2004-02-05
衆議院
横田耕一
憲法調査会最高法規としての憲法のあり方に関する調査小委員会
横田耕一の発言 (憲法調査会最高法規としての憲法のあり方に関する調査小委員会)
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○横田参考人 ただいま御紹介いただきました横田でございます。
本日は、小委員会にお招きいただきまして話す機会を得まして、感謝しております。
きょうは、天皇制について話すということでございますけれども、時間的な制約もございますので、特に憲法改正論議との関連で問題になるような部分及び女性の天皇の問題について述べることにいたします。
憲法学界におきましては、天皇に関する規定の規範的な意味内容、憲法解釈上の議論は基本的に一九五〇年代に出そろっております。しかし、この天皇にかかわる問題というのは、裁判所で問題になることがまずありませんので、憲法上の論議はそのまま同じレベルで継続しているというように言えます。その上、一般的にも、天皇に関する論議というのは、各自があるべき天皇像というものをお持ちでございますので、戦前型の天皇制をいいと考える人たちから天皇制の廃止を考える人まで、それぞれのイメージが底流にございますために、冷静な議論というよりも感情的な議論が先行しますために、極めて議論がしにくい問題となっております。
そして、現実的には、憲法上の天皇の問題というものは、規範の問題よりも、むしろ伝統ということにかこつけまして規範から遊離する、そういう運用がなされている実態がございます。そういう意味で、きょうは、その運用実態にもできるだけ目配りいたしまして話すように努めたいと思います。
まず第一に、議論の前提について簡単に確認したいことが二点ございます。
第一は、天皇条項というものが憲法において持っている意味づけでございます。
大日本帝国憲法の天皇条項の位置づけと日本国憲法における天皇の位置づけというものは根本的に違います。大日本帝国憲法におきましては、憲法自体がその「告文」に言いますように、「皇宗ノ遺訓ヲ明徴ニ」するということで成り立っております。すなわち、憲法以前に歴史的な天皇存在がございまして、したがって、その憲法の天皇条項の解釈におきましても、歴史とか伝統というものが非常に重要な意味を持っております。
これに対しまして、近代立憲主義憲法の伝統の正統的な継承者とも言える日本国憲法は、いわゆる社会契約論を下敷きにしていると言えますために、天皇を含む国家機関は憲法によって明示的、限定的に与えられた権限、権能を国民から委託されているということになります。したがって、天皇条項というものは何よりも憲法規範に則して理解されなければならないということになります。
第二に、大日本帝国憲法の天皇と日本国憲法の天皇は、その地位、権能、地位の根拠、いずれにおきましても根本的に異なっております。したがって、両者の天皇というのは、言葉は同じ天皇という言葉を使っておりましても全く別物であるという理解が生じます。これは横田喜三郎教授が唱えるところでございまして、私はこれを断絶説というように命名しております。ここでは、天皇制度の歴史的な伝統なるものは、無視されるか、あるいは否定されることになります。
これに対しまして、日本国憲法の天皇制度は大日本帝国憲法の天皇制度を大幅に衣がえしたものであるとする連続説がございます。宮沢俊義教授などの理解でございます。この説では、伝統なるものは尊重される余地がございますが、しかしこの場合でも、天皇制度は根本的に変わっているとされますので、伝統というものも憲法条項に違反しない限りで認められる余地があるというにすぎない、そういうものにとどまります。
それからまた、いずれの説にございましても、天皇に私なしとされた大日本帝国憲法時代の天皇とは異なりまして、天皇の公と私は厳格に区別されなければなりません。この公私の区別というものは、近代立憲主義の当然の前提であるということが言えます。
そこで次に、日本国憲法の基本原則といわゆる象徴天皇制とがどういう関係にあるかということが問題になります。
日本国憲法の三大原則というものは、御承知のとおり、通常、国民主権主義、基本的人権尊重主義、永久平和主義が挙げられております。これらの原則と象徴天皇制というものがどういう関係に立つかというのが基本的な問題でございます。
まず第一に、国民主権原則との関係でございますけれども、天皇が国政に関する権能を持たず象徴として存在するということと国民主権原則は、直ちに矛盾するとは言えないかもしれません。しかしながら、少なくとも、世襲による天皇制度の存在は国民の主権者意識を希薄化する、そういう機能を有することは否定できません。そのことから、天皇を国民がいただいているといったような、あたかも主権者国民よりも上位に天皇があるかのごとき意識が生まれることになるわけでございます。
第二番目は、基本的人権尊重主義との関係です。
これについて、私は、岩波新書の「憲法と天皇制」ということで、両者がいろいろな点でぶつかる、そういう局面が多いことを指摘いたしましたけれども、少なくとも、世襲による天皇制度というものは、生まれによる差別、これを一切認めない人権思想とは相入れません。
永久平和主義はさておいても、このように象徴天皇制度というのは憲法の基本原則と矛盾する側面を持っております。したがって、憲法を解釈する場合、基本原則が原則でございますので、基本原則に則して象徴天皇制度も解釈しなければいけないということになります。
そこで、次に、憲法規範から見た象徴天皇制というものがどういうものであるかということでございますが、これはあらゆる憲法教科書が触れていることでありますし、諸先生方ももう周知のことであると思いますので、きょうは参考資料として芦部信喜教授の教科書の天皇に関する部分の抜粋をお手元にお配りしていると思いますけれども、これを適宜ごらんになりながらお聞きいただきたいと思いますが、私は留意点のみ指摘することにいたします。
第一に、天皇の地位でございます。
大日本帝国憲法では、天皇は統治権の総攬者、元首であり、これは憲法上明記されておりませんけれども、主権者であったというように言えます。しかしながら、現在の日本国憲法におきまして、主権者は日本国民であります。そして、天皇は日本国、日本国民統合の象徴ということになっております。
そこで、象徴ということの意味でありますが、これはよく引かれますように、ハトと平和の関係をお考えになればよろしいわけで、具体的なものであるハトが抽象的な平和というものをあらわす、そういう象徴であるように、天皇は、日本国であるとか日本国民統合といった極めて抽象的な概念をあらわす具体物であります。憲法学におきましては、象徴ということは特別に法的な意味は持っていない、象徴だから敬わなければいけないとか、そういったような内容は持っていないものと解釈されております。
次に、日本国民統合の象徴という点について、留意しておかなければいけない点を申し上げます。
天皇は日本民族の統合の象徴ではございません。あくまでも天皇は日本国民統合の象徴でございます。日本は御承知のように多民族国家でございます。したがって、天皇は諸民族の統合の象徴というように考えられなければいけません。憲法問題を考えるに当たりまして、私たちは、日本国民ということと日本民族ということを同一視しないことが必要でございましょう。したがいまして、例えば文化という言葉を使う場合でも、日本の文化ということではなくて、諸文化の尊重という形で考えなければいけない、そういう問題だろうと思います。
次に、日本国民統合という問題の、統合という問題でございますけれども、この統合ということは、日本国民を能動的、積極的に統合するというものではなくて、国民の統合というものを受動的に、受け身的にあらわすというように憲法学界では考えられております。佐藤功教授の言葉をかりますれば、鏡ということになります。例えば、国民がまとまっておればまとまった国民を映す、国民がばらばらであればばらばらな国民を映す、そういったものであるというように理解されております。
次に、天皇の権能でございます。
大日本帝国憲法におきましては、天皇は統治権の総攬者でございまして、立法、司法、行政、それらの権限を束ねていたわけでございます。しかしながら、現在の憲法では、「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみ」を行うことになっております。いわゆる四条第一項、第六条、第七条に規定しておりますところの十三の国事行為、これを行うことができるだけでございます。
そして、この国事行為の性質でございますけれども、これは、なぜそうなるかということについては議論が分かれておりますけれども、結論的に、その行為は形式的、儀礼的な行為であるということになっております。そして、この形式的、儀礼的な天皇の国事行為につきましても、内閣の助言と承認が必要であるとされております。ここで今、天皇の意思、天皇のイニシアチブ、こういったものが入る余地はございません。
次に、天皇の地位の根拠でございます。
大日本帝国憲法におきましては、天孫降臨の神勅、これが基盤になっておりました。しかしながら、日本国憲法におきましては、主権者である国民の総意ということになっております。したがいまして、例えば、より天皇に権能を持たせる、あるいは天皇制を政治的には廃止するということも国民の総意によって可能でございます。具体的には憲法改正ということによって行われることになりましょう。しかし、現在、国民の八割以上は現在の天皇制度に満足しておりまして、より権能を持たすべきであるという者やあるいは天皇廃止論は一割以下でございます。そういう意味で、現在の象徴天皇制は、最も安定している日本国憲法の天皇制度の一つであるというように言うことができるかもしれません。
そこで次に、規範解釈上、これまでどういう論点が問題になったかということについて若干申し上げます。
まず第一に、天皇は元首であるかという問題がございます。
これは、従来の改憲をめぐる議論の中でも大変大きな問題であったように思われます。しかし、現在では、かつてと異なり、各国で元首とされているという人たちを見た場合に、その元首であるということから具体的にある権能が出てくるわけではありません。少なくとも、規範的には、だれが元首であるかということは大した問題ではございません。
現在の憲法学における元首、これは芦部先生の定義も参照していただきたいのですが、第一に、内においては行政権の長である、外に対しては国を代表する、具体的には条約締結権を持つもの、これを元首と把握するわけでございますが、特に後者の、国を代表する、条約締結権を持つということが元首の定義の中核になって憲法学的には使われております。
この定義によりますと、日本国の元首は内閣ないし内閣総理大臣ということになります。しかしながら、天皇も外国大公使を接受するという点で、代表の側面がわずかながらでありましてもありますから、これを一種の元首だと論じる者もございますけれども、あえてそうしたアクロバット的な解釈を行う必要はないように思います。憲法学界には、元首の概念がそもそも要らない、不要であるという見解までございます。しかし、天皇が元首だということにこだわる論者は、そうした法的な概念とは関係なく、元首という言葉が持っている過去の権威にこだわっておられるのでありましょう。
繰り返しますが、仮に天皇を元首というようにしたところで、過去の元首概念の残像から天皇の権威強化には役立つかもしれませんけれども、法的には特に変わることはございません。
第二に、日本国は君主国か共和国かという問題が同様に問題になります。
この場合も定義が問題になりますが、君主の通常の定義は、第一に、世襲であること、第二に、名目的であれ統治権を持つこと、第三に、対外的に国を代表するということでございます。
天皇は、一の世襲であるという要件は満たしておりますけれども、第二の統治権を持つとか、国を代表するという点では条件を満たしておりません。したがって、ここで言う君主ではございません。したがって、日本国を純粋の君主国と言うのは到底無理でございますが、逆に、世襲の天皇制度を持っておりますので、純粋の共和国と言うわけにもまいりません。無理にどっちであるかという分類をする必要は全くないのですけれども、あえて言うならば、世襲の象徴天皇を持つ共和国と言うのが妥当でありましょうか。
次に、これが憲法学的には最大の問題でございますが、天皇の公的行為、いわゆる第三の行為が存在するかどうかという問題でございます。
憲法は、天皇の行為を「この憲法の定める国事に関する行為のみ」に限っております。しかし、現実の天皇は、国事行為以外に、国事行為としては説明できない多くの公的な行為を行っております。例えば、国会開会式へ出席しおことばを読むとか、国内巡幸とか、国民体育大会、植樹祭、全国戦没者追悼式などへの出席、外国元首との親電交換、外国公式訪問、園遊会などでございます。
これらの行為をどのように見るべきかについて、憲法学界では合憲説と違憲説がございます。
まず、これらを合憲として容認する学説は、現在のところ、学界の多数説であると言えますが、その根拠は大きく言って次の三説に分かれております。
第一説は、これらの行為の幾つかを国事行為に密接に関連する行為と位置づけ、国事行為に準じる準国事行為として容認するものでございます。
この説では、例えば国会開会式でのおことばは国事行為である国会召集と密接に関連する行為として認められるということになりますけれども、他方、国民体育大会への出席などの行為が認められないことになります。この説については、国事に密接に関連する行為の概念がはっきりしないとの批判が出されております。
第二は、象徴としての行為説でございます。
この説は、象徴としての天皇が行為すれば、国事行為に属さないある種の行為も公的色彩を帯びることになるとして、これらを国事行為と区別される象徴としての行為とするものであります。
かつては、憲法学界においてこの説が有力でありましたし、政府見解はこの立場に立っているように思われます。しかし、国事行為も象徴としての行為であるということや、この説では、象徴ではあり得ないとされる摂政の公的な行為を説明できないことになります。あるいは、天皇が象徴であるのは天皇が国事行為を行っているときだけだという立場からの批判もございます。また、この説でも、象徴としての行為の範囲に限定がなく、無限に広がっていく危惧がございます。
そこで、近年有力になっているのは、公人としての行為説でございます。
この説は、鉄道開通式へ知事さんや市長さんが出席することに見られるように、公人には、法的権能とは別に儀礼的、事実的、社交的行為が公的に認められるというものでございます。
しかし、そもそも天皇の国事行為そのものが儀礼的、事実的行為のみでありまして、しかも、憲法はそれら儀礼的行為を第四条で、憲法の定める国事行為のみに限っていることから、ほかの公人の場合とは異なるとの批判が提起されております。また、この説にありましても、公人としての行為には限定がありませんので、無限に広がっていく危険性がございます。
あと二者のいずれの説も、国事行為以外の天皇の行為を私的行為として野放しにすることの危険性から、これらを公的行為と位置づけることによって、内閣の統制のもとに置こうとする意図から出ている説でございます。しかし、現在の天皇制度において、天皇が独走するという危険性よりも、内閣が天皇を政治的に利用するという危険性の方が高いと言えますので、内閣の統制をこうした論理構成をとることによって意義づける意味は余りないのではないかというように私は考えております。
こうした説に対して、否認説は、天皇の公的行為は国事行為に限られるとして、これら行為を端的に憲法違反であるとするものであります。私もこの違憲説に立ちます。したがって、天皇は現在行っているような国事行為以外の公的行為を中止すべきである、やめるべきであると考えます。もちろん、この説に対しては、それは非常識だという批判が投げかけられております。しかし、その場合、そこで言う常識というのは一体何なのかということを疑ってみる必要があると私は考えております。
しかし、仮に容認説ということに立つといたしましても、それでは公的行為が無限定的になる危険性があるということは先ほど申しました。他方、これらの説の意図する内閣の統制というのも、現在のような形でありますと、国事行為の内閣の助言と承認による統制よりも随分と緩和される形になっております。したがって、もしある種の公的行為を容認するという立場をとるならば、端的に憲法を改正いたしまして、これら行為を明確に容認し、同時に内閣の助言と承認の縛りも明確化することが望ましいと言えます。
この点に関連いたしまして、鵜飼信成教授が英文日本国憲法に着目し、そこでは、憲法第七条十号が、現在は「儀式を行ふこと。」となっておりますけれども、英語では「Performance of ceremonial functions.」すなわち儀礼的役割を果たす、そういうことになっていることを指摘されておりますが、この点も、もし憲法を改正するということを考えた場合には、何らかの参考になろうかと思います。
次に、現在の天皇制度において公私の区別が必要であることを冒頭に申しましたけれども、現実の天皇制度の運用においては、幾つかの点で公私の区別が極めてあいまいになっております。二つの例を挙げます。
まず第一は、皇族のいわゆる公的行為なるものでございます。
そもそも皇族は憲法上の概念ではありませんで、皇室典範が皇位継承権者とその家族について用いた用語にすぎないはずであります。なぜこのような皇族が、天皇についても極めて疑問の余地がある、あるいは議論の余地のある公的行為を公務という名目で行い得るか、憲法からは到底説明ができません。象徴は天皇に一身専属的なものとされておりますから、象徴行為説をとるわけにはいきません。また皇族は、法的には国家機関としての公人ではございませんから、公人としての行為説もとり得ません。
次に、政教分離原則に違反する疑いが濃い皇室祭祀へ公あるいは公務員が関与している問題がございます。
皇室祭祀を助けるものとして、私的使用人として掌典職がれっきとして存在しております。また、皇室祭祀にも充てられるものとして、私事に用いられる内廷費が国庫より支出されております。
他方、憲法は政教分離原則をとっておりまして、国が宗教的活動を行うことを禁止しております。本日は触れませんが、私の理解では、これは大日本帝国憲法時代の反省から、とりわけ、天皇が公的立場で神道にかかわることや国が皇室祭祀にかかわることを禁止しているものと理解されます。
ところが、現実には、皇室祭祀に国や公務員が過度にかかわっております。例を挙げれば、国家公務員たる侍従による宮中三殿への毎朝御代拝、毎朝お参りするわけですね。あるいは掌典職の部屋が宮内庁の建物内にある、あるいは大嘗祭への公金の支出、こういったものでございます。これらが違憲であるかどうか、これを仮に置いておくとしましても、公私の区別があいまいになっているということは言わざるを得ません。
次に、公的な天皇存在が持つ国民統合作用でございます。
さきに話したように、憲法規範的には、天皇には国民を統合する作用は期待されていませんけれども、現実の天皇は、社会的に国民を統合する機能を果たしており、また天皇制度を維持すべきだとする者の多くも、天皇が国民を統合する機能を果たすことを期待しております。また、それが歴史的な事実であるかどうかは別として、歴史的な天皇は、基本的には権威として存在し、権力者ではなかったと論じる論者の多くも、天皇の存在意義を人々を統合する点に認めていると言えます。
これから述べる点は、時間的制約もございますので、要点のみ簡単に申し上げます。詳しくは、お配りいたしました私の論考の「天皇の存在意義」を御参照いただきたいと思います。
そもそも大日本帝国憲法、少なくとも、形式的には天皇に強大な権力を認めた大日本帝国憲法時代にありましても、憲法制定者の期待する天皇は、権力を振るう天皇ではなくて、国民を統合する天皇であったと言えます。
これは、憲法制定時に枢密院で伊藤博文が述べた言葉によく示されております。彼はそこで、ヨーロッパにおいては宗教というものがあって国を、国民をまとめているけれども、日本では宗教は国をまとめることはできない。日本において人心を帰一させるものは、すなわち国民をまとめるものは皇室だけであるということを述べておりますけれども、伊藤博文が近代国家日本を天皇を軸として、統合軸として形成しようとしたものであり、またその点では見事に成功したというように言えると思います。
その際、天照大神の子孫として位置づけられた天皇を統合軸として権威化するために、神道が特別なものとして取り扱われ、皇室祭祀が国家祭祀として重視されたことは言うまでもございません。
また、臣民の義務とされた学校教育におきましても、その指導理念たる教育勅語は、なんじ「臣民克ク忠ニ克ク孝ニ」と天皇に対する忠義を強調するとともに、「父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ」云々という徳行、そういうものを通じて「以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」として、天皇に役立つ人間になることを教え込んだと言えます。また、天皇をたたえる歌である君が代を通して、天皇による国民の統合を図ったのでございます。
さて、そこで、日本国憲法における天皇の国民統合作用はいかなるものであるかということになります。
日本国憲法では、天皇はもはや主権者ではなくなり、国民が最高の存在となり、また政教分離原則によって、公的な天皇と神道との関係は断ち切られました。そして、天皇は統治権の総攬者たることをやめたばかりか、憲法は天皇に国政に関する権能を認めず、その結果、一見、天皇は政治とは関係のない存在のように見えます。しかし、天皇は、その存在すること、行動によって国民を統合するという社会的機能を実質的には果たしており、その意味では高度に政治的な機能を果たしてきたというように言えます。
国民意識におきましても、国民の多くは天皇に対して従来どおりの意識を持ち続けてきた、このことが天皇の国民統合作用にあずかっております。
あるいは、政府におきましても、天皇をあたかも大日本帝国憲法時代の天皇と異ならないかのように装ってまいりました。すなわち、天皇を権威あるものとして、あるいは元首であるかのごとく処遇してまいりました。
幾つかの例を挙げますと、例えば、内閣総理大臣の任命の助言と承認、この文書におきまして「右謹しんで裁可を仰ぎます。」といったような文章を使ったり、あるいは天皇の署名捺印、これを天皇の名前、印とせずに、公式の文書では御名御璽という形を使うとか、あるいは元首として見せかける。これは全権委任状であるとか大使、公使の信任状、こういったものが、あたかも天皇が出したかのような体裁になっている。これは資料をごらんになればおわかりになるところでございましょう。
それからまた、外国大使の信任状の名あて人、これは本来、条約締結権を持っている内閣にあてるべきものでございますが、その名あて人が天皇になっている。しかも、天皇に対してそれを提出するという慣行を政府はそのまま行っております。
それから次に、象徴として天皇が存在するということ自体も国民統合にあずかっております。多くの人は、この象徴にいろいろな意味を入れます。例えば、文化の中心であるとか道徳の中心であるとか、そういうことも天皇の神聖化あるいは統合作用にあずかっております。
また、天皇が世襲であるということ、ここでは当然に伝統というものが強調されることになり、そして大嘗祭に見られるように、神道儀式というものも半ば公式化されることになります。
また、象徴の場としての国事行為、これも、形式的、儀礼的行為も、天皇が、例えば内閣総理大臣を任命するとか栄典を授与するとかいうことを行うわけですから、これは天皇の権威、そういう要素を持っております。
それから、象徴の場を補充するものとして、先ほど申しました公的行為、これもございます。
それからまた、天皇の私的行為でございましても、従来の天皇が持っているイメージがございますので、国民にとりましては、国民を統合する役割を果たしております。
このように、日本国憲法下の天皇は、これまで国民を統合するというすぐれて政治的機能を果たしてきたものの、ここに来て天皇の統合力の希薄化が一部に問題にされております。
天皇、皇族は、現在のところ、国民の大方に支持され敬愛されておりますけれども、昭和天皇に対する国民の意識が、恐れ多いとかありがたいというものであったのに対して、現天皇や皇族に対する国民の意識は、スターに対する意識のようなものになっているのではないかというように、特に天皇制度を護持すべきだとする論者の一部は危惧しております。
スター的人気は移ろいやすいもので、軽薄なものであります。しかし、国民を統合することが期待されている天皇に求められているのは権威であります。ましてや、天皇に無関心である若者たちがふえていることは、天皇の国民統合力に疑問を投げかけております。いわゆる左翼からではなくて、若手の保守的論者から天皇抜きのナショナリズムということが語られる今日の状況でございます。
天皇の権威の底流にある伝統を、天皇制護持論者たちも崩しているように思われるのは、極めて皮肉な現象でございます。
神武天皇が即位したとされる紀元節を表面では否定した建国記念の日の制定、天皇が時をはかり、時を決めるとされた元号を、元号法によって内閣が決めるという形で、天皇の伝統的な権限、権能を奪ってしまった元号法の制定、それから、天皇を神格化する重大な神道儀式であると私は考えます大嘗祭を、新嘗祭と同様の国家国民の安寧と五穀豊穣の感謝祭にすりかえた大嘗祭の定義、あるいは天皇の長寿をたたえ、皇室の御栄えを祈る歌であるはずの、教科書においても大日本帝国憲法時代、国歌ではなくてあくまでも君が代とされてきた君が代を、天皇を象徴とする我が国の末永い繁栄と平和を祈念した歌として国歌とした国旗・国歌法、あるいは天皇のために死んだ英霊を合祀する靖国神社から神道を払拭しようとした靖国神社法案、こういう天皇の権威の足元を崩す行為が続いております。
ともあれ、これまでよかれあしかれ機能してきた天皇の国民統合作用は、徐々に消失しつつあるように思われます。それは、女性天皇の問題と関連するために、るる私は申し上げたわけでございます。
時間がございませんから、このあたり大幅にはしょります。大事なところだけ重点的に申します。
次に、女性天皇の問題に入ります。
現在、皇室典範は法律です。したがって、憲法よりも下位にあります。したがって、憲法に矛盾する内容、これを皇室典範は持つことはできません。
そこで、憲法はその第二条で、皇位は世襲であるということを定めて、その詳細は皇室典範に委任しております。
周知のごとく、大日本帝国憲法はその第二条で「皇男子孫之ヲ継承ス」と定めて、皇女子孫の皇位継承を否定しておりましたけれども、現在の憲法は世襲とのみ定めるにとどまっております。
これについて、ここで言う世襲というのは伝統を踏まえているのであるから、当然に皇男子孫による世襲を意味しており、もし皇室典範で女性の天皇や女系の天皇を認めるとするならば、それは違憲になるとの説があるようでございます。この説では、女性天皇を認めるためには憲法改正が必要であるということになります。
しかし、新旧天皇制度の断絶説によらずとも、仮にここで連続説をとったとしましても、世襲をそのように限定的に解釈する必要はないばかりか、限定することは妥当でございません。仮に伝統なるものを重視するとしても、過去に女性の天皇は存在したのであって、世襲をそのように限定することは誤りと言えます。
したがって、憲法は、皇位は選挙等によって継承されるのではなく、日本国憲法の最初の天皇との血のつながりによって継承されるとのみ述べているのであって、それより詳細は皇室典範に任せたものと解しなければいけません。
そこで、憲法十四条が男女の平等を定めたということと現在の男系男子による継承との関係が問題になります。これは時間がありませんので、本筋にはきょうは当たりませんので、省略しますが、私は例外は、原則に関する例外は最小限度でなければならないという冒頭申しましたこととの関連で、女性の天皇を認めていない現在の皇室典範は憲法に違反するというように考えております。
それはともあれ、女性天皇、女系天皇を否定する理由を整理してみますと、次の四つの理由があると思います。
私は、これについては、ちょっと一つ落としまして、第四として、技術的問題というのをつけ加えたいと思いますけれども、私はこれらの理由は合理的な理由がないということから憲法違反であると言っているわけです。
第一は、言うまでもなく、伝統ということから女性の天皇、女系の天皇に批判的な立場がございます。第二は、女性天皇に違和感を感じる国民感情からの反対論がございます。第三に、女性は政治に向いていないとか、男性に引きずられがちであるとか、女性の能力や機能を問題にする反対論がございます。第四は、女性天皇の配偶者の選定や処遇で複雑な問題が生じるとか、女系を認めなければ一代限りになるとかいった、いわば先ほど言いました技術的な問題からの反対論でございます。
私は、これらはすべて理由はないと考えます。例えば、女性の能力や権能からの反対論、これは男女差別の最大なものでございますし、国民感情、これは現在国民の多くが女性天皇を支持しているという点、それから、例えば技術的問題、この問題も簡単にクリアできると思います。
だが、問題は、伝統的な点からの反対、これだろうと思います。
そこで、仮に男系男子に皇位継承権を限ったことが憲法違反でないとしても、女性天皇を認めた方がいいという見解は当然あり得ますが、これについてどう考えればいいかということです。
先ほど言いましたように、女性天皇や女系天皇を認めるに当たっては、憲法二条に手をつける必要はございません。単純に皇室典範一条を改正すれば足りるのであります。そして、女性天皇や女系天皇を認めた場合、その他の皇室典範の条文の変更も必要でありますけれども、この場合も、男女の平等原則に立脚すれば、規範的にはさほど困難な問題はありません。困難性が生まれるのは、男性優位とか男系優位とかいった原則をとった場合、この問題は議論が極めて複雑になってまいります。
そこで、男女平等原則に立った場合の皇位継承に関する内容を簡単に述べてみます。
女性天皇や皇族女子と結婚する男性の選定や取り扱いをどうするかについては、天皇や皇族男子と結婚する女性と同様に扱えばいいわけで、それ以上何もございません。男女の役割分担や男女の優劣や男性の氏に入るといった家制度を重視するから、問題が複雑になってくるのです。ただ、女性天皇の配偶者の敬称を何とするか、そういった問題が出てきますけれども、これは本質的にどうでもいいことでございましょう。
次に、皇族女子が皇族身分を離脱する規定、典範十二条でございますが、これは当然削除することになります。
それから、皇族が増大するではないかという問題は、皇室典範十一条第二項の皇族身分の離脱、この条項を使って処理できます。すなわち、「やむを得ない特別の事由」、これによりまして、一九四七年の、皇族身分が離脱されておりますけれども、このときのように「皇室会議の議により、皇族の身分を離れる。」という形で、皇族が増大し過ぎるということはチェックできるわけでございます。
それから、皇族女子の継承順位でございますが、これも難しいことを言わずに、男女平等原則にのっとって第一子にすればよろしいわけでございます。もし男性優位ということになりますと、極めて複雑になってまいりまして、後から男の子が生まれた場合に順位が変わるというように、不安定になってまいります。
問題は、しかし、伝統との関係です。法的観点からはこのように女性天皇がすっきりと割り切れたといたしましても、歴史的な天皇の伝統、すなわち、特に女系天皇が存在しなかったということを重視する者からは強固な反対が残るでありましょう。
そこで、伝統なるものを重視して、女性天皇を認めるとしても例外的で、しかも男系女子の天皇しか認めなかった場合はどうなるか。
この場合、男系女子の天皇はつなぎにすぎませんから、この天皇について、まず結婚を認めないか、結婚するとしても皇族男子と結婚するか、その場合は男系にも属する子供には皇位継承権を認めることになります。第三に、子供には皇位継承権を認めないか、いずれかであります。
しかし、結婚を認めないのは、いかに天皇に人権を認めない解釈上の立場からしても不当でありますし、皇族男子との結婚は近親結婚になるおそれがある上に、そもそも適当な皇族男子がいない場合には問題になりません。子供に皇位継承権を認めないのは、男女平等原則違反はおくとしても、皇族男子不在の場合には、ここでは皇位継承が絶えることになります。
したがって、伝統重視は、極端な場合、天皇制度の消滅にも耐えなければならない議論であります。
そこで、男系にこだわり、しかも天皇制度断絶のリスクを回避するためにはどうすればいいか。
第一は、一九四七年に皇族身分を離れた旧皇族の皇族への復帰でございます。しかし、それ以来五十年以上経過した今日、それは到底無理です。それこそ国民感情からいって同意は得られません。
第二は、過去の天皇制度や旧皇室典範時代と同様に、嫡出でない男系男子にも皇位継承権を認める方法でございます。しかし、非嫡出子差別を批判する者を含めて、こういうものを認める状況は今日もはや失われておりましょう。
そうであるならば、天皇制度の断絶のリスクを回避するためには、将来的には、伝統を捨てて、男系女子のみならず、女系男子、女系女子を認めるしか方策はございません。それは伝統的な天皇制度ではないと言っても、どうしようもございません。
そこで、最後の問題になりますが、しかし女系天皇を認めるということは、社会的に天皇の持つ国民統合力を弱めるように働く可能性が高いということは、やはり問題として指摘しておかなければいけません。
天皇の権威の基礎は、基本的に男系による万世一系の血統にあると考えられます。こうしたいわゆる神聖家族にあっては、婚姻によって神聖でない血統が入ることによる神聖性の希薄化は避けなければならない問題であります。
参考資料として配付いたしました資料にありますように、福沢諭吉は「尊王論」なる論文の中で、皇族男子が皇族、貴族でないいわゆる一般女性と婚姻することの問題性を指摘しております。ましてや、男女差別意識が残存する日本において、一般男子との婚姻による血のとうとさの希薄化というものは、よかれあしかれ、より一層進展するに違いありません。それは同時に、天皇の国民統合力を弱めることが予想されます。
以上、甚だ不十分でございまして、大変急ぎましたけれども、私の問題提起というお話として終わらせていただきます。終わります。(拍手)