田口守一の発言 (憲法調査会基本的人権の保障に関する調査小委員会)
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○田口参考人 早稲田大学の田口でございます。
本日は、憲法調査会の場での発言の機会を与えていただきまして、ありがとうございます。私の専門は刑事訴訟法でございますけれども、刑事訴訟法は応用憲法とも言われるほど憲法と関係が深いわけであります。そういうことから私に発言の機会が与えられたものかと考えております。
ただ、本日お示しいただきました論点は、非常に幅が広いといいましょうか、多くございまして、以下、レジュメに従いまして申し述べますが、やや論点のつまみ食い的なことになるかと思いますが、お許しいただきたいと思います。
大きく分けまして、刑事手続に関する憲法規範の総論的な印象の話と、それから各論的な若干の問題点、及び最近問題になっております受刑者あるいは被害者の問題というような、大きく言って三つぐらいのグループに分かれた話になろうかと思います。
まず第一に、正直申しまして、憲法調査会というところは、ちょっと乱暴な言い方をいたしますが、憲法九条の話ばかりしているのかと思っておりましたところ、非常に幅広くいろいろなことを検討しておられまして、認識を改めましたのですが、このような形で刑事手続上の人権について御議論いただくということは大変意味あることだと考えます。
と申しますのは、一方におきまして、国民の方で犯罪の増加あるいは治安への関心というものが大きくなっていると同時に、犯罪とかあるいは捜査にかかわる人権への関心も大きくなっているかと思います。このことは、国民が、言うなれば、自分のことだけではなく、社会のことや公共のことにも関心を向けるということを意味しているのではないかと考えます。このようなことは果たしていいことなのか、難しい問題かとは思いますけれども、国民が社会のことや公共のことに関心を向けるということは、社会の質の向上という点から意味があることだと理解いたしまして、前向きに評価したいと思います。そのような観点から、憲法調査会におかれて刑事手続上の人権というものを正面からお取り上げになるということにも大きな意味があろうかというふうに理解しております。
ところで、憲法問題という場合でも二つの場面があろうかと思います。
一つは、もちろん憲法自体の改正問題でありまして、ただ、従来、刑事法に関する学会におきましても、憲法規定の改正というような問題は余り正面から論じられてきませんでした。これに対して、法律制度の憲法適合性の問題、すなわち合憲性の問題というのは大いに議論されてまいりました。そこでは憲法規定の意味が問題となりますけれども、このような憲法問題も憲法論としてもちろん大きな意味があろうかと思います。
以下、この後者の意味における憲法論ということが私の話の中心になろうかと思います。
さて、レジュメの二の方で憲法規範の意義というようなことを書かせていただきました。
そこで、まず第一に申し上げたいことは、日本の憲法は三十一条から四十条まで十カ条にわたって刑事手続の規定を設けている。およそ百カ条の憲法規範のうちの一割を占めているということになりまして、比較法的に見てもかなり珍しい、恐らくほかにはないのではないかというような仕組みになっているかと思います。日本国憲法というのは刑事手続規範を非常に重視しているというふうに言っていいかと思います。
そもそも、憲法制定過程におきまして、連合国の総司令部案を見た日本側委員たちは、この多くの規定はバランスを欠いている、詳細に過ぎる、多くのものは刑事訴訟法に規定すれば足りるのだというような意見を申されたようであります。御案内のように、帝国憲法は刑事手続については三カ条しか設けておりませんので、それに類したような対案を作成したようでありますが、総司令部としては詳細な人権規定が絶対に必要であるという立場から、日本案は全面的に退けられたと伝えられております。総司令部にとりまして、それまでの日本の実情、すなわち旧法下における人権じゅうりん事件の根絶ということを考えたというふうに報告されております。
また、この憲法改正案に対する帝国議会の審議におきましても、この三十一条以下に対する審議というのは、参考文献に掲げました松尾論文の言葉をかりますと、ほとんどおざなりの審議を受けたにすぎないというふうに表現されておりますが、一括審議があったようであります。
ただ、では、帝国議会における関心はなかったかといいますと、そうではなくて、やはり旧憲法下における人権じゅうりん事件の根絶ということについては日本側の議会においても大きな関心事であったということでありまして、細かな細部の議論にこだわることなく、一括承認というような形で成立したのであろうという理解をしているところでございます。
このように、人権規定が憲法の一割を占めるということをどう見るか、こういうのが根本問題としてあるかと思います。私は、このような憲法規定のあり方というのも一国のあり方として一つの可能な道だろうというふうに考えております。刑事司法というのは、いわば社会の中のある種極限状態の中の議論でありまして、そこにおいて人間をどう扱うかという問題は、その社会、国家の文明的なレベルを示すというふうに言っていいかと思います。そういう観点から考えますと、人間らしい刑事司法というものの実現は、大きく言えば、人類の目標といいましょうか、あるいは私どもが汗を流すに値するテーマだと考えますので、そういったものを前面に押し出す憲法というのも一つのあり得る道ではないかというふうに理解しております。
次に、憲法規範の抽象性ということであります。
要するに、憲法と法律との関係ということであります。簡単に触れるにとどめますが、無論、人権に軽重はないと言うべきでありましょうが、その主要なものを憲法規範とする、その余のものは法律にゆだねるというような立法方針というのは自然なことだというふうに理解しております。そうなりますと、憲法規範というのは勢いある程度抽象的とならざるを得ないわけでありまして、その抽象的規範の解釈を通じて法秩序全体の統一性を図るということが、立法の姿としても安定したものではないかというふうに理解しております。以下の論述もこういった基本的な認識に立脚しているということであります。
最後に、三十一条以下の人権規定の性質ということについて一言触れておきますと、逮捕にしましても、捜索あるいは黙秘権とか自白法則、いろいろございますけれども、いずれも国家権力が被疑者、被告人の人権を不当に侵害しないということを保障している、すなわち、被疑者、被告人からいたしますと、不当に侵害されないという権利が規定してあると言ってよかろうと思います。そういう意味では、これは侵害されない権利という意味で消極的人権と呼ぶこともできるかと思います。
これに対して、被疑者、被告人の主体的な自己決定を国家が尊重するかどうか、こういう問題も考えることができようかと思います。被疑者、被告人が主体的に自己の犯した犯罪の後始末をするとか、あるいは主体的に罪に服したりするという側面も権利としてとらえるとするならば、これを積極的人権と呼ぶことができるのではなかろうかというふうに考えます。今後の刑事手続における人権問題について、このような積極的人権をどのように位置づけるかということも大きな課題ではないかと理解しております。
さて、本論ということになりますが、憲法三十一条以下四十条の幾つかの権利について、先ほども申したように、つまみ食い的になるかもしれませんが、少し触れておきたいと思います。
まず、憲法三十一条についてであります。これは、法定手続の保障、こうありますけれども、アメリカ憲法と同じく、適正手続、デュープロセスの保障と同じ意味だというふうに考えられておりまして、私もそのように理解しております。そして、これは三十二条以下の人権規定の総則に値する、こういうことでございます。
御案内のように、刑事訴訟法第一条は刑事訴訟法の目的を規定しておりますが、そこでは、事案の真相を明らかにするという要請と基本的人権の保障とをともに実現するということを目的にしております。しかし、この両者が拮抗する場合がございますが、これについて、憲法は、適正手続の保障ということを重視しなさいということを言っているのだろうと思います。
そういたしますと、例えば、覚せい剤等の証拠物の捜索・差し押さえ手続に違法があった場合に、最高裁判所の判例は、令状主義の精神を没却するような重大な違法があるというような場合には証拠能力を否定するという、いわゆる違法収集証拠の排除法則というものを採用しておりますけれども、これは憲法的価値判断からも支持され得る考え方であろうというふうに理解しております。
もっとも、この適正手続というものは、手続違反があればおよそ証拠として使えないというような形式的な基準ではありませんで、事案の真相の解明であるとか真実の発見ということをも考慮しながら、なお手続の適正を維持するのだという基準を示している、より実質的な基準であるというふうに理解すべきであろうかと思います。
本日は、余り私見を述べる場ではありません。そういったことについては、参考文献として掲げました私の論文でも御参照いただければと思います。
次に、身柄拘束関係でありますが、憲法三十三条は、現行犯の場合を除いては令状による逮捕だ、こういう規定をしております。そこで、刑事訴訟法第二百十条の緊急逮捕については違憲ではないかという議論があるのは周知のところでございます。
この点、緊急逮捕制度の必要性は明白でありますので、憲法上の疑義をなくするために法文を修正するということも考えられないではありませんが、「現行犯として逮捕される場合を除いては、」というこの文言の法意が、合理的な逮捕の一つの事例として例示されているというふうに理解することができるのであれば、緊急逮捕が合理的な逮捕であることは明らかでありますから、あえて三十三条を修正するという必要もないであろうというふうに理解しております。
次の三十四条の弁護人依頼権でありますが、御案内のように、今国会におきまして、刑事訴訟法等の一部を改正する法律が成立いたしましたし、昨日は総合法律支援法というのが成立したと聞いております。このような法律の成立によりまして、被疑者の公的弁護制度というものが新たに立ち上げられることになりまして、憲法三十四条の弁護人依頼権の趣旨が大きく前進をしたと言えるかと思います。
捜査段階、とりわけ身柄拘束状態における被疑者の弁護活動の重要性は、被疑者の人権保障のため、あるいは被疑者のより日常的な人間性の維持という問題のためにも、さらには適正な捜査の推進のためにも極めて重要でありまして、この法律では、当初は重大事件に限定されますけれども、いわば小さく産んで大きく育てるという観点から、今後の大きな取り組みの課題としていただく必要があるというふうに思います。
次に、三十五条関係でございますが、この捜索、押収につきましては、これも御案内のように、とりわけ覚せい剤事犯に関するいわゆる電話傍受という問題が大きく争われてまいりました。最高裁の判例は、電話傍受というものが犯罪の捜査の上で真にやむを得ないと認められるときは、検証令状という令状でやってもよろしい、それをやっても許されるんだということを平成十一年、判例として出しておるわけであります。
そこでの一つの大きな問題は、学説上争われているわけでございますが、電話傍受におきましては、多くの場合、これから犯すであろう、すなわち将来起きるであろう犯罪の話をするわけでありますから、捜査というのは、そもそも将来の犯罪の捜査をするということがあるのか、こういう非常に原理的な問題が争われたわけでございます。
無論、多くの犯罪の証拠というのは、過去に起きた犯罪を捜査するわけでありますから、証拠というのは多くの場合は過去のものでございます。しかし、覚せい剤の取引ということになりますと、将来の犯罪ということが問題にならざるを得ないというふうに思います。ここは争いのあるところでございますけれども、たとえ将来の犯罪であっても、その犯罪が既に特定されているというような場合には、その証拠を収集するということも可能であろうというふうに私は考えておるわけであります。
もっとも、判例は、今申し上げましたように、これを、改正される前の刑事訴訟法の検証令状で実施し得るとしたわけでありますけれども、右判例にも少数意見が付されておりますように、検証令状という令状で、憲法三十一条の要求するような適正手続の要請あるいは憲法三十五条の要求するような捜索・押収基準をクリアできるのかという点については疑問があるという理解をしております。
この点、平成十一年に成立しましたいわゆる通信傍受法という法律は、極めて丁寧なといいましょうか詳しい手続規定を設けた通信傍受法であります。今後は、これによることになりまして、検証令状を使うということは恐らくなくなるだろうと思いますけれども、それは正しい方向だろうというふうに理解しております。
次に、ちょっと長い法律なんですが、犯罪の国際化及び組織化並びに情報処理の高度化に対処するための刑法等の一部を改正する法律案というものが今国会に上程されております。その中には、重要な捜索、差し押さえの新提案が含まれているところでございます。
とりわけ、いわゆるサイバークライム、いわゆるハイテク犯罪でございますけれども、その証拠というのはコンピューターの中に内蔵されているということでありまして、いわゆる電磁的記録ということになります。刑事訴訟法上の捜索、差し押さえというのは、有体物に対して行うというのが従来の通説、もちろん判例でもあります。このような無体情報の収集をどうするかというのは、大きな時代の問題ということになります。
この点に関しまして、この法案は、これらの無体情報を差し押さえることができるとする方策を幾つか提案しております。これは、コンピューター社会の到来という時代において、新たな捜査方法として取り組まなければならない課題であると考えます。
原理的な問題といたしましては、組織犯罪への有効な対応は必要でありますけれども、同時に、適正手続の維持ということも当然必要でありますから、この緊張関係にあります両方の要求を満たすようなシステムをつくっていかなければならないということであります。この両方のいずれかに偏ることのないシステムというのは質の高い刑事手続をつくることになるというふうに理解しますので、この点についてもぜひ取り組んでいただきたいというふうに思っております。
次に、三十七条あるいは三十八条などの被告人の権利について、一言触れておきます。
憲法三十七条は、被告人の権利として、幾つかの権利を規定しております。
この問題に関しまして、先週成立いたしました刑事訴訟法等の一部を改正する法律案では、裁判員制度の導入を考慮しまして、刑事裁判の充実、迅速化を図るための諸方策を導入しております。例えば、公判前の整理手続などというのは非常に大きな改革になっております。
これらの新しい制度につきましても、憲法三十七条の被告人の権利が十分に保障さるべきことは当然のことであります。さきに申し上げましたように、被告人の積極的な人権を保障するということをも視野に入れて被告人の権利を十分に保障するということが、この新しいシステムについても検討される必要があろうかと思います。
このような問題の所在につきましては、お示しした参考文献の、松尾先生の第二論文等の指摘するところでございます。
憲法三十八条関係につきましては、とりわけ三十八条一項あるいは三項関係について少し触れておこうと思います。
一つは、いわゆる刑事免責制度でございます。
憲法三十八条一項は、自己負罪拒否特権を定めたもの、こういうふうに理解されていますが、最高裁判所は、いわゆるロッキード事件の丸紅ルートの上告審大法廷判決におきまして、この刑事免責という制度、すなわち共犯者の一方の者に免責を与えて自己負罪拒否特権を失わせる、そして供述を強制する、その証拠を他の共犯者の証拠にする、こういうシステムは憲法違反とは言えない、こういう判断をいたしました。具体的には、憲法三十八条一項違反ではないということを言いましたが、これを日本が法制度として導入するかどうかは慎重に検討すべきであるというような大法廷の判断を示しております。
組織犯罪を解明するに当たりまして、末端の実行行為者を捕まえて、その自白を得て、そこから組織の中枢に迫っていく、いわゆる突き上げ捜査でございますけれども、そういう捜査方法は、恐らくもはや限界に来ているだろうと思います。組織の一部を免責にして組織の中枢に迫るといったような捜査方法は、刑事司法全体の利益衡量と申しましょうか、バランシングテストとしても合理性があると私は考えておりまして、こういったものも立法化の検討をすべきであろうと考えます。
また、憲法三十八条三項に関しまして、英米法に見られますような、被告人の有罪の答弁によって有罪判決を言い渡すという、いわゆるアレーンメント制度の採否についても賛否両論がございます。司法制度改革審議会の意見書は、争いのある事件と争いのない事件を区別して手続の合理化を図るということを指摘いたしまして、その中で、このような有罪答弁制度は今後の検討課題であるという指摘をいたしました。
この点につきまして、私の考えといたしましては、被告人には必ず弁護人をつけるという制度を保障することにいたしまして、被告人が自己の利益について弁護人と十分に相談した上であれば有罪答弁制度を導入することは十分検討に値するというふうに考えております。
一部の議論としては、被告人が自分は有罪と言うだけで証拠調べをしないというのは問題であるというような指摘もございますけれども、例えば、アメリカ法におきましても、そのようなことはありませんで、被告人の有罪答弁には、事実的な基礎、これはファクチュアルベーシスと呼んでいますけれども、それがあるかどうかの確認は裁判官の義務ということになっております。被告人の完全な、民事のような処分権を認めるという制度ではないということを正確に理解する必要があろうかと思います。
次に、憲法三十二条の裁判を受ける権利に関しまして、とりわけ先週成立いたしました裁判員法について一言触れておこうかと思います。
この点に関しまして、憲法三十二条の裁判所の裁判という場合の裁判所に裁判員が含まれるかどうかという点については、御案内のように、これは含まれないという意見があるのは周知のところでございますが、私見によりますと、市民が、いわば市民裁判官として、職業裁判官と同等に裁判に関与し得るかどうかというこの問題につきましては、日本国憲法はいわば沈黙しているというふうに理解すべきであろうと考えております。言及はしていないということは排斥もしていないというふうに理解するわけでございます。しかしながら、日本国憲法の精神、主権在民からしますと、むしろ、憲法は国民の司法参加というのを、沈黙はしていますけれども、期待している、望んでいるというふうに理解することも可能であろうというふうに考えます。
具体的には、条文解釈としましては、裁判所という言葉は、この第三章の人権規定における裁判所のみではなくて、第六章の「司法」のところで、最高裁判所を初め、多くの箇所で裁判所の言葉が出てきますけれども、第六章の裁判所については職業裁判官が中心でありまして、その規定であるという理解をしてよろしいと。端的に言いまして、必ずしも、三章と六章で同じ言葉を使っているというような、かたい解釈をする必要はないのではないかというふうに理解しているところでございます。
先に行かせていただきますが、四番目の、受刑者の人権につきましては、大きく、一つは三十六条関係で死刑の問題があります。死刑論につきましては大問題でありまして、ここでは中身に立ち入ることは省略させていただきますが、結論だけ申し上げておきますと、死刑制度というものが憲法違反であるというところまでは言えないという理解をしておりますが、ただし、将来的には廃止を検討すべきであるというのが私の基本的な立場でございます。
自由刑の執行につきましては、これも、資料としてお示しいたしました行刑改革会議の提言がございます。いわゆる名古屋刑務所問題を契機としましてこのような提言がなされまして、懲戒手続の明文化であるとか不服審査の整備などが提言されておりまして、これらは緊急の課題であることは当然でございます。
この点に関しまして一言触れるといたしますと、従来のような軍隊式の行進であるとか正座の強制といった方法に改善を加えるということは、無論考えられていいことだと思います。ただし、この際注意しなきゃならないのは、単なる応報刑論に変える、すなわち、自由刑というのは自由を奪う刑罰でありますが、自由さえ奪えば後は何もしなくていいと。ヨーロッパの刑務所の中に女性の写真が張ってあったりしまして、びっくりしたことがございますけれども、日本でそういうことがないのはなぜかといいますと、それは、社会復帰行刑といいましょうか、教育刑の思想が日本の伝統としてあるからであります。私は、もちろん改善は進められる必要がありますけれども、社会復帰行刑の理念までは捨て去るべきではないというふうに考えております。教育、すなわち立ち直りでありますけれども、その基本を日本の行刑においては維持すべきであろうと考えます。
次に、被害者の人権ということでございます。
これにつきましては、ヨーロッパにおきまして、とりわけ一九七五年ころかと思いますが、犯罪者の処罰というのは国家の事柄とされてきたわけでありますが、被害者というのは、いわば忘れられた存在、忘れられた人というふうに言われてきました。しかしながら、被害者が犯罪の当事者であることは明らかでありますから、被害者にも一定の権利があるという指摘が起きてまいりました。とりわけ性犯罪の被害者につきまして、多くの場合、男性によります刑事手続の過程におきまして第二次被害を受けるというような指摘も多々なされてまいりました。このような外国法の動向が一九八五年ころより日本にも紹介されて、我が国においても被害者論が広まってきたのは周知のところでございます。
その中で、刑事手続において被害者はどういう地位を占めるかということについて議論が進みまして、大きく言って三つの領域が問題とされてまいりました。
第一は、被害者を保護する必要があるという問題であります。被害直後の保護問題、あるいは手続に乗った中における保護問題などでございます。第二は、その被害者には刑事手続への参加を認める必要があるのではないか、そういう問題であります。立法的な手当てもなされまして、さらに、今後訴訟に参加する権利をどこまで認めるかということが議論されているところでございます。第三は、被害者を救済する必要があるという問題でありまして、現行法としては、いわゆる犯罪被害者等給付金支給法による給付金制度がございます。民事的には、加害者、被害者の示談によって金銭的な救済がなされてきましたけれども、それで被害者は救済されているかどうかという問題が残っているということでございます。
このような問題を受けまして、具体的な法改正が幾つかなされてまいりました。まず、被害者には情報を提供する必要があるというようなことで、被害者連絡制度というようなものが設けられました。あるいは、刑事訴訟法におきまして、証人尋問をする際に、例えば子供の被害者であるとかそういった被害者については、ビデオを使ったビデオリンク方式による証人尋問であるとか、あるいは遮へい措置、つい立てでございますけれども、それを使った証人尋問であるとかいうようなことが導入されたのは、周知のところでございます。さらに、被害者が捜査の記録、訴訟の記録を閲覧、謄写できる、これによって民事の損害賠償請求訴訟を進めることができるというような手当てもなされた。さらには、公判において意見を述べるということもつけ加えられました。
このようなことで、幾つかの権利が認められ、さらに、今後どこまで認めるべきかというようなことが議論されているところでございます。
憲法との関係で、このような被害者の権利を憲法上明らかにすべきであるという主張がございますので、一言触れておきます。
参考文献に示しました被害者論文におきましても、アメリカの州憲法、ウィスコンシン、テキサス、カリフォルニアなどの州憲法におきまして、詳細な被害者の権利規定が掲げられている。こういった諸外国の例も参照にしながら、我が国においても被害者規定を設けるという主張もございます。
ただ、具体的に考えてみますと、被害者の範囲というのも微妙な問題がありますし、他の保護を要する人々のグループとの比較という問題もございます。そういった点から、先ほど申しましたような憲法の根本規範性といいましょうか、基本法的性格という観点から考えまして、すべて憲法に書くということが適当かどうかという点については、私は慎重に考えるべきだという立場であります。
憲法十三条を根拠として被害者の人権を保護する方策は、法律上幾つも考えられるし、また努力すべきである。とりわけ、事務局作成の資料集にも載っておりますけれども、いわゆる修復的司法、リストラティブジャスティスという議論がございますけれども、その議論が主張しますように、刑事手続の外において加害者との和解を進める、その結果を刑事手続に反映させるという考え方が、恐らくは正しいやり方だろうというふうに私は理解しております。
最後に、「むすび」ということで、先生方を前にしては釈迦に説法のようなことを書いてメモにしてありますけれども、言わんとすることは、憲法といいますけれども、この目の前にあります日本国憲法という形式的な条文の議論だけではなくて、実質的な憲法、私は憲法学者ではありませんから、そういう言葉が憲法上使われているかどうか存じませんけれども、実質的な憲法ということが大切である。そこでは、法律規範との重なりというものが大いにありますので、そこに目を向けていただきたいということであります。
「この国のかたち(constitution)」と書いておきましたけれども、実は、お手元に配付した司法制度改革審議会の意見書の冒頭の三ページのところですけれども、そこには「この国のかたち」、これは司馬遼太郎の言葉だそうでございますけれども、そういう言葉が三ページに引用してありまして、「この国のかたち」の再構成が審議会の課題であるというようなことを言っております。その座長を務められました佐藤幸治教授が、別の論文の中で、「国のかたち」というかぎ括弧つきの言葉を使いながら、それに英語を当てられまして、コンスティチューションという英語を当てておられることを引用したかったわけでございます。
いずれにしましても、憲法、これはコンスティチューションでありますけれども、そのものをどう変えるかという問題ももちろん重要でありますけれども、「この国のかたち」、すなわちコンスティチューションを変える改革というものが現在まさに進行中であるわけでありまして、先ほど申しましたような裁判員制度の導入あるいは公的弁護制度の導入といったものは、単に司法という狭い世界の話だけではなくて、国民の社会生活全般を変えていく大きな改革を意味すると考えます。それは、十分にコンスティチューションの問題であるというふうに思いますので、そういった理解をしていただければというふうに思います。
さらに、先生方を前にして恐縮でありますが、「「国家」の変化と「国民」の変化」、大きなことを書いたわけでございます。言いたいことは、これからは国家中心のシステムが国民中心のシステムになるというような政権交代のような話をする、そのような理解をすべきではないということを言いたいわけでありまして、どういうことかといいますと、国家それ自体が質的に変化していく、国家権力それ自体が民主化していくわけであります。裁判官席に市民が座るということ自体が非常に大きな出来事だと思います。
こういうわけでして、国家権力そのものが民主化していくと同時に、逆に国民が公権力に関与していくということによりまして、意見書の言葉をかりるならば、国民の統治客体意識が主体意識へと変化していくということを意味している。言ってみれば、相互のそういうダイナミズムにこそ現在進められている改革の核心があるというふうに理解しているところでございます。
権力も変わるし国民も変わるということになりますと、まさに国の形が変わっていくということになるんではないかということでございますので、そういった憲法のいわば下支えのような部分についても御理解をいただきたいというようなことを申し述べて、私の意見を終えさせていただきます。
ありがとうございました。(拍手)