北川善英の発言 (憲法調査会公聴会)
⚠️ コピーしたテキストを転載する際は、転載元URL(kokkai-data.com)および原典URL(kokkai.ndl.go.jp)を必ず残してください。発言内容の改変・出典削除は禁止です。
詳細は利用規約をご確認ください。
○公述人(北川善英君) 北川でございます。本日は、貴重な機会を与えていただきまして、感謝申し上げます。
早速、三つの意見の要旨のうちの第一番目、国際社会における平和主義の歴史というところから話をさせていただきます。
まず、十九世紀までの国際法においては無差別戦争観が採用されていました。そこでは、戦争の原因についても、戦争の決定あるいは開始についても各主権国家の自由であったわけです。したがって、そこで専ら問題になったのは、著しく残虐な行為あるいは中立国の権利侵害だけを規制する交戦ルールの制定ということであったわけです。その意味では、戦争を一部に囲い込む、あるいは戦争の、これは括弧付きなんですが、合理化あるいは人道化というのが目指されたわけです。
このような十九世紀までの国際法においては、現在私たちが議論しているような国家の自衛権という概念は登場の余地がなかったわけです。
次に、二十世紀の国際法は、戦争の違法化、更に武力行使禁止へと大きく進みました。
周知のように、第一次大戦における大量殺りく兵器の登場、そして軍備拡大、この下で国際連盟が軍備縮小、紛争の平和的解決、集団安全保障、この三つの柱を立てて一時的な部分的な戦争の違法化に一歩を踏み出したわけです。
続く一九二八年の不戦条約では、国際紛争解決の手段として戦争を禁止すること、国家政策の手段として戦争を放棄すること、これを日本、当時の日本を含む調印国に義務付けたわけであります。ただし、この段階では、禁止される対象としての戦争は、あくまでも宣戦布告あるいは最後通牒という戦意表明があったものだけが戦争とみなされたわけです。したがって、宣戦布告もなく、最後通牒もないものは、言わば事変という形で戦争扱いはされなかったわけです。
そういう抜け道があったわけですが、他方で、ここで初めて例外的な正当化原因として自衛権概念が登場したということが注目されます。
第二次大戦後は、国連憲章が戦争という言葉を基本的には使わない、実態的な武力行使と武力による威嚇の禁止という原則を打ち出しました。例外的には二つの場合の武力行使が認められることになりました。一つは、非常に厳しい条件を付せられた下での個別的・集団的自衛権の行使です。このことは先制的な自衛権行使は認められないということを意味しております。他方で、安全保障理事会が決定した軍事的制裁、この二つであります。
いずれも、平和に対する脅威、破壊・侵略行為の存在が前提条件になっておりますが、問題となるのは侵略の定義をいかにするかであります。一九七五年の国連総会決議は、侵略の定義を攻撃と侵入という点に求めました。しかしながら、この国連総会決議は、あくまでも安保理事会の決定に対しては一つのガイドラインにとどまるという限界を持っています。
最後に、二十一世紀の国際社会と平和という問題を考える際、アフガニスタンとイラク、特にイラクに対するアメリカの攻撃というところで現代的な二十一世紀の問題は先鋭化した形で表れております。
これまでの十九世紀、二十世紀を通じての国際的な戦争と平和の流れ、ここから出てくることは、一方では先制的自衛権行使、他方で集団安全保障ということであったわけですが、アメリカの行動においては、先制的自衛権行使という点でも、一国単独行動主義という点でも、人類が二度の世界大戦に代表される膨大な犠牲の下で築き上げてきた二十世紀までの平和主義の流れにさお差すものである、むしろ十九世紀の無差別戦争観への先祖帰りであるというふうに言わざるを得ません。
他方で、膨大な戦略核、戦術核やクラスター爆弾を始めとする非人道的大量殺りく兵器を有し、かつ唯一実戦で使用してきた、そして今またイランや北朝鮮で使用している世界最強の軍事大国、それはアメリカ合衆国だけであるということです。
誤解を恐れずに申し上げますと、二十一世紀初頭の国際社会の冷厳なる現実、それはブッシュ政権こそが国際社会の平和にとって最大の脅威であるということです。人権と民主主義のためにアメリカの、正確にはブッシュ政権の武力行使が必要であるという議論もありますが、しかしそれは冷戦下に存在した社会主義陣営は平和的であり、資本主義陣営は侵略的であるというドグマの裏返しでしかないと言えます。
ところで、アメリカによるイラク先制攻撃は日米安保条約の観点からも問題があります。私自身は日米安保条約に対しては否定的な立場でありますが、日米安保条約を前提とした場合にさえ大きな問題をはらんでいます。
すなわち、日米安保条約の第一条は、平和的手段による国際紛争の解決、領土保全、政治的独立に対する武力行使の禁止、国際連合の目的と両立しない方法を慎むという国連憲章の規定を当事国である日本とアメリカ合衆国に対して義務付けています。このような日米安保条約の観点から申し上げましても、日米同盟関係の維持、そして国連中心主義というのは必ずしも両立できないものではなかった。すなわち、小泉首相のアメリカに対する支持表明は、必ずしも日米安保同盟という観点からいっても唯一の選択肢ではなかった、むしろ避けるべき選択肢ではなかったかと思われます。
さて、今回のイラク攻撃をめぐるヨーロッパ大陸諸国とアメリカ合衆国との間の対立は、ヨーロッパ諸国の政府首脳レベルを超えた市民の平和主義の表れという点で、また新たな平和主義の動向といった点で画期的なものです。
すなわち、戦後ヨーロッパでは、平和主義という言葉にはナチス・ヒトラーの侵略を許した腰抜けという消極的なニュアンスが与えられてきました。しかしながら、一九九九年のNATO軍、米軍も含みますが、NATO軍による旧ユーゴ空爆を機会として、平和主義には非軍事的な人道的介入という積極的なニュアンスが与えられつつあります。これは特にヨーロッパの国際法学者あるいはヨーロッパを中心とする国際的なNGO、例えば国境なき医師団など、こうしたところでコンセンサスを得つつある、そういう動向であります。
このような動向は、二十世紀までの国際社会における平和主義の流れと、旧ユーゴ空爆の結果という現実とを踏まえた二十一世紀の国際社会における平和主義の新たな動向であると言えます。それは次に述べます日本国憲法の平和主義に相通ずるものであると言えます。
次に、二番目の柱に移らせていただきます。
日本国憲法の平和主義の理解については、本調査会第六回会議の上田勝美、渡辺治両参考人の見解と私の見解、ほぼ同じくしています。ここでは、お二人の参考人の見解の中で触れられなかった点について述べさせていただきます。
それは、憲法前文で述べられている平和的生存権が持つ意味ということです。
第一に、平和的生存権の持つ意味は、国家の安全と市民の安全と自由とを峻別したというところにあります。すなわち、人類の歴史は両者の不一致を表しています。むしろ、前者が後者を犠牲にしてきた。言い換えますと、武力は国家の安全にとって有効であっても、それを構成する市民の安全にとっては必ずしも有効ではなかったということを表しています。それは沖縄戦という私たちの経験でも言えます。また、現にアフガニスタン、パレスチナ、イラクなどで起きている現象は正にそのことを指し示しています。
このことを自衛隊の陸幕の幹部、これは朝日新聞で引用されていますが、端的に表現されています。すなわち、自衛隊の任務は国家を守ることだ、それが国民の生命や財産の安全につながる、自衛隊は国民を守るためにあると考えるのは間違っている。正に軍隊というのは、正にそれを組織した抽象的な人工物としての国家を守ることはできても、個々の市民の安全を守ることは必ずしも任務としていない、こういう言い方をしています。
第二に、このような国家の安全と市民の安全との峻別ということは、日本国憲法全体の構造を非軍事的構造として成立させました。すなわち、戦争放棄、武力不保持、交戦権否認、このように国家の軍事作用を憲法から一切排除することによって市民の安全を確保している、確保しようとしているということが言えます。言い換えれば、非軍事的、平和的手段による市民の安全の確保が国家の義務であるとしていることです。
第三に、これは最も現在において重要なポイントであるわけですが、人類普遍の価値、理念の憲法化ということです。
すなわち、殺すな殺されるなということは人間が人間社会を作るに当たっての最初にして最大の基本的な価値であり理念であります。そのような理念を国内政治だけではなく国際関係においても適用しようとした、そのような国が我々の国の形である、そのように明示したものであると考えます。
別な言い方をしますと、我々は果たして子供や若者に対して人を殺すなと責任と自信を持って言えるであろうかということです。国内では犯罪である、しかしながら国外では、国際関係では殺人は許される、そのようなダブルスタンダードで果たして子供や若者に人を殺すなと言えるであろうかということであります。
この点に関連しまして非常に参考にすべき材料があります。すなわち、欧米の研究では日本の若者の殺人犯罪率は極めて低いということが話題になっております。すなわち、五分の一から八分の一の発生率です。この原因として、アメリカの研究者は日本国憲法の平和主義と戦争への不参加による心理的影響というものに注目しております。
このように、私たちは半世紀以上一人の戦死者も出してこなかった。そのような九条を維持してきたことにやはり自信と誇りを世界に対して持つべきではないであろうかということであります。
最後に、三番目の柱に移りますが、二十一世紀の我が国の平和主義と安全保障。
ここで申し上げたいのは、第一に日本の地政学上の位置とそこから来る現実的脅威の可能性です。
中国、ロシアという核保有大国があり、他方で核保有を断念した韓国、台湾、そして世界最大の軍事大国の精鋭部隊を日本、韓国に駐留させるアメリカ、このような地政学的な状況の下で現実的な脅威というのは、極めてせっぱ詰まった暴発以外にはあり得ないだろう、あるいはミサイル、爆撃機による威嚇しか存在しないだろうということです。しかも、そのような威嚇あるいはせっぱ詰まった暴発というのは、アメリカの戦争シナリオの発動におびえた形で行われる確率は極めて高いということであります。
そうしますと、第二で言えることは、最も現実の可能性として高い脅威というのは、アメリカの戦争シナリオの実施、そこに日本が関与していく、それによって日本の有事が生まれる、このようなものが恐らく唯一であろうということであります。すなわち、日米安保同盟、周辺事態法、テロ対策特別措置法による自衛隊の兵たん支援活動が、武力攻撃事態法案が定める武力攻撃予測事態、そして武力攻撃事態と連動することによって日本の有事は生まれるのではないのかということです。
最後に、そのような日本の地政学上の位置、現実のあり得る脅威、その下で日本は何をなすべきか。基本的には、世界の大多数の人々が普通に生き、生を終えるということを至上価値とする点から、大国中心の武力による平和ではなく、武力によらない平和、大国の独走に歯止めを掛ける平和構想、それが目下の急務ではないでしょうか。
以上で終わらせていただきます。