棟居快行の発言 (憲法調査会)

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○参考人(棟居快行君) 棟居でございます。
 お手元に憲法前文の意義と役割という二枚ばかりのレジュメをお配りさせていただいております。これに即してお話をしますが、若干いろいろなエピソードを混ぜたりすると思います。お聞き苦しい点があれば御容赦ください。
 さて、憲法前文の役割ということですが、これはもちろん現行憲法、すなわち日本国憲法の前文が現にどういう役割を果たしておるのか、あるいは戦後果たしてきたかという現状認識の問題のみならず、およそ憲法前文というものがいかなる役割を果たすべきかという一般的な私なりの認識、これを同時に込めております。
 以下の点は恐らく余り御異論のないところであろうと思いますので、要約的に述べさせていただきますが、前文それ自体が憲法全体のエッセンス、凝縮をしたレジュメ的な役割を当然担っておるわけです。現行憲法でもそのようになっております。すなわち、国民主権、代表民主制、基本的人権の尊重、平和主義、国際協調主義といった、このような日本国憲法を貫く精神、これが列挙されておるところでございます。このように憲法全体を言わば凝縮した形で最初にぽんと示すという憲法前文の役割、そして日本国憲法が現に果たしておる役割というものは、一言で言えば、言わば見取図としての役割ということであろうと思います。
 憲法というものは国の基本法であります。それはいかなる国家を構想するのか、あるいはいかなる国家と国民の関係、これを樹立するのかということについて基本的なルールを決めておるわけでございまして、その基本的な見通し、予測可能性といいますか、こういったことを国民に対して提示をする必要があります。
 憲法も法律の一部でございますので、内容を詳細に熟知をして、あるいは理解をして、さらには判例なども踏まえた上で、それを基準に実際に日々の政治が、政治はもちろん正確に行われると思いますが、国民生活が粛々と行われるということは、これはなかなか難しいところでありまして、むしろ国民にとっては、要するに憲法は我々にどのような国家というものを与えたのか、我々はどういう国家を選んだか、あるいは国家と国民はどういう関係にあるのか、例えばついこの間のイラクの人質事件のようなケースで国家と国民、両者の関係はいかにあるべきか、これは根幹にかかわる問題が実はあったかと思います。このようなことについて基本的な見通しを与える、そういう見取図的な役割が憲法の前文の役割であると思います。
 さらに、メッセージとしての前文というふうにここへ書いておりますが、理念を発信するという役割、これも前文に託されておるわけです。
 そもそも憲法というのは、人権並びに統治権力につきましてそれを根拠付けるという極めて基本的なことをなす特殊な法典であります。国会議員の先生方が立法権を行使されるということは、日本国憲法が立法権をもちろん授権をしておるということによるわけでありまして、また先生方がお作りになる立法、これに基づいて行政機関が様々な行政処分等を行う、これは立法の行政に対する授権がそこにあるというわけでございまして、このように憲法を頂点とする縦の法段階、法的な段階構造が見られるわけであります。そのような段階構造の頂点に憲法はあるわけでございますが、その憲法の言わば柱書きといたしまして、憲法前文というものは憲法の理念を発信するという役割を担っております。
 このような憲法の前文というものは、これは先ほども既にやや触れましたが、国家像並びに国家と国民との関係、とりわけ責任それから役割の分担ということにつきまして、国民に対して分かりやすく説明をする、さらには、同時に世界に対しても分かりやすく説明をすると、発信をする、こういう言わば日本の顔としての役割が求められることになります。
 なお、このような憲法前文の基本的な役割の反対側といたしまして、具体的な裁判で直接に個々の事件を規律するといったいわゆる裁判規範的な役割、通常の法律が持っておる役割は、憲法前文に関しましては憲法の本文とは異なり、憲法前文に関しましてはそのような役割は必ずしも認められないということになるわけでございます。
 私が強調したいのは、これから述べます三番目の役割でございます。それは、国民に共有される価値ないし共通の目標として憲法前文というものがあるという点でございます。これはレジュメの中でも、また以下の話の中でも「夢」というようなやや文学的な日本語を使って表現させていただきたいと思います。
 これはどういうことかと申しますと、日本国憲法の前文に込められております国民主権であるとか基本的人権、平和主義、国際協調主義といった諸原則につきまして、これは率直に申し上げて極めてあいまいもことしております。このようなあいまいさというのは、法規範としてはかなりの程度致命的なわけですが、しかしながら憲法前文という特殊な場所にあるこのような基本原則というものは、むしろ国民が各人各様の自分の価値観に言わば引き寄せて、ある意味で都合よく憲法前文、すなわち憲法が発信する理念というものを自分サイドで理解をするということを可能にしてきました。
 その結果として、必ずしも、戦後といいますか、決して戦後日本国憲法を制定した時点で国民の正確なコンセンサスを得て作られたわけではないにもかかわらず、日本国憲法が憲法としては非常な長寿を享受してきたということにつながっておると思うわけです。つまり、あいまいな諸原則であるがゆえに、国民が各人各様に自分に引き付けて好意的に理解をすることができる、そのことによりまして、多様な価値観を統合するという役割が言わば期せずして果たされてきたと言えるかと思います。
 私の好きな番組にNHKの「プロジェクトX」というのがあるわけなんですが、なお最近、これはアラブ圏でも英語版が更に翻訳をされまして流されるということで、日本の戦後、その格闘、これを伝えるという点で世界に発信する非常にいいコンテンツだというふうに個人的に喜んでおるのですが、あのような番組の中で見られる日本人の、今日的に見ればやや時代錯誤的な、男ばかりが集団を成して会社やあるいは家族のために必死に働くと、結局は自分の名誉のためにと。映画で「ラストサムライ」というのがありましたが、正にラストサムライの集団だなという感がいたしますが。
 このような戦後の高度成長を支えた典型的な日本人の夢というものは、これは何であったかといいますと、日本国憲法の前文を自分たちに都合よく読んだか、あるいはやや日本国憲法の前文を戦後日本のまだ古い意識がいろいろ残っておる中に、ある意味で翻訳をしつつ変容をさせつつ日本国憲法の前文を読み替え読み込んでいった、そうして得られた夢を日本国民が共通して追い掛けてここまで来たというのが、戦後日本ではなかったかなというふうに思います。
 今、ややややこしい物の申し上げ方をいたしましたが、要するに戦後日本の成功と日本国憲法、とりわけその前文に込められた基本原則、これは切っても切れない関係にあるというふうに私は思います。
 ただ、決してその基本原則がストレートに戦後日本の成功を保障してきたということではないわけでございまして、むしろ日本的なそこに読替えといいますか、アレンジといいますか、そういったプロセスが入りまして、言わば憲法前文の普遍的、ある意味で西欧的な理念を特殊日本的に読替えをした上で、我々が直接追求できる夢の形に置き換えて、それを目指して一生懸命一致団結をして頑張ってきたということではないかなと思うわけです。
 そして、その夢、共通の追い掛けてきた価値というものが、ある意味で経済の変化といった問題もあるのかも分かりませんが、今、やや夢から覚めつつあるといいますか、夢が多少色あせてきておるのかなというふうに思います。
 もしそうであるとすれば、国民に共有されるべき価値、共通の目標を示すという憲法前文の役割、これが今日問い直される、つまり、もう一つ憲法前文に言わばねじを巻きまして、共通の夢というものをそこにしたためていくといった作業が必要になるのではないかと。私の聞きますところ、先ほどの英参考人もそのような話をされたかと思います。
 さて、引き続きまして、現行日本国憲法の前文は、以上述べましたような憲法前文が果たすべき役割をどこまで果たしてきたのかということでございます。
 まず、全体のエッセンスたり得ておるのかということですが、これはもちろん、基本原則を並べておりますから、その意味では、日本国憲法のエッセンスという役割を果たしていると言えばいると言えます。
 しかしながら、基本原則というものの相互の関係、例えば人権と国民主権。民主的な決定を経てなされた国家的な決断というものと個々の人々の自己決定、これがこの間のイラクの人質事件で正にそうであったかも分かりませんが、ややもすれば衝突をしてまいるという限界領域、これはあるわけです。そうしたときに、両者の関係、これどこで線を引くのか、あるいはそういう場合にどっちが優先だといった相互関係というのが必ず問題になるわけです。
 あれもこれもいろいろな価値を並べて自分に都合よく読んでくださいということで、国民が日本国憲法をそれなりにエンジョイしてきたかも分かりませんが、突き詰めて言えば、そのあいまいさというのは、やはり看過し得ないコストというものをそのまま今日にまで持ち越してきておるわけでありまして、それは諸原則間の相互関係があいまいだということであろうと思います。
 更に言えば、平和主義、それと国際協調主義。何となく従来、私が所属するような憲法学者という職業集団においては、平和主義と国際協調主義という二つの憲法原則は、これはもう完璧に相伴うものというふうに考えてまいったかと思いますが、最近、国際貢献ということが言われ出し、どうも両者の間にずれがあるんではないかということが学界の外側からの指摘を受けまして、若干この両者の関係についてようやく考え直さなきゃいかぬというところに来ておるのではないかと思います。いずれにしましても、日本国憲法からは、この二つの間の折り合いというものの具体的な線引きはこれ読み取れないということになります。
 このように、諸原則の間での優劣あるいは線引きがなかなかに困難であるということの根本的な背景といたしましては、結局は、日本国というのは何なのか、我々はどういう国家像を選んだのか、あるいは国家と国民の関係について我々はどういう線引きを欲したのかという明確なイメージが日本国憲法からは伝わってこないということが根本にあると思います。
 すなわち、日本国憲法、とりわけその前文を見ますと、これは非常に未来志向のようであり、そして日本人の夢をかき立てるポジティブな印象が一読した限りではありますが、しかしよく読んでみますと、必ずしもいわゆる未来志向ではないのかなというふうな印象を私は持っております。
 すなわち、ここでは平和ということを非常に強調しておるわけですが、その平和というのは、「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、」というこの部分を裏返して平和主義というふうにつないでおるわけでございまして、したがいまして、あの戦後すぐの時点でそれまでの戦争を否定する、それまでの国家像を否定するという、言わば過去を振り向いてそれを否定するというところから出発をしておるわけであります。
 過去が直近の過去であれば、すなわち戦後すぐの時点であれば、それまでの国家像というものを否定するということについてみんなが一定のコンセンサスを持っておれば、それはそれで共通の出発点として十分だったということが言えるでしょう。しかしながら、戦後五十年以上たってまいりますと、多くの国民が戦争を知らないという今日におきまして、過去の否定だけでは共通の言わばジャンプ台にはなり得ないわけであります。
 したがって、より積極的にどのような国家を目指すのか、国家と国民との間にどういう線を引くか、責任と役割の分担をどうするかという点について、日本国憲法からはそういう言わば未来志向の羅針盤が十分には読み取れないということが言えるのではないかと。一言で言うと、憲法構想というものが結局見えてこないということではないかなというふうに率直に感想を持っております。
 以下、時間の関係もございますので急ぎますが、では、メッセージとして理念を発信するという作用、これはどうだろうかということですが、日本語として美しいのか、それとも醜いのかという点については、私には文学のセンスがありませんのでよく分かりません。ただ、一言私見を述べさせていただくと、メッセージとしてできふできどちらだという点は、その根底にある憲法構想あるいは国家像そのものの説得力、これに全面的に依拠しておるわけでありまして、文学性に依拠しておるわけではないのではないかと。
 まあ、ありていに言えば、仮に下手くそな日本語、悪文であっても、しっかりした憲法構想がその基礎にあれば、それはそれで憲法前文としては必要にして十分だと言えるのではないかというふうに思います。もちろん、より美しい日本語であるにこしたことはない。メッセージでありますからより耳になじむというものであってほしいのは、これ当然のことであります。
 さて、それでは、国民に共有される価値、共通の目標で日本国憲法はあり得ておるのかということですが、既にかなりの点お話をしております。すなわち、我々は戦後共通の夢、具体的には、一生懸命働いて会社で出世をするとか、一戸建ての家を建てて子供を大学に行かすとか、こういった国民の多くが似たり寄ったりの夢を持ち、そのために言わば同じ方向を向いて、すなわち豊かさという方向を向いて一生懸命まじめに働いてきた、その結果が今日の日本を作っておるわけであります。
 しかしながら、その国民が共通の夢を追ったその夢というものは、日本国憲法が提示した正に前文に込められた価値そのものであったかというと、これは先ほども申しましたように、前文の精神を日本的に言わばアレンジし、あるいは読替えをしたその結果のものであったわけで、これは別の言い方をすれば、日本国憲法自身は戦後日本の高度成長に一つのきっかけを与えたというふうに私は思いますけれども、しかしそれは決してストレートな直接的な貢献ではなかったということも言わざるを得ないのであろうと思います。
 さて今日、システムへの不信ともいうべき非常に残念な現象が社会的に蔓延をしております。年金不払というようなところに象徴的に見られるような、言わば国家とか社会というシステムに対してノーを言う、それを拒否するという、自分を外してくれという、おれは関係ないよという、こういうシステムへの不信というものがどうも蔓延しておるのではないかと。これは結局、日本国憲法前文が持つべき、そして多少は持ってきたはずの人々を統合していく、言わばその夢の力というものがちょっと落ちてきておるのではないか、あるいは日本国憲法を戦後のプロジェクトX的に読み替えた、その読替えも含めて、憲法の言わば魔力といいますか呪文というか、そういったものが少し色あせてきておるのかなというふうに思います。
 それではどうすべきかということですが、この憲法調査会では、是非未来志向の前文論議を期待したいと思います。それは具体的には、国家が知的インフラを整備するという役割を強調した、具体的には学習権や情報への自由、これは本文のマターかも分かりませんが、こういったことを人権の基底に据えた、そういった、人を大事にする、人の能力というものを最大限に引き出す、そういう正に今日の日本にふさわしいと考えられる国家像、これを全面的に出すというものが求められるのではないでしょうか。
 そこではもちろん、自由な自己決定、それとセットの自己責任というものが個人の尊厳の内容として当然に重視をされるべきであります。何でもかんでも国家の庇護ということではない。国家と国民の間の言わば大人の関係といいますか、そういった線引き、これが憲法から読み取れる。国民は、一体どこまでのことを自分の責任でやると、どこからは国家だと、そういうシステムを信用できる、これが憲法、とりわけ前文の役割として重要なのではないかというふうに思います。
 アメリカがテロと戦っており、日本もその戦列に加わっておるわけですが、どうもその際の動機付けは、アメリカの場合には建国の精神である自由や民主主義のために戦う、日本では安全ということが前面に出てきます。これは誤りではありませんが、結局、自由や民主主義といったアメリカでは当然の建国の精神に相当する価値が日本国憲法から必ずしも十分出てこない、あるいは我々がそれを享有できていないというところで、殊更に安全ということだけが強調されるのかなというふうな感想を述べさせていただいて、私のつたない報告を終えさせていただきたいと思います。

発言情報

speech_id: 115914184X00620040421_006

発言者: 棟居快行

speaker_id: 30740

日付: 2004-04-21

院: 参議院

会議名: 憲法調査会