太田昭宏の発言 (憲法審査会)
⚠️ コピーしたテキストを転載する際は、転載元URL(kokkai-data.com)および原典URL(kokkai.ndl.go.jp)を必ず残してください。発言内容の改変・出典削除は禁止です。
詳細は利用規約をご確認ください。
○太田(昭)委員 憲法審査会が再開されて大変うれしく思うと同時に、私も久しぶりに審査会に入れていただいて、重厚な論議をということをきょうは一点だけお願いしたいというふうに思います。
重厚な論議をと申しますのは、先ほど北側委員が三つ申し上げました。
一に、国民にオープンに論議を進めるということ。何よりも国民の理解を得つつ論議を進めることが不可欠であるという、国民の理解というものを促す論議をここで展開するということが大事だということ。
第二に、これまでどおり少数意見に配慮し、発言の機会を保障すること。これは既にきょうこの場で行われていることだと思います。
第三、時の政局から一歩離れて、冷静に憲法論議を積み重ねること。これはほとんどの人がそうだ、こう思っていると思いますが、ここは常にわきまえながら、深い重厚な論議をお願いしたいというふうに私は思います。
冷静に憲法論議を重ねるという冷静というのは、重厚な論議というと同時に、私は、憲法調査会が始まった二〇〇〇年から最後まで、中山太郎先生と一緒に、委員としては私一人だけ五年間在籍をさせていただきましたが、当時、何といいましても、憲法を論ずるということは国を論ずることだ、国の形を論ずることだという共通のテーマがあったんだと思います。
そして、ちょうど二〇〇〇年という区切りのときに当たって私は発言をしたことがありますが、国の形と同時に、日本人の形、日本人の哲学というものを、それから百年前の一九〇〇年のあたりには、そういう論議が実は行われた。常に時代の制約のもとで文言が書かれ、そして論議が行われるということは、これは必然のことであろうというふうに思いますし、この憲法が昭和二十一年あるいは二十年という時を背負いながら必死に論議をされたということを踏まえても、日本人論ということでいうならば、一九〇〇年、ちょうど百年前、区切りのときに、例えば、一八九四年に内村鑑三が「代表的日本人」というのを書いた、一八九九年に新渡戸稲造が「武士道」というものを書いた、そして、岡倉天心は一九〇四年に「茶の本」というのを書いた。
ばらばらのように思われるけれども、そこには共通して、明治に至って文明がヨーロッパから流入した中で、果たして日本人というのは何であったかというものが当時の知識人の中に共通してあって、それが内村鑑三の「代表的日本人」であり、そして新渡戸稲造の「武士道」もそうであり、これが日本人の形だということを英語で世界に問いかけたということがあったと思いますし、岡倉天心の「茶の本」ということもそういうものが背景にあったし、夏目漱石の小説の「こゝろ」を初めとするものの中には、そうした日本人というものと日本人の孤独というものが当然あったし、そういうものの中で、二十一世紀の日本の国の形というものは一体どういうものであるかということをテーマにして論議をされたというのが憲法調査会五年間であった、非常に実りある論議をさせていただいたというふうに思っています。
そういう意味で、私は、時の政局から一歩離れて冷静に、こう言いましたが、二十一世紀の日本の国の形、激動する世界情勢の中での日本というものはどのように生きていったらいいのか、そこの中での日本人の哲学というものはどうあるべきかということを踏まえた重厚な論議、国の形を論ずるということを常に忘れない論議というものを底流に置きながらの論議を、ぜひともこれからお願いしたいということを申し上げておきます。
以上です。