坂元一哉の発言 (憲法調査会)
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○参考人(坂元一哉君) 大阪大学の坂元でございます。本日はお招きいただき、ありがとうございます。
憲法改正がなぜ必要かということは、おおよそ二つの観点から論じられているように思います。一つは憲法の制定経緯にかかわる観点から、もう一つは、憲法制定以来何十年もの年月がたち、憲法が内外の情勢の変化に適応できなくなっているのではないかという観点からでございます。
本日、私がお話しさせていただくのは後者の観点からでして、私は、二十一世紀におきまして日本の平和と安全の基盤である日米同盟を強化していくために、日本は集団的自衛権の行使ができるようになるべきである。ただ、そのために憲法九条を改正する必要はなく、解釈の是正で十分であると主張したく思います。そして、その解釈の是正のために国会に一つお願いがある、それが話の粗筋でございます。
日米同盟が日本の国益に欠かせないものであること、これは改めて説明するまでもないと思います。その日米同盟の骨格である日米安保条約、この条約は、過去半世紀、その構造上の弱点にもかかわらず、様々な試練に耐えて長く続いてまいりました。弱点といいますのは、この条約の相互性、双務性にかかわることでございます。
この条約は、日本がアメリカに基地を貸し、アメリカが日本の安全を保障する、基地と安全保障の交換の約束を定めた条約でございます。旧安保条約の締結交渉に携わった西村熊雄条約局長は、後にそのことを物と人との協力と表現いたしました。
レジュメをごらんください。西村局長が言いますように、この条約は確かに相互的あるいは双務的でございます。日米は互いに物と人との協力というギブ・アンド・テークに納得しましたからこそ、この条約を結び、それが一九六〇年の改定を経て半世紀以上続いております。
しかし、この物と人との協力という形の相互性は、米軍と自国軍の協力、言わば人と人との協力を前提にしているNATOのような相互防衛条約と比べまして、互いにどこかしっくりとしない感情を生み出すところがございます。といいますのも、人を出す方は、自国の若者にリスクを負わせるわけですからそのリスクを負わない相手を余り尊敬せず、物を出す方は、その不便とコストを理解しない、あるいはしないように見える相手の態度を面白くなく感じがちだからであります。
冷戦は、このしっくりとしない感情を抑制する働きをいたしました。いろいろと理由はございますが、特に大事なことは、冷戦下の日米同盟が全面戦争を想定しておりまして、いざとなれば日本も戦火を免れることはできない、したがって、結局日本とアメリカはともに戦うという前提で理解されていたからです。物と人との協力とは申しましても、実際には人と人との協力、自衛隊と米軍の協力にもなるというわけです。
しかし、冷戦が終わって既に十年以上がたちました。日米両国を取り巻く脅威の性格は、あるいは朝鮮半島危機のような地域紛争、あるいはミサイルや大量破壊兵器の拡散の問題、またあるいは九・一一テロ事件のような、これまで近代世界がまじめには考えてこなかったポストモダンの脅威に変わっております。そうした脅威に対して、果たしてこの物と人との協力だけで日米同盟がこれからも続いていくかといいますと、これはかなり怪しいわけでございます。
幸い、日本とアメリカは冷戦後、一九九七年に、新しい日米防衛協力のための指針、ガイドラインを定めて、東アジアで地域紛争が起こったときに自衛隊と米軍の間でなすことができる協力の幅を広げました。アフガン戦争では、日本はインド洋上での米艦船への海上補給という形でできる限りの人と人との協力を行いました。それによって、日米同盟はその歴史上最大の試練の一つを乗り越えたと思います。
私は、二十一世紀において日米同盟は、それぞれのでき得ること、できないこと、得意、不得意、これをよく勘案しつつ、物と人との協力に人と人との協力をバランスよく組み合わせる、そういう形で発展させていくべきだと考えております。
そういう考えからしますと、近年の日米同盟の運営はうまく進んでいると評価しております。ただ、国内政治と憲法との関連でいいますと、まだ一つ大きなハードルがございます。人と人との協力の法的な基盤になります集団的自衛権の問題であります。
政府が、日本はこの集団的自衛権を国際法上持っているけれども憲法上行使できないとしておりますために、人と人との協力はいまだ腰の据わったものにはなっておりません。なぜなら、人と人との協力で日本が行うものは武力行使に当たらないと説明しなければなりませんので、武力行使と一体化するとかしないとか、あるいは戦闘地域と一線を画するとか画さないとか、分かったようで分からないあいまいな議論が続くからであります。これをそろそろやめて、集団的自衛権の行使ができるという前提で人と人との協力を説明できるようにしてほしいわけです。
日本が集団的自衛権の行使ができるようになって何か悪いことがある、私は余り思い付きません。逆に、日本が集団的自衛権の行使ができるという前提に立ちますと、説明が簡単になるというだけではなくて、幾つか良いことがございます。まず、日米同盟の強化が機能されますし、おかしなことを言ってお互いに気まずくなるということもなくなります。例えば、日本がミサイル防衛システムを導入した場合に、自分のところに飛んでくるミサイルは撃ち落とせるが、アメリカに飛んでいくミサイルは撃ち落とせないといったばかなことは言わなくて済むようになります。
それに、集団的自衛権はアメリカ追随だという議論がありますが、私は逆だと思います。集団的自衛権が行使できるようになり、きちんとした形で日本がアメリカに協力できる幅が広がれば、アメリカに対する発言権も当然増すでしょう。アメリカとの協議におけるイエスとノー、これも今より歯切れよくすることができると思います。また、沖縄を始め国内の基地問題も解決への道がより明るくなると考えます。
それで、集団的自衛権を国際法上持っているけれども憲法上行使できないという政府の解釈ですが、果たしてこれは正しい憲法解釈でしょうか。私は全くそうは思いません。政府の解釈は直観的にも論理的にも奇妙な解釈だと思います。しかし、今日はその詳しいところは、私が尊敬し、またその御著書や論文を参考にさせていただいている佐瀬教授からお話があると思いますので、省かせていただきます。
ただ、一つだけ、この政府解釈の政治的意義のようなものについてお話ししたいと思います。
レジュメに、日米安保改定時に内閣法制局の一員であり後に長官にもなられた高辻正巳氏の回顧の弁を抜き書きしております。ごらんください。長くなりますが、読ませていただきます。
グアム島と言えども、米国を守るために自衛隊を海外派兵することは憲法上容認されないことで高橋氏と一致した。しかし「日本国の施政の下にある」米軍基地が武力攻撃を受ければ、日本としても「共通の危険に対処して行動することを宣言する」と規定している以上、日本国内では米軍を守るため集団的自衛権を行使することになる。しかしそれを敢て集団的自衛権と言わなくても、実際にやることは個別的自衛権行使と同じなので、岸首相、林法制局長官ら政府側は個別的自衛権行使で押し通したが、米国は、米軍基地を防衛するための日本の行動を日本の集団的自衛権行使と理解している。
と。
心理学の実験でよく出てくるだまし絵にルビンのつぼというのがございます。つぼかと思ってじっと見ていると人の顔に見え、またじっと見ているとつぼに見えると、あれのことでありますけれども、この高辻氏の回顧の最後のところ、私は正にあれだと思いました。日本国民には自衛に見え、アメリカには集団的自衛に見える。そのくだりを見てこんな説明をどうしてする必要があるのかと考えたわけでございます。
集団的自衛権とあえて言う必要がないというのなら、逆にこれは別に言ってもいいわけです。日本は日本国の施政の下において集団的自衛権行使ができると言って何が悪いのでしょうか。その答えは少し歴史を振り返ってみれば分かります。
日本政府が集団的自衛権の行使ができないという解釈を明らかにし始めたのは、今から五十年前、一九五四年の自衛隊創設に関連する国会論議の中においてでした。もう少し詳しく言いますと、一九五四年六月三日の外務省条約局長による説明が公式には最初です。なぜ、そんな日付を詳しく言うかといいますと、それが本参議院におきまして自衛隊の海外派兵を禁止する決議、レジュメをごらんください、が出た翌日のことだからです。
当時、政府は、自衛隊という新しい軍事組織が行使するその軍事力の限界を国民に示す必要に迫られておりました。そして、そのころの日本では、憲法は個別的自衛権の行使すら禁じているといった議論がばかにできない力を持っておりまして、自衛隊が集団的自衛権を行使して海外派兵もできるというようなことになりますと、これは自衛隊創設に国民の支持が得られないということは明白でした。そうではないということを説明するために、集団的自衛権は行使できないとの立場が取られたようです。
その後、一九六〇年の安保条約改定審議の際も同じでした。岸首相や林法制局長官らは、日本が他国防衛のために他国に出掛けていって防衛するような、つまり海外派兵を含むような集団的自衛権は行使できないと説明しております。そういう説明で自衛隊が海外派兵しないということを明らかにしたことは、国民が自衛隊を受け入れるには役立ったかもしれません。また、安保条約を国民に受け入れやすくすることにも役立ったかもしれません。けれども、その反面、集団的自衛権の行使は海外派兵と同一視されて、戦前日本の海外における軍事力行使の悪いイメージが付きまとうことになってしまいました。
このことについて、私は、これから集団的自衛権の問題を考える場合には、集団的自衛権と海外派兵、この二つは分けて考えるべきだと思います。実際に、安保条約第五条のように海外派兵を伴わない集団的自衛権の行使もあるからです。そして、もし国民の間に海外派兵を伴う、すなわち他国の領土、領海、領空での武力行使を伴うそういう集団的自衛権の行使はしたくないという強い希望と意思があるのなら、実際にそうした集団的自衛権の行使をしなければよいと思います。集団的自衛権の行使ができるからといって、何もそれを全面的に行使しなければならないというわけではありません。集団的自衛権は権利であって義務ではないのです。
私自身は、日米同盟の維持と発展のために海外派兵を伴わない集団的自衛権の行使は積極的に認めるべきだと考えています。例えば、日本が日本の施政の下にある領域そして公海及びその上空で集団的自衛権の行使ができるようになれば、日米同盟における人と人との協力の基礎は幅広くしっかりしたものになると考えます。日米同盟は何といっても海洋国家間の同盟ですから、公海とその上空で互いの防衛協力の理論的基盤を固めるということは同盟強化にとって極めて大きな意味を持つはずです。
それで、そのような形の限定的な集団的自衛権の行使、これをどのようにしたら実現できるかということであります。私は、日本国憲法は、集団的自衛権の限定的行使なら認めるといったような憲法解釈はまずいと思います。それは、限定とはどういう意味かと、なぜ限定されなければならないかという不毛な論争を呼ぶだけだと考えます。それに、国際法上のある権利を日本だけ限定的に認められているのも変な話です。やはり、憲法上、集団的自衛権の行使は禁じられていない、そういう解釈が必要になると思います。この点、政府には憲法解釈を変えてもらう必要がありますが、それはまた後で述べます。
憲法で集団的自衛権の行使が可能ということになれば、次は海外派兵をしないという歯止めをどうするかとの質問が出ると思いますが、私は、これは法律ですればよいと考えます。
憲法上、集団的自衛権の行使が可能だとしましても、その権利を生かす法律がなければ、実際の行使はできません。自衛隊が集団的自衛権の行使を前提にこれこれのことをすると法律に書いて初めて集団的自衛権の行使は可能になります。逆に言うと、これこれというところを超えたことはできないわけです。例えば、自衛隊が日本の領域と公海及びその上空において武力攻撃を受けた米軍の反撃を支援することができるといった趣旨の法律ができれば、この法律では海外派兵してまで助けることはできないということになると思います。
それから、もう一つ歯止めに関して大切なことですが、制限された範囲内で集団的自衛権の行使ができるような法律ができたからといって、日本政府がその範囲内で武力行使に積極的にならなければならないというわけではありません。むしろ、憲法の平和主義の精神を踏まえて、武力行使には常に慎重な姿勢で臨むというのが当然の政策論だと考えます。
これまでのところ、私の考える集団的自衛権の限定的な行使についてポイントをまとめますと、レジュメに書きましたように、一つ、憲法は集団的自衛権の行使を禁じていないという憲法解釈、二つ、日本の領域、公海及びその上空で集団的自衛権の行使を可能にする法律、三つ、実際の武力行使は法律の範囲内で極めて慎重に行うという政策の三点になろうかと思います。
さて、私は、集団的自衛権の行使を可能にする憲法解釈が必要だと思いますが、政府は今のところそうした解釈の変更はできないという立場のようであります。特に、内閣法制局からは、これは変えることができないから、集団的自衛権の行使が必要なら憲法を変える必要があるとの見解も示されています。
私は、政府の憲法解釈に過去において一定の意義があったことは認めます。認めますが、変えられないから憲法を変えろというほど立派な解釈だろうかといぶかしく思うわけであります。もちろん、私が幾ら政府の解釈がおかしいと思うと言いましても、思うというのは私の判断にすぎません。また、政府の解釈には、長く言い続けてきた、少なくとも私が生まれる前から言い続けてきたという重みはあると思います。しかし、そうではあっても、忘れてならない事実は、政府の憲法解釈というのは最高裁の解釈ではなく、決して憲法の最終的な有権解釈ではないということでございます。
私も、もし最高裁の解釈が政府の解釈と同じというのであれば、憲法を改正するしかないと思います。しかし、こうした問題について裁判所は、統治行為論と呼ばれる理論でもって、高度に政治性を有する事柄については、一見明白に憲法違反でない限り憲法判断を差し控えるという態度を取っております。
そうなりますと、そうした高度に政治性を有する事柄での憲法判断はどこがするのかということになります。それは、やはり最終的には国民の判断になろうかと思います。そして、その国民の判断をまずもって体現するのは、国権の最高機関であります国会の御判断ということになるのではないでしょうか。私はそう信じますので、集団的自衛権の問題につきましては、国会で広く深く御議論いただいた上で、集団的自衛権の行使を前提にした法律を議員立法で制定していただきたく思います。
具体的に、どこまでの範囲で集団的自衛権の行使を認めるか、行使ができるようにするか、どういう法律であるべきか、これは国会の御議論で決めていただければよいと思います。今、私は日本の領域と公海及びその上空と申しましたが、それより狭くてももちろんよいかと思います。また、その法律は、集団的自衛権の行使のみならず、日本の武力行使の在り方とその限界について大所高所から総合的に考えて作られた安全保障基本法のようなものの一環である方がよいと思います。
しかし、そう思いますが、広く深い議論が背景にあるなら、より簡単にこれまでの法律の改正でもよろしいかもしれません。例えば、周辺事態法。周辺事態法におきまして、日本周辺の公海及びその上空における後方地域支援というのがございますが、この後方地域支援を、後方地域ではなくて後方支援を可能にするような法律改正はいかがでしょうか。
これはレジュメに書きましたが、このガイドライン、日米防衛協力のための指針でいいますと、戦闘地域と一線を画するというあの有名な文言、これを除去するという趣旨でございます。それにより、米軍の後方支援をしている場所が戦闘地域になっても自衛隊は支援を続けることが可能になります。そして、その自衛隊の行動は集団的自衛権の行使で説明することになります。要は、国会で憲法は集団的自衛権の行使を禁じていないという解釈を明らかにしていただきたいのです。もしそうしたことができれば、政府の憲法解釈は乗り越えることができます。もちろん、国会が作った法律をそれでも内閣が憲法違反だと主張するということになりますと、これは困ったことになりますが、そういうことにはならず、それをきっかけに政府が解釈を是正すると考えます。
本日は、日米同盟と集団的自衛権について考えていることの一端をお話しいたしました。そして、集団的自衛権の行使ができるという憲法解釈を前提にして、限定的な範囲で集団的自衛権を行使できるようにする法律を議員立法で作っていただきたいというのが私のお願いであります。
最後に、憲法の平和主義について少し考えるところを述べようかと思いましたが、時間が来ましたので、質疑の中でチャンスがあればお話しすることにして、私の冒頭の陳述はこれで終わらせていただきます。
御清聴ありがとうございました。