小林節の発言 (憲法審査会)

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○小林参考人 私は、このレジュメを目で追いながら語らせていただきます。
 立憲主義の歴史につきましては、先ほど長谷部教授がおっしゃったところで尽きていると思いますが、現代において憲政実務を考えるとき、結論をはっきり申し上げますと、立憲主義というのは、権力者の恣意ではなく、法に従って権力が行使されるべきであるという政治原則で、これは先ほどのお話の中にもありましたけれども、人間の本質が神のごとき完璧なものではないという、これはもう紛れもない事実認識でありまして、これを前提とするものであります。
 改めて申し上げておきたいことは、立憲主義というのは、歴史が流れてきたこの現代においては、選択の対象ではない、とる、とらないを議論するものではなくて、これは所与の前提であるということを申し上げておきます。
 であるからこそ、この憲法が現実との間でそごが生じてはいけないし、生じたらそれをどうやって予防、匡正するかという憲法保障という話になってくるわけであります。
 具体的には、日本国憲法の中に、まず、当たり前のことでありますが、最高法規であるということの宣言、これがないと全て始まりませんので、まずこの確認。
 そして、権力は、我々一般民間人が担うものではなくて、国家という法人格は肉体がありませんので、約束事の権力主体でありますから、結局は、国家の名で行動し得る資格を持った自然人、つまり、生身の人間が権力を帯びた瞬間から権力者になるわけでありまして、それは、政治家のような最高権力者から町の役場の職員まで全てであります。つまり、公務員の憲法尊重擁護義務を明記するということが次の順番であります。
 それから、憲法保障というと違憲立法審査権の話にすぐなるんですが、それだけではなくて、三権分立もまさに憲法保障でありまして、国会は立法権を持っているが、立法権以外のものを行使してはならない。だから、国会が裁判所のまねごとをして叱られたこともありますし、それから、内閣は行政府であって立法府でありませんから、内閣は立法権はありません。それから、外交に関しても、交渉担当の内閣と、それに対して承認権を持つ国会という役割分担の中で、チェックス・アンド・バランシズが図られるわけであります。
 さらに、国会の中に目を転ずれば、二院制というのも国会内権力分立でありまして、つまり、非効率を当然としながら、その非効率の中で正しさを図っていく。もちろん正しさというのは、先ほどの話にもありましたけれども、全ての人にとって正しさは違うわけですから、全ての人が等価値となれば、とりあえず一定任期は多数決に従って、そしてまたトライアルズ・アンド・エラーズでやり直していく、こういう非能率の中で正しさを担保していく。
 国会と内閣の関係は議院内閣制、これも権力分立の一側面です。
 やはり一番期待されるのは司法審査でありますが、ただ、御存じのとおり、日本はアメリカ型のいわゆる司法型をとっておりますので、具体的な事件にならない限り、裁判所は憲法問題は扱ってくれません。
 ですから、例えば、今問題になっている新安保法制でも、憲法違反だと訴えて退けられた人がいるんです。それは当たり前の話でありまして、例えばこういうことですよね。海外派兵を下令された部隊の隊員が出発の朝に逃げ出して懲戒処分を受ける、そうしたら、その懲戒処分が違法、無効である、なぜならば、その前提となる法制度及び海外派遣命令が憲法違反であるから、こういう議論を四、五年かけてやるわけですよね。これはやはり、当事者の負担を考えてみても、なかなかこういうことは起きようがない。
 ですから、意外と司法審査というのは、最後に抜く刀ではあるけれども、簡単には抜けない。ということは、逆に言えば床の間の刀であるわけでありまして、ほかの憲法保障が重要になってくるわけであります。
 よく、ドイツ型の、まだ事件化していないときに訴え出られることを議論するんですけれども、それまた、つまるところ、そうすると、国会内の少数派が一々それをチャレンジして国が動かなくなっても困るので、国会議員三分の一とか、それから内閣自体が原告になるとか、そういう出訴資格を制限することしか方法はないわけでありまして、これまたやはり、決して完璧なものはないわけであります。
 それで、これも意外と思われるかもしれません、改正手続が存在すること自体が憲法保障であるということを申し上げておきます。
 つまり、不完全な人間が、歴史の曲がり角で、半ば一種興奮した中で、ジョージ・ワシントンに言わせると、余り時間をかけずに憲法というのはつくらないと、とっ散らかってまとまらない。ということは、今の日本国憲法の中にも誤字脱字はございますし、それから、当時予想し得ていなかった事態に直面しております。ですから、憲法改正の道を残しておかないと、憲法は破壊されるしかなくなってしまうんですね。だから、改正手続の存在も、憲法を生かしていく手段であるということはお気づきいただきたいと思います。
 ただし、だからといって、法律のごとく相対多数決でくるくる変わってしまうのであれば、権力、政権を持っているということは常に国会内相対多数決を持っているわけですから、その方たちが一番憲法に縛られる立場でありますから、それだけに一番不愉快に思っておられるでしょう。その方たちが簡単に改憲を発議できるようでは憲法ではなくなってしまうわけでありますから、先ほど長谷部教授のお話にもあったように、憲法は、憲法である以上、硬性、かたい、削りにくいようにつくられて当たり前であります。
 改正権の限界でございますが、私は簡単に、論理的限界と価値的限界と分けておきます。
 論理的限界というのは、憲法というのは理論的には憲法制定権力によってつくられるものですから、改正権力は、いわば制定権力と比べると親と子の関係にありまして、子の権利で親の権利の領域に踏み込むことはできないだろうという論理展開であります。ですから、憲法改正権力ごときもので憲法制定権力を動かす、主権を動かすとか、そういうようなことはそもそもできないということであります。
 それから、価値的限界というのは、やはり人類は歴史の中で試行錯誤しながら英知を磨いて生きてきておりますから、先ほどの長谷部教授のお話の中にもありましたけれども、現時点での到達点で浮かび上がってきた譲り得ない価値というのがあると思うんですね。人権の尊重とか、それから、その意味についていろいろ争いはあると思いますけれども、平和主義の反対は軍国主義ですから、軍国主義を選ぶとは、さすがに常識があったら言えないですよね、平静な状態では。
 ですから、平和主義という価値とか人権の尊重とか、つまり人が人であることを尊重し合うということを否定する憲法は、それは手続的には可能でしょうけれども、あってはならないという意味で、価値的限界にぶつかるということを申し上げておきたいと思います。
 それから、後でちょっとお試し改憲と押しつけ憲法論についてまとめてお話ししたいので、ちょっと飛ばして、最後のところにいきます。
 既に憲政の現実の中におられる先生方はお気づきと思いますけれども、憲法というのは、六法全書の中で唯一最高権力を縛る位置にあるものですから、最高権力の上に置かれるものだから、ありがたくも最高法という名前で神棚に載っちゃうんですね。でも、逆に言えば、最高法である以上、後ろ盾は何にもないんですよね。
 例えば、私が民法とか刑法に反することをして逃げ回っていたら、最終的には、日本国憲法が機能している限り、裁判所と法務省でけりをつけられてしまうわけですよね。ですから、民法とか刑法などは憲法がきちんと機能している限り機能できるんですけれども、憲法というのは、最高権力を管理しなければならないから最高法の位置に上げられているということは、後ろ盾が一つもない。よく考えたら、ただの紙切れになってしまうんですね。ですから、権力者が開き直ったとき、ではどうするかという問題に常に直面するわけであります。
 ただ、これは、ある意味で簡単でありまして、なぜ権力者が権力者の地位でいられるかは、日本の憲法構造からいけば、選挙で過半数の議席を獲得したからでありまして、それに国民が気づいたら、選挙でその過半数を奪い返せばいい、これまた簡単でありまして、まるで高校の社会科の授業みたいになってまいりましたけれども、やはり民衆のレベルにふさわしい政府に行って戻って、行って戻ってということなんだと思います。
 あと、お試し改憲という言葉と押しつけ憲法論についてちょっとお話しして終えさせていただきます。
 お試し改憲というのはどなたがネーミングしたか知りませんけれども、なかなかいいネーミングだとは思うけれども、おちょくっている側からいくと、大変無礼な言い方になるんでしょう。
 私、もう三十年以上前から、自主憲法制定国民会議かな、その種類の会合にずっと毎月出ていまして、そういう中で、はっきり覚えているんですけれども、憲法九条を改正する必要がある、いや、今でも思っています。余りに混乱の原因になりますから、これは整理した方がいい。
 ただ、戦争体験と、それからやはり占領時の一種の情報コントロールのせいで、国民は、憲法九条にさわることについて感情的な反発を持ってしまっている。だから、これを和らげるために、まずは、国民にショックの少ない、新しい人権とかそういうところから改憲のプラクティスを、練習をしてということを私自身申し上げた記憶があるし、かつ、そういう発言にくみしたことはあります。
 それは非常に真面目なお試し改憲だったんですけれども、今は何かお試し改憲というとおちょくり言葉になっているので、それは随分失礼な話だなと思うんですけれども、日本の憲法風土を考えたら、やはりお試し改憲というのは僕はあり得ると思うんです。真面目に、真面目にお試し改憲はあり得ると思っております。
 ただ、最近、大分、中国のおかげといったら変なんですけれども、風雲急になってまいりまして、九条神話に浸っていていいのかという議論は立つようなった。もちろん、九条の使い道は私はあると思っています。おかげで七十年間海外に行かないでいたという、これは大変な実績でありまして、改憲論者の私としては盲点でありましたけれども。
 あと、押しつけ憲法論なんですけれども、これはぜひ実務家である政治家の方に御意見申し上げたいのは、この押しつけ憲法論の押し問答というのは、生産的でないと思うんですね。
 いわば、もう戦後七十年も来て、現実の前で我々この国をどうするかの話をするとき、突然七十年前に戻って、押しつけられたの、いや押しつけられていなかったのという、史料などというのは発掘すればどちらでも出てくるわけであります。
 もちろん、客観認識として、負けた国が占領されていたわけですから、押しつけられたのはこれは歴史的事実でありまして、それを悔しいと言っても、戦をして負けた以上それはしようがない話であります。いや、民間にそれを受け入れる意見があったとかそういう歴史論争にくみする気は私はないのですけれども、要は、その後、この憲法のもとで現にこの国会がここに存在する、すばらしい発展を遂げたことは間違いない事実だと思うんですね。ですから、過去に向かって恨み節を言い合うよりも、今どうするかに国としてのエネルギーを使っていただきたい。
 ですから、私は、よく問われるんですけれども、押しつけ憲法論、そのとおりだと思います。でも、だからこの悔しさを改憲に変えなければという感情にくみすることは無駄であると私は思っております。
 以上であります。(拍手)

発言情報

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発言者: 小林節

speaker_id: 20442

日付: 2015-06-04

院: 衆議院

会議名: 憲法審査会