英正道の発言 (憲法調査会最高法規としての憲法のあり方に関する調査小委員会)

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○英参考人 私は、約四十年間国家公務員として日本国憲法を遵守する生活をしたものでございます。六年ほど前に外務省を退官してからも、民間人として憲法問題、特にその前文について関心を持ち続けてまいりました。
 三年ほど前に思うところがございまして、ある総合雑誌に「まず憲法前文の改正を論じよう」と題する一文を寄稿いたしまして、掲載されました。これがきっかけとなりまして、一昨年の六月に、ある出版社から、特に若い人たちに読んでもらおうと、「君は自分の国をつくれるか 憲法前文試案」を出版いたしました。
 今回、国権の最高機関でございます国会の、しかも民主主義の根底をなす代議制度を具現する衆議院に設置された憲法調査会から参考人として招致され、本日、この小委員会において、日本国憲法前文の改正問題について私の考えを述べさせていただける機会を与えられましたことは、一国民といたしまして身に余る光栄と存じ、深く感謝申し上げます。
 もとより、私は憲法を深く学んだ学者ではなく、一介の元公務員でございますので、果たして皆様の御参考になるようなお話ができるかどうか自信はございませんが、せっかくの機会をちょうだいいたしましたので、簡潔に私の考えを申し述べさせていただきます。
 私が憲法前文の改正を提唱する理由は、大きく言って次の二つでございます。第一は、現在の前文は既にその役割を終え、私たち日本人は二十一世紀の日本にふさわしい新しい前文を必要としているということでございます。第二は、憲法改正を行うのであれば、まず前文から始めるのが適当であるということでございます。
 現行の日本国憲法の前文は、主権在民、国際の平和、普遍的な政治道徳などの立派な理念に満ちていて、敗戦後の日本に国民主権の思想を定着させ、民主的な諸制度を確立したという大きな功績があります。六十年ほど前に戦後の廃墟の中に茫然と立ちすくんだことのある私たちの世代の日本人に、この前文は輝かしい理想を示してくれました。戦後の目覚ましい復興は新しい政治理念とさまざまな改革に負うところが大きいと思います。
 しかし、民主主義が定着した後の日本に育った者、またこれから育つ者にとっては、今の前文は、日本の歴史、文化、伝統などについては全く無関心でありますので、どこの国の憲法の前文としても通用する、いわば無国籍の政治的な蒸留水のようなものに映るに違いありません。古い世代の人間がいかに愛着を持っていても、今の前文には若者をわくわくさせるようなところはありません。
 それは仕方がないことです。時は移り、社会は変化し、それとともに国民の求めるものも変わるからです。考えてみれば、ある世代の考えが長きにわたってその後の世代を拘束するというのは、不自然であるばかりでなく、むしろ非民主的であると言わざるを得ないのかもしれません。現に、どこの国でも、時代の要請に応じしばしば憲法改正を行っております。
 冒頭に申し上げましたように、私は、今の憲法、とりわけ今の前文がこれまでに果たしてきた肯定的な役割を否定するものではありません。しかし、今の憲法が一九四六年の十一月に公布されてから既に五十七年の年月がたっています。人間であれば還暦に近い長さです。今の憲法が公布された一九四六年からさらに五十七年昔にさかのぼりますと、一八八九年になります。これはまさに、旧憲法、すなわち大日本帝国憲法が発布された年でございます。その五十七年の間に日清、日露の戦争、第一世界大戦、第二世界大戦が戦われたわけでございます。五十七年という年月がいかに長い年月であるかがおわかりいただけると存じます。したがって、五十七年前の日本人の現行憲法の前文の受けとめ方と今の日本人の受けとめ方の間に隔たりがあることは当然のことでございます。
 適切な例えかどうかわかりませんけれども、今の憲法を食べ物に例えれば、賞味期限をかなり過ぎてしまったものと言えましょうか。食べられないことはないけれども相当に味が落ちている、もっと日がたつと食中毒になるおそれなしとしないということです。
 私は今の憲法をおとしめるためにこんなことを申し上げているわけではございません。むしろ、今の憲法に新しい息吹と活力を与え、この国がさらに前へ進むために憲法の前文の改正が適当であり、必要であると申し上げているつもりでございます。そのために、時代が何を求めているかを賢明に判断して、これを新しい前文の中に追加してほしいと考えるものでございます。
 率直に申し上げて、今私たち日本人はアイデンティティーの危機に直面し、自信を失っています。私は安易に英語を使うのは好きではございませんけれども、残念ながらアイデンティティーに相当する適当な日本語がございませんので、この言葉を使わせていただきます。意味するところは、自己の特質を確認するためのよりどころ、もう少し平たく言いますと、日本人はお互いの文化的、社会的な一体感を何によって確認しているのだろうかということであります。よく使われる表現であるこの国の形と同じような意味とおとりいただいて結構でございます。
 日本におけるこのアイデンティティー危機はなぜ起こったのでしょうか。それは、戦後の改革と言われるものが、天皇制を除き、日本の諸制度や伝統を悪いものもよいものも十把一からげに捨て去った、昨今はやりの言葉で言えばレジームチェンジ、つまり体制変革であったからであります。
 私は、そのことを象徴的に示すのが現在の日本国憲法前文であると考えています。そこには何らの日本性がありません。そもそも日本語としても決して美しいとは言えません。なぜそうなったかは本日の主題ではございませんので、ここでは深く立ち入りませんけれども、一口に言えば、普遍的な理念と制度を日本に植えつけるのに熱心な余り、国家意識や日本の伝統的な価値観は二の次に置かれたためであると申せましょう。
 憲法の前文は憲法の顔であります。お配りした資料に若干の国の憲法前文の例を挙げておきました。ごらんのように、ロシア連邦、中国、ポーランド、ベトナムなど、この二、三十年の間に新しい憲法を採択した国の憲法前文には、その国が誇りとするような自国の歴史、文化が個性的に述べられています。今の日本国憲法前文は日本の顔をなしていません。
 私は、憲法の前文に明確な日本のアイデンティティーを盛り込むことによって、私たち日本人は現在のアイデンティティーの危機を乗り越えることができると考えます。
 現在、多くの日本人は将来について大きな不安を抱いています。しかし、今の日本に欠けていますのは、物や金ではありません、夢と希望であります。人と同じように、国家も希望を失ったときに衰退いたします。今の前文は、この国の今の若者やこれから生まれ来る世代の日本人に夢や希望を与えることはないでしょう。
 日本が、明治維新、戦後改革に引き続く三度目の大変革期に差しかかっている現在、憲法の前文に日本の価値観や新しい理想を盛り込むことには大きな意味があります。これが、私が現行憲法前文の改正を適当とする第一の理由でございます。
 第二は、憲法改正における前文改正の戦略的な重要性です。
 いろいろな世論調査の結果では、既に国民の過半数が憲法の改正を希望していると言われています。そのような国民の意識の変化を背景に今回の憲法調査会が生まれているわけです。しかし、留意しなければならないのは、合成の誤謬でございます。憲法改正を望むすべての日本人が同じような内容の改正を求めているのではありません。環境権を憲法に追加することには賛成だけれども憲法第九条の改正には反対だという人がいるという問題でございます。
 日本人は、どちらかというと律儀で、完璧主義と整合性を重んずる国民性を持っておりますので、憲法の全面的な改正を目指すという落とし穴にはまる危険性があるような気がいたします。敗戦とか革命とか社会を根底から揺るがす大変動のときには、制憲会議を開いて新憲法をつくるということもあり得ましょう。しかし、現在日本がいかに危機的な状況にあるといっても、全面的な新憲法制定というのは非現実的です。議論のあげくにすべてかゼロかという選択に陥り、結局、従来同様に何も変わらないで終わることになる危険があるのではないでしょうか。
 したがって、私は、憲法を改正する道筋としては、国民の間に広範な合意が存在するところから、部分的、段階的にこれを行うのが現実的であると確信いたします。それが世界の通例であり、常識でもありましょう。
 段階的な憲法改正を考える場合には、当然のことながら、重要性、緊急性、難しさなどを勘案した上で、優先順位の設定をすることが不可欠です。それは、政治家のお仕事であり、責任でもあります。私は、個人的には、憲法前文こそ、まず改正の対象として議論するに最も適した分野であると考えるものでございます。
 現行憲法には改正条項がありますが、改正のための関係法令の整備はまだ全くなされていません。明治憲法も現行憲法も、いずれも国民に上から与えられたものでありますが、国民の手による改正されたことのない、いわゆる不磨の大典であります。つまり、私たち日本人は、一度も真の意味での憲法改正の経験を持たないのです。
 日本の教育水準は高く、国民の政治意識も健全です。国民投票を経ていない憲法は、このような日本にふさわしくありません。また、国際的に、国民が直接的に選んだ憲法のもとの政府は高い正統性を持つと考えられます。私は、この国が一日も早く、日本人自身による国民投票を経た憲法を持ちたいと切望するものでございます。
 不磨の大典を誇るのではなくて、この問題には少し肩の力を抜いて取り組んで、まず一度、憲法改正の経験を持つことが賢明でありましょう。
 一般国民にとって、憲法というのは、民法や刑法と異なって、私たちの生活に直接かかわっていません。現実問題として、私たちがまれに憲法を持ち出すのは、憲法違反だとして何かを問題にするときだけといってもよいと思います。つまり、憲法が私たちにかかわり合いを持つのは、私たちを守ってくれると考えるときが多いのです。そのため、憲法改正と聞くと、何かいいものがとられてしまうのではないかというおそれが生まれて、本能的に身をすくめるわけでございます。
 ですから、国民合意の存在するところから憲法の改正を行って、いわば憲法改正になれて、憲法改正によって何か貴重なものが失われるのではない、そういうことを理解してもらうということが重要と存じます。それには、だれでも議論しやすく、いい意味であいまい性のある憲法前文から始めることが最適ではないでしょうか。
 私は、日本における最初の憲法改正においては、憲法の前文を書きかえるだけでも比類のない大きな意義があると考えるものでございます。
 次に、憲法前文を改めるとした場合に、新しい憲法前文に果たしてもらいたい役割についての私の考えを申し述べます。私は、大別して五つの役割があると思います。
 第一は、日本の伝統と文化の上に立つこの国の形を示す役割でございます。
 私は、日本国民が自分たちの憲法に誇りと愛着を持つことが極めて大事であると考えます。私たちがこれこそ自分たちの憲法であるという意識を持つためには、その前文において、日本の歴史、価値観、伝統、文化などが述べられていることが重要であると思います。
 このような日本のアイデンティティーに到達する一番の早道は、先祖返りをするのではなくて、過去が投影されているこの現在を、私たちがよく見詰めることによって、日本人の特性を見つけ出すことであると思います。
 過去から連綿と受け継いできた日本人の伝統の中で、何を将来に引き継いでいくべきかを考えることから始めてはどうでしょうか。
 憲法の前文にこのような日本のアイデンティティーが反映されれば、国民は今とは違った目で憲法を見るようになるでありましょう。
 第二は、将来に向けて日本の進路を示す役割でございます。
 急速で広範なグローバリゼーションの進展から、二十一世紀において、日本は過去のいずれの時代よりも規模の大きい急速な変化を体験することになると予想されます。変化に対応するために私たちが変わらなければ、日本は取り残され、衰退していく運命をたどるでありましょう。日本人は外界の変化に適応することの巧みな民族ではありますが、問題はその速度です。
 今の日本は、アイデンティティー危機にあるだけではなく、戦後つくられた諸制度が制度疲労を起こして、機能不全に陥っているところが少なくありません。近年、ほとんどの識者が改革の必要を訴えていますけれども、日本人は基本的に保守的で余り変化を好みません。
 新しい憲法前文は、グローバリゼーションが進む中で、日本人はどういう心構えで未来に対処しなければならないかを示すという役割を果たせると思います。私が特に重要であると考えますのは、グローバリゼーションが求める変化の中における国家の役割の変化であります。二十世紀は国家主権が至上のものとされた特異な世紀でした。国家はその領域の中で国民を統治するとされ、各国国民が何ら望んでいなかったにもかかわらず、二つの世界大戦が戦われ、非戦闘員の大量殺害が正当化されました。
 国際社会は、不幸な経験から学び、貿易や国際金融をできる限り自由にする制度を築き上げたり、武力行使を厳しく制限したり、環境破壊を減らすような国際合意をつくったりしています。多くの分野にわたり、国家は次第次第に勝手に行動できなくなってきています。つまり、国家主権に対する制限は次第に増大する傾向があります。欧州連合のように、幾つかの国家が主権の一部を自発的に他国との共同処理にゆだねるということも始まっております。
 このような流れの中で、日本が今後孤高を維持するということなどは到底できないのは明らかであります。むしろ日本は、グローバリゼーションの結果、必要となってくる国家主権への制約を積極的に受け入れるべきなのではないでしょうか。私は、新しい憲法前文の中で、日本と日本よりも上位の存在である地球社会との関係についての長期的な視点に立った考え方をはっきりさせておくことが必要と考えます。
 第三は、日本における現在の閉塞感を打ち破る活力を与える役割です。
 近年の流れとして、日本人の国家への帰属意識は次第に希薄になってきています。反面、国民の間には、特に若い世代の人たちの間には、国際平和、環境保護、途上国の進歩達成、人口問題などという地球が直面する諸問題への関心が強くなっています。
 私は、このような意識の中に潜む先端性を積極的に評価したいと思います。不思議なことですけれども、現在の日本には、世界で最も進んだ憲法を議論する素地が存在していると言えましょう。
 私は、現在の閉塞状況から逃れたいとする余り、先祖返りを図りたいという安易な気持ちが生まれることを恐れます。将来の日本に危険な国粋主義や陳腐なルサンチマンが生まれることを防止するためにも、前向きの時代認識の構築に向けて、国民的な英知を集める必要があると思います。
 私は、今の日本には、逆境をばねに、国民のよりどころとなる健全で前向きな日本の理想についてのコンセンサスを築く絶好の機会が存在すると考えます。このような議論が憲法改正を機に盛んになることを期待します。そして、新しい時代認識となる高邁な理想を新しい憲法の前文に新たにうたうことができればすばらしいことだと思います。
 第四は、世界の中における日本の座標軸を明らかにする役割であります。
 座標軸は、歴史認識と世界認識で決まります。明治以降の日本人は、欧米列強に追いつき追い越す政策を国を挙げて追求してきました。明治以降の日本人の意識は、他文明との間の優劣に一喜一憂するものであったと思います。最近でも一九八〇年代に、日本経済の勢いが著しかったころの日本人は、外国でも肩で風を切るようなところがありました。しかし、バブルが弾けると、今度はしゅんとなってしまいました。日本人自体は何ら変わらないのに、いわゆる失われた十年以前と現在の間の日本人の心理状態の際立った変化は少し異常であります。
 自国の文化に自信を持っていれば、少しぐらい経済が浮き沈みしても平気でいられるはずであります。日本人が外国に対してむやみに居丈高になったり卑屈になったりするのは、自信欠如のなせるわざであります。
 明治以降、外国から学ぶに熱心な余り、日本人は、学ぶものがなければその国を尊敬しないという習性を身につけてしまったのではないでしょうか。そもそも、学ぶことがないと考えるのは慢心であります。文化は経済や科学技術とは違うのであって、それぞれ個性的であります。経済指標だけをもって世界を階層的にとらえるのは間違っていますし、危険でもあります。
 世界の多くの文化を並列的に見るべきで、一つの文化が他の上に立つと考えるべきではありません。文化人類学者のルース・ベネディクトが名著「菊と刀」の中で、日本人は伝統的に階層社会に住んでいて、各人が自分にふさわしい地位を占めることが重要と考えている、このような階層的な秩序を世界にも及ぼそうと考える傾向があると指摘したことを私は思い出します。
 私は、それぞれの民族にはそれぞれすぐれたところがあると考えることがこの問題を克服する上で有益であると考えます。日本の文化がすぐれているという意識を持つ一方で、他の諸国の文化もそれぞれその民族が誇りを持っていることを尊重しなければなりません。
 そこで、私は、文化多元主義という考えを前文に取り入れるべきだと考えています。それは、世界の諸文化、諸文明の間の同列性を認める立場であるとともに、幾つもの文化が一つの国の中で併存することに寛容でなければならないというものでございます。
 そのためには、まず日本人が日本文化を意識し、自分の文化に国民的な誇りを取り戻す必要があります。大陸の外縁に位置する島国の宿命から、古来日本人が外国文化の受容に寛容だったために、私たち日本人は、ともすれば中国文明や西欧文明に劣等意識を持つという文化的な性癖を持ちます。私たち日本人は、ブルーノ・タウトに桂離宮の美を指摘されなければそのすばらしさがわからない、欧米人が評価しなければ浮世絵も包み紙として散逸させてしまったかもしれない、情けないところのある国民であるようです。
 このような文化多元主義の考えを取り入れれば、一部のアジア地域にいまだに強く残っている日本のアジア支配への疑念を克服することに役立つかもしれません。それは、とりもなおさず、健全な歴史認識につながります。
 一九三〇年代から四〇年代にかけて日本の指導者が声高に唱えた八紘一宇の思想は、世界を日本のイデオロギーのもとに従属させる主張であったと国際的に理解されています。誤ったこの日本主義は、自国民を悲惨な戦争に駆り立てただけでなく、近隣諸国民にも大いなる災厄をもたらしました。北東アジアの隣国においては、この記憶はまだまだ長く続くでありましょう。残念なことですけれども、愚かな政策を推し進めた世代から幾世代も経た将来世代にも、その愚行のツケは回っていくのです。
 私たちは、将来の世代が負い目を背負って生きることのないようにあらゆる努力をしなければならないと考えます。新しい憲法の前文で文化多元主義を掲げることにより、日本は最終的に、他民族、他文化支配を試みた過去を克服することができるのではないでしょうか。
 日本が国際社会の中で他国に脅威を与えず、他国に侮られないで、自然体で生存を続けるためには、抽象的な国際主義を掲げるだけでは不十分でございます。みずからに誇りを持ち、他国も尊重するという姿勢が明確に示されなければなりません。諸国民が持つそれぞれの固有の文化を尊重するという文化多元主義の考えは、二十一世紀の日本に一つの重要な座標軸を提供することになると思います。
 第五は、包容力と普遍性のある日本の理念を掲げる役割であります。
 新しい憲法前文が掲げる理念が普遍性を持つべきであるという考えには、異論を唱える方がいらっしゃるかもしれません。日本人の憲法なのだから、日本人にとって大事なことだけを書けばよいので、それが外国に通じるかどうかなど心配する必要はないという反論であります。また、憲法は文化的な宣言ではなく、国家の構造を規定する基本文書であるから、文化が入り込む余地などはないのではないかと考える方がいらっしゃるかもしれません。
 憲法が対象とする日本社会は、その構成員の大部分が日本語を話し、日本の伝統的な価値観を持つ日本人が住む社会であります。しかし、日本社会は静止していた社会ではなくて、過去に中国文明、西欧文明、米国文明などの影響を受けてきていますし、海外から人の流入もあります。私は、異文化の受容の点では、日本社会は、特に際立った寛容さを示してきたと考えます。歴史的に、指導者層も庶民も新奇なものを好む傾向があり、このことは今も少しも衰えていません。
 グローバリゼーションが進めば、外国文化や外国人は、今後ますます日本社会へ流入するでありましょう。異なる文化的背景を持つ者が日本社会の中にふえる結果、日本社会は活性化することは疑いを入れません。
 しかし、将来にわたって日本に調和のある社会を維持するためには、日本人は、外国人を日本社会の中に包摂していく積極的な努力をすることが求められます。それにもかかわらず、日本においては、外国人を受け入れる制度的なインフラは不完全であります。例えば、義務教育、年金、医療などについて、外国人は差別される傾向があります。日本に暮らす外国人についても、憲法の規定は準用されるべきであります。特に、永住権を取得し、日本に暮らすことを選択する外国人には、できる限りの配慮がなされなければなりません。
 長期的には、これらの永住外国人が日本国籍を取得することを私たちはもっと歓迎しなければなりません。しかし、私は、定住外国人に地方レベルの選挙権を付与するということを考える前に、日本はもっと実態面で外国人に対する差別をなくしていかなければならないと考えます。外国人のための諸制度を完備することが先で、いきなり選挙権という高度に政治的な問題が出てきたことは、真の問題の解決から目をそらすもので、むしろ不幸なことだったと考えます。
 特に教育については、国籍を問わず、義務教育レベルの日本語の話せない子女を日本の学校が受け入れることを直ちに積極的に推進しなければなりません。
 外国人の日本社会への同化は、日本人が掲げる価値観や理念が、日本文化の上に立ちながらも普遍的な合理性を持っている場合には、一層容易になるでありましょう。
 こう考えますと、新しい憲法の前文は、国内にあっては、日本人に異文化との関係に指針を与えるだけではなく、同時に、国内に居住する非日本人、さらには新たに日本社会に加わる外国人にも意味を持つものでなければなりません。新しい憲法の前文が掲げる政治哲学、価値観は、いかなる文化圏から来た者にとっても受け入れられる普遍性を持ったものでなければならないと考えます。
 日本人が求める価値観が人類共通の規範に合致すればするほど、日本異質論は後退していきます。したがって、私たちがこれから新しい憲法の前文に掲げることの多くが、普遍性を持ち、そのゆえに外国人に容易に理解されるということは、大変に重要なことなのであります。
 さらにもう少し考えを進めれば、普遍性のある価値観を掲げるにとどまらないで、他の文化圏においていまだ認知されていない先進性を有する価値観をも包含することが一層望ましいと思います。比喩的に言えば、諸外国から優秀な人間がその価値観を慕ってどんどん日本に来て、究極的には日本国民となることをいとわないような理念を掲げようということであります。
 ローマの迫害の中で愛と福音を説いたキリスト教が、次第次第にローマ世界を超えて広く全世界に伝播していったように、日本が掲げるそういう理念が、近隣諸国に安心を与えるだけでなく、歴史の中で認知され、次第に普遍性を持つことがあり得るかもしれない、そういうぐらいの気宇と夢を持ってよいのではないでしょうか。
 私は、なるたけ早く憲法前文の改正を行っていただきたい。そのために、今申し上げた五つの役割を前文には果たしてもらいたいと申し上げました。では、具体的にどういう内容を盛り込めば、そのような役割を前文が果たすことができるかということを申し上げたいと思います。
 お手元にお配りしてあります私の試案、試みの案でございます。これはあくまでも参考程度の私案、私の案でございます。私の考えを具体的な前文の形で示さないと、私が申し上げていることのイメージをおつかみいただけないと思ったからであります。別の内容を取り込むべきであるという御意見ももちろんあると思います。あくまでも参考程度でありますので、この御説明は簡単に申し上げます。
 一つは、日本の伝統と文化についてです。
 私は、日本人の四季と花鳥風月をめでる心、生活の中に文化があるということ、自助努力、教育重視と物づくりの伝統、和の重視などが日本の伝統と文化であるという意見です。具体的には、
   美しい自然と変化に富む四季に恵まれた日本に住む私たちは、古くから自然との共生、生活の中の文化や社会における調和を大切にした国柄を育んできた。
   勤勉と自助の精神を尊び、他人の気持ちを思い遣るのは日本人の美風である。
 第二は、主権在民、民主主義、人権の尊重というような点についてでございます。
 日本的な民主主義の本質は、コンセンサスの重視であると私は思います。ですから、具体的に、
  すべての国民は等しく平等であり、このような国民の意思を体して、和を重んじる政治が行われなくてはならない。この憲法は民主主義と基本的な人権の尊重の上に、公平で平和で豊かな国民の生活が、将来に亘って確保されるように制定されるものである。
 三番目は、地球社会の中の日本、相互依存の認識というような点について、
   人口の増加、科学や技術の発達の結果、地球は狭くなった。地球の環境を保全するとともに、有限な資源を諸国民と分かち合い、争いを避けることが必要になっている。国際的な平和の維持と繁栄の確保のために、いかなる国も勝手な行動を控え、協力し合わなければならない。そのためには国家主権を世界の大義のために制限することも必要になろう。私たちは、公平と相互主義の原則が満たされる場合は、国民の意思に基づいて、このような制約を受け入れる用意がある。
 四番目は、文化多元主義でございます。
 諸文化の間の相対性の認識、世界史における日本の果たすべき役割について、次のようなものを考えています。
   私たちは個性的な日本の文化を誇りにしているが、同時に世界の諸国民の文化の間には優劣はないと信ずる。歴史を振り返れば日本人は外国文化の摂取に常に寛容であったし、今後もそうあり続けたいと思う。
   私たちは日本の文化遺産を将来の世代に引き継がなければならない。同時に世界の優れた文化遺産を後世のために残す作業にも積極的に参加すべきである。
 五番目が、平和の至高性と国際協調でございます。
 私は、憲法改正すなわち第九条改正、すなわち平和主義の放棄ではないということを強調したいと思います。日本は既に平和愛好国でありますけれども、平和の維持にも責任があるという基本的な立場です。具体的には、
   私たちはその歴史から平和の尊いことを学んだ。自ら平和を脅かす行動をとらないだけでなく、私たちは世界の平和の維持のために積極的に貢献しなければならない。
 そして最後に、
   私たちは国家の名誉にかけて、逞しくこの憲法が掲げる理想を求め、実現することにより、世界のなかで尊敬をかち得たいと希望する。
こういうふうに結びたいと思います。
 これは全く私の案でございますので、御参考までにと申し上げたわけでございます。
 最後に、新しい憲法前文が持つ教育効果と、それからその作成をどうするかという点について、若干、私の考えを申し述べさせていただきます。
 よく外国人などから、日本はどういう国ですか、子供から、日本て何ですかと聞かれます。こういう前文がもしあれば、一通りの説明はだれでもできるわけであります。特に、普遍性を持たすということを留意すれば、外国人にも日本のアイデンティティーがよくわかるということではないでしょうか。
 しかし、最も重要なのは、中学校や高等学校で前文を教材にしてさまざまな議論を進めることが可能になるということでございます。日本の伝統や文化とは何だろうか、社会と個人の関係はどうあるべきか、社会における調和とは何だろうか、日本の文化は世界の諸文化とどこが違うんだろう、地球社会の未来と日本のかかわり合い、歴史から何を学ぶべきだろうか、こういうことを議論する国民共通の基盤ができることを意味するのではないでしょうか。こういう意義は大きいと思います。
 だれもが一度は公民教育で勉強しなければならない憲法が、国民のアイデンティティーを確認する教材となるわけでございます。明治憲法のもとの教育勅語は、ある意味では日本人の倫理を確認する役割を果たしていましたけれども、いかようにしても、これに類するものを今つくり得ません。それならば、既に存在する文書である憲法前文を、そういう役割を果たすものとして書き直すことにしてみてはどうでございましょうか。きっと、新しい憲法前文は生き生きと働き出すと思います。
 最後に、もし憲法の前文を改正するということになった場合に、ぜひ御検討いただきたいことがございます。それは、新前文作成の過程に国民を最大限に参画させていただきたいということであります。
 国民が新しい憲法の前文作成の作業を自分のものと考えるかどうかは、極めて重要な意味合いを持ちます。国民が、新しい憲法前文を、まただれかがどこかで議論してつくったというふうに人ごとのように考えないように工夫をすることが賢明でありましょう。それには、最後に国民投票にかけるだけではなく、その作成過程にもできる限り国民を参加させることでございます。
 例えば、私が考えるのはこういうようなやり方でございます。
 まず第一に、憲法の前文にいかなる理念を盛り込むべきか、立法府が広く国民から意見を徴することはいかがでしょうか。これを行うのは、憲法検討のための、両院に何かの組織がつくられれば、その機関が適当でありましょうし、両院の憲法調査会の合同会議のようなものが適当かもしれません。そうでなければ、解散されることのない参議院がこういう作業の主体となるのも一案でございましょう。
 こういう作業を通じて、ある者は環境権の重要性を前文に取り込むべきだと主張するかもしれませんし、また、国民の権利と義務の間の均衡を図る趣旨を入れるべきだということを指摘する方もいらっしゃるでしょう。こういう全国民的な議論の中から、立法府が、多くの国民が重要と考える理念とか思想を抽出して、このうちどれを憲法前文に含めることが適当であるかを議論されて、決定を行うわけでございます。
 次の段階では、立法府がこのように決定した理念や思想を含む、美しい日本語で書かれた憲法前文の文章を国民から公募することを提案いたします。その中から幾つかのすぐれたものを選び、最終的にはそれらを参考にして、立法府が最終的な前文案を確定するということでございます。
 この作業は手間がかかるかもしれませんけれども、憲法の条文についての憲法調査会の議論と並行して進めることができます。その結果、新しい憲法の意義について国民の関心が高まるでありましょう。自分が作成に参加した前文に国民は興味と愛着を感ずるでありましょう。また、この作業は、いよいよ日本は変わるのだなという実感を国民に与えるでありましょう。
 日本の歴史において初めて、この国に住む国民がみずからの手で自分たちの国のあり方を確認するのであります。必ずや、今の深い混迷からこの国を抜け出させる活力が生まれてくるものと確信いたします。
 御清聴感謝申し上げます。ありがとうございました。(拍手)

発言情報

speech_id: 115604189X00520030703_002

発言者: 英正道

speaker_id: 8473

日付: 2003-07-03

院: 衆議院

会議名: 憲法調査会最高法規としての憲法のあり方に関する調査小委員会