坂元一哉の発言 (我が国及び国際社会の平和安全法制に関する特別委員会公聴会)

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○公述人(坂元一哉君) 大阪大学の坂元でございます。
 政府が平和安全法制と名付けました安全保障関連法案について、法案成立に賛成する立場から意見を述べさせていただきます。
 およそ国家国民の平和と安全を守ることは政府の最も重要な義務であります。また、我が国国民も、他の国、他の国民と同様に、ますます相互依存を深める世界の中に生きており、したがって、政府は、国際社会全体の平和と安全への貢献も考慮に入れてその政府の最も重要な責務を果たさなければなりません。
 この観点から見たときに、今回政府が提出した安全保障関連法案は、我が国自身の安全のための抑止力を格段に強化し、我が国の平和もその一部であります世界平和により良く貢献する能力を増やす、よく考えられた法案だと私は評価し、その成立を願っております。
 法案が成立すれば、我が国はこれまでより更にしっかりした平和と安全保障の体制を持つことができるでしょう。我が国を取り巻く国際環境が一段と厳しさを増す中で、それはどうしても必要かつ望ましいことだと考えます。
 ただ、私がこの安全保障関連法案を評価いたしますのは、国家国民を守るという観点からだけではなく、憲法を守るという観点からでもあります。しっかりした平和安全保障の体制がなければ国家国民を守ることはできません。そして、もし国家国民を守ることができなければ憲法も守ることはできないでしょう。
 ただ、それと同時に大事なことは、憲法を守ることなくしっかりした平和安全保障の体制をつくることはできないということ、この明白なことが今度の法案を評価する際の大前提になるのは改めて言うまでもないことだろうと思います。
 私がこの安全保障関連法案を日本にとって必要だと考え、望ましいと思い、その成立を願うのも、この二つの観点から評価した上でのことであります。
 その私の評価について少し説明させていただきますが、時間の関係もありますので、後者の観点からの評価を中心にすることにしたいと思います。
 前者につきましては、以下四点。
 まず、この安全保障関連法案が、集団的自衛権の限定行使、アセットプロテクション、装備品の防護、あるいは後方支援の拡充などにより日米同盟協力を格段に強化し、同盟の抑止力を飛躍的に高める法案であること。次に、今、日米同盟の抑止力を高める必要があるのは、安全保障環境が一段と厳しくなる中で、それが国家と国民の安全をより良く守るために必要かつ適切な手段であること。三つ目に、安全保障環境について言えば、北朝鮮の核開発の脅威は相変わらずですが、それにも増して中国の急速な軍事力増強が脅威になっており、尖閣諸島の問題もありますので、言ってしまえば、海を隔てた核保有の隣国が海空軍力を急速に増強して、その島は俺の島だから返せというような容易ならざる状況になっていること。そして最後に、日米同盟の抑止力の強化は、その中国との偶発的な軍事衝突の可能性を大きく減らすだけでなく、我々が中国の軍事力に脅かされることなく中国と互恵対等の関係を築くのに役立つこと。この四点を指摘するにとどめたいと思います。
 その上で、憲法を守るという観点からの評価ですが、最も注目されている論点は、やはりたとえ限定的であっても集団的自衛権の行使を容認する法律は憲法違反ではないかという点だろうと思います。御承知のように、この点につきましては多くの憲法学者が憲法違反だと批判しているわけであります。
 集団的自衛権の限定行使容認は、政府が与党とともに長い時間を掛けて慎重に検討した関連法案のまさに柱となるところであります。したがって、政府にとって批判は残念なことでしょうが、専門家がそう批判する以上、政府は、政府の考える集団的自衛権の行使がなぜ憲法違反でないのか、より一層丁寧かつ分かりやすく説明する必要があります。
 言うまでもなく、ある法律が憲法違反に当たるかどうかを最終的に判断するのは最高裁判所の仕事です。その意味で、今政府が、政府が言う意味での集団的自衛権の限定行使を容認する法案が憲法違反に当たらないとするのは、学者の批判が正しいか正しくないかは別にして、この法案が国会の審議を経て現実に法律になり、その法律に関連して訴訟が起こったとしても、最高裁判所が憲法違反の判決を下すことはない、そう判断しているということだろうと思います。
 政府がそう判断する根拠は何かといえば、一九五九年、最高裁の砂川事件差戻し判決。安保条約に基づく米軍駐留が合憲かどうかを争ったこの裁判の判決の中で、最高裁は、憲法の平和主義が決して無防備、無抵抗を定めたものではないと述べ、その上で、我が国が自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置をとり得ることは、国家固有の権能の行使として当然のこととしております。
 また、この判決は、例えば安保条約が違憲かどうかというような、主権国としての我が国の存立の基礎に極めて重大な関係を持つ高度の政治性を有する問題は、一見極めて明白に違憲無効であると認められない限り、裁判所の司法審査権の範囲外との判断も示しています。
 この砂川判決を前提にすれば、最高裁判所が将来、政府が言う意味での集団的自衛権の限定行使について違憲判決を出すようなことはない、政府がそう判断したといたしましても、私にはごく当然の判断であるように思えます。
 といいますのも、政府が今度の安全保障関連法案と新しい武力行使三要件で可能になるとする武力行使、国際法でいえば集団的自衛権の行使に当たる武力行使は、あくまで砂川判決に言う国の存立を全うするための自衛のための措置としての武力行使、それも必要最小限の武力行使だからであります。
 政府はこれまで、憲法上、自衛のための措置として必要最小限の武力行使ができるのは、我が国に対する武力攻撃が発生した場合に限るとしてきました。それを、新しい憲法解釈では、我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生した場合であっても、それによって我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があるならば、そしてほかに手段がないならば、自衛のための措置としての必要最小限の武力行使ができるとしているわけであります。
 確かに、この自衛のための措置は、他国の防衛、つまり他衛を含みます。ですが、自衛が同時に他衛にもなるからといって、それを最高裁が一見極めて明白に違憲無効と認めるとは考えにくいのではないでしょうか。憲法の前文には、日本国民だけでなく、全世界の国民がひとしく平和的生存権を持つこと、また、我が国が自国のことのみに専念し他国を無視してはならないこと、平和の維持などに努力している国際社会で名誉ある地位を占めたいと思っていることをうたっているのですから、なおさらだと思います。
 実は私は、この前文によって、自衛だけではなく、それと直接関係のない他衛のための武力行使も、それが国際法上合法で、かつ必要最小限のものに限れば、場合によっては憲法上可能になるのではないか、少なくとも一見極めて明白に違憲無効にはならない武力行使もあるのではないかと考えておりました。
 しかし、政府はそうした考え方を取らず、自衛とは関係がない他衛、他国や他国民の平和と安全に関しましては、武力行使以外の手段で対応する、武力行使はしないとしています。私の考えと比較していえば、最高裁が違憲判決を出す可能性ははるかに小さいでしょうし、国際社会と国連の現状をよく考えてみますと、憲法の平和主義を守るにはよりふさわしい解釈かもしれないと今は考えております。
 無論、この安全保障関連法案が成立したとして、万一、最高裁がその成立した法律を違憲だと認める、その可能性は低いと思いますが、もしそういうことになれば、その法律は改正しなければなりません。そういう前提で法案を審議するのが立憲主義のルールだろうと考えます。
 最高裁の砂川判決に関しましては、この判決で言う自衛のための措置とは個別的自衛権のことであって、集団的自衛権は含まれないと議論する人がおられます。私は、これは国際法上の集団的自衛権の意味を誤解した議論だろうと思います。なぜなら、砂川判決に言うところの自衛のための措置とは、もちろん自国を守るための措置のことですが、個別的自衛権も集団的自衛権も、どちらも自国を守るための措置として国家に認められた国際法上の権利だからであります。
 この点、政府が一九七二年に示した憲法解釈の中に、集団的自衛権の性格を、「他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容とする」としている部分がございます。私は、この部分は国際法上の集団的自衛権の説明としては舌足らずの説明であって、その舌足らずのところがその後の集団的自衛権に関する議論を混乱させてきたのではないかと考えます。
 確かに、集団的自衛権は他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容としています。していますが、その目的は、あくまで自国の防衛であります。そこを明確にしてほしかったと思うのであります。
 国際法上の集団的自衛権は自国防衛のための権利であって、他国防衛のためのそれではありません。もし他国防衛のための権利だとすれば、なぜ自衛権という名前が付いているのか、説明が要ると思います。
 また、例えば米国は、日米安全保障条約上、集団的自衛権に基づいて日本を守る、日本に対する武力攻撃に共同対処することになっていますが、それは、条約第五条に明記してあるとおり、日本への武力攻撃が米国の平和及び安全を危うくするからであります。日本を守る権利があるから守るというのではなく、自衛の権利があるから守るのであります。米国にとって、日本防衛はまさに自衛のための措置なのであります。
 集団的自衛権という言葉は、個別的自衛権という言葉と同じく、七十年前、一九四五年にできた国連憲章の中で初めて使われた言葉です。しかし、その考え方自体は、これも個別的自衛権と同じく、それ以前から存在しておりました。時間の関係で詳しくは申しませんが、例えばイギリスは、一九二八年、国際紛争解決の手段としての戦争を禁じた不戦条約を結ぶ際に、自衛権に関して留保を付け、世界にはイギリスの平和と安全に特別で死活的な利害関係のある地域があるが、それらの地域を攻撃から守ることはイギリスにとって一つの自衛措置だと明確に述べております。
 国連憲章第五十一条が集団的自衛権も個別的自衛権も、どちらも国家固有の自衛権だという書きぶりになっておりますのも、この権利が国連憲章ができる前から存在する自衛のための権利だと認めているからではないでしょうか。
 いや、その理屈は分からないではないけれども、たとえ固有の自衛権だとしても、集団的自衛権は海外派兵への扉を開くのではないか、あるいはそういう心配が国民の間にあるかもしれません。
 実際のところ、集団的自衛権はいかなるものでも行使できないという政府の従来の説明が国民に支持されたことの大きな理由には、戦前の経験と反省から、海外派兵は絶対にしたくないという国民の強い気持ちがあったのは確かだろうと私は考えます。政府は、その気持ちが個別的自衛権の行使の問題にまで影響しては困るので、集団的自衛権は一切行使できないとするようになったのかもしれません。
 しかし、政府は今回、たとえ集団的自衛権の行使を限定的に認めるとしても、海外派兵、すなわち自衛隊を武力行使の目的で他国の領土、領海、領空に送ることは憲法で一般に禁じられているとするこれまでの解釈は変わらないとしております。そして、この点に関連して安倍総理は、先月二十四日、この参議院での答弁におきまして、例えば朝鮮半島で有事が起こっても、日本が北朝鮮や韓国の領域内で集団的自衛権を行使して戦闘に参加することは憲法上できないと明言されているわけであります。
 一般に、海外派兵は、自衛のための必要最小限度を超えるという従来の政府憲法解釈を踏襲したわけですが、これは政府と国会の関係にとって重要なことかと思います。と申しますのも、この解釈は、一九五四年、これは朝鮮戦争休戦の翌年になりますけれども、一九五四年に自衛隊が創設された際、この参議院が全会一致で行った自衛隊の海外出動を禁じる決議を踏まえたものだからであります。
 海外派兵に関する従来の政府解釈を変更しないというのは、この解釈が国権の最高機関である国会の意思を反映したものであり、政府の考えだけでは変えられないものであることを示していると考えてよいのではないでしょうか。だから、今回、集団的自衛権の行使を容認しても、一般的な海外派兵への扉は固く閉ざされていると、そう申し上げたところで時間が参りました。
 私の陳述はこれで終わらせていただきます。
 御清聴ありがとうございました。

発言情報

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発言者: 坂元一哉

speaker_id: 20547

日付: 2015-09-15

院: 参議院

会議名: 我が国及び国際社会の平和安全法制に関する特別委員会公聴会