丸川珠代の発言 (厚生労働委員会)

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○丸川珠代君 自由民主党の丸川珠代でございます。
 私は、この厚生労働委員会の委員の一人として、また国会議員の一人として、この命の議論に参加をさせていただくことに身の震えるような責任を感じております。我々の命を決めている何物かに対する畏怖の念のようなものも抱きながら一生懸命考えさせていただきました。こうした機会を与えていただいたことに、まずは感謝を申し上げたいと思います。
 我々は昨日、心臓移植を待つ患者さんにお会いをしました。人工心臓を付けた若い女性で、ほんの三か月ほど前、手術をする三か月前までは運動をして普通に暮らしていてアルバイトもしていたそうです。私は、心臓移植を必要な状態というのはこんなにも突然に生活の中にやってくるものなのかということで、大変な衝撃を受けました。
 また、人工心臓を付けることによって、その後の予後が決まってしまうということも伺いました。移植を待つ方々は、大体三年から四年ほど人工心臓を付けて自由に身動きが取れない状態で移植を待っておられるということです。
 日本臓器移植ネットワークの資料によりますと、年間千二百人から千五百人の方が新たに移植希望の登録をなさっておられますが、一方で、年間二百五十人以上がお亡くなりになられていると。新たに登録される方も、そして命を失われる方も年々増えているそうでございます。
 移植医療というのは、もしかすると再生医療というものの技術進歩が進むまでの過渡的なものという考え方もあるかもしれません。しかしながら、一方で、今貴重な、非常に大切な命のリレーによって救われる命があるのであれば、それは救いたいと思うのが人の情というものであろうと私は思います。そして、その助けたいという思いと同じぐらいの強さ、重さを持って、臓器を提供しようとする御本人そして家族が十分納得をして死を迎えるということが必要であると私は思います。
 私たちのこの委員会の参考人質疑で、脳死検証委員会のメンバーとして八十二の症例をつぶさに見てこられた柳田邦男先生のお話を伺いました。私はその話を伺って、果たして私たちは、その八十二例から学ぶべきことを学び、反省をし、そして今の移植医療にそれを生かしているかどうか、そのことに疑念を抱かざるを得ないという思いをいたしました。
 ドナー家族あるいは臓器を提供しようとする方たちは、その臓器を提供するという決意をした瞬間から二つの立場を背負うことになります。一つは家族を失う者としての立場、そしてもう一つは人を助けようとする者の立場でございます。この二つの立場が、臓器を提供しようとする家族はもちろんのこと、医療をする側でもきちんとした整理がなされずに混乱をしている、そして、その混乱が悲しみを増幅し、また誤解を生んでいるのではないか。とりわけ、私は、臓器提供者となる家族、個人、その方たちを支える体制が全く今のままでは不十分ではないかという問題意識を持っております。これについては後ほどまたお伺いしたいと思います。
 移植医療に携わる方々が口々におっしゃるのは、臓器を提供をしてくださる側が納得をして提供をしてくださらなければ移植医療そのものが成り立たないということでございます。できる限りの医療を行って徹底的に治療をしたということはもちろんでございますが、では、臓器を提供しようかどうしようか、そういうことをお考えになっている家族がどのようなプロセスをもって死を受容するのか、そのプロセスが納得されるものであるかどうかということも極めて重要であると思います。
 専門家が脳死は生物学的な死であるということを断言しても、なお私たちが脳死は人の死かどうかということを議論しているのは、死とは何か、死をどのように受け止めるかということが私たちの中でそれぞれに異なるからであるということは、私は疑いを持ってはおりません。それぞれの死生観というものが異なるからこそ、今脳死は人の死かということが議論をされているのであろうと思います。
 そして、人の死というものは時の流れの中の一つの点ではございません。脳が死へ向かって後戻りできないという状況になってから後も、すべての細胞が活動を止めてしまうまでの間にはある程度の時間がございます。そして、そのある程度の時間というものは、科学の進歩、医療の進歩によって延ばすことができるようになってきている。脳死という判定をなされてからもなお、レスピレーターやあるいは血圧を調整する投薬等によって三百日程度安定した状態、心拍を保つことができる小児の二つの症例というものもございます。
 脳が不可逆的な機能停止をしてからすべての細胞が活動を停止するまで、その間のどこをもってして死とするか。それを家族が選ぶ、あるいは個人が選ぶのは、それはそれぞれの私は権利であると思いますし、それを選ぶことを何人も侵害することはできない、これは私の思いでございます。
 臓器移植医療というものは、臓器提供者及びその家族の納得が大前提となっている。であるからこそ、私は、その提供者の死については個々の死生観にできる限り寄り添う、寄り添える制度であるべきだと私は思います。
 そういう私の問題意識の中で、A案の提出者の皆様にお伺いをしたいことがございます。
 昨日、この参議院厚生労働委員会で、A案の発議者のお一人である山内議員は、島尻委員の答弁にこのようにお答えになっておられます。「臓器移植法は、」、中略いたしますが、「臓器移植以外の場面について一般的な脳死判定の制度や統一的な人の死の定義を定めるものではありません。」、つまり、一般的に脳死を人の死とするものではないということをおっしゃっている、A案がです。
 しかし、一方で、六月五日の衆議院の厚生労働委員会の答弁の中で、冨岡議員は、井上議員、とかしき議員、川内議員、岡本議員への答弁でこのようにおっしゃっています。「提出者としては、脳死は一般に人の死であるという考え方を前提として組み立てて、この案を提出しているところであります。」、「提出者としては、脳死は一般に人の死であるという考え方を前提としてこの改正案を提出しております。」、「私たち提出者としては、脳死は一般に人の死であるという考え方を前提としてこの法律案を提出しているということは、何度も申し上げているところであります。」、そして、「A案は、客観的に、」、中略いたしますが、「臓器移植が行われるかどうかにかかわらず、それは一般に人の死であるという考え方に立っています」「したがって、」、中略いたしますが、「家族が承諾したから本人が死んだということになるのではありません。」とおっしゃっています。
 同じA案の発議者の中で意見があるいは見解が分かれているように思いますが、冨岡議員の真意をお伺いできますでしょうか。

発言情報

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発言者: 丸川珠代

speaker_id: 12671

日付: 2009-07-09

院: 参議院

会議名: 厚生労働委員会