野坂泰司の発言 (憲法調査会基本的人権の保障に関する調査小委員会)

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○野坂参考人 ただいま御紹介にあずかりました学習院大学の野坂でございます。
 本日は、このような機会を与えていただきまして、まことにありがとうございます。
 早速ですが、本題に入らせていただきます。
 お手元のレジュメに従いまして話を進めたいと存じます。
 私に与えられました課題は、市民的、政治的自由、特に、思想、良心の自由、信教の自由、政教分離原則について意見を述べることでございます。
 一口に市民的、政治的自由と言っても一様ではありませんが、このうち思想、良心の自由、信教の自由は、いわゆる内心の自由、内面的精神活動の自由としての性格を持つところに特徴がございます。そのような内心の自由としては、さらにほかに学問の自由、憲法二十三条で規定されておりますが、これがございますが、本日はそこには立ち入りません。これらの内心の自由は、外面的精神活動の自由、表現の自由、これは、政治的な表現の自由もあれば宗教上の信条の表明というようなこともございますが、その基礎となる重要な人権であります。政教分離原則は、信教の自由の保障を確保するために導入された原則であり、それ自体は人権ではないのですが、信教の自由と一体的にとらえられるべきものであるというふうに考えております。
 日本国憲法は、十九条で思想、良心の自由を、二十条で信教の自由と政教分離原則を規定し、さらに、八十九条で財政的な側面から政教分離原則について規定しております。以下においては、これら憲法の規定が意味するところを明らかにしつつ、我が国においてその趣旨が訴訟等を通じてどこまで実現されているのか、あるいはいないのか、また、そこにはどのような問題があるのかといった点を検討してまいりたいと存じます。
 それでは、レジュメの2のところですが、憲法十九条、思想、良心の自由のところへ入ります。
 まず、思想、良心の自由の意義でございますが、思想と申しますのは、一定の価値観に基づく体系的な思考や信念、いわゆる主義主張、世界観、人生観などを指す、また良心とは、事物や自己の行動の是非について判断する内心の作用を意味するというふうにいたしまして、両者を一応区別することが可能であろうと思います。良心とは倫理的性格を持った思考ないし内心の状態、思想とはそれ以外の論理的思考として区別されることもございます。これは、かつて宮沢俊義先生が区別された考え方でございます。しかし、両者は重なり合うところがありまして、しかも、ともに憲法十九条で保障されております以上、あえてこれを区別する実益はないものと思います。
 むしろ重要なことは、思想、良心の自由、より広い意味の思想の自由というものが、人間存在の根源にかかわる自由だということでございます。言うまでもございませんが、人は、物を思い、考える動物であります。精神活動を行う存在です。思想、良心の自由は、人が人たることに基づいて享有する天賦人権の最たるものと言うこともできましょう。そうであればこそ、思想、良心の自由が憲法上保障されたことの意義は大きいと言えると思います。
 憲法十九条成立の背景でございますが、言うまでもなく、思想、良心の自由が日本国憲法に規定されるに至ったのは、明治憲法下において思想の自由が抑圧されたという苦い経験への反省に基づくものであります。治安維持法による思想調査の実施とか思想犯の処罰ということはよく知られた事実であります。
 また、そもそも明治憲法には思想の自由を保障した規定そのものが欠落しておりました。もとより明治憲法の二十九条は言論の自由を規定しておりましたので、思想の自由も、それ自体は規定されていなくても、当然に前提とされていたはずだというふうに言えなくもありません。
 しかし、明治憲法下における言論の自由は、あくまでも「法律ノ範囲内ニ於テ」という法律の留保つきで、日本臣民に対して保障されていたものであります。すなわち、明治憲法第二章の臣民の権利は、十九世紀的なドイツ型基本権にならって、初めに国家ありきというところから出発した後国家的な権利であります。国家の後の権利ということです。だからこそ、法律による制限もまた可能であったわけです。
 つまり、臣民の権利は、人が人たることに基づいて生まれながらにして持っている権利、いわゆる前国家的な自然権、天賦人権とは全く異なる論理構造を持つものでありました。すなわち、万能の国家権力が自己制限を行ったことの反射として国民に自由な領域が与えられるという構造になっていたわけであります。それゆえ、天賦人権の最たるものとも言える思想の自由が、言葉の真の意味において明治憲法で保障される余地は元来なかったのだというふうに言えましょう。
 その意味では、思想の自由の確立を求めたポツダム宣言の十項であるとか、思想の自由を制約する一切の法令の廃止というものを求めたGHQの自由の指令というものには歴史的な根拠があり、日本国憲法十九条が「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。」と規定したのは、このような過去からの決別を宣言したものというふうに受け取ることができると思います。
 そこで、思想、良心の自由の位置づけでございますが、日本国憲法十九条のように、思想、良心の自由を独立に規定した例というものは、諸外国の憲法を見ますと、実は余りございません。一九八七年の大韓民国憲法は、二十条の「宗教の自由」とは別個に、十九条で、たまたま同じ十九条ですが、「すべて国民は、良心の自由を有する。」というふうに規定しております。しかし、これはむしろ珍しい例でございます。
 確かに、西欧諸国の憲法では、良心の自由を信仰の自由と同列に規定する例が多く見られます。恐らく、これらの諸国、これはキリスト教国でございますが、世界観、人生観の核心を宗教的信念が占めているということからそのような傾向が生まれたのではないかと思われます。しかし、今日では、同一の条項で保障される場合でも、宗教的な意味にとどまらず、世俗的な意味の良心の自由が保障されているのだという理解が広がりつつあるようでございます。
 既に、一九四八年の世界人権宣言の十八条は、「すべての人は、思想、良心及び宗教の自由に対する権利を有する。」というふうに規定しております。一九四九年のドイツ連邦共和国基本法四条一項には、「信仰、良心の自由、並びに宗教上及び世界観上の告白の自由は、これを侵してはならない。」というふうに規定しておりますし、それから、一九九九年のスイス連邦憲法の十五条一項には、「信仰及び良心の自由は、これを保障する。」と規定されているのですが、これらは必ずしも、そこで言う良心というのは宗教上の良心というふうにとらえられているわけではございません。
 その意味では、日本国憲法十九条で、二十条とは別個に思想及び良心の自由を規定することには何の問題もありませんし、むしろ適切であるというふうに思われます。信仰の自由や宗教的良心の自由については憲法二十条で保障されているのだとしましても、十九条からそれらの自由を排除すべき必然性はなく、十九条において、宗教的信条をも含めて、包括的に内面の思想の自由というものを保障したものであるというふうに解すればよいというふうに思われます。
 そこで、思想、良心の自由の保障と限界に進みたいと思います。
 思想、良心の自由を侵してはならないというのは、人は内心においてどのような思想を抱こうと自由であり、国家はそれを制限したり禁止したりすることは許されないということを意味します。人の内心には国家権力といえども立ち入ることはできません。しかし、であればこそ、歴史上国家権力は、拷問などさまざまな手段を用いて思想、信条の告白を迫ったということでございます。それゆえ、憲法で思想、良心の自由を保障するということの意味は、まず何よりも思想の告白強制を禁止するというところにあるというふうに言えましょう。いわゆる沈黙の自由の保障ということでございます。そしてさらに、ここには、思想を推知せしめる具体的事実や知識の探知というものを禁止する、そういうことも含意されているというふうに見なければならないと思います。さもなければ、思想、良心の自由というのは大きな脅威にさらされるということになるでありましょう。
 この点に関しまして、最高裁判所は、三菱樹脂事件、これは学生運動歴等を秘匿する虚偽の申告をしたということを理由に、試用期間満了直前に本採用を拒否されたということを不当として争った事件でございますが、この事件におきましては、最高裁は、人の思想、信条とその者の外部的行動との間の密接な関係というものを指摘いたしまして、外部的行動に関する事実を尋ねるということは直接、思想、信条の開示を求めるものではないが、さればといって、その事実が思想、信条と全く無関係のものであるとも言えないということを認めておりました。三菱樹脂事件では、最高裁は、結論的には、使用者が雇い入れに際して労働者に思想、信条に関係する事項の申告を求めても違法ではないといたしました。雇い入れ後に思想、信条を理由に解雇することは違法となる、そういう判示をしておりました。
 レジュメに書きました東電塩山営業所事件というのがございますが、この事件では、雇い入れ後に労働者に対して思想、信条に関係する事項の申告を求めたということでございますが、解雇等の不利益取り扱いを伴うものではなかったのでございます。この事件では、営業所長が労働者に対し共産党員であるか否かということを尋ね、これを当事者が否定しますと、では党員ではないということを文書で提出するようにというふうに求めたのでございますが、最高裁は、返答を強要したわけではないとして、違法性を否定いたしました。
 さらに、麹町中学内申書事件という事件がございますが、内申書の不利益記載のゆえに本来の志望高校へ進学することができなかったとして争った事件、有名な事件でありますが、この事件では、内申書に外部的な行動について記載しても、それによって思想、信条を了知し得るものではない、したがって、思想、信条自体を入学者選抜の資料に供したことにはならないのだとして、訴えを簡単に退けております。
 前の二つの事件は、いわゆる私人間の事件であります。憲法十九条が直接適用される問題ではないとする見解が実は多数説でありますが、しかし、このことは、憲法の基本的人権が専ら対国家的な権利であるという趣旨を述べていることでございまして、十九条に規定されたからといって、私人間において思想、良心の自由というものが主張できなくなるとか、あるいは存在しなくなるという趣旨ではございません。当然、私人間においても思想、良心の自由というものの侵害が問題となり、その問題状況に変わりはないというふうに言えると思います。
 今御紹介した後の二つの判決というのは、学界でもかなり批判されておりますが、いささか内心の自由に対して、また、それを外から探知するという問題に対して、やや無神経な判断ではないか、問題があるというふうに思われます。
 憲法十九条は、思想に基づく不利益の賦課や差別的取り扱いを禁止しております。これは、信条による差別を禁じた憲法十四条とも重なり合うものであります。この点に関しましては、例えば、特定の政党の党員であることに基づいて企業内で差別的処遇が行われるというようなことが問題になった例がごく最近でもございます。これについては、下級審でも違法とされる判断が出ております。
 また、しばしば、裁判官の任官拒否とか再任拒否問題に際して、思想、信条が問題になっているのではないかということが疑われたりしておりますが、もちろん、そういう内心を理由としての拒否ということであれば当然問題になるのですが、現在は下級裁判所裁判官指名諮問委員会というものでよく検討しておりますし、恐らくそのようなことはないだろうというふうに考えております。
 なお、この点に関して、レジュメに参考としてヘイトクライムの加重処罰ということを書きましたけれども、これは我が国では見られませんけれども、アメリカの例で、人種的な憎悪や偏見に基づく犯罪に対して通常の場合よりも重い処罰をもって臨むということがございます。この種の法令について合衆国最高裁は実は合憲だという判断を下しているのですが、人の内心の思想を評価して通常の場合と異なる取り扱いをするという点で問題がないとは言えません。
 憲法十九条は、自己の思想、良心に反する行為の強制も禁止しております。この点に関する判例としては、レジュメに書きました二つの事件が代表的なものですが、強制加入の公益法人内部の決議にかかわる事件というものがございます。南九州税理士会事件というのは政治献金目的での特別会費の徴収であり、群馬司法書士会事件は大震災からの復興支援目的での特別負担金の徴収の事案でございましたが、最高裁は、前者については会員の思想、信条の自由との関係で問題があるという指摘をいたしました。後者については自由の侵害を否定しております。これも、いずれも私人間の事件でございます。
 いわゆる良心的兵役拒否、これが内心の問題としてはよく出てくる典型的な問題でございますが、我が国には兵役の義務がございませんので、事実上、問題とはなり得ないものと思います。ただし、自衛隊員が自己の良心に基づいて特定の命令を拒否するというようなことがあるとすれば、そのような形では問題となる余地があるというふうに思います。諸外国では、憲法や法律で免除を認めるというのが通例でございます。例えば、ドイツ連邦共和国基本法の四条三項というようなところに規定されております。
 司法制度改革の一環として導入が決まった裁判員制度でございますが、これについて、思想、信条を理由とする辞退が認められるというふうに聞いております。一つの見識であるというふうに思いますが、具体的にどう判断するか難しい場面もあるというふうに推測されます。
 例えば、人が人を裁くことはできない、人を裁けるのは神だけだというような真摯な深い宗教的確信を抱いているとすれば、これは辞退理由にまさに該当すると思われます。しかし、単に、人を裁くような重い仕事はしたくないというのはどうでしょうか。さきの宗教的確信に近い場合もあるでしょうが、単純に負担を感じるという程度のこともあるのではないでしょうか。
 良心を口にされた場合に、どのように判断し、どこで線を引くのか。逆に、そういう重い仕事であるということを自覚して臨んでいただくというのも大変必要なことのようにも思いますし、そういう自覚を持たない人ばかりが残るということもこれは困ったものだろうというふうに思います。また、死刑になるかもしれないような重大事件には関与したくない、こういうふうに選択的な辞退も認められるのかどうか。これは今後の検討課題ではないかというふうに思われます。
 最後に、国旗・国歌の問題について一言触れたいと思います。
 この問題は、思想、良心の自由にかかわる最も重要な問題の一つでありますし、教育基本法の改正問題ともかかわるものかと思います。特に、卒業式等の学校行事に際して紛争が生じ、訴訟の場で争われるに至っております。
 平成十一年、一九九九年の国旗・国歌法の制定に当たって、政府は国旗・国歌を強制しないということを繰り返し表明しておられましたが、現実には、法制定後に、学習指導要領に基づいて、学校行事に際して国旗掲揚とか国歌斉唱が求められる例がふえておりまして、職務命令違反を理由とする教員に対する懲戒処分というものが行われるに至っております。
 この問題をどう考えたらよいか。大変難しい問題ですが、まず、国家が国旗や国歌のようなシンボルを用いて国民の統合を図るということは、民主主義国家においても必ずしも否定されるべきことではないというふうに私は考えます。公教育の場で国旗を掲揚し国歌を斉唱するということも、それ自体が問題であるというわけではないと思われます。
 問題なのは、日の丸・君が代に対して複雑な思いを抱いている人たちがたとえ少数であっても存在するということであります。これは、教師の場合もあれば、児童生徒の場合もあるでしょう。教師は教える側に立つものでございますので、児童生徒という未成熟な子供とは必ずしも同列に論じられない。この辺もきめ細かく区別して本来は考えるべきでしょうが。
 いずれにしましても、これらの人々の内心に全く配慮することなく、国旗掲揚とか国歌斉唱を強行してよいのかということが問題の核心であるというふうに思います。
 ここで重要なのは、自己の思想、良心に反するからといって反対者が学校行事における国旗掲揚や国歌斉唱を実力でとめるというようなことはできないだろうということであります。それは逆に、反対する者の特定の信条を押しつけるということになります。つまり、行事の妨害などは認められないと思うのです。しかし、逆に、内心を理由とする不参加であるとか消極的な参加、これは、例えば歌わないということ、あるいは起立する場面で着席したままというのは、これは確かに、荘厳であるべき式、儀式、式典というものを考えますと、いささか異様な光景ということになってまいりますけれども、少なくともそのあたりまでは認められるべきではないかというふうに思われるわけであります。
 この点で、アメリカのバーネット判決、レジュメに書きましたが、これが参考になると思います。この事件は、エホバの証人の生徒による公立学校での国旗敬礼拒否事件として大変有名なものでありますが、ほかでもない一九四三年という時期に問題になりまして、下された判決であります。すなわち、戦時中でありますので、異端に対して不寛容になりがちなまさに愛国心が一段と高揚している、こういう時期に下された判決であります。合衆国最高裁は、自己の宗教的良心に基づいて国旗敬礼を拒否することを認めました。私は、まさにこれは自由社会アメリカの真骨頂を示すものだと思います。いろいろ問題はあっても、アメリカの強さというのはこういうところにあるのではないかという気がいたします。
 沈黙の自由との関係では、謝罪広告の強制であるとか取材源の証言拒否ということがございますけれども、いずれも沈黙の自由の侵害にはならないというふうに考えられておるところでございます。謝罪広告の強制につきましては、今日ではむしろ、謝罪広告をどこに出すかという、その場所を裁判所が指定するということによって表現の自由を侵害することにならないかというあたりが問題になっております。
 駆け足で恐縮ですが、3の信教の自由と政教分離原則ですが、まず、信教の自由の意義でございます。
 改めて申し上げるまでもありませんが、これは内心の自由として重要なものの一つということになります。人権宣言の中核をなす最も重要な人権であるということについては、異論のないところであろうと思います。
 信教の自由という文言は一般に広く用いられているわけではありませんが、明治憲法の用語でございまして、日本国憲法はそれを踏襲しております。その内容としては、信仰の自由、これは信仰しない自由を含むという点が重要ですが、その信仰の自由、宗教的行為の自由、宗教的結社の自由という三つの内容を含むというのが学界の通説となっております。
 政教分離原則の意義についてですが、政教分離とは国家と宗教とを分離するという原則であります。国家の宗教的中立性の原則と呼ばれることもございます。この場合の宗教とは、特定の宗教が問題になるのはもちろんですが、それだけではなく、宗教一般を意味すると広く解すべきであります。ただ、ある程度組織的なものを意味するというのが通説となっております。この原則は、国家と宗教の結びつきが個人の信教の自由にとって脅威になると見られることから、これを防止し、信教の自由の保障を確保しようとするものと言えます。
 政教分離原則の法的性格をめぐっては、これを制度的保障としてとらえるべきか否かという争いがございます。制度的保障といいますのは、これもまたドイツから輸入された概念でありますが、一言で言えば、ある制度の核心を立法による侵害から守ろうとするというものでございます。これはまさに、基本権の保障に法律の留保がついていたかつてのドイツであるとか明治憲法下の日本においては意味のある概念ということになります。
 しかし、日本国憲法は法律の留保というものを認めておりませんので、その意味では、制度的保障という概念自体がもう不必要な概念ではないかということ、あるいは政教分離という国家と宗教とを分離するというようなことが一つの制度であるのかどうかという疑問などが出されているわけであります。
 いずれにしましても、この原則が信教の自由の保障を促進または補強するためのものであるとする点では基本的な一致がございます。津地鎮祭の大法廷判決も、政教分離というのはいわゆる制度的保障であると言いましたけれども、しかし、それが信教の自由の保障を一層確実なものとするためのものであるということを述べているわけであります。
 日本国憲法では、この原則を、宗教団体の特権享受、政治上の権力行使の禁止、これは二十条一項後段ですね、それから国家の宗教的活動の禁止、同条三項、それから宗教上の組織または団体への公金支出の禁止、八十九条前段という形で詳細に規定しております。
 例えば、アメリカ合衆国憲法は、第一修正において、連邦議会は、国教を樹立する法律を制定してはならないとのみ規定しておりますし、一九五八年のフランス第五共和国憲法一条は、フランスは、非宗教的な共和国であるというふうに宣言するのみであります。また、一九八七年の大韓民国憲法は、二十条二項におきまして、国教は、これを認めず、宗教と政治は分離されるといった述べ方をしております。これらに比べて極めて詳細であるということがわかります。
 政治上の権力行使という言葉をめぐって若干の争いがございます。しかし、これは統治権力の行使を意味する。すなわち、宗教団体が統治権力を行使するということを禁止しているという意味に解されております。一定の宗教的信条に基づいて政治活動を行うことは、むしろ憲法二十一条で保障されるところでございます。特定の政党名を出して恐縮ですが、公明党が創価学会と政教分離していないというふうな言われ方をすることがありますが、言葉の適切な使用とは言えないと思います。
 憲法八十九条前段の宗教上の組織または団体とは何か、これをめぐっても解釈論上若干の争いがございますが、宗教法人法上規定されているような宗教団体という狭いとらえ方ではなく、宗教上の事業や活動を目的とする団体であれば、広くそれに該当するという理解をすべきでありましょう。
 なお、非宗教団体が宗教的活動を行う場合、非宗教団体の宗教的活動に対する国の援助というものも当然禁止されるものと解されますが、その旨は、日本国憲法には明文で規定されておりません。
 政教分離については、これを厳格分離とするか相対分離とするかということが議論されることがありますが、憲法上、厳格分離が要請されているということは疑いの余地がないと思います。
 その点は、憲法二十条、八十九条成立の背景を見れば明らかであると思います。
 日本国憲法が何らの留保なく信教の自由を保障し、あわせて政教分離原則を詳細に規定したのは、戦前の国家神道体制のもとで信教の自由が抑圧された我が国独自の経験を踏まえてのことであります。決して、我が国の実情にそぐわない原則を導入したというものではありません。
 明治憲法二十八条は信教の自由を保障しておりましたが、それは「安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ」でありまして、神社非宗教論に基づいて神社参拝が「臣民タルノ義務」として強制されれば、これに抗することはできなかったわけであります。また、同条には法律の留保がなかったために、命令によっても制限が可能であるとする解釈をもたらしたのであります。
 そこで、信教の自由の保障と限界でございますが、信教の自由には、信仰の自由と信仰に基づいて行為する自由とが含まれます。
 前者については、内心の自由として絶対的にこれは保障されるということですが、信仰告白の強制、信仰あるいは不信仰を理由とする不利益賦課の禁止、これらもそういう意味で思想、良心の自由の場合と同様であります。
 これに対して、後者の宗教的行為というのは外部的な行為でありまして、社会における他者とのかかわりを生ずるために、おのずから一定の制約に服さざるを得ないというふうに考えられます。
 ただし、宗教的行為は内心の信仰に基づく行為であり、信仰と行為とを単純に区別できるものではないだけに、かかる行為の規制に当たっては慎重な対応が求められると思います。すなわち、規制は必要不可欠な公共的利益を達成するための最小限度のものでなければならないというふうに考えます。この点につきましては、事前にお配りしました拙稿の中に、アメリカの合衆国最高裁の判例法理の検討を若干いたしましたので、御参照いただければと存じます。
 もっとも、一九九〇年のエンプロイメント・ディビジョン・バーサス・スミスという事件がございますが、アメリカ合衆国最高裁は、第一修正の宗教の自由な行使に対する権利を主張することによって、一般的に適用され得る有効かつ中立的な法律に従うべき義務から免れることはできないとする考え方を打ち出しておりまして、いわば、今申しました必要不可欠の利益テストともいうべきものを放棄したととれる判示を出しております。その意味で、これは学界においては大変強く批判されておりまして、論議が続いているところでございます。
 我が国では、問題となる事例がこれまでさほど多くなかったこともありまして、判例上、一貫した判断基準というものは明示されておりません。
 レジュメに少し挙げておきましたが、加持祈祷事件、これは古い先例でございます。治療と称して加持祈祷を行って傷害致死罪に問われた事件でございますが、こういうものは信教の自由の保障の限界を逸脱したものであるとして異論のないところであります。
 宗教法人オウム真理教の解散命令事件、これは宗教法人法八十一条一項に基づいて解散命令を請求して、一、二審がその請求を認めたために、最高裁に特別抗告がなされ、これが棄却されたというものでございます。
 この事件の問題点は、加持祈祷事件と異なりまして、犯罪行為に関与しなかった一般信者の信教の自由というものが問題になるという点でございます。しかしながら、決定は、宗教上の行為へのあり得べき支障というものは、解散命令に伴う間接的で事実上のものであるにとどまるといたしました。この点は、この教団が起こした犯罪行為のことを考えますと、やむを得ざる判断であろうかというふうに思いますし、判旨は、十分に宗教上の行為へのあり得べき支障というものについても考慮しているというのは適切であろうというふうに思います。
 同じオウム真理教関係では、一九九九年十二月に、無差別大量殺人を行った団体の規制に関する法律、いわゆる団体規制法による観察処分の問題がございますが、これも極めて痛みを伴うものではありますけれども、やむを得ない処分なのであろうというふうに判断いたします。
 エホバの証人の剣道実技拒否事件、これは非常に重要な事件でありまして、私も少しコミットいたしたのでございますが、自己の宗教的信条に基づいて剣道実技の受講を拒否した高専の学生に対する進級拒否処分や退学処分の取り消しを求めて争った事件であります。
 この判決は、学生の剣道実技の受講拒否理由というものを信仰の核心部分と密接に関連する真摯なものであると認めまして、本件各処分は、社会観念上著しく妥当を欠くものであるというふうに判断いたしました。考え方の筋道は、私が事前にお配りした拙稿の中で示したものとほぼ同じものになっております。適切であろうかと思います。
 以上は、信教の自由の限界に関する問題点でございました。
 この最後の事件というのが特に重要だと申しましたのは、そこでは、信教の自由に対する国家の配慮が果たして、また、どこまで認められるかという問題が提起されているということでございます。この点は、政教分離原則違反の有無を判断する基準の問題ともかかわりますので、次のところでも、その基準の見直しのことを少し申し上げたいと思います。
 政教分離原則違反の有無の問題ですが、日本国憲法の政教分離規定は、国家と宗教との厳格な分離を要請いたします。学説の多数もこのような理解で一致しているところであります。
 しかしながら、この規定が国家と宗教との文字どおりの完全な分離を要請すると見るのは適当ではないというふうに考えます。宗教の社会的意義というのは尊重されるべきでありますし、また、政教分離を貫徹しようとする余り、個人の信教の自由を損なうことになっては本末転倒だからであります。国家が宗教と一定のかかわり合いを持つ場合はあるというふうに考えられます。
 ただし、その判例の理解というのはこれと同じではないのであります。すなわち、判例は、国家と宗教とのかかわり合いを前提とし、いかなる場合にいかなる限度においてそれが許されないことになるかというのを問うております。つまり、判例は、宗教とのかかわり合いを持つ国家行為のうち、そのかかわり合いが我が国の社会的、文化的諸条件に照らし相当とされる限度を超えると認められるもののみが許されないというふうに判断するわけです。これは原則と例外が逆になっているのではないかというふうにしばしば指摘されるところであります。憲法の政教分離規定は、国家と宗教との関わり合いを原則として禁止していると解すべきでありまして、問われるべきは、何が許されないかではなくて、何が例外的に許されるのかということではないでしょうか。
 そこで、この例外的な場合を一つ一つ見きわめていくことが必要になりますが、その判断基準として、いわゆる目的効果基準というものが判例上確立したものとして用いられております。学説もこれを用いるのですけれども、若干それは判例の用いているものとは異なっております。
 もともとこれはアメリカのレモン・テストと言われる基準を参考にしたのではないかというふうに考えられているのですが、レモン・テストは、政府の行為が合憲とされるためには、当該行為が世俗目的を持ち、その主要な効果が宗教を促進しまたは抑制するものではなく、政府と宗教との過度のかかわり合いを促すものではないという三つの要件をすべてクリアしなければならないというふうに述べるのでありますが、我が国の判例の目的効果基準は、宗教とかかわり合いを持つ国家行為のうち、その目的が宗教的意義を持ち、かつ効果が宗教に対する援助、助長、促進または圧迫、干渉等になるような行為が憲法の禁止する宗教的活動であるというふうにどうもとらえているように見えます。そのような行為に該当するか否かということを、実に複雑ないろいろな諸要素を勘案する。
 すなわち、ちょっと判例を引用しますと、「当該行為の外形的側面のみにとらわれることなく、当該行為の行われる場所、当該行為に対する一般人の宗教的評価、当該行為者が当該行為を行うについての意図、目的及び宗教的意識の有無、程度、当該行為の一般人に与える効果、影響等、諸般の事情を考慮し、社会通念に従って、客観的に判断しなければならない。」というふうに述べるのであります。
 これは結局、総合的に判断するということでありまして、本来のアメリカで使われていたテストとはかなり違ったものではないか。しかも、我が国独自のものとしても、どのように判断していくのか、その過程が明確ではないという問題をはらんでいるように思います。そして、この基準を判例は憲法二十条三項、八十九条の両者に適用しようとするものであります。
 私自身は実は、レモン・テストのように三つの要件をという学説の多数説にはくみしないものでありまして、独自の考え方をとっているのですけれども、それは事前にお配りしました拙稿の中に少し触れております。
 問題は、目的効果基準というものを用いるにしましても、目的については、国家が、無宗教に対して宗教、また諸宗教の中から特定の宗教のみを公的に承認したり勧奨したりする、あるいは否認する、そういう目的を持っているかどうか、効果についてもまたそれと同じような効果がもたらされるかどうか、これを問うべきではないかというふうに考えております。この場合、国家が、宗教と無宗教、また諸宗教に対して等距離に接しているかどうか、そのいずれをも平等に扱っているかどうかということが決め手になると思います。このように考えることで、宗教とかかわる国家行為が個人の信教の自由を尊重するものとして許容されるのか、それとも国家の宗教的活動として許されないのかという、その見きわめができるのではないかというふうに考えております。
 最後に、以上の前提に立ちまして、政教分離原則のもとで許される国家行為というのはどういうものなのかということを考えたいと思います。
 まず、判例上、自治体が主催した神式の地鎮祭につきましては合憲という判断が出ております。津地鎮祭の大法廷判決であります。また、靖国神社等への玉ぐし料等の公金支出については、これは違憲であるというふうに判断が出ております。いわゆる愛媛玉ぐし料判決というものでございます。また、自衛官合祀訴訟の大法廷判決、これは隊友会による県の護国神社への殉職自衛官の合祀申請に対する国の協力行為を合憲としたものでございます。
 また、いわゆる忠魂碑に関しては、箕面の忠魂碑・慰霊祭訴訟あるいは補助金支出訴訟というものがあります。最高裁は、公務員の慰霊祭への出席であるとか遺族会への補助金支出というのをいずれも合憲としております。それから、長崎忠魂碑訴訟というのがございますが、補助金支出を合憲とする福岡高裁の判決が確定しております。
 即位礼、大嘗祭関係では、大嘗祭や関連儀式への知事の参列につきまして、最高裁は合憲とする判断を下しております。ただし、下級審では、傍論ながら、違憲または違憲の疑いが指摘されているところであります。
 最後に、内閣総理大臣の靖国神社参拝問題でありますが、いわゆる公式参拝というものにつきましては、最高裁の判断は出ておりません。中曽根元総理の公式参拝については、二つの下級審で違憲の疑いが指摘されておりますし、また、岩手靖国訴訟の控訴審判決では、公式参拝について明確な違憲判断というものが示されました。ただし、これらはいずれも傍論にとどまっているのでございます。
 小泉首相の二〇〇一年、平成十三年の靖国神社参拝をめぐっては、全国で五つの違憲訴訟が提起されましたが、そのうちの一つについて、先日裁判所の判断が下されました。大阪地裁の平成十六年二月二十七日の判決でございますが、政教分離違反の有無については明確な判断を示さずに、その点は判断しておりませんが、国家賠償法一条の解釈として、首相の参拝を内閣総理大臣としての職務を行うというものに当たるとした点は注目されるというふうに思います。
 以上の判例の動向は、憲法の政教分離原則の趣旨にかなうものかどうか、その適正な実現となっているかどうかということでございますが、津地鎮祭事件に関する最高裁の合憲判断には、やはり私はいささか疑問がございます。法廷意見の内部にも、これが許されるぎりぎりの線であるという理解があったというふうに聞いております。
 ただ、忠魂碑訴訟に関しては、私は学界の多数説とは別な考え方を少し持っております。特に、長崎の忠魂碑訴訟に関しては、これは合憲という結論になるのではないかというふうに考えているところでございます。
 なお、即位礼、大嘗祭関係につきましては、下級審の判断に傾聴すべきものがあると思います。ただ、政策的には、即位礼はともかくとして、少なくとも大嘗祭については、皇室の私事とする方向で検討されるべきではないかというふうに考えます。
 また、内閣総理大臣の靖国神社参拝問題でございますが、事前にお配りしました拙稿におきまして判断を述べておりますが、靖国神社を中心的な戦没者追悼施設として公的資格で参拝するということは、特定宗教との特定の結びつきとして憲法に違反することになるというふうに考える次第でございます。
 少し時間をオーバーして恐縮でございます。結びにかえて一言申し上げます。
 以上のとおり、思想、良心の自由、信教の自由、政教分離原則に関する日本国憲法の規定は、諸外国の憲法に共通する近代憲法の基本理念を定めたものであると同時に、我が国の実情にもかなった妥当な規定であるというふうに考えます。
 ただ、強いて言えば、上で指摘しておきましたように、政教分離原則に関しては、非宗教団体の宗教的活動に対する国の援助の禁止というものが明文で規定されておりませんので、この点を憲法にさらに加えるということは立法論として検討の余地があるかと思われます。政教分離原則の趣旨をより明確にするということになると思われます。もっとも、現在でも解釈論上、非宗教団体の宗教的活動に対する国の援助というのは当然禁止されるというふうに解されますので、また下級審の中にもそのことを明言しておるものがありますので、現行規定に不備があるというほどのことではございません。
 思想、良心の自由、信教の自由、政教分離原則に関する日本国憲法の諸規定の趣旨がよりよく理解され、より一層実現されていくということを期待いたしまして、私の意見陳述を終えることとしたいと存じます。
 御清聴ありがとうございました。(拍手)

発言情報

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発言者: 野坂泰司

speaker_id: 19028

日付: 2004-03-11

院: 衆議院

会議名: 憲法調査会基本的人権の保障に関する調査小委員会