2008-06-03
衆議院
井田良
厚生労働委員会臓器の移植に関する法律の一部を改正する法律案審査小委員会
井田良の発言 (厚生労働委員会臓器の移植に関する法律の一部を改正する法律案審査小委員会)
⚠️ コピーしたテキストを転載する際は、転載元URL(kokkai-data.com)および原典URL(kokkai.ndl.go.jp)を必ず残してください。発言内容の改変・出典削除は禁止です。
詳細は利用規約をご確認ください。
○井田参考人 おはようございます。慶応義塾大学の法科大学院で刑法と医事法を教えております井田でございます。
提出されております三つの法律案につきまして、法律を専門とする立場からコメントさせていただきたいと思います。
臓器移植に関する法的ルールをつくろうとするとき、最も根本的な意味を持つものは、だれの同意があるときに臓器の摘出を認めるかという問題であります。
脳死者の身体からの臓器摘出について見ますと、世界の多くの国々では、本人が同意の書面を残していない場合でも、近親者の同意が得られれば摘出を行うということを認めています。それは、御提案されているうちのA案の基本的立場に合致するものです。
最も最近の立法例として、スイスでは昨年、二〇〇七年七月から、初めての連邦レベルでの統一的な新臓器移植法が施行されましたが、そこでも、本人が生前何らの意思表示をしていなかったというときでも、近親者の同意により脳死者の身体からの臓器摘出が許されるとしております。提供者に関する年齢制限はそこにはありません。
世界の国々の中には、進んで本人の反対意思の表示がない限りは、近親者の同意を法的要件とせずに臓器摘出を認めるという、より緩やかな方式をとっている国がかなりありますが、逆に、我が国の現行法のようにドナー本人の書面による意思表示を要件とする極めて厳格なものは、世界の主要な国々に関する限り、寡聞にして存じません。
それでは、世界の主要な国で、本人が同意の書面を残していない場合でも、近親者の同意が得られれば摘出を行うことを認めるというA案のような方式をとっているのはなぜでしょうか。
私は、二つのことが特に重要であると考えています。一つずつお話ししてまいります。
一つは、それが大多数の人の自然な物の考え方、普通の心情に合致するということです。
一般の人は、生きている間に、自分が死んだときのこと、そしてその後の出来事のことなんか考えたくありません。それを強いられるのは苦痛でさえあります。他方で、普通の人は、死後の臓器の提供について強い反対の気持ちを持っているでしょうか。大多数の人は、あえてそれが嫌であるという強い気持ちを持つものではないと思われます。というより、多くの人にとって、正直なところ、死んでから自分の身体がどう扱われるかなどは考える必要がないこと、関心を持ちようもないことであり、臓器提供を求められれば、あえてそれを拒絶する意思などないというのが本当のところだと思うのです。このことを言いあらわすために、私は、大多数の人はポテンシャルには臓器提供意思を持っているという言い方をしたいと思います。
意思表示カードを持ち出してきてそれに署名する、そういう人が少ないのは、普通の人々が臓器を提供することに反対だからというのではなくて、およそ自分が死んでから後のことなんか考えたくないからです。その意味では、我が国の現行の臓器移植法は酷な法律です。臓器移植を可能とするために、国民全体に対し、自分が死んだときのことについて正面から考えることを無理強いするものだからです。
A案のように、ドナー本人が提供の意思表示を残していないときでも、近親者の同意により摘出を可能とする方法は、本人が持っているポテンシャルな提供意思を、本人のことを最もよく知っている近親者が具体的な提供意思の形にするというやり方であり、国民大多数の自然な物の考え方、普通の心情に合致するものです。今後の我が国の移植医療は、普通の人の持つそういうポテンシャルな提供意思を支えとして行われるべきものです。諸外国の移植法制の基本にあるものも、そういう考え方にほかなりません。
今申し上げたところから、B案のように、現行法の同意要件をそのまま維持した上で、意思表示可能年齢を中学校入学年齢の十二歳まで引き下げるという提案には疑問を感じます。十二、三歳の年少者に対し、自分が死んでから後のことに思いをいたすことを求め、一定の意思表示をすることを迫り、そしてその意思表示に頼る、そういう移植医療は余りにも不自然なものです。うまくいくはずはありません。世界の国々でそういうやり方がとられていないのは当然です。実際にも、成人であっても提供意思を書面によって表示することが少ないのに、十二、三歳の年少者がそうすることはますますまれなことではないでしょうか。恐らく、小児移植はほとんど実現されないということになるでしょう。
以上で、A案のような同意要件の決め方が世界の多くの国々で支持されている理由について申し上げました。
もう一つ、私がとても重要だと考えることがございます。それは、死後の身体にメスを入れるということが、その本人にとって何か権利侵害であるとか、何か不利益なことであるとかと考えてはならないということです。私の知る限り、死後の臓器摘出が本人にとり不利益であるという考え方に基づいて臓器移植法をつくっている国は存在しません。
もし、それが幾ら他人の役に立つものであったとしても、本人にとり不利益となるのであれば、本人自身の意思表示が絶対に必要です。法律上は推定的同意とか代諾とかそういったものもありますけれども、それはいずれも、本人にとりマイナスにならないときにのみ効力を認められるものであります。推定的意思表示あるいは推定的同意に基づく治療行為とか、あるいは代諾に基づく治療行為と言われるものは、それが本人にとりプラスになるであろうと考えられるからこそ行われるものでありまして、判断能力を持ち情報を与えられさえすれば、だれでもが、その患者もそのように意思決定し得るであろう、そういう治療行為のことをいうのであります。
したがって、臓器摘出が、もし本人にとり不利益をもたらすものだと考えられるのであれば、A案のような考え方をとるわけにはいきません。ドナーとなる小児にとり、死後の臓器の摘出が何か不利益なことであるというのであれば、親が仮にそれに同意したとしても、それを許容することはできないはずです。
しかし、死後の臓器摘出は本人にとり権利侵害でもなければ不利益なことでもないと考えるべきだと思います。先ほども申し上げたように、死んでから後で自分の身体がどう扱われるかは、普通は考える必要もないこと、利害関心を持ちようもないことであって、利益、不利益を語り得るような、そういう事柄では到底ないのであります。
このことは、C案の提案理由で触れられておりますように、脳死の問題と関連しています。現行の臓器移植法が、脳死判定と臓器提供のそれぞれについて格別の書面による意思表示を要求していることは、脳死判定と脳死下における臓器の提供が、本人にとり何らかの不利益を持つものであるという考え方に立っているという理解はあり得ると思います。通常の死とは異なり、より早い段階における脳死を選択することは本人にとり不利益なことである、しかし、それは、本人がそう望んでいるというのであれば許容できる、このように考えるとすると、A案のような方式をとることは、脳死を一律に人の死とする基本的立場に移行しなければとれないということになってきます。
しかしながら、臓器移植法という限られた問題領域において、人の死の一般的な概念と基準を決めてしまおうという発想自体が適切ではありません。
現行の臓器移植法は、我が国では行われてこなかった脳死移植を初めて法的に可能としたものであり、いわば一点の曇りもないところで脳死移植をスタートさせ、それを軌道に乗せるために、特別に厳重な条件を要求したものにすぎません。通常の死と比べて脳死は、本人にとり、より不利益である、そういう考え方を現行法に読み込まなければならない必然性はないのです。我が国の十年の脳死移植のすぐれた実績にかんがみて、その法的条件を諸外国並みにしようとするのがA案であると理解すれば足りると思います。脳死が人の死かどうかは、これは臓器移植法とはまた別に合意を形成していくべき問題であると考えます。
以上で、臓器移植法のいわば根幹部分についてのコメントを終えて、各論的なポイントについて簡単に私の意見を申し上げたいと思います。
まず、A案とB案とが予定しております親族への優先提供についてです。
本来的には、臓器移植の法的規制に当たっては、患者を治療する側と移植を行う側とは完全に切り離すべきであり、ドナーとレシピエントがともにお互いのことを知っているという事態はいろいろな意味で望ましいものではないと考えられます。移植医療に原理的に反対の立場をとる方が、移植医療は人の死を待ち望む医療だといったブラックなイメージを投げかけることがありますけれども、人の死を待ち望むことにならないのは、それぞれが匿名であって、顔が見えて横に並ばないからだろうと思うわけであります。
ただ、そうはいいましても、親族を救いたいという提供者の気持ちはよく理解できますし、生体間の移植の場合の延長線上で、そういう提供意思を尊重するということはあってもよいことであり、法的障害はないと考えております。臓器というのは何か公共的な財産であって、それを親族間でやりとりすることは、レシピエントにとって移植を受ける機会の公平性に反するんだというようにかたく考える必要はないと思っています。
もう一点は、最後ですけれども、A案とC案とが被虐待児への対応に言及していることについても一言したいと思います。
その趣旨は必ずしも明らかでないのですけれども、移植が虐待隠ぺいの手段として用いられるかもしれないという、単なる想像ないし憶測に基づいてそれを条文に書き込むというのであれば、それには少し違和感を持つものであります。
限られた時間内で、主要なポイントについてコメントを述べさせていただきました。
御清聴ありがとうございます。(拍手)