北川れん子の発言 (憲法調査会)
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○北川委員 小林参考人から「基本的人権と公共の福祉(権利と義務)——国家・共同体・家族・個人の関係の再構築の視点から」をお聞きし、日本国憲法はアメリカ憲法以上にコミュニタリアニズムの原理と一致する規定を相当体系的に含んでおり、したがって、コミュニタリアニズムの観点からすると世界に冠たる理想的憲法ということになる、したがって、この点においても憲法改正の必要性は存在しないとの部分は特に印象に残り、力づけられたところであります。
リベラリズムとコミュニタリアニズム、この両方を批判する人々ともに共通しているのは、日本は非常に排除性の高いコミュニティーだという認識です。
リベラリズムが自由主義と訳されるが、誤訳だと言う方もいます。価値対立状況のもとで多様な価値観を抱く人々が公平に共生し得る枠組み、これを模索するのがリベラリズムの基本だと再定義されています。このように、コミュニタリアニズムもこれからどういう日本語訳が一番ふさわしく、本来の言葉として機能していくに有効になるかは、未知なる感じを持ちました。
コミュニタリアニズムを批判する人たちが言っている、あいまいな伝統や徳や共同性という概念をそのまま日本に持ち込んだときには危険なものになるだろうという警戒心があるという指摘は、私も同感するところであります。自立した個人、女性の自立等と表現されますが、どの範囲まで自己決定できるのかがこれからの時代問われてくると思います。
カースト制度や家父長的な家制度がアジアの伝統ではセーフティーネットになっていますが、古い共同体の中でのもろもろの搾取や差別と結合した相互扶助の構造がセーフティーネットになっている部分があります。現実を改革しようとしないで、共同体、道徳、儒教、公共なる、従来使用してきた年月における歴史性を慎重に腑分けしないで、同音語で表現するのはなかなか難しいのではないかという気がしています。
公共とは、例えば、多くの民族を抱えるなどの多様性を持ち国家の枠組みにとらわれない地球的なものであり、人々が自発的に形成していくものでありながらも、過度な権利行使を避け、責任と義務をみずからで制御できる空間なのではないだろうか。例えば、それを個人に着目してとらえるならば自発的に政治参加する市民であり、集団に着目してとらえるならば多種多様なNPO、NGOのようなものではないだろうか。しかしながら、私自身も、単語的にどういう言葉が対応できるのかはなかなか見つけ出すことは無理でありました。
しかしながら、小林参考人みずから言われているように、リベラリズムとコミュニタリアニズムのいいとこ取りをした、哲学的に統合することを主張し新公共主義を提唱される姿勢には、まさに共感するものであります。この地平が開拓されることにおいて、社会的保守主義、復古主義の人々が使われてきた家族、共同体、道徳とは一線を画すものであることが明確になり、多くの人々に誤解を招くことがなくなっていくだろうと思われます。
また、着目されている中間集団、家族、共同体、NGO、NPOが書き込まれてありましたが、他の方から言われているように、この範囲に私自身は産直運動や第三者機関も含まれていくものだと思います。この中間集団の広がりが場を持つことで、ライフスタイルの多様性が獲得でき、自発的自己決定権が確立されると思うからです。
コミュニタリアニズムに対して、歴史認識が乏しいとの批判があります。しかしながら、小林参考人においては、反テロ世界戦争の拡大に抗してなる論文において、アメリカ超国家主義がもたらす戦争拡大の危険に対して、私たちは日本超国家主義の反省から学んだ平和主義を実践し世界に提唱しなければならない、小泉首相の訪朝は非常に貴重な歴史的成功だったと評価している等々の論文を書かれているゆえ、彼に限ってはこの批判は当たらないということも確認した次第です。
私にとってもとても有意義な一日であったということをお伝えし、私の意見を終わらせていただきます。