市川正人の発言 (憲法調査会統治機構のあり方に関する調査小委員会)
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○市川参考人 今の小さな司法といいますのは、やはり日本の場合には、伝統的に、裁判に訴えなくても紛争を解決できる、あるいは紛争そのものが起きにくいというようなことは確かにあったと思うんですね。
日本の社会というのは、やはり外国生活などをしてみますと非常によくわかるんですけれども、基本的に、だれが何をする、その人の位置によって社会的に期待されていることがあって、あるいは、それで社会もその人はそういうものだというふうに対応してくれるし、ルールといいますか、自分の身の置きどころ、あるいは社会的な期待というものがわかっていると非常に過ごしやすい、生活しやすい、生きていきやすい世界であったというふうに伝統的な日本社会は言えるんじゃないかというふうに思います。
これに対して、私はアメリカで少し生活したことがありますけれども、アメリカの場合には、そのようなことは全くありませんで、自分がすべて自己主張をしていかないと何もしてくれないということで、自己主張をしながら、お互いにそれを調整して生きていかなきゃいけないということで、当然紛争になるし、裁判も利用せざるを得ない。あるいは、非司法的な紛争解決の伝統的なそういうルートがそれほど豊かでないということもあるんだろうと思います。
そういう意味では非常にいい面もあるわけなんですけれども、一方で、では、そのもとで全く、権利が侵害されたり、泣き寝入りがされたり、あるいは紛争がすべてうまく解決されていて適切な落としどころにすべて落ちていたかといいますと、必ずしもそうではない。これは、一番悪い例でいきますと、私人間で紛争が起きた場合に暴力団に仲介を頼むというのは、これは非常に悪い例ですけれども、最悪の例としてはこういうものですけれども、こういうふうな形で紛争が正しく解決されず、あるいは十分に裁判などを通じて争うことができず泣き寝入りをするということがこれまでの日本にもあったことは否定できないというふうに考えます。
ですから、伝統的な日本社会を前提としても、小さな司法が前提とするような司法に余り期待をしないということではなくて、もう少し期待をする、役割を果たしてもらうということは必要であったと思うんです。
それともう一つは、私が申し上げたような伝統的な日本社会のありようそのものがやはり変わってきて、すべてがわかり合ったものが、すべてルールをわかっていて分に応じてみんなが行動する、そういう社会ではやはりなくなってきている。そういうことからすると、やはり法に基づいた公正なルールによる紛争解決というものがこれからはますます必要になってくるし、そういうことができないと、国際的に、いろいろ企業同士のつき合いであっても、あるいは国同士のつき合いであってもやりにくくなっているということだろうと思います。
それで、日本国憲法との関係ではどうかということなんですけれども、これは、日本国憲法がアメリカのような大きい司法まで要求しているかというと、そこまでは要求していないと思いますけれども、これまでのような非常に小さな司法以上のものは、日本国憲法が司法権に対して要求している課題を果たすためには必要であろう、そういうふうに考えています。