阪田雅裕の発言 (我が国及び国際社会の平和安全法制に関する特別委員会)

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○阪田参考人 きょうは、お招きいただきまして大変ありがとうございます。光栄に存じます。
 現在、この委員会で審議をされております一連の安全保障関連法案は、日本の平和主義のあり方を大きく変えようとするものでありますし、国際平和協力支援法などにつきましても申し上げたいことがいろいろありますけれども、時間が限られておりますので、きょうは、専ら集団的自衛権と憲法との関係について、私が考えているところを申し述べさせていただきたいと思います。
 ちょっと中身が多いので少し早口になるかと思いますけれども、御容赦いただければ幸いです。
 私は、これまで、きょうもお見えですけれども、西先生らがおっしゃっていたような、憲法九条は何も禁止していない、集団的自衛権は全部できるんだ、これまでの政府の解釈は根っこから間違っている、これは改めなければいけないという御主張に対しましては、小林先生と同じように、これは立憲主義の完全な否定だということで強く異を唱えてまいりました。
 しかしながら、昨年七月の閣議決定、それから今回の法案に盛り込まれている内容を拝見しますと、集団的自衛権の行使を、いわゆる芦田修正説といったものを根拠にするのではなくて、西先生らのお考えではたしか間違っていたというはずの政府の従来の憲法解釈、九条の解釈を前提にして、その基本的な論理の枠内で説明できるものに限定してやれることにしようというものであるというふうに承知をしております。
 こうした考え方に対して、例えば安保法制懇に集っておられたような方々の御批判が余り聞かれないというのは少し不思議な感じもするんですけれども、いずれにしましても、私は、小林先生と少し違って、従来の政府の解釈と集団的自衛権の行使を整合させようという政府の姿勢、考え方自体につきましては、一定の評価ができると考えております。
 御案内のとおり、昭和四十七年の政府見解は集団的自衛権の行使を全面的に否定しているわけでありますけれども、その前提として、なぜ自衛隊が合憲であるのかということの説明もしております。すなわち、憲法九条は、外国からの武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるような事態においてまで国が必要な自衛の措置をとることを禁じてはいないということであり、これは、いわゆる砂川事件の最高裁判決の考え方と軌を一にするものであると考えています。
 その上で、その当時のといいますか、これまで政府はずっとそう考えてきたんですけれども、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される事態、これは、我が国自身が武力攻撃を受けない限り起こり得ないことだ、したがって、日本自身が攻撃をされていないのに外国での戦争に参加する集団的自衛権の行使が自衛の措置として認められるという余地はないのだという結論に至っていたわけですね。
 今回の法案に言っている存立危機事態が具体的に何を意味するのか、後ほど申し上げますように多少はっきりしないところがあるのですけれども、私なりにこれを善意に解釈いたしますと、我が国に対する武力攻撃の発生という、これまで政府が考えてきた自衛権の発動要件を、さらに一歩前に進めるといいますか、多少緩和しようということなのではないかと考えることができないわけではございません。
 どういうことかといいますと、我が国の周辺、例えば朝鮮半島で戦争が起こった、我が国はいまだ攻撃を受けていないし、我が国に対する攻撃の準備も進んでいないけれども、今攻撃を受けている国、例えば韓国が負けたら、次は日本が攻撃されるということが必至だというような状況、これを法文では「明白な危険」と呼んでおられるんだと思いますけれども、そうした場合に、韓国が負けてしまって日本に対する武力攻撃が始まるまで自衛隊は手をこまねいて見ていろということでなくてもいいのではないか、少し前広に武力行使ができることにしようということではないかというように考えることができるわけであります。
 そして、そのように理解する限りでは、今回の法案で可能になる集団的自衛権の限定的な行使が、これまでの政府の憲法九条の解釈と論理的に全く整合しないというものではないと思います。もちろん、そんな場合に限るのであれば、何もわざわざ集団的自衛権なんて言う必要はない、個別的自衛権で十分整理できるじゃないかという方もいらっしゃいますけれども、大事なことは中身なのであって名前ではない。ですから、これが集団的自衛権の行使と称されるからといって、論理の本質が変わるというものではないというふうに考えております。
 ただ、そうではありますが、集団的自衛権の行使だということになりますと、今申し上げました四十七年見解の論理との整合性の点は別としましても、その論理を前提として導かれた集団的自衛権の行使ができないという結論、それが大きく変わるというか、全然変わってしまうわけですね。したがって、政府の憲法解釈がその限りで変わる、これも事実だと思います。
 そこで、立憲主義という観点から、この変わるということをどう評価するかということになるわけでありますけれども、一般論として申し上げると、政府はいついかなる場合でも法文の規定の解釈を金輪際変えちゃいけないなんということはないのだと思います。法文の規定は、新たな状況に即応するように常に迅速に改正されるというふうには限りませんから、それまでのその規定の解釈が今の時代に合わない、いろいろな不都合が生じてくるというようなことになった場合に、これを現状に適合するように改めるということは間々見られるところでございます。
 私は、憲法だけが例外だというふうには思いません。憲法の規定であっても、合理的な理由がある場合には解釈の変更が許されないわけではないというふうに考えてはいます。けれども、そのような新しい解釈、解釈の変更が許容されるためには二つの条件があります。
 一つは、その新しい解釈が法論理的に成り立つものであること。言いかえますと、法文に書かれている言葉を離れて自由自在に解釈ができるというような性質のものではないということであります。
 そして、二つ目の要件は、なぜそのような解釈の変更が必要なのか。立法事実としばしば言われますけれども、そうした解釈の変更を必要とする事情なり理由なりをきちんと説明ができるということでございます。
 憲法九条が、集団的自衛権の行使を含め、海外での武力行使を例外なく禁止しているというのは、政府がきのうきょう言い出した解釈ではないのですね。自衛隊が昭和二十九年に発足してから六十年間、ずっと同じことを言い続けてまいりました。恐らく、歴代の総理もほぼ例外なく、この国会の席でその旨を述べてこられたと思います。
 その結果としまして、今日では、自衛隊は専守防衛なんだ、海外に出かけていって武力行使をすることはないのだというのは、いわば国民の常識になっていると言っても過言ではないほど、この解釈は定着しているというふうに思いますし、それによってこれまで不都合が生ずることもなかったというふうに考えています。
 私が申し上げるまでもないのですけれども、憲法は、政府や国会といった統治権力を縛る規範であります。その憲法を遵守すべき主体である政府みずからが、憲法の縛りがより緩くなるように、しかも、これだけ議論の積み重ねのある規定のいわば核心の部分についてその解釈を変えるということでありますから、なぜ変えなければならないのか、そのことを多くの国民が理解できるように説明するべきことは当然だと思っております。
 さきに申し上げました朝鮮半島有事についての懸念、これも今急に大きくなったということではないと思います。しばしば中国の脅威といったことが取り上げられますけれども、尖閣を含めて万一我が国が武力攻撃を受けるような事態になれば、直ちに自衛隊が防衛出動するわけですし、在日米軍も日米安保条約に基づいて共同対処をしてくれるはずだと思います。抑止力が言われることがありますけれども、在日米軍の兵力が大幅に削減されたというようなこともないのではないでしょうか。一体何が変わった、どのように変わったのかというのが理解できないということでございます。
 これまでは、そんなことをしなくても十分に国民を守れると考えられてきた集団的自衛権なのです。そして、これを行使するということは、進んで戦争に参加するということでありますから、つまり、敵となる相手国に我が国領土を攻撃する大義名分を与えるということでもあるわけですね。ですから、私のような者の目から見れば、国民を守るというよりは、進んで国民を危険にさらすという結果しかもたらさないような気がするのですけれども、これを前広に行使して戦争に参加するのでなければ国民の命と暮らしが守れないとすれば、それはなぜなのか、なぜそうなったのか。
 政府には、ただ、安全保障環境が変わった、グローバルなパワーバランスが変化したとかいった抽象的な言葉によるのではなくて、軍事技術的な面なども含めてもっともっと具体的にその理由を説明する責任があると思いますし、もし十分な理由、根拠が示されないとすれば解釈の変更が許されない、これは立憲主義の観点からして当然のことであろうと思っています。
 このこと以上に問題なのは、この法案が本当に集団的自衛権の行使を限定しているのか、また、政府にその行使を限定する意図があるのかということでございます。
 総理がしばしば集団的自衛権行使の事例として挙げておられるホルムズ海峡の機雷封鎖、これなどは、どう考えても、我が国の存立を脅かし、国民の生命、自由及び幸福追求の権利を根底から覆すというような事態に至りようがないと思えます。
 総理は、機雷除去が受動的で限定的だからいいのではないかといった趣旨の説明をされていると思いますけれども、問題は、そもそも、そこで起きている戦争に憲法九条のもとで我が国が加わることができるのかどうかということなのであって、加わった後の個々の戦闘行為が、その態様がどうであるかとか、リスクが大きいか小さいかといった問題ではないはずです。全く次元の違う議論だなというふうに思って聞いておりました。
 このように、中東有事にまで集団的自衛権の出番があるということだといたしますと、これは限定的でも何でもない、実は、単に我が国の重要な利益を守るために必要があると判断すれば集団的自衛権を行使できるんだと言っているのに等しいと思わざるを得ません。もしそうだとすると、これは到底、従来の政府の解釈の基本的な論理の枠内であるとは言えなくなります。
 四十七年見解において武力行使が容認されるとしている「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態」、これは、まさに我が国が外国の武力攻撃を受けたときの状況を指し示しているわけですし、日本語を普通に読めば、それ以外にはこのような事態は起こり得ないということは明らかではないでしょうか。
 にもかかわらず、政府がそうした場合に集団的自衛権の行使を限定するのだということを明言されないというのは大変遺憾でありますし、先ほども申し上げましたように、もしもこの存立危機事態を、我が国自身が武力攻撃を受ける明白な危険がある場合に限られないんだというふうに考えられているとすれば、それは明らかに、四十七年見解の論理的前提を逸脱しておりますし、従来の政府の解釈の基本的な論理の枠内ではなくて、基本的な論理そのものを変更するものだと断ぜざるを得ないということでございます。
 ですから、少なくとも、今回の集団的自衛権の行使がこれまでの政府の九条の解釈の基本的な論理の枠内におさまるものであることをより明確にする、そのことは絶対に必要なのだと思っているのです。そして、それは、改正法案にある存立危機事態の定義を改めて、ただ単に、例えば、他国に対する武力攻撃が発生したことにより、我が国に対する外部からの武力攻撃が行われる明白な危険が生じた場合というようなことにでもすれば簡単にできることではないでしょうか。
 憲法九条は、政府の勝手には戦争をさせないという法規範です。そして、幸いにして発動されることはなかったのですが、これまでの我が国の武力行使の要件は、我が国に対する武力攻撃の発生という、極めて客観的で、かつ多くの国民の納得ができるものであったと思いますし、自衛隊の実力行使に対する明確な歯どめになってきたと思います。その歯どめをなくして、日本が戦争をするかどうかを政府の裁量や判断に委ねていい、そんなことを考えている国民は誰もいないだろうと思います。
 今回の集団的自衛権の行使を本当に従来の政府の九条の解釈の枠内で考えるんだ、国民の命や暮らしを守るためにしか行使しないというのであれば、ぜひとも、この妙な解釈の余地が残る「国民の生命、自由」云々という表現はやめて、すっきりとしたわかりやすい表現に改めてもらいたいと思います。
 武力行使との一体化についても一言申し上げたいと思いましたけれども、時間が参りましたので、これで終わらせていただきます。
 ありがとうございました。(拍手)

発言情報

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発言者: 阪田雅裕

speaker_id: 25244

日付: 2015-06-22

院: 衆議院

会議名: 我が国及び国際社会の平和安全法制に関する特別委員会