小倉志郎の発言 (環境委員会)

⚠️ コピーしたテキストを転載する際は、転載元URL(kokkai-data.com)および原典URL(kokkai.ndl.go.jp)を必ず残してください。発言内容の改変・出典削除は禁止です。 詳細は利用規約をご確認ください。

○小倉参考人 おはようございます。小倉志郎と申します。
 私は、実は、ちょうど五十年前、一九六七年に大学を卒業しまして、そして、原子力産業の会社に就職しました。二〇〇二年、満六十歳で定年退職するわけですが、三十五年間、一貫して原子力発電所関係の仕事をしてまいりました。
 ですから、日本が原発を導入して、そして五十何基の原発ができ、その日本の原子力発電所の歴史と私の青年期、壮年期の人生がぴったり重なっておりまして、その体験からきょうは私の意見を述べさせていただきたいと思います。こういうチャンスを与えてくださったことに深く感謝いたします。
 まず、その前に、参考資料として「BWR概略フローシート」というA4一枚の図があると思いますが、これをちょっとごらんください。
 これは、福島第一原発の二号機、八十万キロワットクラスのBWRのシステムをあらわした図面です。そこに出典が書いてあると思います、上の方に。この図が出ているのは、一九七三年十月一日発行の「流体工学」という雑誌に私と私の上司が書きました論文に使った挿絵でございます。
 それで、この図で何もBWRのシステムを説明しようと思っているわけではなくて、実は、この図に描かれていない安全にかかわる重要なシステムがあるのです。なぜそれが描かれていないか。それは、当初はこういうシステムで建設が始まったんですけれども、その後、一九八〇年代の末あるいは九〇年代になってから、アメリカからいろいろな情報がありまして、重要なシステムが追設されることになりました。
 例えば、格納容器の中の水素の濃度を下げるためのフラマビリティー・コントロール・システム、FCSといいますけれども、これが追設になっております。とても重要なシステムです。それから、SGTS、これは非常用のガス処理系、これは原子炉建屋の中に放射性のガスが漏れ出したときに、それを大気に放出するのは危険だから、それを要するに処理して、そして排気筒から出すというような新しいシステムが追加になっています。
 それから、もっと大事なのは、この左側の半分のところに格納容器の図が描いてあります。電球のような形。ここには、この図では、ベントラインはついておりません。つまり、私がこの福島第一原発二号機を建設することに携わっていたころは、格納容器にはベントラインはありませんでした。普通の容器は必ず、その圧力容器の設計圧といいますか最高使用圧力を超えたときには、容器を守るために安全弁とかそういうのがついているはずなんですけれども、この格納容器にはそういうものがついていなかった。なぜか。それは、絶対に放射性の物質を格納容器の外に出さない、そういう設計思想から、普通の容器とは全く違う設計思想で、ベントラインがついていなかったんです。それが、九〇年代に入りまして、今までの設計では格納容器がもたない、だからベントラインを追加する、そういう設計変更が行われたわけです。
 私は、うかつだったんですけれども、実は、定年退職して三・一一福島事故が起きるまで、ベントラインが追設されていたということに気がつかなかったんですね。
 そういうことで、私が今言いたいのは、要するに、放射性物質を閉じ込めなきゃならない、そういう目的でつくった格納容器にベントラインを追設しなければならなくなったという時点で、設計が破綻したんだと思うんですね。それがなぜ許されたのか。
 実は、過酷事故、つまり、炉心が損傷し、被覆管が破れ、核燃料がメルトダウンして、そして放射性物質が格納容器にたまり、その結果、格納容器がもたなくなる可能性があるということでベントラインを追設するわけですけれども、それが、私が聞くところでは、どうも、要するに過酷事故対策として事業者の判断に任された。
 つまり、そういう設計を規制当局が、当時としては安全・保安院がチェックをする、その設計思想とか設計の内容についてチェックをして規制するということをしなかった、そういう経過があったんですね。このフローシートで示したかったのは、実は大事なことで書いていないことがある、それをちょっと知っていただきたかったんですね。
 与えられた時間が十五分。それで、今回の、私が話したいことはたくさんあるんですけれども、時間がないので、本当に限られた項目とその骨子だけになりますことをお許しください。
 それで、今一例を挙げましたけれども、規制のあり方についての私の認識をちょっと紹介しますと、一つは、二〇〇六年に耐震設計新指針というのができました。これも阪神・淡路の大地震を考慮して、非常に厳しい、要するに、基準地震動の決め方などがそれで決まったんですけれども、実は、二〇〇七年、その翌年に柏崎刈羽原発が中越沖地震に襲われます。これで、その七基ある原発の地震計の記録によると、設計加速度を全部超えてしまったんですね。
 そしてその後、二〇〇九年の二月二十四日に、安全・保安院と内閣府安全委員会とそれから文部科学省、三者の共同主催によって、東洋大学の白山キャンパスで大きなシンポジウムが行われました。そして、そこでパネル討論があって、日本の代表的な地震学者たちがパネル討論をしたんです。
 そのとき、私も、もう定年退職していましたけれども、自分のつくった原発にかかわるということで聞きに行きましたら、そのパネル討論で、結局、結論はこういうことだったんですね。今後起きる地震の大きさは基準地震動を超える可能性がある、そういう結論だった。
 では、そういう大きな地震はどのぐらいの確率で起きるだろうかということも議論された。だけれども、地震の回数が少なくて、確率が幾らだと決められるような、そういうことはできない。つまり、基準地震動を超えるような地震がどのぐらいの大きさで、かつ、どのぐらいの確率で起きるかということは、そこでわからないという結論が出た。二〇〇九年の二月です。そして、その二年後、わずか二年後に三・一一、福島の原発事故が起きたわけですね。
 非常に大きなシンポジウムでした、東洋大学の。約千人ぐらい入るところに七百人ぐらいの背広を着た方々が集まって聞いていました。多分、電力会社の方々もいっぱいいたと思うんですが、そういう結論が出たにもかかわらず、柏崎刈羽の原発は立ち上がり、そして福島の原発は運転を継続し、そしてあの事故になってしまいました。
 そのときのシンポジウムで、当時の安全委員会の鈴木篤之さんでしょうか、委員長でしたが、中越沖地震で得られた新知見に基づき、今後、原発の安全に万全を尽くしますという御挨拶がありました。私は、ああ、これで将来は安全が確保されるかなと思いましたけれども、それが二年後に裏切られたわけですね。私は、要するに、あの三・一一の事故の前後の規制のあり方についてそういう認識をしているわけです。
 もうあと四分ぐらいなので急ぎますけれども、今回の改正法律案についての意見なんですけれども、私は、ここで賛成とか反対とかちょっと申し上げにくい。なぜか。それは、安全確保とか安全向上という言葉がもう頻繁に出てくるんです、この参考資料の中に。しかし、安全という用語の内容ははっきりしないんです。というのは、要するに、二〇一三年の規制委員会がつくった新規制基準、この中の冒頭のところに用語の定義がありますけれども、そこに安全の定義は書いてありません。
 そのときに、規制庁の方に私は聞きました。そうしましたら、安全確保の第一義的責任は事業者にある、我々は規制基準を満たしているかどうかをチェックするだけだ、規制庁からはこういう回答でした。私は、第一義的責任があると言われた東京電力の方に聞きました。そうしましたら、東京電力の原子力センターの所長は、住民の安全を守る第一義的責任は自治体にある、我々はその自治体に協力するだけだ、こういう回答です。つまり、両者ともに私の質問した安全という言葉の中身については答えませんでした。規制庁の方も、それから東京電力の方もですね。
 今、私が懸念するのは、国民が期待している安全の中身と、規制庁が考えている安全の中身と、それから電力会社が考えている安全の中身が、私には違っているんじゃないかなと。これは私の想像ですけれども。これをもっと、客観的な共通認識をつくることがまず大事じゃないかと思うんですね。それなしにこういう施策がいいの悪いのと言っても、本当にそれがいい結果を生むかどうかというのはわからないと思うんですね。
 そういうことで、まだまだお話ししたいことは残っておりますが、時間が来ましたので一応ここで終わらせていただきます。後で御質問がありましたら、ぜひしてください。
 ありがとうございました。(拍手)

発言情報

speech_id: 119304006X00520170317_008

発言者: 小倉志郎

speaker_id: 6609

日付: 2017-03-17

院: 衆議院

会議名: 環境委員会