小林正弥の発言 (憲法調査会基本的人権の保障に関する調査小委員会)
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○小林参考人 御紹介いただきました小林でございます。
それでは、レジュメに対応させて、用意してきた原稿を読ませていただきます。
まず、一、公共哲学の(1)序です。
公共哲学とは、簡単に申し上げますと、何らかの意味における公共性の実現を希求する学問、そして、一般公衆にも理解可能で広く共有され、実際に影響を与える哲学です。
このような目的を実現するためには、具体的、実践的課題に対して学際的な研究を行うことが必要です。そこで、現在、私たちは、従来のようなタコつぼ化した専門分野の壁を乗り越えるべく、哲学、倫理学、政治学、社会学、経済学等の多様な専門家が協力して、このプロジェクトを推進しております。
この中で、私は特に政治哲学を中心に研究しております。政治哲学の目的は、簡単に言えば、政治の理想の探求ということになります。しかし、残念ながら、海外では政治哲学が重要であるにもかかわらず、日本の大学では、その講義や講座がほとんど存在せず、専門家もほとんどいません。日本では、そのかわりに法哲学が存在し、海外の政治哲学も法哲学の専門家が紹介しております。そこで、私は、一九九七年にケンブリッジ大学から帰ってから勤務校で講義を開設し、その導入に努めております。
今日御依頼のありました主題のうち、国家、共同体、家族、個人の関係の再構築は、今日の政治哲学の最大の主題の一つであります。ただ、以上のような事情で、これを政治哲学の観点から専門的に説明できる研究者は極めて少ないと思いますので、微力ながらお引き受けした次第です。
(2)概論
アメリカでは、有名なジャーナリストであったウォルター・リップマンが一九五五年に「公共哲学」という著作を公刊したのが公共哲学という概念の出発点であります。ただ、近年、この概念が使われるようになったのは、これから説明いたしますコミュニタリアニズムの理論家がこの概念に注目したからです。
この影響を受けつつも独立して、私たちは日本で公共哲学プロジェクトをここ数年間集中的に遂行しており、その成果が東大出版会より「公共哲学」全十巻、さらには「公共哲学叢書」として刊行中です。
このうち、十巻シリーズの方では、戦前のような滅私奉公や、逆に戦後あらわれた滅公奉私を問題視し、これにかわる観念として、韓国から来られた金泰昌氏は、「私」を生かし活性化しつつ公共性へと生かす、活私開公という考え方を提唱されています。さらに、従来の公と私という二元論を乗り越え、公、公共、私という三元論を主張して、公と私を媒介する存在として公共の概念を考え、民からの公共性を主張しています。
ここで言う公私二元論とは、リベラルの思想家たちが重視してきた考え方で、本日の副題に言う国家、個人の二項対立の発想に相当します。
これに対して、公共哲学では、この発想を超えることを主張し、個人と国家の間に存在する中間集団に着目して、家族、コミュニティー、NGO、NPOなどが、今後の公共世界において重要な役割を果たすと考えております。さらに、このグループでは、公共性の観念を国民国家の内部に限定せず、国境を越えた公共性、トランスナショナルないしグローカルな公共性をも重視しております。
この研究グループは一枚岩というわけではなく、大きな方向性を共有しつつも、内部では多様な考え方が存在いたします。その中で、私は、コミュニタリアニズムないし新公共主義という考え方を主張しております。
きょうは、このような議論に委員会の先生方が御関心を持たれたと伺いましたので、これらの観点を中心にして説明を行いたいと存じます。
二、コミュニタリアニズム
コミュニタリアニズムを日本語に直訳すると、共同体主義となります。英語のコミュニティーと日本語の共同体の語感は若干異なるのですが、ともかく英語でいうコミュニティーないしコミュナリティー、共同性に力点がある思想です。ですから、その意味では、今日の主題に適合的で、公共哲学としては、個人と国家という二項対立を超える政治や社会の姿を構想するためには、今日において最も重要な政治哲学と言ってよいでしょう。
日本の憲法学の主流も含めて、法の世界や政治思想の世界では、自由主義ないしリベラリズムが強力ですが、リベラリズムは、個人対国家、私対公という二元論を軸にします。だから、この関係を再構築するためには、これに対する対抗思想としてあらわれたコミュニタリアニズムが重要になります。ただし、これから申し上げますように、憲法との関係で考えると、これは必ずしも義務条項を入れるような憲法改正論には直ちに直結しません。
(1)リベラル—コミュニタリアニズム論争
今日の政治哲学の起点をなしているのは、ハーバード大学の哲学者だった故ジョン・ロールズの「正義論」で、この中で、彼は、契約論を再生させて、正イコール権利を中核とする正義の二原理を提出し、リベラリズムを隆盛に導きました。日本語で正と権利はいずれも、英語のライト、ライツに相当しますので、憲法を初め法学で中心になる権利の概念が、正義として、必ず守られなければならない最重要のものとされたわけです。
これに対して果敢な批判を行ったのが、同じくハーバード大学の政治哲学者であるマイケル・サンデルであり、彼のロールズ批判を契機にして、それに近い一群の思想がやがてコミュニタリアニズムと呼ばれるようになりました。サンデルは、ロールズの理論における自己の概念を、抽象的で遊離した自己であると批判しました。
実際には、自己は特定のコミュニティーやその文化的伝統の中で存在し、その中でみずからのアイデンティティーや人格を形成する存在です。そこで、サンデルは、自己の埋め込まれている文脈、コンテクストとして、コミュニティーを重視し、そこにおける善、グッドの観念や、それに基づく人格形成に目を向ける必要性を主張しました。彼は、リベラルの人格概念は近年のアメリカに多い利己主義的な人間像に通底するとして、これに対して、コミュニティー、共通善、公共的な民の美徳、シビックバーチューなどの観念の必要性を主張しました。
公私との関連においては、リベラルの論者は、公と私の区別を強調して、私的領域で人々が善などの価値を追求するのは自由だが、人々が信じる価値は多様で、強制的に決められるべきではないから、公的領域の決定においては、善などの価値は考慮されるべきではなく、正イコール権利によって決められなければならないと主張します。
つまり、近年のリベラルな政治哲学では、個々人が追求する多様な価値を善、グッドと呼び、多様な価値観にもかかわらず人々が合意して公的に従わなければならない共通の規範を正ないし正義、ライトと呼びます。この二つを峻別して、公的領域では善ではなく正が必要であるとし、正の中核を権利とするのです。
サンデルは、リベラルのこの考え方を正イコール権利の善に対する優先性と表現し、この考え方に反対します。実際には、政治においては、環境や生命倫理などの領域に典型的にあらわれているように、善にかかわる価値判断を公的決定においても回避できないからです。サンデルも、正—権利の重要性を否定しているのではありませんが、公的領域においても善にかかわる価値の問題が議論され決定されるべき場合が存在すると主張するのです。
ここから始まったリベラル—コミュニタリアニズム論争における双方の主張の中心を簡単にまとめると次のようになります。
リベラリズムは、消極的自由、個人主義、法的権利、中立性、正義などの概念を重視するのに対して、コミュニタリアニズムは、積極的自由、善、コミュニティー、伝統、美徳一般、責任・義務の必要性を主張します。そして、コミュニタリアニズムは、利己主義的な個人主義や私益追求による政治腐敗を批判し、人々の共通善、公共善の実現を主張します。
ただ、コミュニタリアニズムは、権利の概念や個人主義を全面的に否定するのではなく、倫理的、共和主義的な個人主義は肯定する場合がほとんどです。このような人格形成を行うに際して、コミュニティーの文化が重要な役割を果たすので、コミュニティーを重視し、利己主義に対してはコミュニティーの再生を主張するのです。
ここに言うコミュニティーは多様で、家族、地域的コミュニティーやエスニック集団に力点がありますが、多くの場合国家を含み、場合によっては世界的コミュニティーも含みます。少数派のエスニック集団については配慮する必要性から多文化主義を主張する場合も存在します。さらに、コミュニタリアニズムは、その地域ないし国家の自治の意義を強調することによって、政治参加による共通善の実現を主張するリパブリカニズムとも連携する場合が多いのです。
(2)思想的・政治的意義
共産主義、社会主義の崩壊後に、リバタリアニズムやネオ・リベラリズムと言われる市場原理主義や権利論中心の利己主義的な個人主義が隆盛となりました。しかし、この結果、貧富の格差、バブル経済、環境問題など市場経済の問題点や、モラルの衰退、犯罪の上昇、少児高齢化、人間関係の希薄化などの社会的問題も深刻なものとして浮上してきました。
そこで、このような問題点に対して、倫理性やモラル及び共同性の必要性を主張して、人々の間のつながりを再生させようとしたのがコミュニタリアニズムと言うことができるでしょう。人々の間の共通性や共同性を復活させる必要があると考え、その母体をコミュニティーに求めたわけです。
この思想は、既に政治的にも影響を与えており、古い社会民主主義ないし福祉国家論にかわるもの、あるいはその刷新として注目されました。福祉国家は財政的に維持が困難になったので、国家よりもまずはコミュニティーの再建により福祉の実現を図ることが必要になったからでもあります。特に、クリントン政権、ブレア政権にはその影響が顕著であり、例えばブレア首相がコミュニティーや教育を重視したのはそのあらわれです。
(3)理論的位置関係
その後の展開も含めて、原子論と全体論という哲学的な観点から、この論争や政治哲学の諸思想を整理した図を掲げておきます。
この図の左右軸は必ずしも政治的な左右軸ではなく、左側の方が個人を中心にする考え方、右側の方が個を超えた全体を強調する考え方です。リベラルやコミュニタリアンは、この両極のような極端な思想ではありませんが、コミュニタリアニズムの方が個を超えたコミュニティーを重視するわけです。
当初、コミュニタリアンは主流のリベラルに対する批判から始めましたが、その後に、理論的位置関係を明確にするために、例えばエツィオーニという社会学的な理論家は、社会的保守主義をも批判し、コミュニタリアニズムと社会的保守主義、さらには権威主義や全体主義との差を明確にしました。つまり、コミュニタリアニズムはリベラルと社会的保守主義との中間であり、共和主義、リパブリカニズムとも近いのです。
私自身は、それをさらに明確にし、新公共主義という名称のもとに、リベラリズムとコミュニタリアニズムを哲学的に統合することを主張しています。
先ほど翻訳の問題に触れましたように、日本語では共同体主義という用語は古い共同体を連想させ、むしろ社会的保守主義に近い響きを持ってしまうことがありますから、この点には注意が必要です。
アメリカでは、リベラリズムや個人主義が徹底しているので、コミュニタリアニズムはそれを一定程度修正することを主張していますが、権利などのリベラリズムの前提は共有しているので、その廃止を唱えているわけではありません。
エツィオーニは、新黄金律として、自律と秩序の均衡、バランスの必要性を唱えています。そして、アメリカでは自律に偏向しているから秩序が必要であるのに対し、中国や日本の場合は秩序に偏しているから自律を強化することが必要であるとします。この観点からすると、日本にはまだ自由や自律の強化が必要であるということになります。エツィオーニは少し以前の日本社会の姿を見てこのように判断していると思うのですが、過去に戻ることを志向する社会的保守主義との相違は明確でしょう。
したがって、コミュニタリアニズムは、近代以前に復古しようという反動的思想ではありません。十八世紀から十九世紀以来成立した自由民主主義の基本は前提として共有しているのです。この古典的な政治的自由主義と一九七〇年代以来のリベラリズムとは、概念として区別する必要があります。リベラリズムは、確かに自由主義の思想を淵源としていますが、それを極端なところにまで急進化させてしまったと思われます。コミュニタリアニズムは、自由主義の伝統を踏まえつつも、この極端な急進化に反対して、共同性や倫理性を復興して思想的均衡を保とうとするのです。
三、憲法と権利・責任
(1)近代憲法の前提
以上を踏まえて、憲法との関連を述べたいと思います。
もともと専制国家に対して、憲法、特に権利宣言をかち取ってきたという歴史が存在します。ここには、社会契約論などの十八世紀の自由主義的政治原理における自然権の観念が基礎にありますから、権利が基本となり、義務の条項は少ないと言うことができるでしょう。これは、アメリカ憲法も含めて近代憲法一般の特質であり、日本国憲法だけの特質ではありません。
例外的に、レジュメにありますように、フランス共和国一七九五年憲法第二条には、黄金律に相当する道徳的義務が定められていますし、ほかには、法の遵守、納税、兵役の義務などの条項も見られます。しかし、道徳的義務を憲法で定めるという考え方は、少なくとも今日の憲法学主流の発想とは著しく乖離しています。リベラルな憲法学においては、国家権力の制限が憲法の骨格であり、憲法は道徳的文書ではなく、その意味での制限的規範であると考えられているからです。
(2)アメリカ憲法解釈
コミュニタリアンも、前述のように自由主義を前提にしていますから、近代憲法も重視しています。ですから、基本的に憲法の権利宣言を前提としており、その解釈を議論することはありますが、その修正を求めてはいません。
例えば、先ほど述べたサンデルの第二作、「民主政の不満——公共哲学を求めるアメリカ」では、アメリカの公共哲学として、リベラリズムに対して自治や共通善を重視する共和主義の伝統を対置し、その復権を唱えます。その第一部が「手続き的共和国の憲法」で、サンデルは、アメリカ憲法解釈、憲法史に立ち入った議論を展開します。憲法解釈に即して、一、権利の善に対する優先性、二、遊離した自己、三、中立的国家というリベラルの考え方に反対するのです。
例えば、フェデラリストが主導したアメリカ合衆国憲法においては、当初は権利章典は存在せず、州権を重視するアンチフェデラリストの主張によって修正十条までが追加されました。ここからは、現在のリベラリズムの主張のように、個人の権利がトランプの切り札のような絶対的な存在ではなかったことがわかります。また、宗教の自由、言論の自由、プライバシー権や家族法などの解釈を判例に則して具体的に論じ、以前はこれらを自治や実質的な価値に基づいて説明していたのに対し、近年は選択の自由や国家の中立性に基づいて説明するようになっていることを明らかにします。
この議論の目的は、リベラリズムの公共哲学に反対し、コミュニタリアニズム的な共和主義的公共哲学を復興しようとするところにあります。
ですから、サンデルにしても、アメリカ合衆国憲法の改正を主張しているわけではありません。あくまでも、リベラルな憲法解釈とその法的思考の相対化を提唱して、憲法の条文ではなくリベラルな公共哲学の修正を目指しているわけです。
(3)権利と責任
また、コミュニタリアンは、権利論の過剰に反対し、責任や義務の観念の必要性を主張していますが、これも憲法修正論ではなく、主として道徳的ないし政治的議論です。
例えば、社会学的コミュニタリアンの代表者エツィオーニは、一九九一年に「応答的コミュニタリアン綱領——権利と責任」を公表し、社会運動としてのコミュニタリアンネットワークを開始しました。そこでは、過度の権利に対して、権利に対応する責任の重要性が説かれています。時に法的な問題にも言及されますが、主として道徳的問題とされ、基本的には法的事柄ではないとされています。
また彼は、権利と責任についての四点の課題として、一、新しい権利のモラトリアム、二、権利は責任を伴う、三、権利のない責任の存在、四、一部の権利の調整を主張しますが、責任は、アメリカ憲法前文の「より完全な連邦」「一般的福祉の増進」に対応するとします。そして、権利を強化するには責任意識が必要とされ、責任が自覚されることによって、権威主義や右傾化を招く無秩序状態を回避できるとされています。
さらに彼は、法よりも道徳の声による規制が必要だとして、法の守備範囲は大部分が道徳の声に支持される範囲内であるべきとします。これを彼は、法に対する価値優位の法則と呼んでいます。社会的保守主義は価値の法制化を図ろうとしますが、逆効果やゆがんだ効果を招くと批判します。彼は、法と道徳の連動を主張し、まず道徳的再生が基本で、それを前提にして初めて一定程度、法とすることができると主張するのです。つまり、法への依存が少なければ少ないほど、価値への依存が高ければ高いほど、コミュニタリアン的であり、コミュニタリアン的社会は、道徳的価値に支えられた法に依拠すべきであり、道徳に支えられない法に依拠すべきではないというのです。
また、統一の中の多様性として、アメリカの価値観の多様化にもかかわらず、それらをまとめる一定の統一性を必要と主張していますが、その際に共有されるべき中心的要素の一つとして、憲法と権利章典を挙げています。
以上のように、アメリカのコミュニタリアニズムは、アメリカ憲法を前提としており、その解釈をめぐって議論を展開していますが、義務条項の付加などの憲法修正を主張してはいません。国民の道徳一般に根づいていない義務や責任を法制化しようとする議論は、むしろエツィオーニが反対する社会的保守主義に相当するでしょう。これは、コミュニタリアニズムからすると、実際には責任や義務を果たすことにはつながらず、むしろそれらをゆがめますし、権威主義や強権化の危険をもたらします。コミュニタリアニズムは、道徳に支えられない法制化に反対し、むしろ社会的領域において道徳や責任の観念を広めることを主張するのです。
ある意味では、コミュニタリアニズムの以上のような姿勢は、東洋哲学では儒教の姿勢に近いかもしれません。すなわち、儒教は徳を説く一方で、法の導入と執行を強行する法家に反対しました。法よりも道徳を主張する点で、コミュニタリアニズムは儒教に近く、だから道徳の過度な法制化には反対することになるのです。
四、日本国憲法の基本的人権と「公共の福祉」
(1)新しい公共哲学と憲法改正論
コミュニタリアニズム的公共哲学は、確かに国家と個人の二項対立図式の限界を指摘し、家族やコミュニティーなどの重要性、再生の必要性を主張します。これは何よりも道徳的問題ですが、その限りで政治との接点を持ち、政治の場で公共的に議論することは有意義だと思われます。
しかし、憲法との関係を考えるためには、少なくとも、道徳、政治、法という三つの領域の関係を考えなければなりません。政治や法、さらに最高法規たる憲法においては、私的な道徳とは異なって、公権力の行使という強制力を伴うからです。
コミュニタリアニズム的公共哲学は、道徳の領域を基礎としつつ政治的浄化などを唱える点で、道徳と政治の双方に関係し、これらの領域において責任の観念の必要性を主張します。しかし、これはそのまま法の領域、特に憲法における責任や義務の法制化を帰結しません。管見の限りでは、アメリカでは義務・責任条項の挿入という憲法修正論はまだ提起されていません。
思想的、理論的には、現在の北米のコミュニタリアニズムにとどまらず、このような公共哲学をさらに発展させて、最も理想的な憲法典を構想する立憲論や理想国家論を考えることは可能でしょう。しかし、そのためには、現在のコミュニタリアニズムそのものではなく、それを発展させて新しい公共哲学から全憲法構造に関する全面的改革論を展開することが必要になり、現時点ではそれは学問的には行われていません。いわば、本格的な新公共主義的立憲論というようなものは、政治哲学としても法哲学としても未成立なのです。
コミュニタリアニズム的な責任の観念は、法的なものというよりも道徳的、政治的なものですから、もし憲法典に条項として直接入れようとすれば、フランス一七九五年憲法のように、黄金律のような道徳的条項を入れることになります。
しかしながら、今日近代国家が有する憲法は、聖徳太子の十七条憲法のような古代憲法とは異なって、道徳律や訓辞を述べたものではなく、主として国家権力を拘束する制限的法規範です。ですから、法的義務ではない道徳義務を憲法に新しく挿入することは、リベラルな主流派のこのような見解と背反しますから、これは憲法典の性格を根本的に変更するような試みとなります。あるいは、近代国家が有する憲法典とは別の憲章、いわば一切法的強制力を持たない道徳的、政策的文書として規定することになるかもしれません。いずれにしても、憲法典が強制的法規範としての性格を持つ以上、これが抑圧の危険をはらまないようにしなければなりません。
もっとも、今日の憲法においても、権利がその反面として一定の義務を随伴することは認められています。契約論のような自由主義的構成をとっても、その目的は個々人の人権を守ることにありますが、そのためには成立した国家の法などを遵守する義務は必然的に存在するからです。このような義務を憲法典に入れることは、歴史的例がありますし、理論的にも可能です。しかし、これをあえて条項とするかどうかは別問題です。具体的、特定的な義務規定に関しては、現行憲法に既に、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務、勤労の義務及び納税の義務が存在していますから、現在のところはこれで十分と考えられます。
もっとも、アメリカにおける憲法やそのもとのリベラリズムの発想を離れて、目を世界的に広げるならば、この調査会でも既に指摘がありましたように、ヨーロッパの中で、ドイツやスイスではこのような新しい試みが始まっております。
ドイツ連邦共和国基本法では、前文で「神と人間に対する責任」の自覚がうたわれ、第二十条aでは、「自然的な生活基盤」として、「将来世代に対する責任から……(中略)自然的な生活基盤を保護する」とされ、スイス新連邦憲法でも、前文で「統一の中の多様性」や「将来世代に対する共同の成果と責任との自覚」が、また本文でも「公共の福祉、持続的発展、内的結合及び文化的多様性」、「公共の利益」、自己責任と社会的責任、「公益または第三者の基本権の保護」、自己責任や個人の主導を補完するものとしての社会目的などが定められているからです。
これらの新しい憲法では、将来世代、エコロジー、持続的発展、公共の利益、社会目的などが規定されています。これらは、まさしく新しい公共哲学の基本的概念であり、これらの憲法は私たちが試みている公共哲学の理念を憲法典にいち早く導入した先駆的憲法と言うことができるでしょう。アメリカのコミュニタリアニズムは必ずしもここまでは展開しておらず、人間のコミュニティーにとどまっていますが、自然的コミュニティーや将来世代も含めた超世代的コミュニティーへと思想的展開を図ると、いわば自然的、超世代的コミュニタリアニズムというような新しい公共哲学を発展させることが可能になるのです。
しかし、解釈論としてはともかく、このような憲法改正を現在主張する研究者はほとんどいないでしょう。これは、単に一部の条項の付加や修正というだけではなく、近代国家の原理を根本的に再定式化するような壮大な事業になるからです。これは、この調査会で議論されているような国の形だけではなく、新しい文明を構想するような遠大な試みですから、あくまでそれだけの思想的、学問的、政治的準備なしには行えないでしょう。だから、それなしにこのような試みを政治的に企てるのは現時点では少なくとも時期尚早であると言わざるを得ないと思います。
(2)日本国憲法のコミュニタリアニズム的解釈
私は憲法学者ではなく、コミュニタリアニズムと日本国憲法との関係については、つい先日要請を受けてから考え出したにすぎません。そこで、以下に述べる点については、決して私の確固たる見解ではなく、あくまでも日本国憲法にコミュニタリアニズム的解釈を行う可能性を示唆するものにすぎません。
日本国憲法も、近代憲法と共通する特質を備えていますから、その第三章、国民の権利と義務に関する限り、個人と国家の二項対立を批判して、家族やコミュニティーを重視するコミュニタリアニズム的公共哲学の観点から見ても、その改正の必要は必ずしも導出されません。むしろ、エツィオーニの観点からすると、これは統一の中の多様性を可能にする、共有されるべき普遍的な中心的要素とされる必要があるでしょう。
ただ、アメリカ憲法の場合と同様に、憲法解釈論としては、コミュニタリアニズム的観点からの議論が可能でしょう。通説は自由主義的ですが、基本的人権に関しては、実は日本国憲法は文面上はコミュニタリアニズム的解釈の方が適合していると思われます。そして、この解釈論においては、責任条項に関して、既に現行憲法に存在するという議論が論理的には可能です。
第十二条、第十三条、第二十二条、第二十九条で「公共の福祉」「公共のために」という文言が用いられていますが、これはエツィオーニがアメリカ憲法について挙げていた一般的福祉に対応します。憲法制定過程から見ても、マッカーサー草案にあっては、これらは共通善、一般の福祉、公共善など、さまざまな形で存在していました。そして、草案が日本政府に提案されてから、これらはすべて公共の福祉に統一されました。草案にあった共通善、公共善の観念は、今日コミュニタリアニズムが強調している概念そのものです。
ですから、エツィオーニがアメリカ憲法の中で注目した一般的福祉が、日本国憲法の中では公共の福祉という表現になっています。つまり、日本国憲法では、公共の福祉という概念として、アメリカ憲法よりもさらに明確に、共通善、公共善の観念が定式化されているのです。
これを反映して、帝国議会における憲法改正の審議における政府答弁や初期学説においては、この公共の福祉を字義どおり国民全体の利益というような意味に解釈していました。
しかし、その後、自由主義的な通説においては、これらの説は否定され、権利の具体的な法的解釈として公共の福祉による権利制限を単純に適用すると、人権制限が容易に肯定されてしまう危険があるとされました。そして、公共の福祉を、各人の基本的人権相互の矛盾や衝突の調整を図るための、いわば交通整理の原理、実質的公平の原理と解釈しています。つまり、公共の福祉は特に実質的な内容を持つものではなく、憲法の理念から論理必然的に生じる当然の原理を宣言したものにとどまるというのです。
権利制限の過度の拡大を避けるために、この解釈は重要な役割を果たしました。しかし、自由主義的解釈は文言上無理をしているように見えるので、日本国憲法にもコミュニタリアニズム的観点から新解釈を提起することができるように思えます。
そもそも、個々人の人権の衝突だけで権利の制限を説明するのは実は無理なのです。ですから、最近は、やはり公共の福祉の概念の意義を認める学説が有力になりつつあるようです。既に述べましたように、コミュニタリアニズムは、個々人の総和を超えた存在としてコミュニティーを考えますから、このような学説の動向は、リベラルな人権論の限界を自覚してコミュニタリアニズム的解釈の可能性を開くものと言えるでしょう。
まず、第十二条では、自由及び権利について、「又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。」とあります。この条文に関しては、確かに、憲法学のリベラルな通説が指摘するような危険が存在するので、憲法が権利を制限する立法を肯定しているというように、単純に法的に解釈すべきではないでしょう。しかし、この部分を法的ではなく道徳的、政治的責任の規定と解すると、この部分はコミュニタリアニズムの主張と一致します。特に、「国民は、」「責任を負ふ。」ですから、これは文面どおり解すると、国民の法的ではなく道徳的、倫理的な責任規定ということになるでしょう。
また、第十三条の「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」とあり、ここでは、ロックやアメリカ憲法に由来する権利追求を最大限に尊重しつつ、それと公共善との調和が図られています。これも、自律と秩序の均衡を主張するエツィオーニの新黄金律と一致します。これは「立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」という規定ですから、文言上、政治的指針ととらえるべきでしょう。だから、この条項における公共の福祉は、道徳的というよりも、主として政治的意味であり、その系として法的意味を持つと解釈するべきでしょう。
きょうは時間の関係でこれ以上立ち入ることは避けますが、さらに細かく第二十二条、第二十九条などについて解釈論を展開し、二重の基準論などの違憲審査基準論を用いることによって過度の権利制限という弊害を避けることは可能だと思われます。このように考えると、まず、過度な権利の危険に対して、個々人の道徳論として責任の観念が明記されていることになります。また、政治的、政策的指針として、公共善に相当する公共の福祉の観念が原理として明記されていますから、このような公共的政策の積極的な推進が可能になるでしょう。これは、環境、福祉、生命倫理などの政策に寄与するでしょう。
自由主義的な通説は、環境や生命倫理などの新しい課題に対応することは困難であるように思えます。これに対して、コミュニタリアニズム的解釈は、公共の福祉という包括的概念を重視するので、古典的な経済的問題だけではなく、このような新しい問題にも適用する可能性があるように思われるのです。
近年では、環境権、プライバシー権、知る権利などの新しい権利の必要性が主張され、これを根拠にして改憲の必要性が主張されることがあります。しかし、以上の解釈によると、必ずしもその必要性は導出されません。まず、第十三条のいわゆる幸福追求権は、政治的、法的規定と解されますから、これに基づいて、これらの要請にこたえる法律を制定することが可能です。また、必ずしもこれらに対して権利の概念で解決するのではなく、公共の福祉などによる責任、義務の観念で解決することもできるでしょう。
以上のような解釈を試みれば、むしろ日本国憲法はアメリカ憲法以上にコミュニタリアニズムの原理と一致する規定を含んでいることがわかります。アメリカ憲法の場合、一般の福祉というコミュニタリアニズム的な規定は前文に見られただけであったのに対し、日本国憲法では、第三章の権利の個別的条文において、相当、体系的に公共の福祉が用いられているからです。コミュニタリアニズムの観点からすると、世界に冠たる理想的憲法ということになるかもしれません。
したがって、個々人における道徳的、倫理的責任や政治的指針という点においても、憲法改正の必要性は必ずしも導出できないと思われます。アメリカのコミュニタリアンが日本国憲法を知って、アメリカ憲法を日本国憲法のように修正しようという議論があらわれても、私は驚かないでしょう。
さらに、解釈論においては、公共の福祉を、国家における福祉だけではなく、各種コミュニティーにおける公共の福祉へと適用すべきかもしれません。この場合、日本国憲法は、個人、国家の二項対立を超えて、家族、地域等の観点を、各種コミュニティーにおける公共の福祉として、法的というよりも、道徳的、政治的に規定していることになります。例えば、地域的コミュニティーにおける環境問題や景観問題などは、財産権が公共善の観点から制約されることになると思われます。このような可能性を開拓することによって、個人と国家という二元論を超えたコミュニティーの再活性化という現下の課題に対応する憲法解釈を展開することが可能になるのではないでしょうか。
五、結論——公共哲学の憲法論への含意
最後に、北米のコミュニタリアニズムに限定されず、私たちの展開している新しい公共哲学の憲法論への含意を、他の思想的立場と対比させつつ述べてみたいと存じます。
一方で、リベラリズムとの相違点は、一、権利だけではなく、自発的責任、義務を重視すること。二、個人と国家という二項対立を超えて、家族や中間集団などコミュニティーを重視すること。三、倫理性、精神性や共同性、連帯性を重視すること。四、憲法では公共の福祉という概念で示されている公共善、公益を重視すること。五、人々の手によってそれを実現する公共的な民としての美徳を重視することなどです。
これらと対比して述べますと、社会的保守主義との相違点は、一、多様性や他者性を重視し、非強制的で排他的でないような共同性を追求すること。二、多層的、多元的なコミュニティーを考え、国家をその中の一つとして相対化すること、地球的で地域的、グローカルなアイデンティティーを追求すること。三、閉鎖的で抑圧的な古い共同体ではなく、開放的で自由な新しいコミュニティーを理想とすること。四、国益だけではなく、国境を越えた公益や地域的な公益を追求すること。五、国家から支持される公ではなく、下から、民衆からの公共性の形成と、そのための公共的空間や議論を重視することなどでしょう。
この新しい公共哲学は、社会的保守主義に比して新しい時代の要請にこたえるものですし、また、リベラリズムとは異なって必要不可欠なコミュナルな理念が存在するので、社会的混乱を避けることが可能になります。
実は、今回、このような角度から日本国憲法を読み直してみて、リベラルな通説が軽視していた点に気づき、これまで私が思っていたよりもこの憲法がよくできているのに驚きました。
第十二条については、倫理的責任の観念が盛り込まれていますから、いわば解釈改憲とは逆に、新しい時代の要請に対応するために、憲法の文言そのものに戻れというパラドクシカルな結論になります。また、公共哲学で最近重視している幸福については、憲法学でも重視されているように、第十三条の幸福追求権が存在しており、これを私的幸福だけではなく公的幸福の追求へと発展させることも可能でしょう。また、将来世代についても、前文には「われらとわれらの子孫のために、」とあります。このような要素に注目することにより、むしろ、日本国憲法の発展上に新しい時代の理念を考えることができると思うのです。
まとめれば、アメリカのコミュニタリアニズムは憲法改正論を提起しておらず、したがって、日本国憲法においても、コミュニタリアニズムの観点からは、人権論についてその必要性は必ずしも存在しません。日本国憲法の場合には、アメリカ憲法に比して公共の福祉のような規定が明確に存在することを考えれば、この点は一層明らかでしょう。
実は、この調査会では、伊藤哲夫氏が昨年五月に、サンデルやベラーなどのコミュニタリアニズムの議論に言及されて、権利について、自然権的な理解に反対して、歴史論的、共同体論的にとらえることを主張され、防衛の義務や家族尊重の規定を憲法に入れることを主張しておられます。しかし、憲法の理解が誤っているだけではなく、コミュニタリアニズムについても、この用い方は学問的には全くの誤りであります。北米のコミュニタリアニズムは、権利を共同体独特の法の精神ととらえているのではなく、通常の権利の概念を前提にしながら、それに対して、共同体における善の観念の重要性を指摘しているのです。ですから、氏の憲法改正論はコミュニタリアニズムとは全く関係がありません。
私たちは、エコロジーや将来世代、幸福、責任などの観念を中軸にした新しい公共哲学を協力して開拓しているところですので、純思想的には、それを基軸とした新憲法ということも考えられますが、それは時期尚早でしょう。しかし、これらを憲法の中に読み込んで立法などを行うことは、現行憲法のもとでも可能だと思います。
リベラリズムは、私が強調した責任や公共の福祉の理念をいわば憲法の不純物とみなし、これらを最小限に解釈して、事実上無視ないし軽視しようとしています。しかし、これらは現行憲法に確かに存在するのですから、解釈を変更して字義どおりに文面解釈を行えば、新しい時代の要請に対応することが可能だろうと思われます。
したがって、解釈論においては、アメリカの場合と同様に、日本でもコミュニタリアニズム的解釈を展開することが可能かつ有意義であると思われます。そして、その結果、日本国憲法の第三章は、すぐれてコミュニタリアニズム的に構成されている理想的人権と責任の規定とみなすことができると思われるのです。その意味においては、日本国憲法の三大原理のうち、主権在民は普遍的原理ですが、基本的人権の内容には、平和主義と並んで、日本独特の先進的思想が存在するように思えます。
ですから、国家、共同体、家族、個人の関係の再構築という極めて重要な公共哲学の課題を遂行するためには、憲法改正を直ちに行うのではなく、現行憲法そのものをコミュニタリアニズム的に再解釈し、それとともに政治的、社会的改革を遂行して、現行憲法に内在する潜在的意義を最大限に引き出し具体化させることが、まずは重要であると思われるのです。
以上です。(拍手)