市川正人の発言 (憲法調査会統治機構のあり方に関する調査小委員会)

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○市川参考人 立命館大学の市川です。
 本日は、このような機会を与えていただき、大変光栄に存じます。
 さて、私は、日本国憲法における司法権のあり方につきまして、司法制度改革との関連でお話しさせていただきます。
 まず最初に、日本国憲法における司法権の位置づけと司法制度改革につきまして、ごく簡単に一般的なことを申し上げたいと思います。
 まず、日本国憲法は、権力分立制、三権分立制をとっており、司法権を最高裁判所を頂点とする裁判所に付与しております。この司法権は、一般的に、具体的な争訟について、法を適用し、宣言することによって、これを裁定し、解決する国家の作用であるというふうに理解されております。
 裁判所は、司法権を行使しまして、まず第一に、私的な紛争の解決を図り、権利侵害の救済に努めることを使命といたします。また、公正な手続のもとで適正かつ迅速に刑罰権を実現するものです。さらに、裁判所は行政事件の裁判権、違憲審査権も付与されており、国家行為の合憲性、合法性の統制を行うことも使命とします。憲法は、裁判所が、こうした使命を果たすことを通じて、司法制度改革審議会が言うように、まさに公共性の空間を支える柱としての役割を果たすことを期待しているのであります。
 ただ、私といたしましては、裁判所が公共性の空間を支える柱である、あるいは公益・公共性実現の役割を果たすといっても、それは裁判所らしい仕方でだということに注意する必要があるということを申し上げておきたいと思います。
 この点で注目されるのが、先ほどの司法権の定義のところで、具体的な争訟についてというふうに書いてある部分です。この部分は、具体的事件・争訟性の要件とか事件性の要件というふうに呼ばれております。日本国憲法はアメリカ型の司法権観念を受け入れたというふうにされておりますが、この事件性の要件はアメリカ型の司法権観念のまさにエッセンスとも言えるものであります。具体的事件・争訟とは、法的権利・利益に関する、相対立する当事者間での現実的かつ実質的な紛争、争訟のことであります。
 司法権の行使の対象がこうした具体的争訟・事件でなければならないのは、第一に、司法権の行使を明確に司法権行使が必要であると言える場合に限定することによって、権力分立原理を守り、政治部門との無用の対立を避けるためですが、また第二に、司法権の適切な行使のために必要な当事者と場を確保するためのものであります。必要な当事者という点では、対立する見解を強力に主張する、自己の利益を追求する当事者が得られるということがありますし、司法権行使にとっての適切な場という点では、具体的な事実状況というものがあって、そこで争点が鋭利に示されているということが意味しているというふうに考えられます。
 このように、裁判所に対して法律をめぐる具体的事実状況が提示されることが重視されているのは、法の意味は具体的な事実状況の中でこそ明らかになるというふうな理解があるというふうに考えられます。裁判所の法解釈が客観性を持ち得るとすれば、それは単に裁判官が法解釈の専門家であるというだけではなく、裁判官が裁判所に持ち込まれた具体的な事実状況に迫られ悩みつつ、法解釈として正当化できなければならない、そういう縛りの中で下したぎりぎりの判断である、こういう点に求められるというふうに考えます。
 あと、レジュメでは法の支配と法治主義という点を書きましたけれども、省略いたします。
 それで、日本国憲法は、裁判所、司法権についてこれまで述べてきましたような機能を果たすことを期待しているわけですけれども、日本国憲法は、裁判所がそうした期待にこたえ、本来の機能を果たすことを国民の権利として保障しております。すなわち、憲法三十二条の保障する「裁判を受ける権利」、憲法三十七条一項の保障する「公平な裁判所の迅速な公開裁判を受ける権利」の保障であります。
 この裁判を受ける権利は、通常、権利、自由が侵害されたと考える場合に、裁判所に訴訟を提起し裁判を求める権利である、及び裁判所の裁判によらなければ刑罰を科されない権利である、こういうふうに定義されておりまして、すなわち、民事事件の場合でいえば、裁判を拒絶されない、こういう権利であるというふうに伝統的に理解されてきたわけですけれども、一方で、伝統的な理解によりますと、裁判制度をどのように定めるかは基本的に立法サイドの問題であって、裁判制度のありよう、具体的な中身について、裁判を受ける権利が一定の要請をしているということはないというふうに伝統的に考えられてきたわけですけれども、そのように考えてしまうと、結局、裁判を受ける権利というものは、法律によって樹立された訴訟制度のもとで裁判を拒絶されない、そういうふうな権利にすぎないということになってしまいまして、このような考え方のもとでは、実際の訴訟制度が、国民が裁判を受けるということを実効的に保障しているかどうかという点は全く問題にならなくなってしまうわけです。
 最近では、このような伝統的な裁判を受ける権利の理解は問題であるというふうに考えて、単に既存の裁判制度を前提として裁判を拒絶されないというだけではなくて、国民が実効的な権利保護を受けるということを裁判を受ける権利は保障しているのである、裁判を受ける権利は、国民が裁判を利用することのできる事実上の前提を整備することまでも要求しているといったような見解が憲法学説あるいは民事訴訟法学説において最近では有力になっておりまして、私自身もそのような主張をしております。
 この裁判を受ける権利は、まず第一に、民事事件の場合でいえば、裁判所において適正な手続による裁判を受ける権利である、そして、この公正手続請求権としての裁判を受ける権利は、裁判所へのアクセスが実質的に保障されている、そういう保障を含むというふうに考えます。
 さらに、行政事件に関して言えば、これは単にその公正な手続のもとで裁判を受けることができればよいというだけではなくて、公権力による権利侵害に対して実効的救済を受ける権利という側面が裁判を受ける権利にはあり、この点がとりわけ行政事件訴訟に関しては問題になるというふうに私は主張しております。
 私は、実際の裁判制度や司法制度がこのように理解される裁判を受ける権利の保障の視点から常に問われなければならないと思いますけれども、それは、現実の裁判制度や司法制度が裁判を受ける権利を侵害していない、憲法違反ではないかどうかということだけを問題にするのではなく、これは、裁判を受ける権利を侵害しておらず、憲法違反でない、それで十分だというわけではなくて、裁判を受ける権利を保障する、そういう憲法の理念により適合しているかどうかという観点から現実の裁判制度、司法制度が検証されなければならないというふうに考えております。
 日本国憲法は、司法権に前述してきたような一定の仕方で公共性の空間を支える柱として活動するという役割を与え、国民にはそういうふうな裁判所が、司法権がそういう役割を果たすということを権利として要求できる、そういう裁判を受ける権利を認めているわけですけれども、日本国憲法は、司法権についてそのような形での定めを置き、また期待をしているわけですが、裁判所がこうした日本国憲法の期待に十分こたえてきたかという、この点につきましては、残念ながら十分こたえてきてはいないというのが衆目の一致するところであろうと思います。
 まず、司法権が機能するためには、裁判官だけでなく検察官や弁護士が必要ですけれども、こうした司法に携わる法曹の数が諸外国に比べて極端に少なく、小さい司法と呼ばれる状況にあります。このように、司法の容量が小さいことに加えて、国民から遠い利用しにくい存在であるため、紛争はなかなか司法の場に持ち込まれない。そこで、司法は本来扱うべき問題の二割程度しか処理できていないという、よく言われる二割司法、そういう指摘があります。
 さらに、行政機関の公権力の行使を争うための行政訴訟はどうかといいますと、これも行政権チェックの役割を十分果たしていないと言わざるを得ません。すなわち、行政訴訟の間口が非常に狭く、もともと件数も非常に少ないんですけれども、少ない行政事件訴訟の二〇%以上が原告適格等の訴訟要件を満たさないとして却下されておりますし、本案判断までたどり着いても、一審において裁判所が行政機関の行為を取り消すというような、一部であれ原告が勝訴する可能性はせいぜい一〇%台ということで、勝訴率も高くなく、裁判所は本案判断においても行政機関の裁量を広く認める傾向にあると言えます。
 そこで、企業も、行政機関による規制や行政指導にがんじがらめにされながらも、それを裁判で争うことはまれで、行政機関との持ちつ持たれつの関係、いわゆる護送船団方式を維持してきたというふうに言われているわけです。違憲審査制についても、最高裁判所は極端な司法消極主義の立場に立ってきたというふうに全体として見ると言わざるを得ないと思います。
 司法制度改革の取り組みがなされるに至った背景にはこのような我が国の司法の実情があり、さらに規制緩和、グローバライゼーションが進む中で、司法が憲法が期待している役割を果たすことが社会的に強く期待されるに至ったということがあろうかと思います。
 こうして、司法制度改革は、司法に日本国憲法が期待している機能を十分果たさせるような基盤の構築であるというふうに位置づけることができます。
 二〇〇一年六月の司法制度改革審議会の答申は、司法制度改革の三つの柱として、「国民の期待に応える司法制度の構築」、「司法制度を支える法曹の在り方」、「国民的基盤の確立」の三つを挙げております。
 この二つ目の「司法制度を支える法曹の在り方(人的基盤の拡充)」につきましては、さまざまなことがこの答申の中でも提案されておりましたが、質量ともに豊かな法曹を養成する、そのために、法曹養成に特化したプロフェッショナルスクールである法科大学院を中心とした法曹養成制度への転換ということがそこでの中心的な課題の一つでありました。確かに制度を幾ら変えても、その制度を動かす人の充実がなければ宝の持ちぐされになってしまうわけです。ですから、司法の人的基盤の拡充こそ司法制度改革の要諦であると考えますし、そういう観点から、この四月に開校いたします法科大学院の成否は、司法制度改革の成功にとって極めて重要であるというふうに考えております。
 私も立命館大学法科大学院の研究科長に就任する予定なのですけれども、他の法科大学院関係者ともども、そのような法科大学院の意義を踏まえ、法科大学院をぜひ成功させたいという決意でおります。ただ、本日は、このような司法の人的基盤の拡充の重要性を指摘するだけにとどめまして、他の二つの柱にかかわりましてお話をさせていただきたいと思います。
 次が、利用しやすい司法の実現ということですけれども、日本の司法制度は、高い、遅い、実効的な救済を得にくい、敷居が高いなどというふうにされておりまして、裁判へのアクセスの拡充策の推進が司法制度改革における重要な課題でありました。
 そして、この点に関しては、このところ、裁判へのアクセスの拡充を目指しての立法的な措置が進んでいることが注目されます。昨年には、簡易裁判所の管轄に属する民事訴訟事件の訴訟の目的の価額の引き上げ、提訴手数料の引き下げ、さらに裁判迅速化法の制定、あるいは計画審理の促進や訴え提起前の証拠収集手続の拡充等を内容とする民事訴訟法の改正がなされ、さらに、人事訴訟の家庭裁判所への移管などを内容とする人事訴訟法が制定されております。また、目下、全国どこでも国民が法的な救済を受けられるようにするということを目的とする司法ネットの整備であるとか、法律扶助制度の拡充、弁護士報酬の敗訴者負担制度の導入というものが議論されているところであります。
 このように、裁判へのアクセスの拡充を進めるための諸改革が、近時、急速に進められており、裁判を受ける権利は裁判へのアクセスの実質的な保障を含むという私の立場からすれば、こうした動きは裁判を受ける権利を実質的に保障しようとするものであると評価できます。こうした諸改革を進めるに当たっての関係者の努力、さらに立法機関である国会の積極的な姿勢には敬意を表したいと思います。
 ただ、裁判へのアクセス拡充のためとしてなされる措置が、真に裁判へのアクセスの拡充になるのか、慎重な見きわめが必要なことは確かでありまして、その典型例としては、弁護士報酬の敗訴者負担制度の導入などがあると思います。時間の関係で詳しくは申し上げられませんけれども、敗訴者負担制度も、これを導入することによって訴訟を起こしやすくなるというふうな場面もあれば、かえって訴えの提起を萎縮させる結果となるおそれもあるということで、この制度の導入に関しては、相当慎重な見きわめないし使い分けが必要ではないかというふうに考えます。
 また、私は、直接的な裁判へのアクセス拡充策だけでなく、民事裁判の審理の充実策をもここのところで取り上げたわけですけれども、それは、民事裁判の審理が充実し、使いやすい実効的な民事裁判となるということが、市民の裁判へのアクセスを促進するというふうに考えているからです。こうした観点からは、民事裁判の審理の充実、公平でかつ迅速な手続の確保がアクセス拡充のためにも必要だということにもなりますし、訴訟の遅延も裁判へのアクセス障害であり、訴訟の迅速化も裁判を受ける権利の要請であるというふうになるわけです。
 しかしまた、訴訟の迅速化だけが自己目的化し、手続の公正さ、公平さを損なうことがあれば、訴訟当事者の裁判を受ける権利の侵害とさえなってしまうわけでして、こういった訴訟の促進と手続保障との微妙なバランスへの配慮というものが不可欠であります。
 この点で、裁判迅速化法自身が、こういった手続の適正さの重視あるいは充実した審理ということを言っており、法律自身がこういう視点を確かに持っておりますので、この法律の運用に当たっては、その法律の趣旨に従って、先ほど申し上げたようなバランスを十分とる形で運用していただきたいというふうに思っております。
 そして次に、行政訴訟制度の改革でありますが、この行政訴訟制度の改革も、利用しやすい司法の実現あるいは国民の期待にこたえる司法の実現という課題の一つとして位置づけられます。
 行政訴訟をめぐる実情、貧困な実情があるわけですけれども、この主たる原因の一つが、行政事件訴訟法と裁判所によるその厳格な運用であったことは確かであります。この点については、レジュメにありますように、訴訟類型の狭さ、あるいは仮の権利保護制度の不十分性、あるいは訴訟要件が非常に厳しいこと、管轄裁判所の限定等さまざまな問題があるわけです。
 それに対して、司法制度改革審議会の答申が、「司法の行政に対するチェック機能を強化する方向で行政訴訟制度を見直すことは不可欠である。」としたのを受けて、司法制度改革推進本部の行政訴訟検討会において行政訴訟制度改革案が検討されてきており、本年一月には「行政訴訟制度の見直しのための考え方」が公表されているところであります。
 この「考え方」は、これもレジュメにありますような形で、かなり大幅な改正を行政事件訴訟法に対して加えるということを提起しておりまして、こういうふうに行政事件訴訟法の大幅な改正に向けて歩み出しているということは、公権力による権利侵害に対して実効的な救済を受ける権利が裁判を受ける権利に含まれるという先ほど申し上げましたような私の立場からすれば、高く評価されるべきものであります。
 ただ、この改革案を見ますと、まだまだ微温的なものであり、不徹底なところがあると考えます。ですから、実効的な権利の救済を受ける権利としての裁判を受ける権利の趣旨によりかなった改革ということがなされるべきではないかというふうに感じております。
 例えば、原告適格につきましても、この「考え方」は取り消し訴訟の原告適格の拡大をすべきであるというふうには言っているんですけれども、これはどのように拡大するかといいますと、原告適格についての定義そのものは変えない、「取消しを求めるにつき法律上の利益を有する者」という定義自体は変えないけれども、原告適格が裁判所によって実質的に広く認められるために必要な考慮事項を書こうというふうに言っているにすぎないわけです。これは、そこに挙がっている考慮事項は、基本的に最高裁判決が現行法の解釈に当たって挙げている考慮事項と同様であって、この提案は、結局、現在の判例の立場を法定する、そういうふうなものであります。しかし、それでは基本的に原告適格の範囲を現在よりも抜本的に広げていくということにはならないわけです。
 最初に私が申し上げましたように裁判に適した場というものが必要なわけでして、そうした裁判に適した場を確保するということは不可欠なことである。この点で、アメリカの場合には、個人的な利害関係や事実上の損害というものが不可欠であるというふうに考えられているということが参考になりますが、こういうふうに裁判に適した場というものを確保する必要はありますけれども、それが確保できれば、実効的救済の確保という視点から、原告適格をより拡大していく、そういうふうな検討がなされるべきであるというふうに考えます。
 いずれにせよ、今後、行政事件訴訟法改正法案がまとめられ、国会で審議されることになるわけですけれども、ぜひ、実効的な救済を受ける権利としての裁判を受ける権利、その保障を強化していくために大胆な制度改革を実現する、そういう方向で検討、審議されていくということを期待しております。
 そして、最後の論点、柱が、司法への国民の参加であります。
 司法への国民の参加につきましては、裁判員制度との関連でお話しさせていただきます。
 司法制度改革審議会の答申は、司法の国民的基盤を確立するために国民の司法への参加を進めるべきであるとして、司法参加の柱として裁判員制度の導入を提言したわけですが、確かに、司法への国民参加には、裁判への国民の意識や常識の反映、わかりやすい裁判の実現、司法に対する国民からの幅広い支持と理解の獲得、国民の統治主体意識の醸成、司法に対する国民の関心、理解の涵養、そういった意義があることは確かであります。ですから、私も、司法への国民参加を進めるということに、それ自身には基本的に異論はありません。
 ただ、国民主権の日本国憲法のもとでは司法への国民参加が当然に求められる、こういう主張に対しては少し留保が必要であるというふうに考えております。
 といいますのも、裁判所は、日本国憲法のもとでは、個々の司法権行使について直接的に民主的コントロールを受ける存在ではありません。身分保障を受けた裁判官が独立して憲法と法律のみに従って裁判を行うものとされております。裁判所に対する民主的なコントロールの手段としては、内閣による裁判官の任命、最高裁裁判官に対する国民審査があるにとどまります。
 このように裁判所は、民主的な正統性が低い国家機関であり、直接的な民主的コントロールを受けないという点では、非民主的な性格を有します。その意味で、非民主的、括弧が私の原稿ではついているわけですけれども、この非民主的機関である裁判所は、その時々の政治的多数派ないし政治部門の判断、さらには世論に法的には拘束されず、憲法と法律にのみ従い、公正な手続に従って判断を下さなければなりません。そうでなければ、法の運用は恣意に流れて、市民、とりわけ少数者の人権が損なわれることになってしまうでしょう。
 しかしまた、憲法にせよ法律にせよ、民主主義の所産であり、政治的多数者の意思決定の所産でありますし、しかも、財布も剣もない裁判所としては、国民の法意識、法的確信から乖離した法解釈をすることはできません。この意味で、裁判への国民の意識、常識の反映が不可避なことは確かですが、当然、公平な手続に従って法を適用するという裁判の性格をゆがめない限りでという限定が付されなければならないというふうに考えます。
 そこで、次に、裁判員制度の意義と課題、それから裁判員制度の合憲性についてお話をしたいのですが、レジュメとは順番を逆にしまして、裁判員制度の合憲性の話から入りたいと思います。
 裁判員制度につきましても、司法制度改革推進本部の裁判員制度・刑事検討会で検討が進められ、本年一月に「裁判員制度の概要について(骨格案)」が公表されております。それによれば、裁判体は原則として裁判官三名と裁判員六名の計九名で構成されるものとされ、裁判員は重大刑事事件について有罪無罪の決定と刑の量定にかかわり、有罪無罪の決定と刑の量定については、裁判官と裁判員の合議体の員数の過半数による、ただし、裁判官、裁判員各一名以上が多数派に属していなきゃいけないということになっております。
 さらに、先般、裁判員制度に関する与党プロジェクトチームの案も、ほぼ同様の案がまとめられているところであります。
 この裁判員制度と憲法との関係ですけれども、これについては、学説上、従来それほど詰められてきてはいないというふうに言わざるを得ません。
 市民が裁判所の決定に関与する典型的な方式には、比較法的に見ますと陪審制と参審制とがありますが、戦前、我が国が短期間とはいえ陪審制を運用していたという経緯もあって、陪審制の合憲性につきましてはそれなりの議論がなされてきました。
 そして、多数説は、陪審の評決が裁判官を拘束しないような陪審制であれば憲法違反ではないと。すなわち、憲法七十六条一項が司法権を裁判所に帰属させていることや、七十六条三項が裁判官の職権の行使、独立を認めているということに反さず、また、憲法三十二条や三十七条の裁判を受ける権利を侵害するものではないというふうに多数説は言ってきた。すなわち、憲法学説の伝統的な多数説によりますと、陪審の評決が裁判官を拘束してはいけない、戦前の陪審制のように、陪審の評決が裁判官を拘束しなければ日本国憲法のもとでも許されると。
 これが伝統的な多数説ですけれども、それに対して一部の学説は、日本国憲法の司法権がアメリカ型の司法権であるというのであれば、完全なアメリカ型の陪審制も日本国憲法上許され得るのではないかという問題提起を一部の学説はしてきました。
 この説においては、裁判というものは狭義の法の解釈と事実認定とから成り、憲法は、裁判所が事実認定権限を完全に握っていることまでは要求していない、陪審による事実認定が適正なものとなるよう裁判官がある種の役割を果たすようにするなどの一定の条件のもとでは、陪審の評決が裁判官を拘束することを認める、それも憲法上許されるというふうに一部の説は言ってきたわけです。
 この説によりますと、裁判官が狭義の法の解釈権限を握っていることは不可欠であるけれども、事実認定権限については裁判所が完全な決定権限を握っていなくてもよいと。ただし、陪審の事実認定が裁判官を拘束するという場合は、陪審による事実認定が恣意的なものにならないよう裁判官が役割を果たす、そういうことが必要であるというふうにこの少数説は述べておりまして、私もこの少数有力説の立場を支持したいというふうに思っております。
 他方、参審制、法の素人である一般市民が裁判官とともに裁判体を構成するというこの参審制につきましては、従来、その合憲性が本格的に検討されたことはありませんでした。ただ、伝統的な理解によれば、裁判所は裁判官のみによって構成されなければならない、その裁判官というのは、憲法七十八条で身分保障を受けている裁判官であって、憲法七十九条、八十条で任命手続と任期を定められている最高裁判所裁判官と下級裁判所裁判官である、さらに、裁判を受ける権利というのは法の定める裁判官による裁判を受ける権利であると。これが伝統的な理解である。
 こういう伝統的な理解からすると、参審制は日本国憲法上は許されないということにならざるを得ないわけでして、どうも伝統的にはそう詰められた議論はなされてこなかったわけですけれども、参審制は日本国憲法上許されないのではないかというのが、必ずしも十分な議論を踏まえたものではないわけですけれども、一般的な理解ではなかったかというふうに考えます。
 しかし、裁判員制度は、裁判員を事件ごとに選任するという点では陪審制に類似していますが、裁判員が裁判官と一緒に裁判体を構成するという点では基本的に参審制の一種ですので、そうすると、伝統的な考え方からすると、この裁判員制度の合憲性というものが問題にされざるを得ないということで、裁判員制度の合憲性が真剣に論証される必要があるわけです。
 私自身は、結論からいいますと、裁判員制度は基本的に日本国憲法のもとでも許されるというふうに考えております。
 まず、日本国憲法は、この参審制なり裁判員制を明文で禁止してはいません。こうした制度については憲法上認める明文が必要であるという主張もありますけれども、比較憲法的に見ても、憲法上明文規定がないのに参審制を採用している国もありますので、日本国憲法のもとでも、解釈上許されれば市民を司法に参加させる制度は可能であろうというふうに考えます。
 憲法七十六条一項と八十条ですけれども、ここから、必ずしも、下級裁判所における裁判体が憲法八十条の言う裁判官によってのみ構成されると解さなければならないわけでもありません。裁判官が裁判体の構成の全部であることも一部であることも許容している。まあ不可欠の部分であり中核部分であるということはあるんでしょうけれども、裁判官以外の者と裁判官とで裁判体を構成するということを否定しているとは必ずしも読めない。
 さらに、現在の骨格案によりますと、事実認定と量刑については全体の多数決によるが、裁判官、裁判員それぞれ一名は多数派に属していなければならないというふうにされていますので、裁判官の中での多数派の二名が全体の多数決では少数派になって多数決に破れるというふうになることもあり得ます。
 そうすると、裁判官がその事実認定や量刑について裁判員の判断に拘束されるということになって、七十六条三項の職権行使の独立に反しないかという問題が出てくるわけですけれども、しかし、現在の場合でも、合議体を構成する裁判官のうち、合議体での多数決に破れた裁判官は多数派に従わなくてはならない、このことが憲法七十六条三項違反には別にならないというふうに解されていますので、裁判官の職権行使の独立といっても、裁判制度を維持運営していく上で必要な制限は認めざるを得ないということになります。ですから結局、問題は、裁判員と裁判官とで裁判体を形成し、事実認定、量刑についての判断をともに行うという制度自体の合理性、許容性ということが問題になるわけです。
 そして、私は、裁判官が狭義の法解釈について専権を有しているということは不可欠であるというふうに考えますが、それ以外の点についてまで専権を有しなければならないとは考えておりません。ですから、私の立場では、事実認定と量刑について裁判官と裁判員とで共同で決定するという提案されているような制度も許されると考えます。ただし、これは陪審の場合と同様に、裁判員と裁判官との共同でなされる事実認定、量刑についてのその判断が適正になされるような仕組みが、あるいは保障がなければいけないと考えます。
 私は、裁判を受ける権利は、必ずしも裁判官による裁判を受ける権利ではないと考えますが、恣意的な事実認定、量刑がなされ得るような裁判の仕組みであれば、公平な刑事裁判を受ける権利の侵害になると言わざるを得ないと考えます。
 私は、このように裁判員制度は、基本的には日本国憲法上許されると解しますが、裁判員制度の具体的なありようが、公平な刑事裁判を受ける権利を侵害しないように、あるいは公平な刑事裁判を受ける権利の保障を促進するように決められなければならないと思います。
 最後に、この裁判員制度の意義と課題ですけれども、これに対しては二つの見方がありまして、日本の刑事訴訟の現状が根本的に変わっていく、そういうふうな起爆剤になるという見方もあれば、これは重罰化の、安易に厳罰が科される、厳罰を科すような有罪判決が安易に下される、そのための促進、触媒、あるいはイチジクの葉として裁判員制度というのは使われてしまうんじゃないかという、全く二つの相反する見方があります。
 私自身は、この二つの見方も一理はあるというふうに思います。これはやはり、どのような条件を整えるか、あるいはどのような裁判員制度にするのかということ次第では、非常にうまくいく可能性もあれば、非常に悲惨な結果を招く可能性もあるというふうに考えておりまして、その意味で、裁判員制度の導入というのは、いわばハイリスク・ハイリターンの改革であるというふうに考えます。ですから、具体的な裁判員制度をどう構築するか、また裁判員制度のもとで行われる刑事訴訟のあり方をどうするか、裁判員制度を支える基盤をどのように形成するかが決定的に重要であるというふうに考えます。
 特に重要な点は、集中して審理が行われる。裁判員を何日も拘束できませんので、集中して短期間に公判が行われるということになりますので、そこですべて勝負がついてしまう。ということになりますと、弁護側がそういう短い期間でいかに対等な立場で闘うことができるのかということが問題になりまして、弁護側が対等な立場でその短期間で闘うことができるような仕組み、具体的には、取り調べの可視化の問題であるとか検察側手持ち証拠の開示の問題、こういう点についての整備がぜひ進められる必要があるというふうに考えます。
 それから、最後に違憲審査制の活性化という点について一言だけ申し上げて、私の話を終わらせていただきたいと思います。
 憲法改正をめぐる議論の中では、憲法裁判所をつくったらどうかという意見もありまして、現在の日本国憲法のもとでの付随的違憲審査制が、特に最高裁による違憲審査権の行使が司法消極主義の実情である。それを根本的に変えるということをねらって、憲法裁判所を導入してはどうかという意見があるわけですけれども、これこそまさにハイリスク・ハイリターンの改革構想でありまして、憲法裁判所がうまくいくかどうかということについては、これは、どのような基盤が必要なのか、そして日本にそういう基盤が今あるのか、それをつくるのにはどうしたらいいのかという点についてより慎重な検討が必要であろうというふうに私は考えております。
 ですから、私は、差し当たりは、付随的違憲審査制の意義を生かした形での制度改革をまずやるということを考えた方が当面はいいのではないかというふうに思っておりますし、きょう申し上げたような司法制度改革全般の動きが、付随的違憲審査制というのはそういう司法権の通常の行使の上に乗っておりますので、この司法制度改革全般が結局は付随的違憲審査制を活性化させるというふうな基盤の醸成になると思うんです。そういう点を最後に申し上げたいというふうに考えております。
 少し時間を超過いたしましたが、これで私の発言とさせていただきます。どうも御清聴ありがとうございました。(拍手)

発言情報

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発言者: 市川正人

speaker_id: 13162

日付: 2004-02-19

院: 衆議院

会議名: 憲法調査会統治機構のあり方に関する調査小委員会