江川紹子の発言 (法務委員会)

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○江川参考人 おはようございます。江川でございます。
 ちょっと風邪を引いておりまして、お聞き苦しい点がありましたら、申しわけありません。
 先日、一連のオウム裁判で、最後の被告人となりました高橋克也被告の一審判決が出ました。オウム事件では、教団のナンバーツーが殺害されるという残念な事件はありましたけれども、それ以外は最後の一人まで法の裁きにかけた。これは、法治国家として誇っていいことだと思います。
 一連の事件では、たしか百九十二人が起訴されたわけですけれども、そのうち百八十九人については職業裁判官のみで裁判が行われ、刑が確定しました。そして、長年逃走していた三人について、一審が裁判員裁判で行われたわけです。つまり、同じ事件について、職業裁判官の裁判と裁判員裁判が行われました。私は、その両方を傍聴して、取材をしてきました。
 裁判員裁判というのは、確かに見ていてとてもわかりやすかったです。例えば、サリンとはどういうものなのか、それが体にどう作用するのかなど、専門家が図式化して、しかも壁のモニターにそれを映して説明をするということなので、非常にわかりやすかったです。
 傍聴人にもわかりやすく、もちろん裁判員にもわかりやすく、傍聴人にわかりやすいということは、一般国民にわかりやすいということなので大変結構ですし、それに加えて、被告人にもわかりやすい。被告人がそこで何が行われているのかをちゃんと理解して裁判を受けることができるというのは、極めていいことだなというふうに思いました。
 その一方で、裁判員裁判の場合は、できるだけ長期化を防ぎたいということで、さまざまな要素をそぎ落とし、争点を絞った審理が行われます。
 証人尋問も、尋問事項が非常に限られます。高橋被告と同じ地下鉄サリン事件の運転役が証人として出てきたわけですけれども、彼に対する検察側主尋問は、最初の指示、指名をされたところから、犯行の準備、犯行、その後の状況まで含めて、わずか一時間で終わったのには非常に驚きました。効率的ではありますが、もしオウム裁判の最初からこれをやっていたら、この方式でやっていたら、その全体像を裁判を通じて知るということは困難だっただろうというふうに思いました。
 また、過去の職業裁判官による裁判では、法廷と法廷の間に何日間か、一定の日にちがありましたので、証言を聞いた被告人がじっくり考え、反省を深めるなどの様子に接することもありました。一方、裁判員裁判の場合には、連日法廷になりますので、被告人がじっくり考えるというような暇もなかっただろうというふうに思いました。
 さらに、気になったのは、これはオウム裁判に限ったことではないのですけれども、裁判員裁判となりますと、裁判員の負担をふやさないということを考えてでありましょうが、スケジュール重視、もっと言うとスケジュール絶対主義の裁判進行が行われることがある。裁判所は、とにかく時間を気にして、その日の終了時間を最優先にしているようにも見え、裁判長が裁判の間、時計ばかり見ているというふうに感じられるときもないわけではありませんでした。
 時間の問題に限らず、裁判所は、裁判員に気持ちよく帰っていただくということを過剰に重大視しているように思えてなりません。実は、このことをある元裁判員、裁判員経験者に投げかけてみると、自分もそう思うというような反応が返ってまいりました。
 こうした配慮から、殺人事件の遺体の写真をイラストにする、さらにイラストも認めないというケースも出ています。
 当たり前のことですけれども、裁判員制度のために裁判があるわけではないわけです。また、被害者からすれば、裁く側にはこの残虐性こそ知ってもらいたいというケースもあると思います。
 そもそも、事実に争いがなく、残虐性のみが争点になるような事件で、本当に裁判員裁判が適切なのかなと思うこともないわけではありません。例えば、覚醒剤の密輸グループの仲間割れで、一方が一方を生きたまま首をのこぎり引きにして殺したなどというような事件で、被告人はしかも事実を認めているというときに、どこに市民感覚を反映させたらいいのかなというのは、いささか疑問であります。
 また、オウム事件のように、何人もの人がかかわって何件もの事件を引き起こし、その背景には私たちの日常とは全く異なる特異な価値観や人間関係があるなど、理解が難しく、複雑な事件であり、しかも、その社会的影響が大きく、できるだけ全容解明が求められているというようなケースもあるわけです。この場合、裁判員裁判にして、ぎりぎりまで立証をそぎ落とし、争点を絞った立証活動を行うという裁判が果たして適切なのかということは、考えるべきではないでしょうか。
 裁判には真相究明機能は求めないというならば、それはそれでいいのかもしれません。しかし、現実には、被告人は一審が終わるまで接見禁止になることもあり、死刑が確定したらこれまた外部の人とはほとんど会わせない、こういう状況では、いろいろな専門家とかジャーナリストによって真相解明をするということは非常に困難を伴うわけです。そうした前提条件を続けたまま、裁判に真相究明機能を持たせなくていいということに国民が合意しているとは思えません。
 今回、国会では、裁判員の負担を考えて、長期にわたる裁判は裁判員裁判対象事件から外すことが検討されているというふうに伺っております。それ以外に、長期裁判以外に、さきに挙げたような残虐な事件、オウムのような複雑な事件で、ある程度時間をかけた真相解明が求められるケースでは、検察、弁護側双方から意見を聞いた上で、もう少し柔軟に対応できるようにした方がいいのではないかなという気はいたします。
 ただし、これは、裁判員裁判をできるだけ少なくした方がいいという趣旨では全くございません。私の認識は、むしろ逆であります。
 裁判員制度は非常にすぐれたところのある制度だと思っておりますし、それを現在の限られた対象事件に限定しておくのはもったいない、むしろ拡充した方がいいのではないかと期待しております。
 例えば、乗り物内での痴漢事件で、人間違いなどによって冤罪が起きるケースが少なくないと指摘されております。一審有罪になった被告人が高裁で逆転無罪になったケースも何件かあります。有罪が確定した後も、無実を訴えて再審を求めるというような人もいるわけです。
 裁判員裁判対象事件をよく重大事件と呼ぶ方がいらっしゃいます。しかし、本人にとっては、痴漢事件も、例えば仕事を失い、人生を狂わせるという意味では、重大事件なのであります。しかも、こうした事件は、残虐な殺人事件よりも市民感覚が生かしやすいということも言えると思います。弁護人、検察官のいずれからか希望があった場合に、現在対象になっていない事件でも裁判員裁判で裁く道を開くなど、対象事件の拡大を検討してもいいのではないかというふうに思います。
 この点は、裁判員裁判対象外の事件の状況もよく調べて、先生方にはそれなりの時間をかけて検討していただきたいというふうに思うものであります。
 また、きょうは詳しく触れるつもりはございませんが、冤罪を主張し再審を求めている事件で、裁判をやり直すかどうか、過去の裁判所の判断が誤っているかどうかということを裁判官のみが判断する現行制度よりも、先輩裁判官へのしがらみのない一般市民が加わって判断するなど、裁判員制度のよさを拡充していくことは考えてよいことだというふうに思います。
 裁判員の負担を考えて、長期間にわたる裁判は対象外とすることを検討するということに対して、私は必ずしも反対するものではありません。確かに、長期間の裁判は、裁判員の負担は非常に重いです。
 例えば、今度のオウムの高橋被告の場合は、開かれた公判は三十九回に上り、その裁判員の在任期間は百十三日間でした。会社勤めの方が複数おられました。最初は、朝早くに会社に行ったり、法廷が終わった後に会社に行って、何とか両立をしようとしていたけれども、結局、体力的に無理で、特別休暇をとったという方もいらっしゃいました。
 ただ、それでも、補充裁判員も含め、選任されたのは十二人いらっしゃいましたけれども、そのうち、何と、一人を除く十一人が、これは国民の義務だからということでその役目をやり切ったわけであります。そして、終わった後には、いろいろ改善してほしい問題点はあるし、非常に大変だったけれども、やってよかったということもおっしゃっておりました。
 そういう高い意識と、それから裁判員を支える環境があれば、長いというだけで必ずしも対象から外す必要もないのかもしれません。
 一番大切な問題は、そういう高い意識をどう国民全体に広く育んでいくのかということであり、そして、裁判員が活動しやすい環境をどうつくっていくかということであります。そのための対策を十分にやってきたかということをまずは検討していただきたく、お願い申し上げます。
 例えば、子育て中のお母さんが裁判員を務めた、長期にわたる裁判員を務めたんだけれども、子供を預けるということに非常に苦労されたようで、裁判員には一時的な保育サービスを優先的に受けられるようにしてもらえないかということをおっしゃっていました。あるいは、裁判員の構成によっては、土日の開廷など、従来の裁判所の慣行を変えることも考えた方がいい場合もあるでありましょう。
 制度としての対策は今十分なのか、そこのところを十分に議論していただきたいというふうに思います。
 それから、守秘義務についてであります。
 これは裁判員制度ができるときにも議論されたことでしょうけれども、やはり罰則をかけてまでそれを課すというのはいかがなものかと思います。裁判員の経験をできるだけ多くの人が共有し、よりよい制度にしていくためには、少なくとも守秘義務の範囲縮小が必要ではないか。オウム事件のように多くの証言が必要な複雑な事件で、しかも、時間が大分たっておりますので、証人の記憶が不鮮明で証言の細部が食い違うというようなケースもあるわけです。その場合、裁判官はどのように助言し、説明を尽くしたのか。そのことをちゃんと検証し、よりよい制度に仕上げていくことが必要だと思います。
 それから、証拠の目的外使用についても一言だけ申し上げたいと思います。
 裁判員制度ができる過程で、証拠開示の範囲が広がるのに伴って、被告人や弁護人が証拠を裁判準備以外の目的で使うことを禁じるという条文が刑事訴訟法にできました。被告人については罰則規定もあります。
 確かに、刑事裁判の証拠にはプライバシーにかかわる情報が多くて、その扱いに神経を使うのはよくわかるところであります。しかし、この規定のために、例えば冤罪を訴えている事件で、この事件を取材している記者に、理解を深めるために弁護人が証拠を見せるということもできにくくなっております。これはおかしいと思います。
 証拠というのは税金で集められたもので、いわば公共財であります。にもかかわらず、検察が目的外使用に当たると判断すると、それを適切に活用できないというのは問題があると思います。
 この条文は一旦廃止して、プライバシーへの配慮をした上で、適切に有効活用する方法をぜひ御議論いただきたいと思います。
 最後に、再び裁判員法の問題に戻りたいと思います。
 今、申し上げてきましたように、いろいろな課題がございます。裁判員制度というのはまだまだ発展途上だというふうに思います。
 問題があれば改正できるということではありましょうけれども、やはり、見直し規定というのはぜひ存続をしていただきたいというふうに思います。見直し規定があるからこそ、問題がないかどうかということを意識的に点検するということになるんだというふうに思います。
 特に、先ほども申し上げたように、守秘義務があります。守秘義務が課せられている中では、裁判員の声は出にくいということに御留意いただきたい。よほど意識的に点検しないと、問題があっても顕在化しない場合があります。
 特に、今後、裁判員裁判のもとで下された死刑判決の執行が相次いで行われる時期がやってきます。自分が下した判決で実際に人が死ぬということになったときに、裁判員だった人がどういう状況になるか、今から予測することはできません。
 私も、長くオウム裁判を見てきて、過去に傍聴記で書いたことはよかったのかなと今思うことがあります。裁判員も、同じことを思う人がいてもおかしくありません。ましてや裁判員の場合、私などと違って、その刑に直結する判決にかかわるわけですから、深刻な重荷になるケースも出てくるかもしれません。
 そういうときのことも考えて見直し規定を維持して、声を上げにくい裁判員の声に意識的に耳を傾ける、さらに被告人や被害者の声にも積極的に耳を傾けて、よりよい制度に仕上げていただきたいというふうに願うものであります。
 どうも御清聴ありがとうございました。(拍手)

発言情報

speech_id: 118905206X01220150512_006

発言者: 江川紹子

speaker_id: 33029

日付: 2015-05-12

院: 衆議院

会議名: 法務委員会