中山太郎の発言 (憲法審査会)

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○中山参考人 中山太郎でございます。
 本日は、大畠会長を初め憲法審査会の先生方の御要請を受ける形で、本院の憲法調査会及び日本国憲法に関する調査特別委員会の設置の経緯並びにその調査及び国民投票法制定の経緯につきまして、お話をさせていただくことになりました。大変に光栄なことであり、心から感謝を申し上げます。
 私は、二〇〇〇年から二〇〇七年まで約七年半にわたって、衆議院の憲法調査会会長及び憲法調査特別委員長を務めさせていただきました。本日は、そのような立場から、若干の所感を込めて御報告をさせていただきたいと思います。
 お手元に御報告のポイントを記した簡単なレジュメを配付させていただいておりますので、これに沿って、早速、内容に入らせていただきたいと思います。
 まず、憲法調査委員会設置推進議員連盟の立ち上げと、その活動について御紹介をしたいと思います。
 平成九年、日本国憲法の施行五十周年を迎えました一九九七年の五月、衆参の全国会議員に、憲法調査委員会設置推進議員連盟設立趣意書を配付することをいたしました。
 この文書は、第一に、日本国憲法施行後五十年間の我が国内外の大きな変貌、第二に、特に近年の冷戦構造の崩壊により国際関係の変化や、地球環境問題の深刻化、地方分権の進展など、憲法問題を内包する新たな問題の発生、第三に、昭和三十年代に内閣に設置されました憲法調査会以降、長い間、公的な憲法調査機関が存在しなかったことを指摘した上で、二十一世紀を目前にした今こそ、日本国憲法によって憲法改正の発議権を付与された国会にこそ、国民主権、人権尊重、平和主義といった現行憲法の三大原則を尊重しつつ、憲法全般について全面的な調査検討を加えるための憲法調査委員会を設置することの必要性を訴えたものでございました。
 この議員連盟設立を呼びかけたのが中山太郎でございました。
 私は、早速、同年十一月に憲政記念館で憲法五十周年記念フォーラムを開催し、GHQが作成をした日本国憲法草案の起草に携わったと言われるベアテ・シロタ・ゴードンさんやミルトン・エスマンさん、リチャード・プールさんなど五人の生存者の方々をお呼びして、この経緯についてお話をいただきました。
 当日は、中曽根元総理を初め多くの先生方が参加をされて、激しい議論が行われたことを記憶しております。ベアテ・シロタさんは、女性の権利の擁護と解放を訴えておられた方で、土井たか子先生とともに、日本の婦人の権利、こういうものについていろいろと御発言をしてきた方でございます。また、憲法二十四条の原案を起草された方であります。
 彼らの旅費をどうしたのか、国会が出したのかというような疑問もございますが、滞在費用はすべて議連のメンバーである国会議員が一人一人、三万円ずつ拠出をして賄いました。こうした行事に自腹を切るというようなことはかつて考えられなかったことでございました。
 これ以降、私の議会におけます人生も、大いに憲法とともに歩んでいくことになりました。
 もともと私は医学を学んだ医師でございます。小児麻痺の研究をずっとしておりましたが、そういう中で、人類が自然の猛威に抵抗するための新しい医療のあり方あるいは細菌学等の発展等について絶えず志を持って生活しておりました。
 この私がどういう形で政治に関与することになったのかといえば、私は当時、大阪の生野区という韓国人が八万人住んでおられる地域で開業医をやっておりまして、いろいろと在日韓国人の実態もよく存じておりましたので、この人たちを助けてやらなきゃいかぬ、こういうことで赤ひげ医者をやっておったわけであります。
 湾岸戦争の当時の苦い思い出から、私は次のことを申し上げたいと思います。
 私が現実政治の上で憲法問題に直面したのは、一九九一年一月に勃発した湾岸戦争のときでございました。私は、一九八九年八月から一九九一年十一月まで、海部内閣で三期にわたり外務大臣を務めましたが、その在任中に勃発した湾岸戦争が私の議員人生を大きく変えたように思います。
 当時、総理の名代として中東の緊張した地域に飛んでまいりました。空港に待っておったのはサウジアラビアの外務大臣、サウード外相でございまして、彼は、到着した早々の飛行場の玄関で、まず訴えたことは、我が国は今イラクの大軍に囲まれている、そしていつ戦端が開かれるかわからない、このサウジアラビアの危機を救うために、日本の自衛隊をぜひ派遣してほしいという要望がございました。
 私はその当時、明確に、日本国憲法の制約上、海外に自衛隊を派遣することはできません、ほかの方法で協力をさせていただきたい、そのような説明をいたし、また、深夜にわたって開かれたファハド国王との王宮における会談では、会談が始まったのが深夜の十一時半、会談が終了したのが午前一時半でございました。そういう中で、日本の憲法のあり方、またできる限りの協力の仕方、いろいろなことも議論をいたしました。
 そういう中で、絶えず官邸と連絡をしながら、中東の緊張状態について報告をしておりましたが、石油資源の七割を中東から輸入しておる我が国がペルシャ湾に自衛隊を派遣するとすれば、現行憲法下でどこまでできるのか、国会でも大いに議論され、外務大臣である私に質問が集中しておりました。
 もし自衛隊を派遣して、撃たれたらどうするのかという質問もございました。私は、憲法九条を守ろうとすれば、撃たれたら弾の来ないところに退却せざるを得ない、これが日本の憲法の具体的な姿であろう、日本は海外でそうした協力しかできない、当時そう答弁するしかございませんでした。
 しかし、アメリカのベーカー国務長官は、偵察衛星を通じてペルシャ湾を航行しているオイルタンカーを調べておりましたが、その中に、忘れられないのは、衛星写真で見ると、二十七隻、大型のタンカーがペルシャ湾に日本から来ている、油を運べるのにどうして我々の国を守ってもらえないのかという声がサウジアラビアからアメリカにも伝わっている、こういう電話も絶えず参りました。
 こういう中で、私は、日本のこれからのあり方についてどうするか。ただし、私は、戦争を体験してきた世代でございます。第二次世界大戦のさなかには、大阪でアメリカ空軍の大爆撃を受けて危うく死に損ないましたし、また通学途中の無蓋貨車の上でグラマンの艦載機の機銃掃射を受けながら、麦畑に飛び込んで辛うじて命を取りとめた戦争体験者でもあります。また、広島の原爆投下にも、毎日のようにこのような話を聞かされた経験者であります。
 そのためにも、日本国はどうあるべきなのか、憲法はどうあるべきなのか、少なくとも憲法改正の是非を国民の皆さんに決めていただく機会をつくりたい、これが私の議員人生の後半を憲法論議にささげることを決意させたものでございました。
 明治憲法が制定された当時の状況もいろいろと調べてみました。
 ちょうど同じ医者で、長州藩の青木周蔵という若い医師、藩の認可をいただいて、山口県から長崎に行き、そこでヨーロッパへ向かう船に乗っていった青木周蔵という人がおられます。この方は、ドイツに行ってプロイセンの憲法を勉強されたわけであります。そこで、このプロイセン憲法は、皇帝を中心に国を構成しておりました。こういう形の中で、多くの日本の当時の維新の指導者たちは、伊藤博文を初め多くの政治家、その人たちが遠くプロイセンあるいはオーストリアを訪問して、新しい日本の国の形というものは天皇を中心にした国家をつくることがいいのではないか、こういう意見をまとめていったような経緯がございました。
 こういう中で、議案提出権のない憲法調査会を設置しよう、こういう考え方が浮かんでまいりました。
 さて、憲法調査委員会設置推進議員連盟の活動に話を戻しますと、この議連には、超党派の多くの議員が参加をしていただきました。
 お手元に、当時の主要政党会派の変遷を図にした資料一をお配りしております。
 これをごらんいただければ、若い先生方もおわかりいただけるように、当時は激しい政党再編の過程でございました。同じ政党で一緒に政治活動を行っていた議員が、それぞれの政治理念を実現するために夢を求めてたもとを分かったことも決して珍しくありませんでした。そのため、同じ政党に属しておったかつての同志がいろいろな政党に分かれておられましたので、党派を超えて話し合い、そして御協力をいただくようなことになったわけであります。参加された衆議院は二百六十九名、参議院は百五名おられたわけでございます。
 この中で、特に森元総理は、当時、幹事長をやっておられました。各党各会派との人脈を通じてこの運動を進めるような御協力をいただきましたし、当時の議運委員長は、きょう御出席の中川秀直先生でございます。そして、森総理は私に、中川君がいればこの話は議運で話を進めてもらうことができる、こういうお話をされたことも心の中に極めて深くとどめております。当時、民主党の羽田孜先生、この方がお元気でいらっしゃいまして、そして各党との話し合いのときには、森元総理と羽田孜先生と絶えず相談をしながら話を進めていただいたわけでございます。
 私は、この議連の設立や活動について、小異を捨てて大同につくという大きな方針を掲げておりました。私の頭の中には、常に三分の二という数字があったからであります。
 憲法を改正するには、衆参両院で三分の二以上の多数を形成しなければなりません。その上で、国民投票で過半数の賛成をいただかなければならない。まず、この三分の二を得るためには、自分の、あるいは自分の政党の理想だけを追求していては、スタートラインにすらたどり着けなかったのであります。
 ちなみに、この小異を捨てて大同につくという発想は、その後の憲法調査会の海外調査におきましても、身にしみて痛感したことでありました。諸外国の憲法制定、改正に関与した政治家たちは、異口同音に、憲法は最も崇高な、そして最も偉大なる妥協によって生まれるものだという趣旨のことを述べられたからであります。
 憲法調査委員会に憲法改正原案の提出、審査権を与えるかどうかといった問題が大きな議論になったときに、私が議案提出権のない純粋な調査のための調査会という整理で意見の集約を図ったのも、この大胆な妥協が頭の中にあったからであります。
 その結果、憲法調査会は、最後まで国会設置に反対した共産、社民両党の委員を含め、すべての会派が参加する形で、二〇〇〇年、平成十二年でありますが、一月の通常国会から発足をすることができました。昭和三十年代の内閣憲法調査会は、当時の日本社会党や多くの学者の方々がボイコットされたまま発足したものでしたので、国会の憲法調査会が正常な形でスタートできたのは、まことに結構な、画期的なことでございました。
 こうして設置された衆議院の憲法調査会は、二〇〇〇年、平成十二年の一月二十日に発足し、委員各位の推挙によって、私が会長の重責を負うことになりました。
 この調査を開始するに当たって、私が会長として特に留意したことが二つあります。
 第一の原則として、憲法論議は国会で行うもの。
 一つは、憲法論議は国民代表たる国会でこそ行われるべきだということであります。このことは、例えば次のような運営の仕方にあらわれました。
 通常の委員会でありますと、理事会に関連省庁の政府職員が陪席するのが通例でございます。憲法は、ある意味で全省庁に関連するとも言えるもので、事務局の中には、内閣官房から審議官クラスを一人か二人常駐させて、政府代表としての連絡係を務めてもらおうという考えもありました。
 しかし、私はそのような考えを採用しませんでした。私は、総務庁長官や北海道・沖縄開発庁長官、あるいは外務大臣をやりました経験から、政府の官僚たちの動きはよく知っております。憲法調査会の幹事会に政府の役人を常駐させてしまえば、私の省庁に都合の悪い議論がなされそうになると、彼らは必ず先回りをして、御説明と称して、片っ端から議論をつぶしにかかる。役人とはいい意味でも悪い意味でもそういったものであることは、議員の先生方もよく御存じのとおりであります。
 これは普通の法律とは違う、憲法という基本法、国家の基本でございます。憲法論議だけは政府なんかに手を突っ込まれずに、国会議員が国民を代表する形で、政治家としての立場で議論しなくちゃいけない。ここでは、与野党や会派を問わずに、中立公平に国会議員を補佐する訓練をされた国会職員こそがすべての情報を握って、全力で私たちを補佐してほしいと、きょうはそばに陪席しております橘君に私はそのように申しました。
 私は、議会人としての思いをこんなふうに述べて、隣に座っている当時の憲法調査会事務局の橘君は、千葉大学から憲法議論のために国会に呼び戻されて、帰った人であります。
 こういう形で、もう一つの大きな問題がございましたが、それは憲法は国民のものということでございます。
 私が憲法調査会の発足に当たって心がけたことは、憲法は国民のものという大きな表題を絶えず掲げていました。改憲であろうと護憲であろうと論憲であろうと、どのような立場からであれ、憲法調査会は議員同士の自由で公平な議論の場にしなきゃならない、そして、その議論の過程を広く国民に提供する場にしなきゃならないと考えたからであります。
 私は、この時点で既に四十年以上にわたって議員生活を送っておりましたから、この間ずっと、今の議会のやり方は古い、国民代表である議員同士の本当の議論の場になっていないということを感じておりました。そこで、憲法調査会は、議員同士の自由な討議の場にして、これを国民にオープンなものにするために、幹事会で相談しながら幾つかの工夫をいたしました。
 まず、発言時間の割り当てについて協議しました。
 憲法調査会が採用したやり方は、特にユニークだと言われたのは、各議員の発言時間の割り当て方でした。通常の委員会では、委員の発言時間は議員数に応じて各会派に割り当てられております。しかし、これでは、小さな会派は自分の主張をまとまった形で述べることができず、また、批判に対する反論の機会すらございません。これは自由討議をするには実に厄介な制限であります。憲法とか立憲主義というものは、そもそも少数者の人権尊重から始まったものと言われています。憲法調査会でも、少数者の意見をこそじっくり聞かなければならない。
 そこで私は、一回当たりの発言時間を例えば五分以内と決めた上で、どの会派であっても何回でも発言してもいいという方法に踏み切りました。
 なお、自由討議には事前の質問通告はございませんから、指名されたならば自由に憲法に関する持論を述べることができます。しかも、言いっ放しでなく、いつ反論が飛んでくるかもわかりませんから緊張感もございます。憲法調査会はおもしろい、そんなことを言ってくれる委員がどんどんとふえていきました。
 ここで、土井たか子先生のお話を少しさせていただきたいと思います。
 護憲のシンボル的な存在だった社民党の土井たか子先生も、憲法に関する意見は私とは異なっておりましたが、憲法調査会を締めくくるに当たって、自由討議の中で次のように御発言になりました。
 国会の中で、ドント方式でない質問のあり方がある、ほかの委員会と違って機会均等を尊重してくれる、さすが憲法調査会だな、私はそう思うんですね、こういった趣旨のことを述べてくださいました。
 この方式は憲法調査特別委員会になっても踏襲され、この場におられる共産党の笠井亮先生や、当時社民党におられた辻元清美先生などは随分発言されました。また、お互いに礼節を持って議論すれば、良識ある国会議員の先生方でございますから、持論は持論として、一見水と油と思われるような意見でも、少なからず共通する部分があることにも気づかされたものでございます。日本国と日本国民を思う気持ちは、皆、議員には共通したものでございます。
 また、このやり方ができたのは私一人の力ではございません。憲法調査会時代には、野党第一党から会長代理を選任することとされ、五年間に、鹿野道彦先生、この場におられる中野寛成先生、仙谷由人先生、枝野幸男先生と、四人の先生方が会長代理に就任されておられます。皆さん、私の考えを御理解いただきまして、本当に助けていただきました。また、与党の筆頭幹事であった葉梨信行先生、保岡興治先生、船田元先生にも、根気よく支えていただきました。与野党の委員各位からも、御理解と御協力をいただきました。
 中野寛成先生がよく言われる、憲法論議においては、与党は度量を、野党は良識を示すべきだという御発言は、今も私の心の中に深く残っております。
 調査活動において特徴的な事柄としては、海外調査と地方公聴会でございました。
 憲法調査会の調査活動の中で、特に皆さん方に御披露しておきたいことが二つございます。
 一つは海外調査でございますが、まずそこからお話を深めていきたいと思います。
 広く世界に目を向けるような調査をしてきたということであります。憲法調査会の五年間、毎年、合計五回の海外調査をいたしました。日本には現在千八百本の法律がございますが、憲法は一つしかございません。他の憲法制度を参照するには、当然、諸外国の憲法を参照するほかはないわけです。
 文献調査はもちろん有用で、憲法調査会事務局の諸君の作成してくれた調査資料は実にすぐれたものでございましたが、しかし、国会議員として、実地に各国の憲法の実情調査をすることは不可欠であります。
 明治の初め、明治政府をつくるときにも、多くの先ほど申し上げました長州藩あるいは日本のほかの藩からも、すべて長崎を経由してヨーロッパに行って、プロイセンの憲法を勉強してきたわけであります。
 私どもは、海外調査の訪問国の一覧を掲載しておりますが、憲法調査会の五年間で、ヨーロッパ憲法を含めて二十八の国と機関の憲法の実情調査をいたしました。
 特に印象に残っておりますのは、二〇〇一年、平成十三年の海外調査でイスラエルを訪問したことでございます。これは、小泉純一郎先生が内閣総理大臣に就任したころ、首相公選制の導入について活発な議論をされておりましたので、唯一の首相公選制の実施国であったイスラエルの実情をつぶさに調査いたしたいと考えたからであります。
 イスラエルでは、首相公選制の導入に関与した多くの政治家、有識者からヒアリング及び意見の交換を行いました。その際、彼らが口をそろえて、首相公選制は失敗だった、首相公選制の導入なんてぜひおやめなさい、こう述べられたのは、一同深く考えさせられたものでありました。
 それは、首相に投票する一票のあり方、それは当然御本人の意思ですけれども、人名を書く、そういう中で、もう一つは国会議員の投票をするわけですが、同じ人が、首相には首相にふさわしい人、しかし、そのほかは自分に身近なところで自分に協力してくれる候補者、こういったことで、首相に投票した票と議員に投票した票が全く違った形で結果をあらわしてきた、こういうことが首相公選制を経験したイスラエルの私どもに対する大きな忠告でございました。
 海外憲法の実情調査では、このほかにも、女性天皇問題を念頭に置いた欧州各国の王位継承制度や、また、同じ敗戦国家であるドイツにおける基本法改正の動向や憲法裁判所制度の運用なども、超党派の議員団の関心を大いに刺激したものでした。
 ヨーロッパにおける女帝の問題、ヨーロッパにはヨーロッパ婚姻法という法律がございまして、各国が国籍を超えて他国にきさきを送る、こういったのがヨーロッパの特徴だったと思います。そういう王位継承の制度、特にスウェーデンでは非常にその点ははっきりしておりましたし、同じ敗戦国家であるドイツにおける基本法改正の動向や憲法裁判所制度の運用なども、超党派の議員団の関心を大いに刺激したテーマでございました。
 特に憲法裁判所の制度については、ドイツ、イタリアの憲法裁判所、フランスの憲法院のほかに、多くの欧州各国が採用しているほか、タイや隣の韓国でも立派な憲法裁判所が存在しておりまして、国政の中で重要な役割を担っている事実がある。
 また、二〇〇三年にアメリカを訪問いたしました。ワシントンには、アメリカ合衆国憲法の父、トーマス・ジェファーソンを記念したジェファーソン・メモリアルホールがございます。そこを訪れましたときも、印象深い文章を見つけました。四つの壁面にジェファーソンの言葉が書かれていたのでありますが、そのうちの一つに次のような趣旨の言葉を見つけました。
 私は、法律や憲法が頻繁に改正することを支持するものではない、しかし、法律や憲法は、人間の知性が発展するにつれて、また、環境の変化に応じて、それにおくれないように進化をしていかなければならない、文明化された社会においても古い時代の制度を存続させることは、大人になっても子供のころ着ていたコートをずっと着せておくようなものだ、こういう文章が石に刻まれていました。
 また、中国の全人代常務委員会の法制工作委員会におきまして、中国憲法の動向についてヒアリングができたのも実に貴重でございました。
 我が国は、憲法調査会の議論に先生方はこれからも大きな関心を持つだろうと思いますが、やはり当憲法審査会におきましても、ぜひ海外調査というもののお考えを堅持していただきたい。絶えず変わっております。特に、ロシアにおいても憲法裁判所が存在をしておりますし、ヨーロッパ各国にはすべて憲法裁判所が存在をしております。
 特に、次のことは記憶に新しいものがございます。
 先ほど憲法は国民のものと申しましたが、国民の中にある多様な憲法観や憲法に関する生の意見を反映した議論をするということであります。このような観点から、憲法調査会では、中央公聴会のほか、ブロックごとの地方公聴会を九回開催いたしました。特に沖縄で開催されました地方公聴会には強い思い入れがございました。
 沖縄は、国内唯一、地上戦闘に住民が巻き込まれ、十万を超える多数のとうとい命が失われた地域であります。しかも、一九五二年、サンフランシスコ講和条約が発効して我が国が独立を回復した後も、琉球政府を通じた間接統治の形で米国の施政権下に置かれたため、日本国憲法は昭和四十七年まで沖縄においては施行されませんでした。そして、今なお沖縄の人々は、米軍基地が集中するという特殊な状況の中で、大きな負担を強いられています。
 このような歴史にかんがみるときに、沖縄の地で憲法に関する地方公聴会を我が衆議院の憲法調査会が開催したことは、実に大きな意義があったと思います。名護市の万国津梁館で開催した地方公聴会において、傍聴人から退場者を出しながらも、粛々と憲法に関する沖縄県民の皆さん方の冷静な議論を拝聴しましたことは、感慨深く思い出されます。
 報告書の取りまとめに関して、御報告いたします。
 以上、五年三カ月に及んだ調査の経過は資料三のイメージ図にまとめてございます。日本国憲法の制定経過の調査から始まり、二十一世紀における日本のあるべき姿の大所高所からの調査、そして個別テーマごとの調査、現行憲法百三条の全体について調査を行った後に、二〇〇五年四月に最終報告書を取りまとめ、河野洋平衆議院議長に提出をいたしました。
 この最終報告書の編集方針と概要については橘君から報告させることにいたしておりますが、私からは、この中に盛り込んだ一つの提言についてお話をしたいと思います。
 五年間にわたって憲法改正を前提としない純粋な調査を行ってまいりましたので、次に、これが、そこで指摘いたしました論点を深掘りし、憲法改正の是非を含めた調査検討に進むはずでした。しかし、その前に一つ、やっておかなければならないことが出てきました。それは、憲法改正の際に必要となる国民投票制度が、憲法施行後六十年になろうとしているのに整備されていないということであります。
 憲法改正国民投票法のような憲法の基本的附属法典ともいうべき法律は、憲法改正の内容と切り離して、いわば平時において整備しておくものと存じます。
 そこで、最終報告書にその旨の提言を盛り込んだのでございました。この提言を実施したものが、次の第二ステージの憲法調査特別委員会の設置であったわけでございます。
 二〇〇五年の四月に最終報告書を提出しました後に、次の国会で衆議院に憲法調査特別委員会を設けられるまで、しばらく時間がございましたが、その間、次のテーマとなる国民投票制度の調査に着手すべく、私は、衆議院からの派遣という公的調査でなく、私の個人的な調査でありましたが、当時話題となっておりましたEU憲法条約に係るヨーロッパ各国の国民投票の実態を視察に参りました。
 また、ヨーロッパ各国の国民投票の実態を調査しに行かれることについては、自民党の保岡興治先生とフランス、オランダの国民投票を、また、続いて、ここにおられる民主党の山花郁夫先生とルクセンブルクでの国民投票を、御一緒につぶさに見てまいったこともございました。
 そのときに私は一番びっくりしたのは、国民投票の投票所に行ったときにルクセンブルク大公が皇太子を連れて投票に来ておられたことでございます。
 山花先生は、この経験を踏まえて、人を選ぶ選挙と政策を選ぶ国民投票との違いを認識されて、まず最初に規制ありきの公職選挙法をモデルとした国民投票法でなく、できるだけ自由な意見表明ができることとした現在の国民投票法の制度設計の骨格を提言されたと伺っております。
 このようなことで、海外調査というものは一見遊びに行っているような話もマスコミには書かれますけれども、決してそうではございません。憲法調査会に限っては、議事録をごらんいただければおわかりいただくように、本当に真剣に皆様方が日本の新しい国づくりのための勉強をされてきたわけでございますので、ぜひひとつ、この新しい審査会でも海外調査を行っていただければ、現実によくわかるようになると思います。
 隣の韓国の憲法裁判所を訪れたときに、驚きました。余りの立派さに驚いたわけであります。そこに国民の権利をあらわす象徴があったと私は思っております。
 この特別委員会でございますが、そもそも国民投票法制の制度設計に関してどのような法的、政治的論点があるのかという問題意識を共有するために、諸外国の国民投票法制も含めて国民投票法制全般の調査を行い、その論点整理を行いました。これを踏まえて、翌二〇〇六年五月末に、多くの論点についてほとんど内容的な違いのない自公案と民主案とが相次いで提出されたのでございます。
 あえて委員長提出の法案に一本化しなかったのは、委員長提出の法案ですと、委員会審査が省略となって、その立法者意思が会議録上に明確にならないことを避けるためでございました。また、残された幾つかの内容的な相違点についての修正協議も、小委員会を設けて、そこの審議、自由討議を通じての歩み寄りを図ることといたしました。
 これらはすべて、当時の野党筆頭理事でおられた枝野幸男先生の発案でした。枝野先生はこの国民投票法の制定手続を本番の憲法改正の発議手続の予行演習と位置づけて、できるだけ公開した論議の中で、かつ、できるだけ超党派での合意形成を目指して努力し、三分の二以上の圧倒的多数で成立させたいというお考えをお持ちでございました。私どもも全く同じ認識を共有しておりました。
 与野党の修正協議による大幅な歩み寄りというものを頭にして物を考えれば、国民投票法案の提出時点において両案に違いがあった主な論点については、時間に余裕があれば橘君に補足説明をさせますが、私から一点、投票権者の年齢要件について申し上げておきたいと思います。
 私は、憲法調査特別委員会での議論や海外調査を通じて、憲法改正にはぜひとも若い人たちの意見を反映させなければならないと思うようになりました。当時のデータでは、国際連合加盟国に百八十三カ国がございます。実に、百六十カ国が選挙権年齢を十八歳といたしておりました。
 我が国の若者が世界的に見て特段に幼いはずがございません。必要なのは、中学生、高校生に対する主権者としての公民教育が足らないということを私は認識いたしました。このような観点から、十八歳投票権に対しては批判が多かった自民党の説得にも努力をいたしました。
 ようやく世界の実態を御理解いただいて、自民党は、二十歳という年齢を十八歳に引き下げていただいたわけでございます。その結果、当初の投票権年齢を二十歳としたこの原案は、民主党との大きな違いがあった点についても、自民党が譲歩したため、両案の差異はますます小さなものとなっていきました。
 与野党の大幅な歩み寄りについては、私どもは非常に大きな期待を持っておりました。本委員会及び小委員会での濃密な議論を繰り広げた後、二〇〇六年の十二月十四日、その年最後の憲法調査特別委員会で、自公案の提出者を代表して船田先生が、民主党案の提出者を代表して枝野幸男先生が、総括発言として、それぞれの法案を修正する大胆な歩み寄りの発言をされました。
 しかも、枝野先生は、その発言を締めくくるに当たって次のように述べられております。
 来年は夏に参議院選挙がございます、そこに近い時期になればどうしてもこうした問題については議論もやりにくくなると思うので、可能であるならば、五月三日の憲法記念日には国民投票法制が国会で成立しているということを期待して、発言を終わりたいと思いますという御発言がございました。
 委員室には期せずして歓声が沸き起こりました。このような与野党協調ムードの中で、国民投票法制の整備は翌年の通常国会での成立に向けて大きな弾みがついたのでございます。
 年が明けて、政治情勢は急速に変化をいたしました。元旦の年頭所感で当時の安倍総理が、憲法改正国民投票法案について、本年の通常国会での成立を期すとお述べになり、さらに同月四日の年頭記者会見では、憲法改正をぜひ私の内閣で目指していきたい、参議院選挙でも訴えていきたいとお述べになるとともに、民主党の小沢代表は憲法を争点にしても構わないと応じられ、憲法問題、そして憲法改正国民投票法案の扱いは一気に政局になってしまったのでございます。
 私は、同月十日、永田町にある鳩山由紀夫先生の、きょう御出席でございますが、個人事務所をお訪ねいたしました。そして、これまで培われた与野党間の議論と信頼の集大成としての国民投票法案を、その結実の直前で政争の具としないよう協力をお願いいたしました。
 鳩山幹事長は、これまでの修正協議の経緯と概要を記した文書に目を通された後、この内容では民主党として全く反対する理由はない、大丈夫ですよ、中山さんと明言していただきました。鳩山先生は憲法調査委員会設置推進議連のときから一緒に憲法に打ち込んできた先生でおられますし、この言葉は、本当に心強い私へのメッセージでありました。
 また、憲法調査特別委員会の現場理事同士の信頼関係もしっかりしていたので、その後の周囲の政治状況が厳しさを増していく中でも、私は、国民投票法案の円満な採決を楽観視していました。現に、採決前の四月十一日の夕方、保岡、船田、枝野、園田各先生は、自由、民主両党の理事による修正協議を行っておられました。この時点で、この協議の結果については明朝の理事会で最終確認をした上で、あとは採決に進むだけでございました。
 しかし、翌四月十二日の採決当日、理事会の開会予定の時間になっても枝野先生たちは来られませんでした。しばらくして、船田先生の携帯に枝野先生から連絡が入り、上を説得できなかった、本当に申しわけない、責任をとって私と園田さんは理事を辞任する、ただ、民主党の修正案については、ちゃんと趣旨説明もするし、答弁にも立つ、委員会審議をとめるようなことはしない、採決時には少々混乱するかもしれないが、中山委員長に迷惑をかけるようなことはしないとのことでございました。言葉の端々に先生の悔しさもにじみ出ていると私は感じました。
 他方、私も、ぎりぎりまで採決に踏み切るべきかどうか迷いました。円満な解決策が少しでもあれば、それにかけたかった。これまで何度も、ぎりぎりまで打開策を模索し続けてきた与野党円満の今までの歴史がございます。
 いよいよ修正案について質疑を終局し、討論、採決を宣告すると、これまで一緒に議論してきた中川正春先生、辻元先生、笠井先生たちが、委員長席を取り囲んで、委員長、もう一回仕切り直しをしましょうよとお叫びになりました。この人垣のすき間から、委員室の入り口近くに、枝野先生が苦しそうな表情で寂しく立っておられたのがいまだに心に残っております。保岡先生の委員長採決をという悲壮な声に呼び戻されて、私はマイクを握り締めて一気に議事を進行いたしたのが実態でございます。
 このようなしこりが残る形での採決は、これまでの経緯からして本当に残念でございました。
 ただ、参議院では、附帯決議を付した上で、円満な形で衆議院送付案が可決されました。私は、当日、参議院に参りまして傍聴席に座っておりましたが、これには、民主党の簗瀬進先生と自民党の舛添要一先生が本当に尽力していただきましたし、簗瀬先生は、毎回傍聴に行った私に、中山先生、大丈夫ですよ、ちゃんと処理をしますからとおっしゃっていただきました。私は、これでしこりは解消されたと思いました。しかし、そうはいきませんでした。
 憲法審査会規程未制定という不作為の違法状態の放置が続きました。
 その年、二〇〇七年七月の参議院選挙の結果、衆参のねじれが生じ、与野党ともに、憲法審査会の始動は国政における最優先事項とは認識されない政治状況になってしまいました。その結果、憲法審査会の始動は、改正国会法によって手続細則を定めることとされている憲法審査会規程を制定しないという異常な事態、つまり、国会みずからが制定した法律の規定を遵守しないという不作為の違法状態のもとで、長い間放置されてまいりました。
 一瞬に、政治の潮目が変わってしまいました。五十年以上政治家をやってまいりましたが、私は、本当に政治とは難しい、しかし、あくまでも与野党間の信頼というものを中心に国会は運営をやるべきだという認識を強く持っております。
 終わりに当たりまして、この憲法改正国民投票法では、公明党の赤松先生のアイデアで、法律施行後三年間の準備期間を設けておりました。これは、国民投票法で完全には処理できなかった三つの宿題、これについてこの後橘君から報告をさせます、この宿題をこなすとともに、憲法調査会の最終報告書で指摘した論点を深掘りするために設定された期間でございます。
 いきなり憲法改正原案の審議に入るようなことのないように、賛否を超えて、まずは各党各会派ともに、取り上げるに値する論点に関する認識を十分に共有しようという赤松先生の主張に基づくものでございます。
 しかし、結果的には、この三年間の準備期間を一年以上も経過した今日まで、憲法審査会は始動できませんでした。そして、その原因の一つには、衆議院の憲法調査特別委員会での採決のしこりが挙げられてきました。
 そのたびに、私は、あのとき採決せずに、あと一週間採決を延ばしていたらどうなっていただろうかと絶えず考えてまいりました。一方では、一週間延期すれば、より円満な形で憲法審査会が始動でき、建設的な憲法論議ができたのか、できなかったのかという思いがいまだに心の中に残っておりますが、きょう、こうして円満な形で会が開催されました。会長の御苦労に心から敬意を表したいと思います。
 しかし、本日、すべての会派が参加する形で活動が再開されましたが、現在の日本の情勢は、内外ともに課題が山積し、国難ともいうべき難しい状況にあることは論をまちません。大震災への対応の一つとしての非常事態の条項などは、最も重要な、緊急な議論すべき論点であり、数多くの問題点がたくさんございます。
 大畠会長の議事整理のもと、小沢筆頭幹事、中谷会長代理を初め現役の先生方の皆さんの真摯な議論を切に期待いたします。
 私も年を重ねましたが、しばらく、憲法論議が国民的規模で盛り上がるように、微力を尽くしてまいる所存でございます。今後とも先生方の御指導を心からお願い申し上げまして、御報告を終わらせていただきたいと思います。
 ありがとうございました。(拍手)

発言情報

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発言者: 中山太郎

speaker_id: 15557

日付: 2011-11-17

院: 衆議院

会議名: 憲法審査会