阿部正俊の発言 (本会議)

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○阿部正俊君 本院議員今井澄先生は、平成十四年九月一日、胃がんのため長野県茅野市の御自宅で逝去されました。享年六十二歳でありました。誠に痛惜哀悼の念に堪えません。
 今井先生は、一昨年十二月二十二日、東京巣鴨の癌研究会附属病院において胃がんの手術を受けられました。一時は元の健康を回復されたかにお見受けいたしましたが、昨年四月には肝臓への転移が発見され、更には脊椎までも侵されていることをお身内にも打ち明けられておられたとお聞きしました。
 さきの国会での健康保険法改正法案の審議に際しては、全身をむしばむがんとの壮絶な闘いのさなかにもかかわらず、車いすで参議院本会議場に入られ、立ち続けることもつらい病状を押して、この演壇に立たれたのでございます。そして、あるときは小泉総理に対し鋭く質問を発し、また、あるときは議場の議員各位に切々と自説を説かれたのであります。静かな語り口ながら、聞く者の魂を揺さぶる、気迫にあふれる御質問でありました。
 私は今、その光景を思い浮かべながら、今井先生と同じ壇上に立っていることに深い感慨を覚えます。先生は末期がんに侵されながらも、追い求められておられた自らの理想に生命を懸けられ、最期まで国会議員としての職責を全うされたのであります。そのお姿を先生の御逝去と重ね合わせたとき、政治家今井澄は、言わばこの議場においてその生涯を閉じられたような思いに駆られます。
 私は、ここに、同僚議員各位の御同意を得て、議員一同を代表し、今井先生のみたまに対し、謹んで哀悼の言葉をささげたいと思います。
 今井先生は昭和十四年十一月十七日、旧満州国ハルビンに生まれ、四歳のころ内地に戻られました。本籍地の千葉県に移り住まれた後、御尊父の伊豆逓信病院への転勤に伴い、小学校三年から高校卒業まで伊豆で成長されました。
 静岡県立沼津東高校を卒業された先生は、昭和三十三年、東京大学に入学されました。時あたかも六〇年安保の時代、デモに奔走された先生は、医学部への進級試験で不合格となり退学されましたが、翌年には合格し、復学されております。先生は、医学生となってからも大学管理法反対運動を指導し、学外者を含めた総決起集会の責任を問われ、退学処分となりました。
 その後、再び復学を果たされた先生は、今度はいわゆる東大紛争が起こり、全学ストライキに突入するという事態が発生しました。先生は、卒業を目前にしていたので余りかかわるつもりはなかったと回想しておられますが、実際には、全共闘防衛隊長として安田講堂に立てこもった末に逮捕され、一年間東京拘置所に拘留されることとなりました。出所後、改めて卒業試験を受け、晴れて念願の医師となられましたが、そのときには既に東京大学入学から十二年の歳月が流れておりました。
 それから、今井先生は医師として東京都内の病院で研さんを積まれましたが、都会での医療に疑問を持たれた先生は、本来の医療の在り方を求めて長野県に移られ、かの地の地域医療に精力的に取り組まれたのであります。
 先生は、佐久市国保浅間総合病院を経て、昭和四十九年には諏訪中央病院に赴かれ、五十五年に院長になられました。四十歳のときでありました。先生は、地域医療による在宅ケアこそが老人医療の理想の姿であるとの信念をお持ちでした。病院に行かないでいい地域づくりを合い言葉に、看護師や保健指導員の方々とともに住民の中に溶け込み、地域住民の食生活や保健予防意識の徹底に精魂を傾けられました。先生はこうして、現在は長野モデルとして全国に知られる健康にして長寿たる高齢者医療の礎を築かれたのであります。
 また、先生は、年間の総収入を超えた累積赤字を出し、いつまでもつのかねと言われた当時の諏訪中央病院を引き受けられ、閉鎖寸前の病院を見事に立て直されたのであります。病院に行かなくてもいい地域づくりの理想と病院の再建を同時に成し遂げられたわけで、今井先生の正に真骨頂と言ってもいいでしょう。
 付け加えれば、この諏訪中央病院が従来の病院の形にとらわれない患者本位の病院として第一回の病院建築協会賞を受賞されたことや、この病院でホスピタルコンサートが行われるようになったことなどに、改めて先生の人間を愛する優しさを見る思いです。
 このように理想の医療を追い求め、実践されてこられた先生は、平成四年、健康長寿の長野モデルの全国への普及の志を持って参議院選挙に立候補され、長野県民の広範な支持を受けて当選され、さらに平成十年には、比例区から再び当選を果たされたのでありました。
 参議院議員となられた今井先生は、本院においては決算委員長、厚生委員長を歴任されました。厚生委員長在任中は、いわゆる薬害エイズ事件の真相究明と恒久対策の確立のため、委員会の運営に当たり公正かつ強力な指導力を発揮されました。また、長く委員を務められた決算委員会におきましては決算男を自認され、決算の審査を予算審議に反映させることが参議院の使命であると常々言われておりました。
 印象深いことは、委員会の御質疑で度々今井節が炸裂したことであります。腰の引けた答弁に対しましては、烈火のごとく怒られ、雷を落とされました。皆、余りのけんまくに肝を冷やしたわけですが、激しく叱責された官僚は、むしろ困難に立ち向かっていく勇気を与えられたと言います。
 党務においては、村山内閣における与党福祉プロジェクトの座長、民主党に移られた後は、民主党医療制度改革小委員会事務局長、ネクストキャビネットの雇用・社会保障担当大臣、医療制度改革ワーキングチームの座長などを務められ、一貫して社会保障の改革に携わってこられました。
 先生は、社会保障の主体は国民であり、人間の尊厳を大切にするとの理念の下、人間中心の社会保障改革に取り組まれ、我が国の福祉の在り方を大きく変える新ゴールドプランの策定や介護保険法の制定に御尽力をなされました。当時の私は厚生省の立場でありましたが、幸いにして、今井先生に様々なお話をさせていただきました。その中で、立場を超えて御支援と御教示をいただきました。感謝の念に堪えません。
 先生は、全国の市町村長の方々を説得するため、各地で講演や懇談を重ねられ、地方の自主的な取組と責任による地方分権の確立に全力を尽くされました。特に、住民に最も身近な基礎自治体が高齢者の自立を支援するという介護保険の理念を地方の現場に浸透させるべく、全国を奔走されました。そのお姿は、いちずな社会保障の伝道師のごとくでありました。
 また、昨年来、今井先生は、いわゆる患者の権利法の制定に執念を燃やされ、中心となって法案を立案されました。そして、昨年十一月の厚生労働委員会で、先生自らその趣旨を御説明され、医療に対する信頼が大きく揺らぐ中、医療を受ける者の権利が擁護される必要性を強く訴えられたのであります。
 さきの国会が閉会し、茅野に帰られた先生は、主治医から何か心残りがありますかと尋ねられたとき、患者の権利法を制定できなかった、患者の権利を法律にしておきたかったと悔しそうな顔をされたと伝え聞きました。
 今井先生には、長野の高く青い空がお似合いでした。そうした自然に包まれて生きたいとの思いだったのでしょうか、先生は御自宅で最期の医療を受けることを希望され、求めてきた医療の姿を自ら実践され、その生涯を閉じられたのであります。
 告別式では、厚子夫人がはなむけにと望まれた先生が大好きな「夏の思い出」の歌を参列者全員で合唱してお送りしたと伺っております。壇上に飾られた御遺影は、夏の日の太陽のように明るく、長野の高原に吹く風のごとく、どこまでもすがすがしくほほ笑んでおられたと聞き及びました。
 今井先生は、何事にも深い情熱を持って取り組まれ、ひたむきに邁進してこられました。そのことが、先生に接した人に困難に立ち向かうエネルギーを与え、多くの人々の心を一つにすることにつながることになったと思います。
 この時期に先生を失ったことは、御遺族の悲しみはもとより、国民生活の課題が山積する我が国の国会や政府にとりましても大きな損失であると言わなければなりません。特に、これからの年金や医療制度の改革については今井先生の存在が不可欠であったとの思いを断つことができません。誠に痛恨の極みであります。
 しかし、我々は、先生を失ったことを嘆いてばかりはおられません。先生が残された「今日の利害よりも将来に備えるために、党派を超えて、この国の未来を考えよう」という、その志を受け継いでいかなければなりません。
 今井先生、天上から見ていてください。先生がともされた情熱の火が、必ずや次の世代に引き継がれ、この国の改革に生かされるものと信じております。
 今井先生、あなたのお名前は、我が国の社会保障の歴史にしっかりと刻み込まれました。先生が身をもって示された正義と倫理、民主政治における英知と勇気がこの国にあって実を結ぶことを願ってやみません。
 ここに、謹んで故今井澄先生の高い御見識、燃えるばかりの理想、たぐいまれな指導力、そして幾重もの御功績をたたえるとともに、先生のお人柄をしのび、院を代表して、心から哀悼の意を表する次第であります。
 ありがとうございました。
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発言情報

speech_id: 115515254X00120021018_005

発言者: 阿部正俊

speaker_id: 13814

日付: 2002-10-18

院: 参議院

会議名: 本会議