中村暁美の発言 (厚生労働委員会臓器の移植に関する法律の一部を改正する法律案審査小委員会)

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○中村参考人 中村暁美です。
 本日は、貴重なお時間をいただき、ありがとうございます。
 皆様のお手元に娘の写真をお配りしました。どうかごらんになりながらお聞きください。
 私の最愛なる娘、有里は、昨年の九月二十四日に他界しましたが、脳死と診断されてからの一年九カ月間の娘の様子と、娘とともに精いっぱい生きた家族の思いをお話しし、長期脳死児と言われる娘が残したメッセージを皆様にお伝えすることができればと思います。
 平成十七年十二月十三日、二歳八カ月でした。その日の娘は、朝から鼻水が出て、熱も三十八度近くあり、風邪を引いたのだろうと、かかりつけの近所の小児科を受診しました。診断はやはり風邪でした。熱はあっても娘はふだんと変わらずに過ごしていましたが、食欲がなく、大好きなアイスを少し食べて眠り始めました。三十分ほどすると、苦しそうな声とともに、けいれんを起こしたのです。口からは泡を吹き、目は白目をむいていました。すぐに救急車を呼びました。
 駆けつけた救急隊員は、お母さん、熱性けいれんだから大丈夫だよと私に告げました。しかし、搬送連絡をした大学病院には、レベルの高い子の処置中だからと断られ、救急車到着から十五分以上も待たされて、結局、規模の小さい総合病院に運ばれました。
 そこで点滴を受けました。両手、両足にはまだけいれんのような動きが続いており、私の呼びかけにも全く反応を示さない娘の様子に不安を覚え、幾度となくナースコールを押すのですが、手が回らないのか、すぐには来てはもらえず、私が直接先生のところへ行くこともありました。そのときの説明では、点滴にけいれんどめを入れてあるので今は様子を見ている、大変強い薬なのでたくさんは使えないということでした。一抹の不安を抱えながらも、先生の言われるとおり、様子を見守ることしかできませんでした。
 何もしてあげることもできず、無情にも時間だけが流れる中、急に周りが慌ただしくなったのです。やはりけいれんがおさまらないので大学病院に移すと説明され、ばたばたと転院となりました。
 転院後すぐに娘から離され、夜も明けるころ、やっと面会が許されました。通された部屋のベッドに寝かされた娘は、おむつ一枚の姿で、見たこともない大きな機械に囲まれ、恐ろしいほどの数の点滴につながれていたのです。
 ぴくりとも動かないその姿はまるで人形のようで、この子は私の子供ではありません、中村有里のところへ早く連れていってくださいと言ってしまったことを覚えています。大学病院では、筋弛緩剤で眠らせているため、意識もなく、呼吸器を使っているが、意識が戻り、自発呼吸が出てきたら抜管し、呼吸器は外せるでしょうと説明されました。
 しかし、意識が戻るどころか、日に日に娘の状態は悪化し、二日後には命まで危ないと言われたのです。そして、検査の結果、娘の脳は全く機能していないという、いわゆる脳死状態だと宣告されてしまったのです。会わせたい人に早く連絡するようにという言葉から、娘の死がすぐそこまで来ていることを認めなければならなかったのです。
 駆けつけた三人の兄たちが、娘の手をしっかりと握り締め、お兄ちゃんだよ、早くよくなっておうちに帰ろう、有里、頑張れ、頑張れと声をかけ続けたところ、下がる一方だった血圧が徐々に上がり始めたのです。見守る医師も看護師も、娘の生きようとする姿に驚き、家族の深い愛に感動を覚えたと言っていました。この子を絶対死なせないという親の思いと、妹とお別れなんかしたくないという兄弟の強い思いが娘に通じたのでしょう。ここで家族がまた一つになったように感じました。
 二週間が過ぎるころ、急性期を脱してくれました。そこから、私たち家族の目標を在宅に向け、目覚めてほしいと奇跡を信じながらの準備が始まったのです。
 在宅に向けての条件の一つは、気管切開の手術でした。娘から声が奪われる、もう二度とあの愛らしい歌声を聞くことができなくなってしまう。日々奇跡を願っている私にとって、それは苦渋の選択でした。病に倒れてから二カ月目、二月二十四日の手術となりました。このときにも信じられないことが起こったのです。
 微量の麻酔で臨んだところ、急激な血圧の変化が起こり、麻酔の量をふやしたそうです。健康な子がオペをしたときと同じような状態があったそうです。もし脳死は人の死だというのなら、なぜ娘に麻酔をしたのでしょう。娘の血圧の変化はなぜ起こったのでしょう。娘はきっと怖かったのでしょう。痛かったのでしょう。心が痛みました。
 もう一つの条件は、日常のケアを両親ができるようになることでした。たんの吸引、おむつの交換、栄養剤の注入などを病室に泊まりながら学びました。やっていることは大変でしたが、苦労と感じたことはなく、娘のためにできることに幸せを感じていました。
 十一月の七五三のお祝いもできました。七五三は、その子の節目の年に健康と健やかな成長を願う行事の一つです。どんなことをしてでも、兄たちと同じように、娘にも七五三のお祝いをしたいと思ったのです。
 主治医からの了解も得られ、自宅近くの神社まで、晴れ着を着ての外出となりました。病棟の保育士さんに髪を結んでいただき、きれいにお化粧までしてのお出かけとなりました。
 神社では、他の方の迷惑にならないよう、外からのお参りのつもりでした。しかし、娘の事情を知った神主さんの計らいにより、境内の中に入って祈祷までしていただくことができました。
 七五三の着物も、娘が生きているから着せたのです。意識はなくとも、温かい体がそこにあるから願うのです。娘の姿に心打たれた神主さんだから、生きている子だから、七五三の祈願をしてくださったのです。
 こうして一つずつ、生きる姿を変えた娘と家族の思い出もふえていきました。娘は大きく体調を崩すこともなく、在宅は平成十九年十月と決まりました。小児病棟のスタッフのみんなが一日も早く娘を帰してあげたいと、私たち家族の思いに寄り添ってくださいました。
 ところが、考えもしないことが起こってしまったのです。九月二十三日夕方、急変を知らせるアラームが鳴ったのです。娘の心拍が急激に上がり、そして、あっという間に下がってしまったのです。機械の故障かと錯覚するほどの変化でした。病棟にいる医師や看護師たちが急いで駆けつけ、処置が始まりました。
 有里は絶対に死なない、死ぬはずがないと信じていました。しかし、私の思いとは裏腹に、現実は厳しいものでした。
 医師が娘の小さい体の上に馬乗りになり、心臓マッサージを行っていました。自分の力で動き続けてくれている大事な大事な心臓なのに、大丈夫なのだろうか、ベッドのきしむ音がやたらに大きく感じました。一たんは落ちついたものの、また悪い状態になり、もう心臓の機能を全く果たしていない、自力では動いていないと言われてしまいました。
 最後にもう一度娘を抱かせてほしいと、三人の兄たち、祖父母、主人、そして私と、まだ温かい体をしっかりとこの胸の中に抱き締めました。しばらくぶりにしっかりと抱く娘の体が成長し、大きくなっていることに、月日の流れを感じました。
 心臓マッサージ、そしてアンビューバックの手をとめると、娘の体に変化があらわれました。唇の色は紫色に変わり、顔色、体の色は徐々に赤みがなくなっていくのです。そして、だんだんと冷たくなっていく体。
 その傍らで、家族とともに号泣している医師や看護師たちがいました。気づくと、夕方の急変からずっと心臓マッサージをし、アンビューを押し続けていた先生方の手は、ぱんぱんにはれていたのです。娘の心臓をとめないよう、そして、また戻ってきてくれるよう、奇跡を願っていたのは家族だけではなかったのです。
 脳死の子供だからと区別することなく、最後まで力を尽くしてくださった先生だったからこそ、娘の一年九カ月があったのです。私たち家族の思いに常に寄り添ってくださった医師、看護師がいてくださったから、絶望を乗り越えられたのです。娘は本当に幸せでした。たくさんの方々からいっぱいの愛をいただいて旅立っていくことができたのですから。
 私は、人が生死のはざまに置かれ、旅立っていく瞬間をみとったのはこれが初めてのことでした。ぬくもりのある温かい体から徐々に冷たくなっていく体の変化を見たとき、これがまさに人の死なのだと実感しました。
 そして、もう一つ確実になったのは、脳死と宣告されてからの一年九カ月、娘は生きていたのだということです。自分の小さい体を使って、社会に、脳死は人の死ではないと訴えていってくれたのです。本当の人の死を教えていってくれたのです。
 もし脳死を人の死とするA案が成立したら、長期脳死児と言われる子供たちが、その日を境に遺体になってしまうのでしょうか。遺体になったら、人として生きる権利もなくなり、これまで病人として受けられた制度や医療が受けられなくなるのではないか、今以上に肩身の狭い思いをして生きていかねばならないのではないかと不安でいっぱいです。
 日本臓器移植ネットワーク作成の「いのちの贈りもの あなたの意思で助かる命」というリーフレットがあります。昨年のことですが、中学三年だった次男が学校で配られたこのリーフレットを持ち帰ってきました。そして、帰ってくるなり、ひどい、有里のような子供のことは何にも書いていないと言ってこのリーフレットを破り捨てたのです。確かに、このリーフレットには、ドナーの対象とされている長期脳死の子供について一行も書かれておりません。
 私も、娘が脳死と診断されたときは、数日後に死ぬかもしれないと覚悟しました。しかし、娘は、一年九カ月間も生き続け、体は成長し、脳死は人の死ではないというメッセージを残してくれました。
 命とは何か、人の死とはどういうものなのか。意識があって臓器を待ち続けている子供も、意識がなくて脳死状態の子供も、同じ病気という苦しみを背負っているのです。命の重さは平等です。家族は、一分でも一秒でも長く生きていてほしいと願うのです。
 脳死移植とは、助かる命の陰に失われるとうとい命があることで成り立つことになります。どうか皆様、真剣に長期脳死児の現実を見てください。そして、もっともっと知っていただきたいと思います。どうかよろしくお願いいたします。(拍手)

発言情報

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発言者: 中村暁美

speaker_id: 12285

日付: 2008-06-03

院: 衆議院

会議名: 厚生労働委員会臓器の移植に関する法律の一部を改正する法律案審査小委員会