厚生労働委員会臓器の移植に関する法律の一部を改正する法律案審査小委員会

2007-12-11 衆議院 全106発言

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会議録情報#0
本小委員会は平成十九年十月十九日(金曜日)委員会において、設置することに決した。
十月十九日
 本小委員は委員長の指名で、次のとおり選任された。
      井上 信治君    大村 秀章君
      川条 志嘉君    後藤 茂之君
      清水鴻一郎君    田村 憲久君
      林   潤君    福岡 資麿君
      宮澤 洋一君    吉野 正芳君
      郡  和子君    園田 康博君
      山田 正彦君    山井 和則君
      古屋 範子君    高橋千鶴子君
      阿部 知子君    糸川 正晃君
十月十九日
 吉野正芳君が委員長の指名で、小委員長に選任された。
平成十九年十二月十一日(火曜日)
    午前九時開議
 出席小委員
   小委員長 吉野 正芳君
      井上 信治君    大村 秀章君
      川条 志嘉君    清水鴻一郎君
      田村 憲久君    林   潤君
      福岡 資麿君    宮澤 洋一君
      郡  和子君    園田 康博君
      山田 正彦君    山井 和則君
      古屋 範子君    高橋千鶴子君
      阿部 知子君    糸川 正晃君
    …………………………………
   厚生労働委員長      茂木 敏充君
   議員           河野 太郎君
   議員           山内 康一君
   議員           冨岡  勉君
   議員           阿部 俊子君
   参考人
   (青山学院大学及び青山学院女子短期大学兼任講師) 野村 祐之君
   参考人
   (腎臓病総合医療センター外科教授)        寺岡  慧君
   参考人
   (大阪厚生年金病院院長)
   (岡山大学名誉教授)   清野 佳紀君
   参考人
   (日本弁護士連合会人権擁護委員会特別委嘱委員)  加藤 高志君
   参考人
   (上智大学法学研究科教授)            町野  朔君
   参考人
   (東京大学大学院人文社会系研究科教授)      島薗  進君
   参考人
   (全国交通事故遺族の会理事)           井手 政子君
   厚生労働委員会専門員   榊原 志俊君
    —————————————
十二月十一日
 小委員井上信治君十月二十四日委員辞任につき、その補欠として井上信治君が委員長の指名で小委員に選任された。
同日
 小委員古屋範子君十月三十一日委員辞任につき、その補欠として古屋範子君が委員長の指名で小委員に選任された。
同日
 小委員林潤君十一月七日委員辞任につき、その補欠として林潤君が委員長の指名で小委員に選任された。
同日
 小委員川条志嘉君及び清水鴻一郎君十一月十四日委員辞任につき、その補欠として川条志嘉君及び清水鴻一郎君が委員長の指名で小委員に選任された。
同日
 小委員阿部知子君十一月二十一日委員辞任につき、その補欠として阿部知子君が委員長の指名で小委員に選任された。
同日
 小委員園田康博君十一月二十八日委員辞任につき、その補欠として園田康博君が委員長の指名で小委員に選任された。
同日
 小委員郡和子君同月四日委員辞任につき、その補欠として郡和子君が委員長の指名で小委員に選任された。
    —————————————
本日の会議に付した案件
 臓器の移植に関する法律の一部を改正する法律案(中山太郎君外五名提出、第百六十四回国会衆法第一四号)
 臓器の移植に関する法律の一部を改正する法律案(斉藤鉄夫君外三名提出、第百六十四回国会衆法第一五号)
     ————◇—————
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吉野正芳#1
○吉野小委員長 これより厚生労働委員会臓器の移植に関する法律の一部を改正する法律案審査小委員会を開会いたします。
 この際、一言ごあいさつ申し上げます。
 小委員長に就任いたしました吉野正芳でございます。
 本年は、臓器の移植に関する法律が施行されて十年となります。脳死による臓器移植は、個人個人の死生観、倫理観を問うものであり、広く国民の理解と支援があって成り立つ医療制度であります。
 現在の臓器移植医療の厳しい現状をかんがみますと、本小委員会に課せられた責務は極めて重要であり、小委員長就任に当たり、改めて責任の重さを痛感いたしております。
 ここに小委員各位の御指導と御協力をいただき、小委員会運営に努めてまいりたいと存じますので、何とぞよろしくお願い申し上げます。拍手
     ————◇—————
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吉野正芳#2
○吉野小委員長 第百六十四回国会、中山太郎君外五名提出、臓器の移植に関する法律の一部を改正する法律案及び第百六十四回国会、斉藤鉄夫君外三名提出、臓器の移植に関する法律の一部を改正する法律案の両案を一括して議題といたします。
 本日は、両案審査のため、参考人として、青山学院大学及び青山学院女子短期大学兼任講師野村祐之君、腎臓病総合医療センター外科教授寺岡慧君、大阪厚生年金病院院長・岡山大学名誉教授清野佳紀君、日本弁護士連合会人権擁護委員会特別委嘱委員加藤高志君、上智大学法学研究科教授町野朔君、東京大学大学院人文社会系研究科教授島薗進君、全国交通事故遺族の会理事井手政子君、以上七名の方々に御出席をいただいております。
 この際、参考人各位に一言ごあいさつを申し上げます。
 本日は、御多用中にもかかわらず本小委員会に御出席いただきまして、まことにありがとうございます。それぞれのお立場から忌憚のない御意見をお述べいただき、審査の参考にいたしたいと存じますので、よろしくお願いを申し上げます。
 次に、議事の順序について申し上げます。
 最初に、参考人の方々から御意見をそれぞれ十分以内でお述べいただき、その後、小委員からの質疑にお答え願いたいと存じます。
 なお、発言する際は小委員長の許可を受けることになっております。また、参考人は小委員に対して質疑することができないことになっておりますので、あらかじめ御承知おき願いたいと存じます。
 それでは、野村参考人にお願いいたします。
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野村祐之#3
○野村参考人 おはようございます。ただいま御紹介いただきました野村でございます。
 実は、大学で教えておりますが、ちょうど今週、四人の学生が卒業論文を出さなきゃいけないので、毎日徹夜のようなところにこちらにお招きの話、実はごく最近いただきまして、本当にきょうはまともな準備をする時間なく伺いましたが、率直に忌憚のないところを申し上げようかと思っております。
 そして、準備ができなかったんですが、ちょっと前、学生に配ったプリントを一枚だけ皆様のお手元にお届けしました。大きいあれですけれども、半分に折っていただくといいかと思いますが、そこのところに、私の病歴といいますか、ございます。二度の肝臓移植を受けております。一度はB型の肝炎で、それからおかげさまで十五年ぐらい生き延びまして、今度は肝がんの治療で、アメリカでは肝がんの治療の第一が肝臓移植ですので、結果的に同じ肝臓移植を二度受けるということになりました。
 アメリカでは、そういったぐあいで毎年五千例以上の方が肝臓、もちろん臓器不足ということがあるんですが、それはドナーの数が少ないからではなくて、余りに広い範囲の肝臓病に対して移植が効果的であるために、結果的にドナーの数が足りていないというような現状だと思います。
 おかげさまで、そんなわけで命拾いしておりまして、こうやって元気に学校でも、もう徹夜に次ぐ徹夜で、授業もさせていただいております。
 特にきょうお話し申し上げたいということに関しましては、こっちは個人的なことですけれども、こっち側の方がいささか重なってくる部分があるかと思います。しかし、これはきょうのために準備したのではありませんで、ちょっとずれているかと思って、申しわけございません。
 おかげさまで、今こうして元気にしておりますもので、ボランティアではありますけれども、トリオ・ジャパンという団体でお手伝いをさせていただいております。これは、もともとは、トリオというと三人組で何かやりそうなんですが、現に移植というのは、臓器提供者と臓器を受ける者とそれから医療関係者との三者がそろわないと成り立たないのも事実なんですが、実はトリオというのはそういう意味じゃありませんで、トランスプラント・レシピエンツ・インターナショナル・オーガニゼーションの略です。移植を受けた、レシピエントと日本語でも言いますね、その国際的な機関でありまして、アメリカのピッツバーグで始まったものであります。
 ヨーロッパにもあるんですが、日本のトリオ・ジャパン、日本の活動が欧米と違うところが一つございます。それは、欧米の場合は、移植を受けるレシピエントになることというのは、ほとんど医学的な、自動的なことであるわけです。しかし、日本の場合は、病気の診断がついても、それからレシピエントになれるかなれないかということが、それで現実には、それが移植に結びつくかというのがほとんど宝くじに当たるより難しいような状況にありますから、そういう中で、日本で待って命の最期を迎えるのか、それとも、外国でもし受け入れてくださるところがあるならば、そこでレシピエントの候補になる、そのお手伝いができないかということで、自分の経験も踏まえてあれしております。
 それは、ただ病院を探してつなげるというようなことではありませんで、確かにその面もあります。ところが、お医者さんをまずは支えていかなきゃいけないということ。それから、現実にそれになりますと、数千万から時には億の単位の費用が必要です。ところが、病気になるのはお金持ちではありません。ごく普通の我々。
 ですから、これは大変な募金と借金をして、どうにかそれを工面しなければいけないというような、そういったことの現実的なお手伝いもしているような、きょうの命を救うということをモットーにしておりますけれども、欧米に生まれていれば、あるいは韓国に、台湾に、中国に、フィリピンに、シンガポールに生まれていれば移植のチャンスがあったのに、日本に生まれ、日本に育っているために、医学的なレベルがありながら命をあきらめていかなければいけないという、そういった現実の中で、命の可能性を求めてこうせざるを得ない現実というのがあります。
 特に、脳死ドナーを必要とする心臓移植の場合ですと、幼児、小中学生は、一〇〇%日本では死を待つしかありません。大人の心臓移植にしても、つまり、ドナーが十五歳以上ですから可能性があるわけですけれども、日本での可能性はスペインの二百五十分の一です、アメリカの二百分の一です、ベルギーの百八十分の一です。ということで、とても手が届かない。
 実は、私の妻、おかげさまで子供に恵まれました。ちょっと親ばかで子供の自慢をしますと、日本で肝臓移植を受けた親から生まれた初めての子供がうちの娘でありまして、といっても、親が男親ですから大したことではないんですが、うちの子には、あなたには親が三人いるからねと言っているんです。母親と父親と、この父親を中から支えてくれている臓器提供者の命、三つの命が合わさらなければ生まれてこなかったのがうちのかわいい娘でありますけれども、妻は、子供が生まれて以来、日本に住むことをあきらめて、どうにかして、もしかしたらアメリカに住みたいということを言うわけです。なぜかというと、うちの子供が十五歳になるまで、もし何かの事故で、交通事故かもしれません、地震かもしれません、脳死になった場合に、うちの子の臓器を提供する可能性が日本には全然ないわけです。
 しかし、現実に仕事のことや何かもありますし、そう簡単にアメリカへ行ってすっと住めるわけでもないですから、うちのは、米軍基地の病院だったらば臓器提供をさせてもらえるんじゃないかというので、連絡をとりました。そうしましたら、もうかなり、これは十年ぐらい前になりますけれども、沖縄の米軍基地の中で、若い夫婦のお子さんが事故で脳死になった。アメリカにはとてもその臓器は送れないわけですけれども、日本の方でもぜひこれを受け取ってほしいというので、臓器提供の準備をして、沖縄の病院はそれがそろっているそうです。ところが、日本の病院がどこもそれを受け取ってくれないもので、結局、その両親は失意のうちに日本を去っていったということを伺いました。そういうこともありまして、米軍基地でも臓器摘出はできるかもしれないけれども、提供にそれが結びつかない。
 妻がそんな思いをいたしました一つの理由というのは、実は、僕の義理の弟になりますけれども、彼女の弟が、脳にダメージを受けて生まれて、二年間の人生をいわば植物状態で過ごしておりました。彼女は、その植物状態というのはとんでもないと言います。むしろ、本来人間が生きているということの根源的な姿というのが私の弟の姿であって、名前を呼んでも答えないし、いつでも天井しか見ていなかった。だけれども、人が生きている、命というのはそれ自体、それで、頭がいいとか体が格好いいとかどうのこうの、地位があるとかというようなことは全部、その上に二の次三の次で積み重なったことなんだ、本来的には人が生きている、だから絶対私の弟は植物じゃなかったと。
 それは身内ですからそういう気持ちもあるとしても、本来生きているという。その子が亡くなったときに、実は当時は、もう五十年近く前ですから、角膜の提供だけが可能でした。後で知り合って私は結婚したわけですけれども、今でも家庭の中で懐かしくその弟を思い出している。たった二歳で、もう何十年も前に亡くなった。
 その一つは、弟が亡くなったことは、そこでピリオドが打たれて過去の話です。しかし、その角膜が提供されたことによって、もしかすると、今でもあの子の角膜を通して、家族の笑顔を、あるいは家族のほおを伝う涙を見ている人がどこかにいるかもしれない。そういう意味で、弟の昔の存在というのが、ある種現在進行形として、慰めと優しさの中で思い出されている。
 ですから、臓器提供ができるということは、脳死になって、特に提供というのはとんでもない状況で起こるわけです。にもかかわらず、愛と優しさを、そしてそれをしっかり受けとめていくのが移植の社会的なシステムであると思います。
 ですから、そういう意味でいうと、臓器提供のシステムというのは、本当に無条件の愛、だれさんに差し上げるではない、本当に、今でなければ、命を失う人のためにといって差し上げるという、その愛をどれだけ社会的なシステムとして現実化していくか、その問題が問われているんだと思います。
 そこにいきますと、今のテクノロジーというのは、脳が死んでしまっても、人工呼吸や何かすることで、心臓がひとりで頑張っている限り、血液の循環を可能にして、肝臓も、その他の臓器も生かしておくことができるわけです。ですから、ちょっと誤解を恐れず申しますと、脳死というのは、脳が死んでその人の人格としてのアイデンティティーは失われているけれども、循環している血液のおかげで酸素が送られれば、肝臓も心臓も生きて頑張っているんです。妊娠している方だと、おなかの赤ちゃんを、産むことは既にできませんけれども、外科的な切開をして取り出すことができる。そしてそれは、保育器というんでしょうか、その中で見事に育て上げることができるわけです。そうです。今の外科の技術をもっては、生きて頑張っている、赤ちゃんだけではなくて、心臓なり肝臓を取り出すことができる。
 しかし、心臓、肝臓は保育器の中で育てることはできません。だれかほかの人の体の中でなきゃいけない。しかし、元気な方の心臓や肝臓を取り出してしまって、そこに入れるわけにはいかない。もしそのときに、心臓がだめなために死に瀕している、もう肝臓がぎりぎりで死に瀕している、いわば肝死寸前の人がいるのであれば、その人の臓器を取り出して、その元気な肝臓がそこで生かされるということは倫理的に許される。
 そういう意味でいいますと、私の実感というのは、脳死した人の肝臓と、肝死直前の、脳は元気だったけれども私と、その二つの死が出会って、新しい命として今元気にさせていただいている。おしゃべりしているのは脳の側の私ですけれども、それを今ここで支えているのはその肝臓であります。という意味で、僕のアイデンティティー、一人の命だけれども一緒に支えている、これを僕はウイデンティティーと呼んでいるんですけれども、そのウイデンティティーの命、実は、この社会の命というのは、お互いに支え合い、助け合ってこそ、共生してこそのものであると思います。
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吉野正芳#4
○吉野小委員長 野村先生、ちょっとお時間、申しわけありません。
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野村祐之#5
○野村参考人 恐れ入ります。では、あと二、三十秒で終わります。
 そのウイデンティティーを支えているのは、実はドナーの無条件の、無償の愛である。そういう意味で「愛デンティティー」、これはアメリカ人にはわかっていただけないんですけれども、そうした命の大切さ、優しさを現実に受けとめる、そんなシステム、移植を超えて、この社会の優しさ、命の大切さを受けとめるシステムが移植法であるんだと思います。
 そういうわけですから、子供たちやすべての命を支えるために、この移植法が改正されることを望んでおります。
 どうも、時間を超過しまして失礼いたしました。御清聴ありがとうございました。拍手
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吉野正芳#6
○吉野小委員長 ありがとうございました。
 次に、寺岡参考人にお願いいたします。
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寺岡慧#7
○寺岡参考人 ただいま御紹介にあずかりました日本移植学会の寺岡慧と申します。
 本日は、このような機会を与えていただき、深く感謝いたしております。
 一九九七年十月、臓器の移植に関する法律が施行されて以来、十年間余りの期間に六十二件の脳死ドナーからの臓器提供があり、四十九件の心臓移植、三十八件の肺移植、四十五件の肝臓移植、四十二件の膵臓移植、百七件の腎臓移植、そして三件の小腸移植が実施されました。これらの移植の成績は大変すぐれたものでありまして、欧米の成績と比較してまさるとも劣らないものです。六十二件の臓器提供につきましては、脳死下での臓器提供事例に係る検証会議による各事例ごとの厳正な検証の結果、適正に実施されたとされています。
 しかし、この十年間に実施された移植数は余りにも少なく、移植を待ち望んでおられた多くの患者さんが亡くなられております。お手元の資料六にお示ししますように、心臓では移植を受けられた方の二倍強、肺では三倍強、肝臓では五倍強の方々が移植を待ち望みながら亡くなられております。
 私ども日本移植学会としましては、他の医学会、日本医師会、患者団体の方々とともに、臓器の移植に関する法律の改正、すなわちA案への改正を強く要望してまいりました。お手元に配付させていただきました要望書は、A4の二枚刷りの紙でございます、二十四医学会と日本医師会で構成される臓器移植関連学会協議会からの法改正についての要望書で、さきに議員の皆様方に郵送させていただいたものでありますが、本日改めてお手元にお届けさせていただく次第です。
 法改正が必要である根拠としましては、まず第一に、多くの方々が移植を待ち望みながら亡くなられていることです。現状ですと、少数の方のみが移植の恩恵を受けて健康を取り戻される一方、他方で多くの方々が移植を待ち望みながら亡くなられているのが実情です。潜在的には、心臓移植を必要とされる患者さんは少なく見積もっても年間四、五百人、肝臓移植を必要とされる患者さんは年間二千二百人とされ、このままではさらに多くの患者さんが亡くなってしまうものと危惧されます。
 第二に、重症心疾患の小さな子供さんは、現状では国内で心臓移植を受けることができません。重症心疾患の小さな子供さんたちにとって、生きる唯一の方法は海外での心臓移植であり、このため、海外での移植を求めて渡航される患者さんが後を絶ちません。
 お手元の資料十にありますように、海外での移植は、患者さんとその御家族にとって、精神的、経済的また身体的にも大変な負担を強いることになり、ごく限られた方のみしか移植の恩恵を受けることができません。また、海外での移植は、その国の患者さんとの間に一種のあつれきを生じ、多くの批判がなされています。世界保健機関、WHOからも、我が国に対して厳しい批判がなされております。
 このような事情を背景に、今後は海外の移植がさらに困難になってくるものと予想されます。このままでは、重症の心疾患に罹患した小さな子供さんたちにとって唯一の助かる望みである心臓移植の道は完全に閉ざされてしまいます。
 第三に、法施行以来、少数とはいえ、脳死ドナーからの臓器提供並びに臓器移植が適正に実施され、移植を受けられた方の多くが健康を取り戻されたことによって、臓器移植に対する理解が徐々に社会に浸透しつつあります。
 お手元の資料十四から十六にありますように、昨年十一月の内閣府の意識調査によりますと、臓器を提供したいが四一・六%に増加し、提供したくないが二七・五%に減少しております。また、本人に生前の意思表示がない場合の臓器提供について、家族の判断にゆだねる、提供を認めてもよいが合わせて五七・五%、提供を認めるべきでないが三五・七%となっており、また十五歳未満の臓器提供については、できるようにすべきが六八%、できないのはやむを得ないが一九・五%となっています。さらに、本人の意思表示がある場合の取り扱いにつきましては、脳死での臓器提供を認めるべきが五二・九%、意思表示がない場合でも何らかの手段により提供意思を確認できる場合認めるべきが一九・五%、拒否の意思があっても家族の承諾があれば認めるべきが一七・〇%で、実に八九・四%が脳死下での臓器提供について肯定的な意見を示しています。これらの調査結果は、脳死臓器移植への理解が徐々に社会に定着しつつあることを示しています。
 第四に、WHOのガイディングプリンシプルでは、本人の意思がある場合はそれを尊重し、本人の意思が不明の場合は家族の書面による承諾により臓器の提供は可能とされており、今やこれはグローバルスタンダードとなっています。A案はほぼこれに沿っており、さらに脳死判定に対する家族の拒否権を付与することにより、脳死を認めない人並びに臓器を提供したくない方々の権利にも十分に配慮されたものと理解しております。
 第五に、我が国における臓器の提供が極めて限られていることから、海外での違法な移植、非倫理的な移植が増加しつつあります。これらについては国際的にも大きな批判を呼んでおり、WHOからも強い批判を受けております。国内でも、先般、病腎移植が大きな問題となったことは、皆様御記憶のことと存じます。
 さらに、臓器の移植に関する法律附則第二条一項に「この法律による臓器の移植については、この法律の施行後三年を目途として、この法律の施行の状況を勘案し、その全般について検討が加えられ、その結果に基づいて必要な措置が講ぜられるべきものとする。」とされています。法施行以来既に十年が経過しており、臓器移植以外に救命の方法がなく、またそのために移植を待ち望んでおられる多くの患者さんのために、少しでも早く法律の改正をお願い申し上げる次第でございます。
 我が国で脳死で死亡される患者さんの数は年間約七千人と推定されていますが、このうち、脳死下で臓器の提供が可能な十五歳以上の患者さんの数は、少なく見積もっても年間約五千人とされています。先ほど御紹介した内閣府の意識調査によりますと、臓器提供をしたいが四一・六%、あるいは本人の意思表示がある場合は臓器提供を認めるべきが五二・九%であり、このパーセンテージを乗じますと、潜在的には年間二千八十から二千六百四十五人の方々が脳死下で臓器の提供を希望しつつ亡くなられていると推定されます。
 お手元の資料三にお示ししましたように、法施行から二〇〇六年末までに、意思表示カードあるいはシールによる日本臓器移植ネットワークへの連絡が千二百四件ありましたが、そのうち、脳死下での臓器提供の意思を表示された事例が七百三十七件でした。これは年平均で約八十二件になります。この数と、脳死下で臓器の提供を希望しつつ亡くなられている二千八十から二千六百四十五人という数の間には余りにも大きな乖離があり、現在の法律ないしその運用では、これらの方々のとうとい提供の意思をくみ上げることは難しいことを示しています。
 さらに、脳死下での臓器提供の意思を表示した七百三十七件のドナー情報のうち、脳死下での臓器の提供に至った事例は昨年末の時点でわずかに四十七件、六・四%であり、現行法とその運用のもとでは本人のとうとい意思が生かされていないことが示されています。臓器の移植に関する法律第二条一項には「死亡した者が生存中に有していた自己の臓器の移植術に使用されるための提供に関する意思は、尊重されなければならない。」と明記されていますが、この法の精神は残念ながら生かされているとは申せないのが現状です。
 現行法の成立の時点では、社会の御理解を得るために配慮された点もあったかと存じますが、施行以来十年を経過し、現行法と運用規則等を遵守しつつ適正に臓器提供並びに臓器移植が実施され、移植を受けた患者さんの多くが健康を取り戻され、社会の御理解が得られつつある現時点におきましては、意識調査に示された多くの脳死下での臓器提供の意思を尊重すべく、法の改正をお願い申し上げる次第です。移植によってしか救命できない、そして移植に唯一の生きる望みを託し、移植を待ち望んでおられる多くの患者さんのために、A案への法の改正を重ねてお願い申し上げます。
 御清聴いただき、ありがとうございました。拍手
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吉野正芳#8
○吉野小委員長 ありがとうございました。
 意見陳述は十分以内でございますので、御協力をお願いしたいと思います。
 次に、清野参考人にお願いいたします。
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清野佳紀#9
○清野参考人 日本小児科学会の清野でございます。
 お手元にA4版の小児科学会の考え方が配付してありますので、参考になさってください。
 臓器移植関連法案改正についての日本小児科学会の考え方を述べたいと思います。
 臓器移植関連法案改正については、日本小児科学会として、その考え方をたびたび表明してきたところですが、改正案が国会へ再提出されておりますので、改めてその問題点を指摘し、当会の考え方を表明いたします。
 我々は、二〇〇三年に表明した提言「小児脳死臓器移植はどうあるべきか」において述べたとおり、小児脳死臓器移植を積極的に評価し、我が国においても小児脳死臓器移植が適切に進められることを望むものであります。
 現行臓器移植法は、脳死を死であると考えて、脳死状態に至ったなら臓器を他人に提供したいと思う者の意思、すなわち自己決定は尊重されるべきだという理念に基づいて制定されています。したがって、小児脳死臓器移植の際には、小児の意見表明権の尊重が重要であると考え、適正な小児の臓器移植のあり方について検討を続けてまいりました。
 日本小児科学会の臓器移植の考え方は、現時点ではB案に近いものです。もしいきなりA案に沿って、年齢制限も設けず小児脳死臓器移植が行われる場合は、ほとんどの病院で基盤整備が行われていない現状においては、現場で混乱が起こるのは必至であります。したがって、数年間の期限つきでB案を施行する中で、その間に基盤整備をすることが望ましいと考えます。そして、基盤整備ができた後に、より低年齢の小児にも臓器移植が行われるような法案整備を進めるべきであると考えます。
 なお、この基盤整備については後で説明いたします。
 なお、今回の法案に盛り込まれている親族への優先項目については、公正性から疑問があります。むしろ、小児科学会員に対するアンケート調査によれば、小児ドナーの臓器は小児レシピエントに公平に優先的に移植されるべきであると答えた医師が七三%います。
 先ほど申しました、整備されていない基盤整備について説明いたします。
 一、被虐待児からの臓器摘出防止に関する基盤整備。
 被虐待児からの臓器摘出防止に関する基盤整備は全く行われておりません。近年、児童虐待が増加しているのは周知の事実であり、小児科医にとっても当該傷害が虐待によるものか事故によるものかの判別が容易につかないケースが多くなっています。子供の死因の第一位は事故死でありますが、虐待死が事故死の中のかなりの割合を占めていると言われています。例えば、田中らのアンケート調査によれば、事故死の一ないし三割が虐待死と言われています。
 小児科学会員に対する調査によれば、小児ドナー候補者が被虐待児であるかどうかの診断が臨床の場で適正に行えると思う医師は一二・五%しかいません。三四・二%が行えないとしています。また、虐待の診断までに数日から数カ月の時間を要しています。
 虐待死の場合、虐待を行った親自身が、当該小児がドナーとなることを希望していたと説明したり、当該小児の臓器摘出に同意あるいは承諾するという事態が生ずることも予想されます。したがって、第三者組織によるドナーの適切性の判断システムを構築することが不可欠であります。
 この第三者組織による適切性の判断については、少なくとも小児科の専門医が立ち会い、小児ドナー候補者の身体的チェックを行うことなどが求められます。このために、病院内に虐待検討委員会のようなものが必要でありますが、小児科学会員に対する調査によれば、これに類する委員会が設置されている病院は、回答者の一二%が所属する病院にすぎませんでした。
 二、小児の脳死の判定基準の検証並びに再検討。
 二〇〇四年には、小児科学会では全国小児脳死症例について調査を行ったところ、十五歳未満の小児脳死症例数は年間少なくとも四十あるいは五十例あると推測されましたが、その中で判定基準に沿った臨床的脳死診断はわずか十三例にすぎませんでした。
 このように、現行脳死判定基準による小児脳死診断例は極めて少なく、今後の検証には診断基準に沿った症例の蓄積が大切であります。小児脳死診断をした十三例のうち四例が長期脳死例でありました。いわゆる超重症心身障害児の中には長期脳死例がかなり含まれており、今後問題になると思われます。
 さらに、小児科学会員に対するアンケート調査で、新生児を含む小児の脳死診断は医学的に可能だと思いますかと問うたところ、はいと答えた人は三二・二%、いいえと答えた人は一五・九%、わからないと答えた人は四八・八%でありました。この結果からも、現場の小児科医が現在の脳死診断の基準をそのまま小児に当てはめることへの不安が感じ取られます。
 三、小児の意見表明権の確保に関する基盤整備。
 仮にA案の場合、子供の意見表明権は十分に確保されなければなりません。我々は、小児医療現場の経験から、十五歳未満はもとより、十二歳未満の未成年者であっても、適切な情報提供を行うことにより、みずからの状況を正確に理解し、意見を表明することが可能であると考えます。小児科学会員に対する調査でも、十五歳以上が八五%、十二歳以上十五歳未満が七〇%、十歳以上十二歳未満では四六・六%が、子供の意思表示のみ、もしくは本人の意思と親の了解があれば臓器提供はできると回答しています。
 また、我が国が一九九四年に批准した子どもの権利条約第十二条に示されている意見表明権にかんがみれば、十二歳未満の未成年者についても意見を表明する権利が認められているのであって、その意見をどのように尊重するかについては、今後も検討を続けていくべきと考えます。
 現行法の取り扱いが、脳死段階での臓器提供の自己決定をなし得る者を十五歳以上であると画一的に判断している点については、再検討するべきであると考えます。疾病を有したり、友人の死に接するなどして生命について考える機会を得た小児は、十五歳未満であっても死については正確な理解があり、また、臓器を他者に提供することの意義や脳死についても真摯に考えている場合が多いです。他方、十五歳以上の者であれば、未成年者であっても常に当該問題について十分自己決定をなし得るという考え方はフィクションであり、脳死、臓器移植に対する理解の程度は人によってさまざまであります。
 それゆえ、我々は、脳死や臓器移植についての理解を図るため、学校内外での教育を行い、ドナーカードへの署名の前の講習や当該小児の自由意思を確認する必要があると考えます。それらが満たされるのであれば、臓器提供を決定できる年齢を十五歳以上とする必要はなく、少なくとも、中学校に入学した後の児童、十二歳以上が意見を表明した場合には、その意思を尊重しなければならないと考えます。
 万が一、生前に子供が脳死移植を拒否した場合には、親が承諾したとしても、その意思を尊重しなければ明らかな子どもの権利条約違反になるでしょう。このようなことから、現時点では、日本小児科学会の見解はほぼB案に近いものと考えます。
 以上です。どうも御清聴ありがとうございました。拍手
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吉野正芳#10
○吉野小委員長 ありがとうございました。
 次に、加藤参考人にお願いいたします。
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加藤高志#11
○加藤参考人 御紹介いただきました加藤でございます。
 本日は、貴重なお時間をちょうだいし、ありがとうございます。私からは、日本弁護士連合会の臓器移植法改正についての意見を御説明したいと思います。
 法律が制定されてから十年が経過しました。ちょうどそのころ、私も日弁連の人権擁護委員に就任し、この問題にかかわり始めました。当時、脳死を死とすべきなのかについて激しい議論が闘わされ、各政党もいわゆる党議拘束を外して、先生方各自の人生観、死生観をもとに検討をなされ、その結果、今回の法律が制定されたものと理解しております。
 法律が制定された当時、脳死は、全脳の機能が失われ、もうもとには戻らない、不可逆的に心臓死に至る、そして心臓死に至るまでの時間は数日単位であるというふうに理解されておりました。
 そのような脳死についての理解を前提に、脳死は人の死であるのか、そうではないのかが議論されました。その上で、最終的には、脳死を死と考える人もいるだろうが、死と考えない人、わからない人も同じ程度存する、したがって、社会全体が脳死を死ととらえているとは判断できないとの結論に達したと理解しております。
 しかし、他方、脳死患者さんから心臓等を摘出した上、それらの臓器の移植を受けることで助かる可能性のある患者さんがいることも紛れもない事実であります。それゆえ、脳死を死と考え、あるいは、そうは考えなくても、自分が脳死になったら臓器を提供したいと考える人の気持ち、自己決定を尊重すべきであるとも考えられたわけです。現行法は、この自己決定が法律の根幹となっております。
 その後十年が経過し、今、改正案が国会に提出されております。しかし、日弁連は、移植例がふえないからふやそうというその理由だけで法律を改正してはならないと考えております。脳死を死とする社会的合意ができたのか、臓器移植がこれまでのケースにおいて適正に進められたのかを十分に情報を公開した上、検証していく必要があると考えております。
 この法律は、人の死にかかわる重要な法律であります。臓器の提供を待っている患者さんのことももちろん大事なことですが、脳死段階の患者さんのことも、それにまさるとも劣らないほど大事なことです。しかも、脳死というものについての知識、知見もこの十年間に集積されました。先ほど申し上げた状態とは違うということもわかってきたと思います。
 現在、脳死と判定されてから三十日以上心停止にならない例は少なくなく、二十年以上生存した、そういう例も報告されるようになっています。脳死になってから出産した例、第二次性徴を迎えた例なども報告されています。アメリカのカリフォルニア州立大学ロサンゼルス校小児神経内科のアラン・シューモン教授は何度か日本にお越しになられ、医学関係者の前で同趣旨の講演をされておりますが、その報告、講演は高く評価されていると理解しております。
 日弁連は、このような脳死についての新しい知見が社会において十分には理解されていないのではないかと考えております。今でも脳死については、やがて心臓死になる、その多くは数日内に心臓がとまるという説明だけがなされているように思われます。平成十八年十一月に内閣府が行った臓器移植に関する世論調査においても、調査の前提として脳死を説明していますが、そこでは、脳死は、人工呼吸などの助けによって、しばらくは心臓を動かし続けることもできるが、やがては心臓も停止する状態と説明されています。
 このように、知識、情報が正確に周知されているとは言えない状況でさえ、脳死を死と考える人の割合がほとんど変化しておりません。また、今述べた内閣府の調査に対してさえ、過半数の方が、本人の書面による意思表示がある場合に限り、脳死での臓器提供を認めるべきであると答えている事実は重要と考えます。
 また、今回改正案が提出されるに至った理由として、脳死になったお子さんから臓器を摘出し、他のお子さんへの臓器移植を認めるべきではないかという点が挙げられております。苦しんでいるお子様を見ると、もちろん胸が痛みます。ただ一方で、なかなか報道されないけれども、長期間脳死の状態で生き続けているお子さんがいることも極めて重要な事実です。
 臓器移植は、臓器の提供を受ける患者さんの利益を考える医療です。それゆえ、臓器の提供を受ける患者さんのことのみを考え、臓器の提供を受ける方だけでなく、臓器を摘出される患者さんのことがその陰に隠れてしまいがちです。しかし、特に小児救急医療体制が不十分なため脳死に至っているケースがあるのではないかという視点から、脳死となる、またその危険性のあるお子さんの権利保障をまずきちんと考える必要があると思います。
 臨床的に脳死と診断されたお子さんがその後自発呼吸を始めたという例や、一カ月以上心停止に至らない長期脳死の子供が全国に六十人以上いることが報道されるなど、お子さんの脳死診断の難しさや、子供の脳死がすぐさま心臓死には至らないことも指摘されています。
 先ほど清野先生からもお話がありましたが、お子さんの脳死診断ができると答えられた医師の方が回答の三分の一にも満たなかったという報告もあります。医療従事者に対するアンケート結果からは、十五歳未満の子供が脳死での臓器提供ができない現状を仕方ないと判断する方が四〇%を超え、提供できるようにすべきだという回答を上回ったという報道もなされております。
 親にとって、子供はただ生きているだけでよい存在です。私は、資料としてお手元に幾つかの記事をお配りしておりますが、その最後の方にある毎日新聞の記事や読売新聞の記事を読んで、その思いを強くしました。それなのに、あたかも脳死がすぐさま心臓死につながるかのような説明を前提とし、しかも脳死の判断が難しいお子さんのケースにおいて、臓器移植など考えたことのない親御さんに対し、今、法律を改正して、突然脳死になった段階で臓器を提供されますかと聞くようにすべきなのだろうかと思ってしまいます。
 国内で移植を受けられない、そのため海外に行くお子さんのことをどう考えるのか、こういった問題を解消するため法律を改正しなければならないのではないかという意見もお聞きすることがあります。しかし、仮に法律を改正したとしても、恐らく、ドナーとなる方は圧倒的に少なく、やはり移植を待つ方々は海外に行くことになるのではないでしょうか。世界的なドナー不足の中、必然的にお金のある国の患者さんが他国に行くという構図は、法律の改正だけでは変わらないと思います。
 先ほど来述べている、脳死というものがいかなる状態なのか、特にお子さんの脳死判定ができるのか、小児救急医療体制は適正に構築されているのかなどを先行して検証する必要があると思います。
 今回、二つの改正案を資料としてちょうだいしました。
 まず、脳死を一律に人間の死とし、本人が拒否の意思表示をしていない限り、家族の承諾のみで摘出を可能とする改正A案がございます。
 この案については、人間の死という概念が単に医学的に決められるものでなく、社会的な合意を得る必要があるという点から、現時点では受け入れられないと思います。
 いまだ脳死を人の死とすることについて社会的合意がないという認識があったからこそ、現行法が成立したわけです。ですから、その点が変わったのかどうかをきちんと確認する必要があると思います。もちろん、その前提として、先ほど来述べている、脳死についての新しい知見もきちんと説明する必要があると思います。
 脳死は人間の死ではないと思う人は拒絶の意思表示をすればよいではないかとの意見もあります。しかし、それでは、意思決定や意思表示ができない乳幼児や小児、さまざまな疾患のために意思表示ができない人、どうすべきか悩んでいる人、それらの人もすべて臓器摘出を容認したものとみなされることになってしまいます。
 また、技術的な問題ですが、本人が拒否の意思表示をしていないという事実を速やかに確認することは極めて難しいと思います。拒否の意思表示をしていないと判断して臓器を摘出した後に、拒否の意思表示カードが見つかるという事態が生じることは否定できません。
 次に、意思表示できる年齢を十五歳から十二歳に引き下げる改正B案がございます。
 この案については、脳死の定義が先ほど来申し上げているとおり非常に理解が難しく、脳死が人間の死かなどの問題については、現時点で十二歳の子供が正しく理解できる状態にはなっていないのではないかと考えております。
 民法は遺言可能年齢を十五歳以上と定め、刑法は十三歳未満の者が性的交渉に同意したとしても強制わいせつ罪などの罪を認めています。みずからの生命自体、その存在を決定する最も重大な決断のできる年齢を安易に引き下げることは許されないと思います。
 また、子供が判断できないときには、親が子供の意思を代行して同意することが許されるのではないかという意見もあるようです。しかし、子供本人の生命や身体には何ら利益がない、そのことについておよそ代行することはできないと思います。
 なお、両案とも親族への優先提供を認めていますが、臓器移植法は、移植術を受ける機会は公平に与えられるように配慮されなければならないと定めております。移植医療における公平性は重大な柱です。仮に、親族への優先提供が認められると、偽装結婚などにより形式的に親族にさせるなど、事実上臓器売買が行われる危険性も否定できません。それゆえ、日弁連はこの点も反対しております。
 いただいた十分間でできる限りわかりやすくと考え、申し述べたところですが、なかなかうまく説明できませんでした。日弁連は詳しい意見書も出しております。ぜひお読みくださいますよう、お願いいたします。また、さらにわかりやすくという趣旨でQアンドAも作成いたしました。どうぞ、これもお読みくださいますよう、お願いいたします。
 御清聴ありがとうございました。拍手
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吉野正芳#12
○吉野小委員長 ありがとうございました。
 次に、町野参考人にお願いいたします。
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町野朔#13
○町野参考人 本日は、このような機会をお与えいただきまして、大変ありがとうございます。
 私は、現行法を改正して、脳死臓器移植を進めるべきだと思います。A案もB案もこの点については変わりはありませんが、私はそのうちでもA案が妥当だと思います。
 第一は、脳死の問題についてです。
 A案は、移植のために臓器を摘出し得る死体を「脳死した者の身体を含む。」として、これを全脳死であると定義しています。これは、現行法より直截に、脳死が人の死であることを認めたものだと思われます。
 もっとも、本人あるいは家族が拒絶したときには脳死判定を行うことはできないとされていますが、これは、脳死臓器移植を認めない人に脳死判定をあえて行わないという趣旨であって、これらの人々に、脳死を選ぶか、心臓死を選ぶかの選択権を与えたという趣旨に解釈されてはならないと思います。
 なぜならば、人がいつ死んだのかは、当事者が選択できることではないからです。人の死とは、多くの人たちが関心を持つべき重要な社会的事実だからです。人々は、人が死んだときには、その死を悼み、別れを告げる儀式を行います。その人がこの世に残した多くのものは、その人の死を境として、遺族など、この世に残された多くの人々に引き継がれていきます。人々の心の中では彼あるいは彼女は生き続けます。人間の死はそれだけの重みを持っているものです。それが人間の尊厳、死者の尊厳の意味です。
 人は死に方を選択することはできるでしょう。しかし、死そのものは、個人の選択が許されるとするのには、余りにも大きな事実です。このことは大人の死も子供の死も変わりはありません。
 B案は、現行法のこの部分については変更しないことにしています。それは、脳死を人の死と断定せず、脳死の人は生きているとしても脳死臓器移植は許されるという、いわゆる違法阻却論による理解を可能にする趣旨なのだと思われます。しかし、これは妥当とは思われません。
 生きている人の心臓を摘出するのは殺人です。脳死が人の死でないのなら、心臓移植手術などは到底行うことはできないはずです。脳死臓器移植は殺人だけれども、慎重にやれば許されるというようなことはありません。
 良心的な医師なら、生きている人を殺してまで臓器を摘出することはしないでしょう。臓器移植コーディネーターは、遺族の方の死の受容を待つことはできます。しかし、御本人はまだ生きていらっしゃいますが、いずれ死ぬのですから臓器の提供をお願いします、それにより本当に死んでしまいますがよろしいでしょうかというようなコーディネーションをすることは到底できません。何よりも、移植医療を待っておられる患者の方々も、生きている人を死に至らせてまで生き長らえようとは思わないはずです。
 私は、B案を提案される方が死の重みに思いをいたして脳死説にちゅうちょされることは、十分理解しているつもりです。しかし、生の重みも十分考慮しなければならない事実なのでございます。
 第二は、臓器提供意思の問題です。
 A案は、本人が生前に臓器提供の意思がないことを表示していないときには、遺族の承諾によって臓器の提供を受けることができるとしています。この改正案は、諸外国の臓器移植法とほぼ同じものです。私は、これも妥当なものだと思います。
 このような立法は、死んだ後には自分の臓器を生きている人のために使ってもらってもよいと考えるのが人間ではないか、本人が生前に反対の意思を表示していない以上、死後の臓器提供は本人の意思に合致しているのではないか、そういう考え方に基づいているものと思われます。このような人間観を臓器移植法の基礎に置くべきではないというのなら、現行法のように、本人が生前に承諾意思を表示している例外的場合でない以上、死後の臓器提供は本人の意思に反するから認めるべきではないということになるでしょう。
 私には、本人の意思表示がないときには、遺族の意思によって臓器の提供を認める諸外国の臓器移植法、そしてA案が、非現実的な人間像を前提にし、死者の自己決定権を侵害しているとは思いません。
 この場合に与えられる遺族の承諾とは、臓器提供が本人の意思にも合致していることを確認する意味を持ちます。
 B案は、本人の提供意思の表示がなければ臓器提供を認めないという現行法の態度を維持しながら、臓器提供意思表示の可能な年齢を十二歳以上にすることを提案しています。これは、言うまでもなく、小児臓器移植を可能にするための提案です。
 この提案が十二歳未満の小児からの臓器の提供を不可能にし、移植を待っている多くのお子さんたちの期待にこたえられないものであることは、しばらくおくといたします。
 しかしながら、臓器提供への自己決定の存在を譲ることのできない重要な前提と考えるB案からは、承諾意思能力を十二歳まで引き下げることは困難だと思われます。特に、脳死者は生きている可能性があるというB案の前提では、臓器提供はそれによって死ぬことを承諾する意思でもあります。小学校を終えるくらいの年齢の子供がこのような意思決定を行い得るとは到底言えないと思います。
 私は、小児臓器移植の問題はA案の形で解決されるべきだと思います。
 A案は、B案と同様、提供者は親族に対して臓器を優先的に提供できるとしています。さらに、A案は、虐待死した子供からの臓器の提供が行われることのないように何らかの方策をとるべきだともしています。私は、この二点は大きな問題を含むものであり、この趣旨の条文はA案からは削除されるべきだと思います。
 時間の関係で、簡単に申し上げます。
 親族への優先提供を認めることは、臓器の配分はそれを医学的に必要としている人から公平に行われるべきであるという臓器移植法の基本理念に反するものだと思います。親族を思う心情は美しいのは確かです。しかし、死後の臓器提供について、より普遍的な博愛を基本としたのが臓器移植法であり、その基本理念を私は変える必要はないと思います。また、変えるべきではないと思います。
 次に、悲惨な児童虐待、虐待死は、いかなるときでも看過されてはならないものです。この問題をあえて小児臓器移植に結びつけることは、臓器移植全体に負のイメージを与えるばかりでなく、深刻な児童虐待問題の本質から人々の目をそらさせることにもなります。児童虐待の早期の発見、防止は、小児臓器移植の可否、臓器移植法の改正とはかかわりなく、市民、行政、司法、医療が総力を挙げて取り組まなければならない緊急の国家的課題であります。小児臓器移植についての議論が問題の矮小化にならないことを私は切に望みます。
 以上です。御清聴ありがとうございました。拍手
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吉野正芳#14
○吉野小委員長 ありがとうございました。
 次に、島薗参考人にお願いいたします。
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島薗進#15
○島薗参考人 宗教や思想、あるいは広く文化を研究している一研究者の立場から意見を申し述べたいと思います。
 日本の宗教界とさまざまな機会にこういう問題を討議してまいりますと、脳死臓器移植の改正A案に対する反対の声が非常に高いことに気づきます。そこに資料を出しておりますが、仏教系の団体では大多数と言ってもいいのではないだろうか、恐らく、キリスト教系の団体ですと、これは逆転するかもしれない。しかし、日本ではキリスト教系の方々の中にも慎重な意見が強いと思うわけです。
 なぜ宗教界の方がそういうふうに考えるかといいますと、このような臓器移植の推進を行いますと、人間らしい死のあり方というものが損なわれるのではないか、また、生きているかもしれない人間を資源として利用する、そういう医療のあり方がさらに進んでいくのではないか、そういうふうな懸念があるからだというふうに理解しております。
 これは宗教団体の意見、考え方なのですが、よく勉強した上でこういう意見を出されているということで、特殊な立場とは言えますが、国民の幅広い死生観を反映しているというふうにも考えられるわけです。
 とにかく、日本では脳死は人の死であると考える人が少ない、諸外国に比べて明らかに少ない、これがこの問題を考えるときの非常に大きなかぎになるかと思います。そして、それにはかなりの根拠があるということが重要な点であります。
 まず、これについては、さまざまにこれまでも議論がなされてまいりましたが、現在の世界的な臓器移植推進の背後にある脳死は人の死であるという考え方は、文化的なある偏りを持ったものではなかろうか。脳に生命の座がある、脳が死ねば人間は死んだことになる、こういう考え方は、霊と肉、身体と精神、主体と客体というのを分離する西洋の伝統的な考え方、また極めてそれが強調された形の近代の西洋の考え方というものに影響されているのではないかという理解が一つございます。
 もう一つ重要なことは、死というものはそもそも人と人との交わりの中で起こることであって、脳死を人の死とすることによって大切な死のプロセスというものが損なわれてしまう、そういうことが考えられます。
 これについてはたくさんの本が書かれておりまして、例えば、柳田邦男さんの「サクリファイス」というふうに非常に広い影響を持った書物なども挙げることができます。二人称の死ということを言われましたが、大切な人との別れのときというものをたっとぶ、そういう思いから、脳死判定を通じて臓器移植ということを前提とした場合、そのプロセスに大きなダメージが生じてしまう、こういうことが国民にかなり周知されているということがあると思います。
 科学的に申しましても、先ほど日弁連の参考人の方からの御意見がありましたように、脳死体といっても体が動く、脳死体から子供が生まれる、脳死体から臓器をとるときに麻酔をかける等の、脳死が人の死であるということとは直観的に相反する事柄が多々ある。そういうことも、国民が脳死は人の死でないと考える大きな理由になっているかと思います。
 さらに、そのような臓器移植を無理に進めることによって、まだ回復するかもしれない人たちへの生命回復の努力ということが弱められる可能性があるのではないかということが重要なポイントかと思います。
 先ほど加藤参考人が多くの資料を挙げられましたが、その中で欠けているのは、脳死を人の死とする人が日本人の中にどのぐらいいるか、しかも、正しい情報に基づいてそのような調査をしたらどうなるかということでありまして、恐らくまだ五〇%に達するかどうかというところではないかと思います。
 このように、脳死は人の死でないということが浸透している、これが前提にならなければならない。これは、一九九二年の脳死臨調の報告以来、国民に浸透し、そして、世界的にもそういうふうな考え方が一定の理解を得るようになっていると私は考えております。
 そして、その中で一つ重要なポイントとしては、例えばピーター・シンガーなどという、非常にこういう医療を進めることを主張している人物、哲学者でありますが、そもそも、脳死を人の死とするということは臓器移植を推進するために便宜的に決められた死の定義である、したがって、これは将来動かすこともできるものであり、もっと広げていくこともできる、こういうふうな考え方もあるわけであります。
 さて、そのように、脳死が人の死でないと考える人が多いにもかかわらず、臓器移植のために臓器を提供したいという人がおられる場合、その善意を尊重しようというのが現行法であります。これは、一種独特の、日本人の知恵として生み出されているものでありまして、非常に微妙な、際どいバランスの上に成り立っているわけであります。
 ここで、そのような、脳死が人の死でないかもしれないのに、なお臓器移植を進めていいと言うためにはやはり条件がありまして、本人の意思確認というのは絶対にこれを譲ることができない、そういうものであろうかと思います。
 四のところへ今進んでおりますが、本人の意思表明がないのに死を早める決定ができるとすることは、世界的な医療倫理、生命倫理の根幹を揺るがすような非常におかしな決定になると思います。
 日本はとりわけ脳死は人の死でないと考える国において、非常に緩い脳死判定が行われる、臓器移植の推進が行われる、無理な推進が行われるということは、そもそもこの国は医療倫理の基本を守る意思があるのかどうかということを疑問に付すようなものではなかろうかと考えております。
 そもそも、この法案改正の動機というものが、諸外国が推進しているのに日本はおくれている、そういう考えでありますが、国民の意識、考え方、価値観、死生観、そういうものにのっとって判断をすれば、決してこれはおくれているとか進んでいるという問題ではありませんで、みずからの信念に基づいてどのような判断をするか、それを国民的な合意を得ていくか、こういうことの問題であろうかと思います。
 それから、この法案に限らず、生命倫理問題にかかわりまして、このようにアドホックにその問題だけを取り上げて議論するのでよいのかということを申したいと思います。
 生体移植と死体からの移植というのは非常に深くかかわっているわけでありまして、親族への優先というようなことも生体移植においてどうかということと結びつけて考えなければなりません。日本では、生体移植が非常に進んでいること自体が大きな問題を持っているとも考えられます。そういうようなこともあわせて検討すべきであろう、より大きな、広い立場からの生命倫理問題の考察、その中でこそ脳死からの臓器移植ということも正当な位置を持って考えられるはずである、そういうふうに考えます。
 最後のところですが、まとめになりますが、日本人が脳死とされる人からの臓器移植に慎重である理由でありますが、これは、人間らしい死を死にたいという気持ち、あるいはそのように人を送りたいという気持ち、それから、そのように攻撃的な医療にもし進んでしまうということになりますと、医療本来の目標からずれてしまうのではないか、そしてそれは医療そのものへの信頼を損なうことになるのではないか、こういう懸念があるからであろうと考えているわけであります。
 以上をもちまして私の意見表明とさせていただきます。御清聴ありがとうございました。拍手
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吉野正芳#16
○吉野小委員長 ありがとうございました。
 次に、井手参考人にお願いいたします。
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井手政子#17
○井手参考人 全国交通事故遺族の会の理事をしております井手と申します。会長である夫が体調不良で、本日は、会長代行ということで、私が臓器移植法改正について会の意見を述べさせていただきます。
 初めに、若干、会について説明させていただきます。
 全国交通事故遺族の会は、交通事故で娘を失った私たち夫婦が、被害者の心のケア、被害者の支援活動、事故防止活動、被害者の人権の回復を求めて平成三年につくりました自助グループでございます。被害者の自助グループとしては全国で初めての団体で、多くの遺族が会員となり、被害者の生命と人権を守るためにさまざまな活動を行うようになって、ことしで十六年になります。
 そうした活動の中から、私たちの会では、脳死を人の死とすること、脳死臓器移植を国策として進めることに対し強い反対の意見を持っており、現在の臓器移植法改定についても断固反対の姿勢でおります。そのドナーというのは、ほとんど交通事故の被害者の人たちのことだと言っても構わないほど、移植用臓器の供給源として期待されているからです。
 突然の交通事故とは、つい先ほどまで一緒に食事をし、話をして、笑い合っていた家族が、一瞬にしてもうこの世にはいないということです。大切な子供、夫、妻、親、兄弟を突然の交通事故で失った私たちは、皆パニック状態です。何も頭に入りません。テレビドラマか映画の中に入ってしまったようで、現実感がありません。内閣府の作成した犯罪被害者対策の基本計画にもこのことははっきりと述べられています。正常な判断が下せないと書かれているのは本当にそのとおりなのです。余りのショックで、記憶さえもなくしてしまう方もいます。
 このような状態にある家族に、治療をやめ、脳死判定を促し、脳死を宣告し、臓器の摘出の承諾書を書かせる。脳死と言われても、私たち家族にとっては、何とか助けてほしい、先生どうにか助けてほしいと言ってすがりつくばかりの思いでいます。心臓はまだまだ動いているではないですか、体も温かいし、お小水も出ているし、汗もかいて、涙も流れています。手を握れば握り返してきます。とても死体とは思えません。生きているのです。
 車に激突されて激しく傷ついた大切な家族から、全身麻酔をかけてまで臓器の摘出をしなければならないのでしょうか。事故で傷ついた上に、さらに傷つけることは私たちにはできません。混乱のきわみにある私たちに、さらに混乱することをさせるのはやめてください。本人の意思が不明な場合、家族の同意でオーケーの改正案、意思表示のできない小さな子供のかわりに、はっきりとノーと言っていない配偶者のかわりに、うっかりのんきにノーということを書き忘れた兄弟のかわりに、家族に臓器の摘出の承諾書を書かせないでください。被害者の家族に判断をゆだねることはしないでいただきたいんです。
 脳死を死とする医学的な根拠というのは実は何もなく、脳死臓器移植を盛んに行っているアメリカ、イギリスでも、お手元の資料に添付しましたが、改めて脳死を人の死としてよいのか、社会的な合意を得ることが必要だと主張する学術者がふえていると聞いています。日本でも、最近、新聞報道にあるように、脳死と言われても長期間生存している人も少なくないのです。
 脳死を死だというのは、移植を待っている患者さんがいるから、法律で脳死の人を死体扱いとしようというだけのことです。突然の犯罪被害に遭った者に、救済や支援ではなく、法律が死体であると引導を渡すなど、犯罪被害者基本法で保障した被害者の権利との整合性はどう図るつもりなんでしょうか。
 まして、日本の救命医療は充実した状況ではありません。私の娘の場合も、事故後十分で基幹病院の船橋医療センターに搬送されました。意識はないものの、酸素マスクを外して起き上がってしまうほどでしたが、三時間ほどたって、頭痛を訴える娘に、医師は鎮痛剤を一本打ちました。そこが生死の分かれ目だったのに気がついたのは十二時間後、脳死状態になってからでした。脳死状態になってから、脳圧を下げる薬を点滴し、医師による回診が始まりました。こんなお粗末な医療が救命救急センター、脳死臓器移植の施設として認定を受けている病院でなされているのです。こうした経験をしている会員さんもたくさんいらっしゃいます。
 交通事故の被害者が脳低体温療法の設備を備えた病院に運ばれ、障害を残したものの一命は取りとめたという話を聞きますと、移植法案がなかなか成立しなかったために、だからこそ生まれた技術。すべての医療施設で脳低体温療法が行われる日が来ることを願ってやみません。
 助かる命とは、まず救命医療を必要とする側のことなのは明らかです。助かるはずの命を死なせて、その死んでいく生命から、命から臓器の提供を受ける。臓器不足、ドナー不足の解消を言う前に、救命医療の充実を図るべきです。
 私の娘の話に戻りますが、四日後、私たちの必死な願いにもかかわらず心臓停止で亡くなりました。ある日突然事故で家族を失った私たちにとって、このみとりの四日間は、今後生きていく上で大きな支えとなりました。医療の現場で、助かる命と助ける命を比べてはならないと思います。
 また、交通事故で亡くなった人には検視があります。遺族にとってはつらいことですが、検視というのは犯罪事実の証拠として非常に重要です。そのため、現行法でも、臓器の摘出よりも検視を優先すると明記されていますが、脳死状態で検視を行うのは事実上不可能だと脳死の家族をみとってきた私たちは痛感しています。人工呼吸器を初め多くの医療機器につながれた状態で、事故態様、衝突の具体的な様子、けがの状況、状態を調べることが本当にできるのでしょうか。
 ここに「脳死のベッドサイド」という本があります。現行法が制定されたとき、脳死状態での検視についての注意事項を書いたものです。体の表面のどんな小さな傷も見逃してはならない、つめの中まで調べると書いてあります。しかし、脳死の人の体の向きを変えたりすると、血圧の変動、時には心臓がとまりそうになるなど、いろいろな変化が起こる場合があり、そのときには直ちに中止しろと書いてあります。中止した後は、その後どうしろとは書かれていません。
 これまで、ドナーが犯罪被害者でいた場合、検視がどのように行われたか、検証委員会がありながら何の報告もされていません。お手元の厚生労働省作成の資料にも何の記述もありません。これでは、現行の臓器移植法の検視に関する規定が本当に守られているのか大変疑問に思っています。
 もう一つ考えなくてはならないことは、臓器移植法案が施行されて十年間で臓器提供されたのが六十二例だったということ。ドナーカードが一億一千二百万枚、意思表示シールが三千百三十四万枚配布されているのに、記入されているのは六・一%、常時携帯されているのは二・六%にすぎません。
 毎日、テレビ、ラジオで宣伝し、命の贈り物としてマスコミに取り上げられているのにふえないのはなぜか考えてみたことがあるでしょうか。私たちは、私たちの身の上に起きた交通事故が絶対ほかの方に起きないように若い人に街頭で日々訴えていますが、自分たちが事故で死ぬと考えている人は皆無でした。それと同じように、自分たちが臓器提供をする側になると考える若い人は少ないはずです。
 他人事であれば、移植を望む患者さんが募金を集めて海外で移植をしなければならないのはおかしい、外国で助かっている命が日本で助からないのはおかしい、小さい子供たちも日本で臓器移植ができるようにすべきだと考えます。ほかの人に勧めても、自分のこととなると違うのです。こういう状態を社会的コンセンサスができているとは言わないのではないでしょうか。
 刈り場を広げても、決して脳死からの臓器提供者がふえるとは思えません。刈り場を広げれば国民に著しい混乱の場を与えるだけです。特に医療現場の方に混乱を与えます。こんなに国民の建前と本音の違う法案はありません。
 小児科学会も、小児の脳死判定、虐待児の問題、現場で解決しなければならない問題があって、全面解禁は困ると言っているではないですか。この十年間、移植推進側のしてきたことは、足りないから下さい、足りないから下さいと言ってきたことだけです。
 国民の信頼をかち得るために、正確な情報の公開と疑問に対する説明、問題点の解決、相入れない部分の議論の積み重ねなど、建前と本音のギャップの部分をどう誠実に地道に埋めていこうという努力をしてきたか、その努力を怠ってきたことが、ふえない理由だと考えます。
 私は、議員さんの役割は、国民の生と死にかかわる問題を、歴史に禍根を残さないように、脳死臨調等を設置し、本当の社会的コンセンサスができるまでさまざまな機会をとらえて誠実に議論を重ねていくべきだと考えます。大きく大きく国民全体に対する影響も考えて、慎重の上にも慎重であっていただきたいと思います。
 ありがとうございました。拍手
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吉野正芳#18
○吉野小委員長 ありがとうございました。
 以上で参考人の方々の御意見の開陳は終わりました。
    —————————————
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吉野正芳#19
○吉野小委員長 これより参考人に対する質疑に入ります。
 質疑の申し出がありますので、順次これを許します。福岡資麿君。
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福岡資麿#20
○福岡小委員 自由民主党の福岡資麿と申します。
 本日は、各参考人の方々、大変御参考になる御意見をちょうだいしまして、まことにありがとうございました。
 冒頭意見陳述、十分ということでございまして、各参考人の方々、なかなか意を尽くせなかった部分が多かったというふうに思いますが、その中でも、さまざまな考え方、立場があるということを十分理解させていただきました。
 脳死を人の死とするかということなど極めて重要な問題をはらむだけに、慎重に議論を尽くすべきであることは言うまでもありませんけれども、実際に、移植を希望し、そして夢もかなわないまま亡くなられている方が現在たくさんいらっしゃることにかんがみましても、やはり国会でもさまざまな機会で議論をしていくことが必要ではないだろうかというふうに思っていますし、本日小委員会でこのような機会が設けられたこと、大変意義のあることだというふうに思っております。
 私に与えられた時間は二十分でございますので、それぞれの参考人の方々全員にお聞きすることはできないかもしれませんが、限られた時間の中で順次質問をさせていただきたいというふうに思います。
 まず、野村参考人にお伺いをしたいと思います。
 御自身もおっしゃっておりましたが、御自身も肝臓の臓器移植を受けられた経験をお持ちでいらっしゃいます。今まさに国でもC型肝炎の訴訟の問題等いろいろあっておりますけれども、今、賛成の立場、反対の立場、両方の立場の方々のを聞いているときに、やはり社会的な認知、社会的コンセンサスがあるかどうかというようなことが一つのポイントとして挙がっているやに思われます。
 参考人はアメリカでもそういったいろいろな活動をされているわけですけれども、御自身から見て、アメリカ社会における例えば臓器移植に対する考え方、そういった社会的なコンセンサス、日本と比べて本当にどんな差があるのか、それとも差がないのか、その辺の御自身のお考えをまずお聞かせいただきたいと思います。
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野村祐之#21
○野村参考人 社会的コンセンサスの問題なんですけれども、日常的に繰り返していることですと、伝統的に、大体常識ということであると思うんです。しかし、特にこの死の問題というのは、今でも日本に行くと、ホテルや何かでも四号室、九号室、つっつっとないわけですよね。それぐらい実は今までタブーであった。それが突然、この脳死という現実が起こったここ二十年間突きつけられたので、そもそもコンセンサスの土台がないんだと思うんです。
 ところが、大ざっぱな言い方になりますが、それこそ欧米ではキリスト教の伝統があります。キリスト教で思い出されるのは、まず十字架です。あれは死刑の道具です。そこで殺されているキリストのイメージです。そして、これは信仰の問題ですが、それは復活、永遠の命へとつながるという信仰があります。
 ですから、ある意味では、メメント・モリという言葉はこのごろ日本でも聞かれるようになりましたけれども、結局人間というのは死する存在であるということを忘れるなと。ですから、そういうところの前提がある中でのコンセンサスと、むしろ日本ではこれを機会にコンセンサスをつくっていかなければいけないんだと思います。
 残念ながら、今までのところでは、日本は世界でもまれな、少なくとも先進国で我々が経験している中では、死を前提とする文化、死を美化する文化。ですから、例えば武士道とは死ぬことと見つけたり、サラリーマンの間では平気で首切りだ、切腹物だと。それから、子供のいじめでよくある言葉が死ねという言葉だそうです。これは英語にできないのを御存じですか。英語では言えないんです。というのは、そういう発想自体があり得ないんです、殺すぞとは言えるけれども。というあたりですから、死を美化している。
 それから、先進国ではほとんど今死刑ということが、アメリカでも一部の州では反対です。ところが日本では、この前も三人ありましたし、その名前がさらされるというような、そして、悪いことをしたやつは死ねというような、何か死を前提とした文化自体がもう一回考え直されるときに来ているんじゃないか。
 これで最後にしますが、アメリカの人に言われて、どうしてアメリカまで移植に来なきゃいけなかったんだと。いや、日本では脳死のことが大変問題になっていると言ったら、そのお医者さんが、それはちょっと信じられないと言うんですね。こっちもむっとしました、日本人として真剣に考えていましたから。そして、どういうことですかと言ったら、いや、日本のことはよく知らないけれども、医療界では、日本が妊娠中絶が一年間に何十万あるということで有名で、よくもあの国はそんなふうに胎児を、子供を平気で殺すんだね、医者がよくそんなことをやるねと。ところが、片や、それから自殺の数も物すごく多いそうじゃないか、大体、毎週毎週五百人乗りのジャンボジェットが一機落ちている数の自殺者が出ている、なのに、自殺者に対して大胆な行動もとらず、それから三十何万という妊娠中絶に対しても積極的にあれせず、僕の学生の中にも悩んでいるのがおります、脳死の問題となると顕微鏡のようなミリ単位のあれする、日本は不思議な国だということを言われたんです。
 今、我々がこれを通してコンセンサス、それから幼児虐待の事実、そういったことを、これを通して真剣にこの社会がどうすべきか、そういう意味で、経済効率ではなくて生命効率、どれだけ命を支えるか。そのためには、経済、これはお金も必要でしょう。そうしたときに、世界から見直される、日本もやるじゃないか、学ぶところがあるじゃないかというような日本の品格の回復ができると思っております。
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福岡資麿#22
○福岡小委員 参考になる御意見、ありがとうございました。
 時間もございますので、次に寺岡参考人の方に御意見をお聞かせいただきたいと思います。
 今おっしゃいました、何とか社会的コンセンサスができた上において、やはり多くの人が納得するルールの中で臓器移植の道がより拡大されて多くの命が助かっていくということは、私は望ましいことだろうというふうに思っております。また、先ほど問題提起もありましたように、多くの国内で受けられない方が海外に出ていって移植を受けられているという現状も、決して望ましいことではないだろうというふうに思っています。
 そこで、一つ聞きたいんですが、先ほど加藤参考人、井手参考人の方からもありましたけれども、慢性脳死というようなお話がありました。従前、数日で亡くなるというのが一般的だったのが、中にはやはり長期間、脳死の方でも生存し続けられる方がいらっしゃる。それがなかなかやはり国民に普及していないんじゃないか、そこがなかなか、わかっていればもっと違う判断というのも出てくるんではないかというような御意見もあるわけなんですが、その点も踏まえて、寺岡参考人の御意見をお聞かせいただきたいと思います。
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寺岡慧#23
○寺岡参考人 お答えします。
 慢性脳死の問題に関しましては、つい先般も新聞紙上をにぎわしまして、私もそれは読んでおります。
 この問題には幾つかの問題があるかと存じます。これはさきの参考人質疑の場におきましても問題になりましたが、そのような方々が正確で厳正な脳死判定を受けておられるかどうか、この点に関しましては大いに疑問があります。これはさきの参考人質疑で阿部議員もお答えになっておりますように、ほとんどの方がきちんとした脳死判定を受けておられない。また、今回の新聞報道によりましても、無呼吸テストをやっていないということでありまして、無呼吸テストをやっていなければ、現在の日本の法的脳死診断からは外れるわけでございます。
 それからまた、どのような条件下で脳波を検査されたか。現在の脳波の検査は感度を上げてとることが規定されておりますが、そのようなことが一切記載されておりません。また、きちんとした脳幹反射の検査がどの程度行われて、どれが陰性で、どれがどうだったのかということも判明しておりません。
 こういったことから、きちんとした法的脳死判定基準に従って判定されたものは、昨今の新聞報道に見られる事例におきましてはなかったというふうに判断せざるを得ません。
 もう一つは、そういったことをあらわす一つの根拠としまして、先ほど加藤先生の方から提出された資料でございます。例えば、二〇〇七年十一月十八日の読売関西版、「“脳死”とされた子供」、脳死に点々と振ってあります。それから、その次のページの「長期脳死児」、これは毎日新聞の記事でございますが、長期脳死児にかぎ括弧がついております。これをお聞きしましたところ、これは本当の意味での脳死ではないから、こういうふうな点々を打ったんだ、かぎ括弧をつけたんだということでございまして、これはある意味では非常に、何といいますか、無責任な書き方ではないか、一般の読者に誤解を与える書き方ではないかと思います。
 さて、もう一つの本質的な問題としまして、きちんと脳死判定をされた方々がどれぐらい生存できるだろうかということに関しましては、これは確かに御指摘のように変わってきています。しかし、それには、例えばADHといいまして、抗利尿ホルモンというホルモン、これは脳下垂体から出るホルモンでございます。それから、甲状腺ホルモンとか、そういったいろいろな生体環境を脳のコントロールにかわって外からコントロールして、やっと心臓の拍動を維持できるという意味でございます。そういった形で、本来は脳あるいは身体の中での恒常性の維持、ホメオスタシスの維持といいまして、自動的に調整されている機能がバランスを失っているために、外から人為的にそういった環境を維持しますと、心拍動を人工的に維持する期間は、例えば二カ月、三カ月、あるいは、ひょっとしたら一年に及ぶかもしれないということが言われております。
 先ほどから何度も例に出ますアラン・シューモンさんの症例に関しましても、これは厳密に脳死判定を行われたものは非常に少なく、そして、福嶌先生の御意見では、大阪大学でそのようなホルモンを投与して心機能を維持された事例があるということでありますが、それも引用されています。その大阪大学の症例に関しましては、きちんとした脳死診断がされているということでございますが、そのほかの事例に関しましては、アラン・シューモンさんが引用された事例ですら、きちんとした脳死診断はしていないというのが実情でございます。
 以上でございます。
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福岡資麿#24
○福岡小委員 ありがとうございました。
 続きまして、ちょっと順番を飛ばさせていただきまして、町野参考人の方に御意見を伺いたいと思います。
 先ほどの御意見の中で、基本的にはA案という方が望ましいということをおっしゃっていただきましたけれども、その中で、親族への優先提供という部分については必ずしもそうではないというような御意見をさらっと述べられたというふうに思いますが、そのあたりを若干掘り下げてお聞かせをいただければと思います。
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町野朔#25
○町野参考人 ちょっと、さらっとというのはなかなか難しい話でございます。
 基本的に、脳死臨調は三本の柱がありました。一つは、脳死は人の死であるということ。もちろん、少数意見はありました。もう一つは、提供者の任意の提供で、つまり本人の意思に基づいて提供されること。三つ目が、臓器の公平な分配というものであったわけです。この三本の柱のもとに立って臓器移植法はつくられていると私は理解しております。そして、第一の問題、第二の問題、いずれもかなり非常に不明確になってきたのが臓器移植法だと思いますけれども、この第三のところ、これも今掘り崩されようとしていることは、私は妥当ではないというぐあいに思います。
 しばしば言われることは、生きている人については親族への提供というのは大丈夫なのに、どうして死んだ人についてはそれができないのかというぐあいに言われます。しかし、これは話の順序が逆でございまして、生きている人については、実は臓器提供というのはなるべくやらない方がいい。禁忌といいますか、原則はだめだということです。そして、やむを得ない場合についてだけこれを提供を認めようと。どういうことかというと、臓器の提供がないというような場合がそうでございます。そのようなことで認めるわけですから、これが売買だとかそういうことになってはならない、他の経済的なインセンティブによって提供されるようなことがあってはならない、だから親族に限るのだというぐあいにされているわけでございます。ですから、最初から親族に提供する権利が生きている人にもあるわけではないのです。
 したがって、これを死者の方に直ちに持ってくるということは議論として非常におかしなものがあると同時に、やはり生と死との境というのはこれぐらい大きなものだということを認識していただきたいというぐあいに私は思います。
 ちなみに申し上げますと、幾つかの国、例えば韓国では、今のような脳死臓器移植の範囲に限ってですけれども、親族への提供ということを優先させるような趣旨のものがございます。しかし、これは必ずしも成功していないというぐあいに聞いております。
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福岡資麿#26
○福岡小委員 ありがとうございました。
 続きまして、加藤参考人の方にお聞かせをいただきたいと思います。
 冒頭、野村参考人の方にもお聞きさせていただきましたけれども、臓器移植等に関する、もしくは脳死に関する国民的な合意という部分で、日弁連さんもまだ疑問があるというふうにおっしゃっているわけなんです。ただ、内閣府の調査等では、やはり理解を示してくださる方の数というのが、少しずつですけれども、調査ごとに上がってきているというような数値もあるわけでして、何をもって、一〇〇%ということはあり得ないわけですから、どこまでをもって国民的な理解が進んだということを判定するというのは非常に難しいと思いますけれども、その辺で、今はまだ国民的な合意形成、理解が進んでいないと言われる根拠なりお考えなりというのを改めてお聞かせいただければというふうに思います。
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加藤高志#27
○加藤参考人 確かに、どの時点で国民的なコンセンサスが得られたかというのは非常に難しいことだと思います。ただ、私が思いますのは、それを死ととらえる前提のいろいろな諸条件というのがまずあると思うんです。
 それは、先ほど井手参考人がおっしゃられたように、小児の救急医療の問題ですとか、あるいはみとりの問題、それからドナーの遺族の方のその後の精神的なケアの問題、そのようなことが全部含まれて臓器移植が定着するというのが一方であって、その一方で、脳死について、臓器移植が進んでいく中で脳死というものもどんどん理解が深まっていくと思うんです。単純に脳死は死かということだけを、今定義を、その定義についても先ほど申し上げたように正確ではないと思いますが、脳死は死ですかという質問だけで答えが例えば八〇%になったから、これは死なんだというふうなことではないと思うんです。
 それともう一つ、やはり宗教団体でありますとか、それから交通事故の遺族の団体の方でありますとか、そういった方々の声というのは非常に重く受けとめています。アンケートで数字が例えば六〇%、七〇%というふうになったから、そこでコンセンサスが得られたというふうなものではないというふうに考えております。
 以上です。
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福岡資麿#28
○福岡小委員 ありがとうございます。
 もう時間も押し迫っていますので、最後に、清野参考人の方に御意見をお聞きしたいと思います。
 先ほど児童虐待にかかわる部分のお話をいただきました。これもいろいろな調査を見ると、虐待が原因かどうかというのがわかるのに非常に日数がかかるケースがあるということです。
 そういうことで、なるべく、虐待かどうかという原因を探る機関、組織をきちんと整備していくべきだというようなお話でしたけれども、そうはいっても、なかなかやはり、実際に二カ月、六十日とかそれ以上かかっているケースもあるわけで、そう簡単にわからない部分も、特に親が否認している部分については多々あると思います。その辺、ちょっと私もなかなかイメージがつきづらいんですけれども、どういった、虐待であるかどうかをわかる仕組みづくりというのが必要かという部分について、御意見をお聞かせいただきたいと思います。
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吉野正芳#29
○吉野小委員長 清野参考人、簡潔にお願いします。
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