2007-12-11
衆議院
島薗進
厚生労働委員会臓器の移植に関する法律の一部を改正する法律案審査小委員会
島薗進の発言 (厚生労働委員会臓器の移植に関する法律の一部を改正する法律案審査小委員会)
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○島薗参考人 宗教や思想、あるいは広く文化を研究している一研究者の立場から意見を申し述べたいと思います。
日本の宗教界とさまざまな機会にこういう問題を討議してまいりますと、脳死臓器移植の改正A案に対する反対の声が非常に高いことに気づきます。そこに資料を出しておりますが、仏教系の団体では大多数と言ってもいいのではないだろうか、恐らく、キリスト教系の団体ですと、これは逆転するかもしれない。しかし、日本ではキリスト教系の方々の中にも慎重な意見が強いと思うわけです。
なぜ宗教界の方がそういうふうに考えるかといいますと、このような臓器移植の推進を行いますと、人間らしい死のあり方というものが損なわれるのではないか、また、生きているかもしれない人間を資源として利用する、そういう医療のあり方がさらに進んでいくのではないか、そういうふうな懸念があるからだというふうに理解しております。
これは宗教団体の意見、考え方なのですが、よく勉強した上でこういう意見を出されているということで、特殊な立場とは言えますが、国民の幅広い死生観を反映しているというふうにも考えられるわけです。
とにかく、日本では脳死は人の死であると考える人が少ない、諸外国に比べて明らかに少ない、これがこの問題を考えるときの非常に大きなかぎになるかと思います。そして、それにはかなりの根拠があるということが重要な点であります。
まず、これについては、さまざまにこれまでも議論がなされてまいりましたが、現在の世界的な臓器移植推進の背後にある脳死は人の死であるという考え方は、文化的なある偏りを持ったものではなかろうか。脳に生命の座がある、脳が死ねば人間は死んだことになる、こういう考え方は、霊と肉、身体と精神、主体と客体というのを分離する西洋の伝統的な考え方、また極めてそれが強調された形の近代の西洋の考え方というものに影響されているのではないかという理解が一つございます。
もう一つ重要なことは、死というものはそもそも人と人との交わりの中で起こることであって、脳死を人の死とすることによって大切な死のプロセスというものが損なわれてしまう、そういうことが考えられます。
これについてはたくさんの本が書かれておりまして、例えば、柳田邦男さんの「サクリファイス」というふうに非常に広い影響を持った書物なども挙げることができます。二人称の死ということを言われましたが、大切な人との別れのときというものをたっとぶ、そういう思いから、脳死判定を通じて臓器移植ということを前提とした場合、そのプロセスに大きなダメージが生じてしまう、こういうことが国民にかなり周知されているということがあると思います。
科学的に申しましても、先ほど日弁連の参考人の方からの御意見がありましたように、脳死体といっても体が動く、脳死体から子供が生まれる、脳死体から臓器をとるときに麻酔をかける等の、脳死が人の死であるということとは直観的に相反する事柄が多々ある。そういうことも、国民が脳死は人の死でないと考える大きな理由になっているかと思います。
さらに、そのような臓器移植を無理に進めることによって、まだ回復するかもしれない人たちへの生命回復の努力ということが弱められる可能性があるのではないかということが重要なポイントかと思います。
先ほど加藤参考人が多くの資料を挙げられましたが、その中で欠けているのは、脳死を人の死とする人が日本人の中にどのぐらいいるか、しかも、正しい情報に基づいてそのような調査をしたらどうなるかということでありまして、恐らくまだ五〇%に達するかどうかというところではないかと思います。
このように、脳死は人の死でないということが浸透している、これが前提にならなければならない。これは、一九九二年の脳死臨調の報告以来、国民に浸透し、そして、世界的にもそういうふうな考え方が一定の理解を得るようになっていると私は考えております。
そして、その中で一つ重要なポイントとしては、例えばピーター・シンガーなどという、非常にこういう医療を進めることを主張している人物、哲学者でありますが、そもそも、脳死を人の死とするということは臓器移植を推進するために便宜的に決められた死の定義である、したがって、これは将来動かすこともできるものであり、もっと広げていくこともできる、こういうふうな考え方もあるわけであります。
さて、そのように、脳死が人の死でないと考える人が多いにもかかわらず、臓器移植のために臓器を提供したいという人がおられる場合、その善意を尊重しようというのが現行法であります。これは、一種独特の、日本人の知恵として生み出されているものでありまして、非常に微妙な、際どいバランスの上に成り立っているわけであります。
ここで、そのような、脳死が人の死でないかもしれないのに、なお臓器移植を進めていいと言うためにはやはり条件がありまして、本人の意思確認というのは絶対にこれを譲ることができない、そういうものであろうかと思います。
四のところへ今進んでおりますが、本人の意思表明がないのに死を早める決定ができるとすることは、世界的な医療倫理、生命倫理の根幹を揺るがすような非常におかしな決定になると思います。
日本はとりわけ脳死は人の死でないと考える国において、非常に緩い脳死判定が行われる、臓器移植の推進が行われる、無理な推進が行われるということは、そもそもこの国は医療倫理の基本を守る意思があるのかどうかということを疑問に付すようなものではなかろうかと考えております。
そもそも、この法案改正の動機というものが、諸外国が推進しているのに日本はおくれている、そういう考えでありますが、国民の意識、考え方、価値観、死生観、そういうものにのっとって判断をすれば、決してこれはおくれているとか進んでいるという問題ではありませんで、みずからの信念に基づいてどのような判断をするか、それを国民的な合意を得ていくか、こういうことの問題であろうかと思います。
それから、この法案に限らず、生命倫理問題にかかわりまして、このようにアドホックにその問題だけを取り上げて議論するのでよいのかということを申したいと思います。
生体移植と死体からの移植というのは非常に深くかかわっているわけでありまして、親族への優先というようなことも生体移植においてどうかということと結びつけて考えなければなりません。日本では、生体移植が非常に進んでいること自体が大きな問題を持っているとも考えられます。そういうようなこともあわせて検討すべきであろう、より大きな、広い立場からの生命倫理問題の考察、その中でこそ脳死からの臓器移植ということも正当な位置を持って考えられるはずである、そういうふうに考えます。
最後のところですが、まとめになりますが、日本人が脳死とされる人からの臓器移植に慎重である理由でありますが、これは、人間らしい死を死にたいという気持ち、あるいはそのように人を送りたいという気持ち、それから、そのように攻撃的な医療にもし進んでしまうということになりますと、医療本来の目標からずれてしまうのではないか、そしてそれは医療そのものへの信頼を損なうことになるのではないか、こういう懸念があるからであろうと考えているわけであります。
以上をもちまして私の意見表明とさせていただきます。御清聴ありがとうございました。(拍手)