庫負担を四五%から三八・五%に引き下げたことにあります。
 二十五条の規定により、生活保護費や健康保険の傷病手当などは税金は掛かりません。また、所得税や住民税の課税最低限があります。国は健康で文化的な最低限度の生活に食い込む国保税・料を是正し、値下げの措置を取るべきであり、以上の点を申し上げて、私の意見陳述を終わらせていただきます。
 どうもありがとうございました。
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上杉光弘#5
○会長(上杉光弘君) ありがとうございました。
 次に、柳公述人にお願いいたします。柳公述人。
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柳時悦#6
○公述人(柳時悦君) 皆さん、おはようございます。柳時悦と申します。私は、日本生まれ、日本育ちの在日韓国人二世でございます。
 今日、このような場所で私に意見陳述させていただく機会を与えていただいたことを、まず最初に御礼申し上げます。
 一番最初に私が主張したいことは、日本には日本国憲法という立派な憲法があり、そこでは基本的人権が尊重されるようにうたわれております。また、日本は国際人権規約にも加入し、国連難民条約も批准し、そして最近では差別撤廃条約も批准しました。しかし、これらの差別を反対するすべてのものも、外国人に対しては外国籍であるということを理由に、正当に、差別が行われているという状況にまず最初に不満を述べるものでございます。
 さて、現在、私と同じような特別永住者は日本に約五十一万人居住しているわけでございますが、その在日が存在する理由については、皆さんも御存じかと思いますが、それは日本の植民地支配と戦争遂行政策によるものでございます。つまり、徴用や自由募集、官あっせん、徴兵といったようなことによって炭鉱、鉱山、建設現場にと労務動員されたわけでございます。あるいは、軍属として連行されたものでございます。
 一九四五年、終戦の時点におきまして約二百万人の在日がいましたが、百五十万人は祖国へと帰還しました。そして、五十万人が残ったわけでございまして、それが現在の特別永住者となっているわけでございます。このことが、私が主張したい、一般外国人とは違った処遇を私たちには与えるべきではないかという主張の根拠なわけでございます。
 一九四五年、終戦から一九五二年のサンフランシスコ講和条約発効までの間、私たちは、時には日本人として、時には外国人として、その場の都合によって取り扱われてまいりました。しかし、サンフランシスコ講和条約発効後、日本が独立した以降、私たちは完全に外国人として日本国憲法に言う国民の享有する諸権利からすべて排除されたわけでございます。
 国籍の回復は在日にとっては植民地侵略被害の回復とはならず、新たな迫害の歴史の始まりであったわけでございます。これ以降、私たちは、差別との闘い、いや、侮べつとの闘いでございました。
 どのような闘いがあったかを多少紹介させていただきます。
 居住権の問題、就職差別の問題、それは民間企業とか公務員とかでございます。それから、社会保障、福祉の差別の分野、そして国籍条項という大きな壁の問題でございます。
 具体例を挙げますと、日立就職差別事件、司法修習生採用事件、国公立大学教授任用問題、国公立小中高教員採用、教諭か常勤講師かという問題、国民健康保険加入問題、公団・公営住宅入居問題、国民年金問題、児童手当問題、電電公社職員受験拒否問題、公務員の国籍条項、東京都管理職受験拒否問題、その他、一般的には昔の話ではありますが、生命保険の加入だとかクレジット販売、銀行の融資、指紋押捺、こんな問題を闘ってまいりました。
 これに対して、日本の行政の対応はどんなものでありましたでしょうか。私たちの差別を放置し、むしろ正当化する姿勢でございました。そして、その正当化の論拠というのは当然の法理というものでございます。この当然の法理が私たちの差別をシステム化したのでございます。
 当然の法理とは、公の意思形成に参画し、あるいは公権力の行使に関するものは外国人は駄目だと。そして、将来、それに対する、それに就く可能性のあるものも駄目だということでございました。
 四百万人という安定した職場から在日は完全に排除されてきました。これは、在日を圧迫し、排除か同化をさせるという姿勢が歴然としたものだと思います。在日そのものを存在からなくそうというもの、それは、極端な言い方をすれば、抹殺と同じ意味ではないでしょうか。
 そして、これらを支える日本人の意識について述べたいと思います。
 日本人は単一民族主義というものを持っておりまして、それが排外的ナショナリズムへと結び付き、元々、植民地時代の侮べつ意識があったものが相まって、差別が平気な状態になっておるわけでございます。また、違う角度から見ますと、経済繁栄による一国繁栄主義的な傾向により、自分さえ良ければよいという傾向が強く、外国人に対する問題など軽視してしまう状態があるわけでございます。
 私たちは、これらの状況との闘いの中で現在はどのような状況にありますかと申しますと、一九七九年国際人権規約加入、あるいは一九八一年の国連難民条約の批准により、多くの差別は改善されたことは事実です。これは、国籍条項が居住条項へと変わったことによるものです。しかし、これは在日の努力に対しての答えではなく、日本の国際的要因によりこれを改善したという、非常に私たちからすれば残念な状況でございます。
 現在、それでも私たちはまだ、マンションを借りるとき必ず断られます。警察に何か言ったとき本名を言うと、外国人だということで外登証を一々提出を求められます。出自を隠さなければならない状況がまだございます。名前を、日本名を使いながら生きなければならない。そして、子供たちは将来の職業選択の自由がございません。大変狭い範囲でしかございません。
 私たちは、基本的人権の確立と住民としての認知のために何をすればいいかという問題が最近になって絞られてきました。それは、地方参政権の問題、それを獲得すること。そして、公務員就任権の国籍条項、当然の法理、これを撤廃してもらうことが私たちの的を絞った闘いとなってきました。これらが改善されると、より困難な問題、つまり意識上の差別についても効果的な影響が出ると確信しております。
 幸い、最近になって、最高裁の判決、九五年、地方参政権における最高裁の判決がございました。それによりますと、外国人に地方参政権があってもそれは憲法違反ではない、立法の問題だというふうに指摘されております。是非とも皆様の対処をお願いする次第でございます。
 そしてもう一つ、公務員就任の問題におきましては、都庁国籍差別・任用差別撤廃訴訟において、東京高裁で、当然の法理の無原則的な適用に歯止めが掛かりました。公務員採用の国籍条項が地方公共団体の裁量の範囲として撤廃されることと憲法上の保障が及ぶ範囲として撤廃されることでは隔絶した違いがあります。憲法上差別が許されない一線が示された今後の影響は、大変大きなものがあると思っております。是非とも立法の場できちっとした対処をしていただければと思います。
 そのほかにも細かいことを言えば、戦後補償問題。戦傷病者戦没者遺族等援護法、これが国籍をもって、国籍条項によって排除されてきました。これを受けられない問題、これも解決していただきたいと思います。また、国民年金。一九八二年に国民年金法の改正時に、つまり外国人も入れるようになったときの経過措置の不備のため、老齢年金、障害年金に差別が残っています。在日のお年寄りたち、若い人に面倒を見てもらえる人はまだましですが、そういう人でない人たちの生活の困窮さを思い浮かべていただきたいと思います。
 以上からしまして、日本社会は、今まで在日側からの国籍差別に対する抗議を受けた範囲で、やむを得ない場合にのみこれを最小限是正するという姿勢でございました。これを改めてもらいたいと思います。
 私たちは今まで司法によってしか救われてこなかったのでございます。今日、政治主導で積極的に在日韓国・朝鮮人、また外国人を日本社会に受け入れ、基本的人権を守り、ともに生きる住民として認知する政策を整備してもらいたいのでございます。さっき述べた二つの判決に対して、政治によって政策化していただきたいのでございます。
 基本的人権、職業選択の自由、幸福追求の権利、平等原則が結果として実現されるためには地方参政権が必要でございます。しかし、地方参政権の意義はそれにとどまるものではありません。マイノリティーに対しても人権を尊重し、生活者としての住民、市民を尊重し、互いに異なった者同士が他方を排除し若しくは吸収するのではなく、互いを必要とし必要とされる共生社会を築き上げるという理念や価値観を尊重すべきではないでしょうか。それが二十一世紀の価値観だと確信しております。
 現在、世界では、民族、宗教、地球環境問題、貿易摩擦、その他様々の次元で相異なった人たちが非人間的な争いを展開しています。こういった争いを解決する道は、相異なる人たちがともに同じ社会を形成し、排除したり抹殺したり同化するのではなく、ともに相手を必要とし必要とされるような共生社会の実現、こういった理念の普及しかこの問題を解決する道はないと思います。
 最後に、歴史的経緯を持った在日に対して、日本人か外国人かというような処置とは違った処遇を是非ともお願いしたいと思います。
 しかし、それは一般外国人に対しても必ずいい影響があると信じています。九二年のときに私たちの指紋押捺が撤廃が実現したとき、それから約七、八年たった九九年には一般外国人にも指紋押捺が廃止されたのでございます。このようにして、在日に対するきちっとした政策は在日以外の一般外国人にも必ずいい影響があると信じております。
 皆様の御協力をお願い申し上げまして、私の陳述を終わらせていただきます。
 ありがとうございました。
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上杉光弘#7
○会長(上杉光弘君) ありがとうございました。
 次に、横田公述人にお願いいたします。横田公述人。
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横田力#8
○公述人(横田力君) おはようございます。
 このような機会に憲法に関しまして私見を述べさせていただく場を提供していただきましたことを皆様に厚く感謝申し上げます。
 今、三人の先生方の公述内容を伺っておりました。これらを通じまして、一つ見えてきた点があります。したがいまして、レジュメに必ずしも即応するという形を取りませんが、お話をさせていただきたいと思います。
 一つ、これは皆様方が強調していた点、まず人らしくあるいは人間らしく生きるということ。憲法の言葉で言いますならば、これは二十五条に規定されておりますような生存の自由ないしは文化的な人間らしい生活を確保するという、このような権利の問題だと思います。それともう一つは、それらが平和の中で実現されること、平和の中で生きること。国家の戦争行為によってこの生きるということが否定せられるところに人権の存立根拠はないと、このように今の御意見の中からうかがい知るところです。さらに、その生き方の問題としてもう一つの条件が課せられております。それは何かといいますと、共生ということです。皆が差別されることなく、皆が平等に、そして皆が相携えてお互い同士の仲間として生きていくこと。
 この三つが今、憲法の課題として、あるいは憲法を論議する場合に求められていることではないでしょうか。
 もう一度確認いたします。人間らしく生きるということ、それは平和の中で初めて実現するということ、そしてそこに差別があってはならないということ、この三つが我々がここで討議の対象としている日本国憲法の中にどのように体現されているかということを考えてみたいと思います。
 まず、本題の中に、まず第一章としまして、憲法の類別ということに言及したいと思います。どのような世界の流れの中で憲法のパターンないしは種別があるかということを考えてみたいと思います。時宜に応じて資料に目を通してください。
 そこには、アメリカ、そしてイギリス、更にフランス、ドイツという主要先進国の四つの憲法体系をそれなりになぞらえたものがお手元にあるかと思います。その中で、一番最初に、日本国憲法及び日本国憲法が否定してきた、あるいは負の遺産として我々国民を今でも縛っている側面があると思われるような大日本帝国憲法、言葉が非常に硬いですけれども、それを添付してあります。
 それを見取図的に見ますと、世界憲法の流れというのは、大きく分けたとき、二つの流れから成っていると、こう考えられると思います。
 それは、一つには西欧型憲法と言われるものですね。言葉を憲法政治に置き換えてみますと、それは西欧型立憲主義と考えていいでしょう。いかなる意味において西欧型立憲主義と言われるか。
 そこにフランス人権宣言という文言が出ております。非常にこれが象徴的な、もう七月ですから、七月にいよいよパリ祭を迎えますね。一七八九年にパリにおける反乱が革命へと転化し、その中から憲法制定議会、最初は革命評議会と言っていましたけれども、そこから約一か月、八月の末日にこの人及び市民の権利宣言という文章が確認され、採択されたものです。
 そこに人権を何となぞらえているかといいますと、前文の三行目ですね、初めから要するに三番目のラインです、人の譲り渡すことのない神聖な権利ということ。譲渡不可能ということですね。一般の民法上の権利等々が同意を介するならば譲渡は当然とされる。しかし、これが、人の権利である、正にヒューマンライトであるということは何を意味するかといったときに、承認があろうと同意があろうと、人格を譲渡する、人間性を譲渡することができないんだということを強く訴えていること、ここを確認したいと思います。ライツに対してヒューマンライツの持っている語義の意味ですね、ようようになかなかこれはつかまれないところですけれども、この場において強調したいと思います。
 さらに、同じことは、時効によって消滅することのない権利ということが、第二条、「政治的結合の目的と権利の種類」というところに書かれております。
 これは、政治的結合というのは少し難しい文言ですけれども、言っていることは何かというと、我々が国家を作り、政府を維持し、我々はその国民として団結する、その目的のことを述べているんですね。国家を作り上げる、言わば言ってみれば存在理由です。そこに書かれている根拠として「時効によって消滅することのない」、これもやはりヒューマンライツの大きな特徴、ヒューマンがヒューマンたるゆえんですね。普通の権利というものであるならば、使用しないこと、あるいは行使しないことによって、場合によっては制度によってこれが消滅せられる場合があるということ、これはもう御承知のことだと思います。それに対して、いかに行使しなくても、あるいは行使不可能な状態に置かれていようと、人間である以上、その権利がなくなってしまう、そのようなことはないんだということを確認しているわけですね。
 そしてまた、それらは、次の行ですね、「人の、時効によって消滅することのない」と言いながら、次の文言は「自然的な諸権利の保全にある。」と、こう述べております。自然的というのは、今考えますと何か環境の保全のように聞こえるかも分かりませんけれども、それはもちろんそうではなくて、社会以前、国家以前の我々の立場というものがあるんだ、これをもって国家を作っているんだということを明言しているわけですね。
 ここから見えてくることは、我々にとっての憲法に規定せられる人権というものは、今の三つのフレーズを踏まえた上で、一般の法律ないしは諸命令を根拠付け、なおかつそれらを統合し、そしてそれらに対して正当性の、何といいましょうか、一つの印籠を、お墨付きといいましょうか、それを渡す、そういうシンボルであるということがここで確認されると思います。
 そして、それとの関係では、少しよろしいでしょうか、少し、何といいますか、解釈技術的なことといいますか、文言の、字句の認識について四条、五条というところを見てみましょう。
 そのような自然的自由というものは一体何か。四条で述べていることは、自由とは他人を害しない限りにおいてなし得るすべてのことであると、こう述べておりますね。では、それを受けた第五条、何だろうか、こういいますと、法律が国家制度の下において、あるいは国家制度としての法律が規定することができる範囲というものが書かれております。それは正に他人を害すること、要するに第五条の文言では社会に有害な行為、これしか法律は禁止することができないという、このような言い方ですね。
 したがって、広範な諸自由というものが先ほど述べたような意味でのヒューマンライツとして市民の中に留保されていること、これが近代憲法の一番の里程標と思われるフランス人権宣言の大いなるメッセージであると、このように考えていただきたいと思います。
 そして、更に第六条、そのような意味での法律の形成には、ここで言っていることは、ある場合については代表によって、そしてその前の文言ですけれども、自らという形で、本来であるならば自らが様々な形で参与するということが書かれていること、このような権利を保全したところにフランスが共和制として歩みを進め、現在に至るまでの民主主義国家を作り上げていくところのスタートラインがかいま見えると思います。
 そして、ここで考えていただきたいことは、その前にもある、今、フランスですけれども、その前ですね、これは何ページと言うのがちょっと大変ですけれども、ページ数でいきますと、アメリカですね、第八ページにありますけれども、ほぼ前後してアメリカでは憲法典が制定せられます。ここは非常に、何といいますか、興味深いところでありまして、アメリカ憲法の本文はここで書いておりません。アメリカ憲法の本文は第一条から第七条で非常に短いです。もちろん、中が節に分かれていますから、文章の量としてはありますけれども、条文は非常に短い。それが、今を去ること百十何年前ですか、百二十三年、二十四年、一七八七年に制定せられているわけですね。それがそのままとして現在まで生きている。ただ、この場合の憲法というのは正にコンスティチューション、国家の枠組みだけです。まず第一に連邦議会が来ます。続いて大統領が来ます。司法、そして連邦と州の問題が来ます。等々だけですね。
 ここに私が出した八ページにある文章というのは何かというと、その四年後に大陸会議という独立戦争の後始末をやるために作られた会議の場において採択された条項ですね。なぜ修正というかといったときに、今述べた国家の統治機構のみで憲法を構成していいんだろうか、独立をかち得た母国であるイギリスには権利の章典というものがあるではないか、国家といえども統制してはならないような人権というものをイギリスは確認しているではないか、アメリカはどうするのかといった議論が大陸議会を席巻します。その中から出てきたものが修正第一条から第十条というところですね。これがフランス人権宣言を踏まえた、二年後の、フランス憲法が制定されますけれども、その年と同じです。一七九一年にこの修正条項というものが合衆国憲法における権利の章典として採択されます。
 これをもって、今日、アメリカ合衆国憲法というのは大体三つの文章を指しております。これは、七六年、独立宣言ですね。そして、今お話だけで、お話ししました、公述しました八七年、憲法、統治機構のみですね。そしてもう一つ、九一年の修正条項ですね。これらは今日に至るまで営々と命を長らえてきていること、メンテナンスされていること、ここの持っている重みというものを十分に御理解いただきたい。
 そして、ここにはあると思いますけれども、次のページ、九ページですけれども、十三条から十五条、九ページにありますけれども、この三か条をもって何と言うかといったとき、これをリコンストラクションクローズと、こう述べるわけですね、いわゆる再建条項。合衆国における市民戦争と言われた南北戦争の成果をもって確認したものがこの三か条です。したがって、ここで公民権の平等等々がかち得ているということ。
 ですから、これが制定されてからもう既に百五十年近くがたとうとしている。そして、現在、連邦最高裁等々で違憲法令審査権が一番行使されるときに、バックボーンとして、根拠として最も使われる規定が修正第一条であり、ここの修正第十四条であるということ、これを御理解いただきたい。我が国の憲法の五十年の歴史に対して、人権論という点で見たときに、いかに人権というコンセプトが広い意味合いを持っているのか、ここの言わば枠組みということを次はフランスということになぞらえて考えてみたいんですね。
 フランスにいきますと、十ページですね。もう時間がちょっと迫ってきておりますけれども、十ページ。そして、続いてこれが先ほどの人権宣言ですけれども、十一ページ。これが現行フランス憲法ですね。何と言っているかといったとき、次のように述べています。
 前文だけいきます。前文の二か条ですね。「フランス人民は、一九四六年憲法前文で確認され補充された一七八九年宣言によって定められたような、人権および国民主権の原則に対する愛着を厳粛に宣言する。」、これが今日の第五共和制憲法の大きな柱となっている。
 言いたいことは何かと申しますと、一七八九年人権宣言が明確に第五共和制憲法の主要な部分として確認され、それが今日の憲法院等々の憲法裁判の基準として生きているということ、表現の自由しかり、政教分離しかり、信教の自由しかりです。人権宣言自体はわずか十七か条ですけれども、このような広範性ないしは柔軟性を持った構造にこそ人権論の意味があるということを御理解いただきたい。
 そして、ちなみにフランス第四共和国憲法ですね。いわゆるビシー政権が倒れて、戦後できた新しい憲法ですけれども、そこに述べていることは何なのか。正にここでも第四行目に、前文、フランス人権宣言が引かれている。そして、現在のフランス憲法における人権条項とは、この八九年人権宣言にプラスするところのこの第四共和国憲法前文を意味していること。前文の後半部分には何が書かれているかといいますと、先ほど来出ていた社会権条項ですね。これは二十世紀中葉の憲法ですから、人権宣言は自由権中心主義ですから、社会権あるいは労働基本権、これが欠落している。それがこの前文に入る。こういう中でフランスという国は維持され、発展し、アメリカはまた今日を迎えているということ。
 述べたいことはこういうことです。フランスの場合では様々にレジームが変わる、国家体制が変わる。アメリカもそうである。しかし、人権条項は普遍であるという、ここの持っている意味です。
 そのことは我が国憲法に目を落としていただければ分かると思いますが、第十一条ですね、次のようになっております。「基本的人権の享有」ということですね。長いからこれは全部は読みませんが、「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。」という、このような書き方は正にフランス人権宣言そのもののアイデアをそのまま継承したものである、こう考えられること。
 ちなみに、その後に帝国憲法が書かれておりますけれども、帝国憲法の文言にこのような言い方はない。人、市民、国民、あるいは人間、このような言い方はない。臣民、そしてそれらは法律の範囲内である。国家大権によって抑制せられるものとしてしか人々の地位は保障されていないこと。
 それに対して、十一条を今引き合いに出しましたけれども、さらには九十七条ですね。九十七条、「最高法規」というところですね。第四ページですけれども、ここにあることもほぼ同じことが書かれております。この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であり云々ですね。現在、将来の国民に対して侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。
 このような中で考えたときに、人権というものは、先ほど述べた意味で、一方で生きるということを包摂し、もう一方で共生ということを包摂し、更にはその中に環境の保全も含めたところの生きる我々の自然的なメカニズムも包摂するものとして考えられること。そして、更には平和ということもそれに包摂するものとして考えられること。
 そのような柔軟構造を持った憲法に対して、あえてここに新たな規定を設けるということの意味合いというものは一体何だろうか。運動の中において提起せられた様々な新しい人権、新しい考え方、これらを主張される方々、担い手が、憲法が邪魔である、憲法が桎梏であるがために新たな人権が実現できないで自分たちが不幸をかこっておるという議論は、私は寡聞にしてこれを聞いたことがないのですね。そのことは何か。正に、そういった要求の担い手、運動の担い手の方々に対して、憲法というものが、先ほど述べたようなアイデアとして、フランスあるいはアメリカの市民革命を勝ち得たようなアイデアとしてその人たちの胸に響いているその証左ではないかと、このように考える次第です。
 そういう中で、今日の議論をもう一度ひもといて憲法とは何かというところに置き換えた上で考えてみるのも、ひとつこの場を意義あるものとする先生方あるいは公述人としての我々の役目ではないかと思い、時間ということですから、一応ここでお話は終わりたいと思います。
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上杉光弘#9
○会長(上杉光弘君) ありがとうございました。
 公述人の皆さんの御発言が終わったこの時間で、この際、五分間休憩をいたします。
   午前十時休憩
     ─────・─────
   午前十時六分開会
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上杉光弘#10
○会長(上杉光弘君) ただいまから憲法調査会公聴会を再開いたします。
 休憩前に引き続き、日本国憲法に関する調査を議題といたします。
 これより公述人に対する質疑に入ります。
 質疑のある方は順次御発言願います。
 なお、時間が限られておりますので、質疑、答弁とも簡潔に願います。
 谷川秀善君。
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谷川秀善#11
○谷川秀善君 皆さんおはようございます。自由民主党の谷川秀善でございます。
 公述人の皆さんには、大変お忙しい中お出ましをいただき、またただいまは貴重な御意見を賜りまして、誠にありがとうございます。
 まず、憲法を論じます場合、往々にして、今までは護憲か改憲かという二者択一で論じられる嫌いがありました。今も、現在もそのような状況ではないかと私は認識をいたしております。やっと平成十二年一月に衆参両院において国会で憲法を論じる正式の場ができたわけです。それまでは、何か憲法を論じるというと、国会の中で論じられないような雰囲気があったので、そういう意味ではこの憲法調査会、平成十二年にできたのは非常に私はいいことだというふうに思っておるわけであります。
 改憲論者の側からいいますと、日本国憲法の、改憲といいましても、日本国憲法の原理、根本原理であります平和主義、国民主権主義、基本的人権の尊重、これを否定する人は恐らくだれもいないと思います。また、護憲といいましても、この憲法に明らかに間違いやら時代に合わない規定があるにもかかわらず、一字たりとも手を付けてはいけないと考えている人は私はいないと思うんです。そのような中身のない空虚な択一論争よりも、これからはもっとより具体的な建設的な議論を闘わすべきではないかというふうに私は考えておるわけであります。
 基本的人権の尊重につきましても、尊重することは当然ではありますが、その結果として共同社会での生活対応がきちんとなされているのか、また世界的な人権条項の広がりの中で憲法の定めるべき人権の範囲が今のままでいいのか、また国民主権というならば、その帰結としての重要な問題について国民の意思を問う機会を設けるべきではないかというような、いろいろ論じなければならない課題が数多くあると思っているわけであります。
 憲法上いろいろな問題があるにもかかわらず、現在は解釈で切り抜けていこうというこそくな手段に訴え続ける方が、憲法の軽視、無視を助長し、かえって危険な状態を招くと私は考えておるわけであります。
 この点につきまして、それぞれの公述人の皆さん方、本日は非常に細部の議論を、考え方をお聞かせをいただいたわけでございますが、大きく考えまして、この憲法について、現在の憲法についてどう考えておられるのか。ある程度改正をする必要があるのか、それとも改正しないで今のままでいく方がいいのか。この辺について、それぞれの公述人の御意見をお伺いをいたしたいと思います。
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上杉光弘#12
○会長(上杉光弘君) 皆さんですね。
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谷川秀善#13
○谷川秀善君 はい、皆さんです。
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杉井靜子#14
○公述人(杉井靜子君) 私は、結論的に言えば、憲法は改正する必要はないというふうに思っています。
 先ほども申し上げましたように、憲法というのは非常に網羅的な普遍的なものでありますので、そして、先ほど横田先生からもお話がありましたように、基本的な、長い人権の歴史の中で作られたものですので、いろんな新しい問題が出たときにも、憲法に立ち返れば必ずきちっとした解決が、回答が見いだせるというふうに思っています。それは決して解釈によるこじつけとかということではなくて、やはり憲法をむしろ現実の生活に具体化するという意味での解釈ということが求められるわけでありまして、そのことで足りるというふうに思います。
 以上です。
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辻清二#15
○公述人(辻清二君) 今の質問なんですけれども、私たち全国生活と健康を守る会連合会は一九五四年に結成をされました。その当時から憲法が定める生存権の確立を目指して運動をしてきました。そういう立場から申しますと、私自身は、今の憲法のそれぞれのやっぱり条文が、具体的に一人一人の命や暮らし、人権にきちっと具体化されていない、憲法の条文が一人一人にやっぱり保障されていないという、そういう現実をたくさん見てきました。そういう意味では、憲法と現実の乖離、これをやっぱりどう埋めるかというのが私たちの運動でありましたし、これからもそうありたいというふうに思います。
 そういう点でいえば、私たち自身は、今やっぱり大事なことは、憲法を本当に暮らしに平和にやっぱり生かしていくという、このことが一番大事なことだというふうに思いますし、当然、そういう立場からいえば、今憲法を改正をするという必要は私どもは感じておりません。
 以上です。
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柳時悦#16
○公述人(柳時悦君) 私が先ほど在日のことにるる申し上げましたんですが、本来からすれば、日本国憲法は基本的人権を非常に尊重した、いい憲法の精神を持っておると思います。そういう意味において憲法というのは、理念とか価値観とか、そういうものを表すものじゃないかと思っております。そういう理念とか価値観と、しかし日本社会の現実の乖離、それは在日に対する処遇を見ても表れているんですが、そういうものをどう縮めるかという問題で、そのやり方として憲法を改正するのか、あるいは現在の憲法のままでそれを補う方法があるのか、それは私はどちらでもいいと思います。
 ただ、私が心配しているのは、憲法を改正すべきだという論議そのものが、どういった理念によってそういう論議が今出てきているのか、その辺がよく分からないから心配なんです。本当にこの日本国憲法のすばらしい理念を現実とマッチさせるようなための、そういった考え方に基づく憲法改正の論議であれば、憲法は、いろんな意味で改正すべき点があるならばしてもいいと思いますが、憲法を改正すべきだという論議が出てくる根本が分からないうちは正直言って心配なんです。
 ですから、憲法をそのままにして憲法と現実が乖離した部分をどのように補っていくかというやり方でもいいんじゃないかと思っておりますが、大事なのは理念と価値観だと思っております。
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上杉光弘#17
○会長(上杉光弘君) はい、ありがとうございました。
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横田力#18
○公述人(横田力君) 正に今のお話のとおりだと思いますね。理念の不明確な中での基本法の改正ということはあってはならないこと。
 先ほどのプリントにも、もう少し読めば説明がといいますか付くんですけれども、それぞれの諸外国の憲法というものはほとんど皆、改正限界条項を常に持っているということ。フランスでしたら、民主的、社会的共和国の体制を変えてはならないということ。ドイツでしたら、人格権の発展、あるいは意見表明権、あるいは思想信条の自由等々は絶対に手を触れてはならない。それぞれ皆、コアの部分の価値の部分、これについては絶対のメンテナンスを図るんだという宣言があること。これに対するむしろアンチ、ないしはそれに対する侵害を前提とするような理念に基づいた、ないしは価値観に基づいた改正論議であるならばしない方がいい。言葉は悪いですけれども、ちょっと単刀直入ですけれども。あるいはむしろ、それらについてはよほどのしんしゃくが必要である。そのしんしゃくする中から、あるいはたたき台でもって我々が論議する中から見えてくる様々な本質の部分をやはり国民に開示して、上で議論に転換することが必要であろう。
 それと、もう一点よろしいですか。
 むしろ、これはやはり、今までの憲法の足かせとなってきた例えば教育基本法であるならば、なぜ教育の現場を我々の住民代表が教育委員にならないんだろうか、その他いろいろあると思います。そういった部分、とにかく憲法の原則がゲートで閉められているような、そういった諸法令をまず外してみる。外したときに初めて、本当にそこにリスクが出てくるのか、いや幸せが出てくるのか、これは実験してみていいと思います。
 一応そんなことですね。
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谷川秀善#19
○谷川秀善君 杉井公述人にお伺いをいたしますが、あなたは、憲法改正する必要がない、ただ、憲法はいまだに国民の中に定着をしていないというふうにお考えのようでございますが、なぜ定着をしていないんでしょうか。その辺のところはどうお考えでございましょうか。
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杉井靜子#20
○公述人(杉井靜子君) 先ほども述べましたけれども、私、国民の中に定着してない原因の一つに、政治に携わる人たちがこの憲法を率直に言えば軽視してきた、ないがしろにしてきた、そういう姿勢があるのではないかというふうに思います。
 本当に政治に携わる人たちがこの憲法を尊重し、常に憲法のことを頭に置き、憲法に基づいた政治が行われているのであれば、やはり憲法というのはこれは尊重しなきゃいけないということが国民の中に定着していくわけですけれども、残念ながら、例えば先ほどいろんな事例挙げましたけれども、具体的に憲法を具体化する法律ができていない。あるいはまた学校教育の中で、あるいは社会教育の中で本当に憲法が国民に十分に教えられているかと、学ぶ機会があるかということになると、そこも残念ながら不十分と言わざるを得ません。そういう中で、やはり定着し切れてないという言葉を使いました。全く定着してないということではありません。
 というのは、一方で、国民はいろんな公害反対闘争あるいは環境権の問題、あるいは女性の人権、子供の人権の問題で、あるいは先ほどお話ありました医療の問題や、あるいは外国人の権利の問題でも、それぞれの現場でいろんな人権侵害について憲法を根拠にいろんな運動や闘いをしてきているわけです。そういう意味では、やはり憲法はかなりの部分で定着しつつあるという、これも現実だというふうに思います。
 しかし、それをはっきりと完全にやはり国民の中にきちっとした定着したものにするには、先ほど言ったもう少しやはり政治に携わる者の責任、そういうものが必要ではないかということを感じるわけです。
 以上です。
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谷川秀善#21
○谷川秀善君 まあ、政治家も憲法を守っておると思いますし、国民もまた守らなきゃいかぬと私は思っているわけです。これはお互いさまの話だと私は思いますが。
 ともかく、横田公述人にお伺いをいたしますが、憲法ができまして五十年近くもなりますと、人権条項も社会の変化に対応できなくなってきていると言われているわけです。どのような点にそごが生じているのかということを考えておられますか、それを、これが一点。いわゆる人権条項も社会の変化に対応できなくなっていると言われておるわけです。この点についてどうお考えになっておられるか。
 また、この日本国憲法は国民主権を基本原則といたしておりますけれども、投票によって意見を聞くことができるのは、憲法改正の九十九条と最高裁判所判事の国民審査のこの二項だけですね、いわゆる国民投票によって。だから、私は、原則は国民投票制をやっぱりある程度いろんなところで導入する必要があると私は考えておるわけですよ。これはやっぱり代表民主主義にも矛盾をしないというふうに思っていますが、むしろそれを補完するものであるのではないかというふうに考えておられますか。
 この二点について、横田公述人はどうお考えでございましょうか。
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横田力#22
○公述人(横田力君) まず、十一条から四十条まである三十か条の人権条項はかなり諸外国の憲法に比べましても豊かな内容を持っているわけですね。これを柔軟解釈する、ないしはそれをより主張する側、不幸をかこっている人々の側に立って解釈する余地というのは幾らでもこれはあると思います。
 先ほど述べましたように、この憲法の人権の主人公は、この国家の国民に限定するとか、あるいは先ほど少し言いましたけれども、ある臣民という資格を持った人間たちにのみ限定するとか、そのような修辞句がないわけですね。人であること、市民であること、国民であること、更にそれらの規定を受けた地方自治法は住民であることと、こう言っていますね。であるならば、なぜあえてこの三十か条にわたる豊かな人権条項が現実にミスマッチを起こしているのかというまず論証をしていただきたい。私はその論証が極めて不十分であると思う。これ、前者ですね。
 後者は、もう一度ちょっとお願いできます。はい。
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谷川秀善#23
○谷川秀善君 いわゆる国民投票制。
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横田力#24
○公述人(横田力君) はいはい、分かりました。
 あえて国民投票制ということに踏み込まなくても、先ほどですけれども、先生がおっしゃった中でもう一点ちょっと不足があったんですけれども、これはいわゆる特別地方自治体に関する立法、これについてはその地方自治体の住民投票は必要ですね。これも一つあります。
 ただ、それをおいておいても、レファレンダム等々に見られるような住民投票制というのは、やはり市民生活の現場においてやってこそ初めて意味がある。国政レベルでは、まだそれは距離がある。その意味において、代議制民主主義は、国政において、憲法四十一条を受けたとしましても、これは今の展開で、僕は、私は、さしたる不足ということはない。むしろ、それは政党の在り方、あるいは議会制民主主義における代表システムの在り方、ここにこそ手を付けるべきであって、国民民意は、鏡のように縮図的に代表するような、そういった代表制にできるだけ早く移行すること、これによって十分に政治は国民の声を聞くことができると思います。
 ただし、レファレンダム等は自治体においては是非入れるべき、むしろこれは義務的、拘束的な意味におけるレファレンダムを入れてこそ初めて住民自治というものが確立すると、このように考えます。
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谷川秀善#25
○谷川秀善君 ありがとうございました。
 終わります。
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上杉光弘#26
○会長(上杉光弘君) 次、柳田稔君。
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柳田稔#27
○柳田稔君 民主党の柳田稔でございます。
 四人の公述人の皆様、大変ありがとうございました。
 まずお聞きしたいことは、つい先日、中国の瀋陽におきまして事件が起きました。新聞、テレビで報道されまして、それを見たときに、四名の公述人の皆様、どういう感想というか、お考えをお持ちになったのか、まずお聞かせを願いたいと思います。
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杉井靜子#28
○公述人(杉井靜子君) 私は、もう少し外務省領事館の方がやはり毅然とした態度を取るべきだったんではないかと思いました。
 やはり、もう領事館内に既に人々が入っているということはあのテレビの画面なんかでもはっきりしているわけで、そこに中国の警察が入り込むということはやはりこれは国際法違反でもありますし、そういうことをやはり、領事が、の承認を取ったか取らないかということは別にしまして、そこで漫然と見ていたのだろうかという、そんなふうな疑問があります。
 そこにはやっぱり亡命者の人権を日本国がどうやって守るのかという、その人権の視点がちょっとやはり欠けていたのではないかということが率直な感想です。
 以上です。
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辻清二#29
○公述人(辻清二君) 申し訳ありません。私、あの事件が起きた後ぐらいからちょっと風邪を引いていまして、余りテレビとか新聞とかよく目を通していないので不正確なことを言うかもしれませんけれども、率直なところ、テレビの画像で子供さんが登場してきて、お母さんが連行される場面を見てみて、なぜ、何ていいますか、何か戦前の、何か悪いことしたら連行されるような、そういう場面みたいな感じを、率直なところやっぱりしました。やっぱりそこには、今、杉井さんもおっしゃったように、一人一人のやっぱり人権というか、やっぱり自由に一人一人が自分の生き方を決める権利、こういうものに対する温かい、そしてそれを保障する、そういうところが欠けているのかなということを率直に感じたところです。
 ちょっと不正確な面があるかもしれませんけれども、私の感想は以上です。
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