三木由希子の発言 (憲法審査会)
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○三木参考人 情報公開クリアリングハウスの三木と申します。
きょうは、このような機会を与えていただき、大変感謝を申し上げます。
私は、知る権利について、きょうここで意見を述べさせていただきます。私は、研究をしているというよりは、むしろ、みずから知る権利を実現し実体化するための活動をずっとしてきたという立場でございますので、やや、理論的というよりは、知る権利を市民がどう理解をし、認識をし、獲得するために努力をしているのかということと、あと、それから見た政府のあり方について意見を述べさせていただきます。
私どもは一九八〇年から活動しております。もともとは情報公開法をつくるための活動としてスタートしております。その中で重要なキーワードとして常々ございましたのが、知る権利と表現の自由という二つのものでございます。知る権利が保障されていない社会では、民主主義の根幹である主権者の権利行使が非常に難しいという大もとの問題がございます。そこを受けまして、私たちは政府が持っている情報について権利を持つべきだということがもともとのスタートでございます。九九年に情報公開法ができまして、そこから、立法活動から制度をいかに使っていくか、あるいはそれを実現していくかということを活動の中心に据えております。きょうのお話は、そうした立場からのお話となります。
まず最初に、確認的に申し上げますと、基本的人権としての知る権利の位置づけというのは、これは長い時間をかけて、国際的枠組みの中でも、日本の中でも議論がされてきて、蓄積をされてきているということに言及をしたいと思います。
国際的枠組みでいいますと、市民権規約、自由権規約がございますけれども、ここの中では、表現の自由の一環として、情報を受けるということについて、その自由を含むということになっております。ですので、国際的な枠組みの中で、表現の自由の中にいわゆる知る権利、情報を受ける権利が含まれるということは、これは共通認識であろうというふうに思います。
それから、ヨーロッパ人権条約でも同様の規定がございますけれども、近ごろ、欧州人権裁判所が、画期的というふうにヨーロッパの方では評価をされておりますが、判決を出しておりまして、情報への権利に関しては、公益がある場合は、情報公開請求権が及んでいないものについても一定の権利が及ぶというような判決を出しております。
この間、一貫して、国際社会の中で主な関心になっておりますのは、情報を得る権利、情報への権利と、それから公益との比較考量でございます。ですので、表現の自由の中で、いかに情報を受け取り、それが公益的な議論に資するかということが非常に関心事としてあるということは申し添えておきたいと思います。
以上のことから、表現の自由に包摂される、情報を受ける自由ということで基本的人権に位置づけられてきているというのがこれまでの経緯かというふうに理解をしております。それを実現するものとして、情報への権利とか情報にアクセスする権利、あるいは情報アクセス権として、情報公開法制の整備を進めてきておりまして、現在、世界で百カ国以上が情報公開法制を制定するという状況に至っております。
日本の状況を簡単に振り返りますと、もともと日本で情報公開制度は自治体からスタートしております。一九八二年に最初に情報公開条例が制定をされまして、その条例の中では、自治体によりますけれども、情報を公開する権利そのものを、知る権利の保障、あるいは知る権利を尊重するということで、目的に位置づけて制度をつくってまいっております。知る権利を規定していない自治体条例も多数ございますけれども、基本的には、地方自治の本旨というような言葉を用いることで、その憲法的な位置づけを確保しているという条例が多数あるというところでございます。
国における議論を振り返ってみますと、一九九六年に行政改革委員会が情報公開法要綱案というものを発表いたしまして、それに合わせて考え方というものを発表してございます。
情報公開法制の議論の中で、一つの大きな関心事は、この法律の目的に、知る権利という言葉を規定できるかどうかということにございました。これは長い議論がございまして、結局、情報公開法要綱案の考え方のところで、一番下、下線部のところをごらんいただければと思いますけれども、知る権利ということについては規定をしない、そのかわりに、「国民主権の理念にのっとり」という表現を用いて、憲法の理念を実現したものとして制度を位置づけることになったというところでございます。その結果として、国民主権に対して、政府の説明責任を果たす、そういう仕組みとして情報公開法制が位置づけられてきたというところがございます。
一方で、その制度は、市民が使う、あるいは請求者が情報公開を請求するという前提でできておりますので、制度を使う側にとってみると、政府の説明責任を求めるというよりは、みずからの知る権利をいかに実現するかということで行動するというところに制度を使う目的があるという点では、立法目的、立法趣旨と照らして、使う側の意識は必ずしもそこにないということは言えるかと思います。
二〇一〇年に、閣法で改正情報公開法案が一度国会に出ておりますけれども、その閣法の法案をつくる過程で、当時、なぜ知る権利という言葉を設けなかったのかということについて説明的に述べられている資料がございますので紹介をしておきますと、知る権利よりもアカウンタビリティーの方が古い概念ということがわかったので、知る権利が設けられないが、説明責任という言葉を使ったということを塩野教授が申しておったということを最近把握しております。
その後、二〇一一年四月に改正情報公開法案が閣法で提出をされておりますけれども、この段階では、知る権利ということを法律の規定に設けるということで、改正法案が作成をされたという経緯がございます。
このときの特徴は、知る権利という保障の範囲が、単に開示請求権ということだけではなくて、情報提供というものも含めて、広く知る権利という言葉を位置づけたというところがございます。当初の立法趣旨については、御参考までに資料として添付をしておりますので、御確認いただければというふうに思っております。
これまでの経緯を申し上げますと、むしろ、新しい権利として憲法に知る権利を規定すべきだという議論をしてきたわけではなくて、憲法二十一条の表現の自由を中心に、現行憲法において知る権利が保障されているということを前提に議論がされ、考えが蓄積されてきたという経緯があるということが言えるかと思います。その一環として、情報公開請求を求める権利、開示請求権がそこにあるということで議論がされてきているということであるというふうに考えております。そこから、条例化あるいは法制化という議論がされてきているという理解でおります。
それで、開示請求権としての知る権利ということを申し上げますと、これは、制度を使う側からすると、ある種の欲求のあらわれということになります。
もともと、自治体で条例化の議論が始まったときの一つのある種のキーワードとなっていたのは、情報なくして参加なしということでありました。情報公開というのは、実は最終目的ではないということがございます。それは、知る権利についても同じようなことが言えるかと思います。情報を得るということそのものが、社会への参加あるいは政府への参加というものを前提としたものでなくては、知るということが、次の行動ないし民主的社会の発展につながらないということになるからでもあります。
ですので、主権者として、政府、自治体が何をしているのかをよく知るということを通じて、よりよい選択をするということが、まずこの権利の基本にあるというふうに考えております。それは、一つは選挙というプロセスになろうかと思います。さらにそこから、政治や行政の決定過程に参加をする、あるいは関与をするというところが主権者としての欲求にある。さらに、何をしているのかを知るということは、監視をするということでもあります。こうしたプロセスを通じて、よりよい政府、よりよい自治体、社会の実現というものが、さらにその先になければならないというふうに考えております。
情報公開の問題になりますと、例えば政府や自治体の問題が暴かれるとか、それから追及がされるということで、非常に積極的に取り組まないという傾向もないわけではございませんけれども、一時的に問題があったとしても、それをどう乗り越えるか、あるいはそれをどう解決するかということを通じて、よりよい政府になっていけばそれでよいというのが情報公開制度の基本的な考え方かと思います。
ですので、私たちが開示請求権を行使して情報を得るということは、あくまでも手段であるということであり、情報を必要とする目的は別にあるということをまず前提に考えなければならないということになります。
したがいまして、知る権利ということを議論する場合は、知る権利が保障されればいいというよりは、知る権利が保障される必要はあるし、それを基本的な権利に据えるべきであるということはもちろんのことですけれども、それで権利が満たされる、あるいはそれで必要性が満たされるということには必ずしもならないという特徴があるというふうに言えるかと思います。
そういう視点から考えますと、知りたい情報と知ることができる情報については、この間一貫して乖離があるというところがございます。
日本の行政は、特に手続を重視するという傾向がございまして、適正な手続を踏めば、それによって適正な決定がなされるという前提で動いております。そのこと自体、否定をする必要はないかと思いますけれども、どちらかというと、国民の側からしますと、プロセスそのものに関心が及ぶというのが通常でございます。情報公開を求めるときは、結果よりも、なぜがわかる情報を必要とするというのが一般的な認識であります。
例えば、誰がかかわっているのか、どういう状況分析、現状分析をして、なぜそうなったのか、あるいはどんな選択肢を検討したのか、選択肢として選ばなかったものは一体何なのか、その理由はなぜか、どのような議論を誰が行ったのか、誰の意見を聞いたのか、どのような意見を採用して、どのような意見を採用しなかったのか、あるいは、意見を聞いたのであれば、その意見を聞いた人を選んだ理由は一体何なのかというようなことを、むしろ情報としては知りたいというふうに思うわけでございます。
ですので、意思決定手続に関しては、手続としての妥当性と正当性に偏重すると、行政運営そのものが、市民が知りたいとか、あるいは市民が関与したい、そういうプロセスと少し乖離をしていくという状況になります。こういう中で、情報公開というのは大変困難な状況に陥ります。それは、知りたい情報と、それから、実際に得られる情報に格差が生じるということになるからであります。このことそのものが、知る権利という観点からいいますと、知る権利そのものを阻害する要因になるということも言えるわけであります。
もう一つ、知りたい情報と知ることができる情報の乖離の原因になるものが、不開示情報の範囲ということになります。
政府や行政が持っている情報を全て公開できるというふうには私自身も思っておりませんけれども、何を不開示とするかということについては、客観的、合理的判断が常になされているというわけではないということは、一般傾向としているところであります。
ですので、知る権利が情報公開法に明記されることによって、私どもとしては解釈運用の指針になる、基本的権利としての知る権利が、開示請求権の行使に対して、より具体的に保障するような解釈運用指針になるということの見解も一面ではございます。
もう一点申し上げておきますと、知る権利というのは、これは抽象的な権利というよりも、むしろ具体的に私たち自身が獲得をしていきたい権利というところでもあります。ですが、権利保障制度であるための限界というのもございます。
情報公開の仕組みは、情報公開請求をするということを通じて初めて情報が公開をされるという仕組みでございます。ですので、開示請求権の保障そのものは、機会保障的な制度というふうにも言うことができるわけです。請求権を行使しないと情報公開が進まない、こういう限界がございます。
結果的に、情報公開請求した人の知る権利が満たされるという仕組みになっておりまして、一般的な知る権利が満たされるという仕組みにもなっていないということになります。これは、日本の今の枠組みの中では、実は公開情報の情報流通のインセンティブが非常に低い仕組みになっているということが言えるからです。
一点が、手数料があるという点で、非常にこのインセンティブに欠ける仕組みになっているということがあります。それからもう一つ、日本の場合は、政府の持っている公文書に関しても著作権法の枠組みは基本的にかかるという仕組みになっておりますので、広く流通させる、情報を獲得した人間が流通させるということについてはインセンティブが働きにくいというような限界もあるというところがございます。
ですので、知る権利が開示請求権制度に限定をされますと、一面、知る権利が具体的に保障される一方で、その請求をした人にしか知る権利が保障されないという限界が発生するというところがございます。
そういうところから、私どもの関心としましては、権利の保障、開示請求権の保障というものは当然のことなんですが、一方で、義務的に情報を公表させていくような仕組み、あるいは情報提供を充実させるような仕組みがなければ消極的な権利保障にとどまるというところで、さらに政策的な展開を必要としているというふうに理解をしております。
開示請求権制度から見た知る権利の前提ということで、少し意見を申し上げます。
知る権利の制度的保障は、実質的保障に直ちにはならないという一面があります。それは、私どもの経験的にも、それから実体的にも理由がございます。開示請求権が実質を備えるためには、情報公開を前提とした政府運営への転換、改革というものが伴わないと実現しないという側面があるからであります。
情報公開を前提としていない政府運営ですと、情報公開の前提となる記録が十分につくられていないということもございますし、それから、原則公開というのが基本的な枠組みではあるんですが、推定不開示という、原則的には不開示を前提に判断をしてしまうという消極的判断を招きやすいという側面があります。単純な話でございまして、情報公開を前提に政府運営をしておれば、情報公開に対しては常に前向きに取り組める、そういう関係になるわけであります。
結果的に、ここの転換、改革が進まない限りは、実は、知る権利ということを幾ら法律上規定をしても、その実体化が難しい。結果的に、閉鎖的な行政運営、政府運営をしておりますと、情報を得たとしても参加、関与が困難ということが結果的に起こるわけであります。
開示請求権や知る権利の前提としては、公文書が作成、取得されていなければならないということも大きな課題としてございます。
この間、公文書をめぐりさまざまな問題が具体的に起こっておりますけれども、公文書が存在をするということは、適正な政府運営を確保する手段として本来は重視されるべき事柄であります。活動に関する記録を作成、管理する組織への転換をするということは、適正な行政運営に対して前向きに取り組むということでもございます。
それはなぜかと申しますと、行政組織が何をしたのかということについては、記録がなければその正当性を証明する手段がないということになるからであります。この人が言ったから信じるとか、それから、説明するあるいは説得するということではなくて、記録を通じて判断材料を示すとか説明責任を果たすということが本来は必要とされるわけであります。それをできない組織であると、それは私たちの知る権利を大きく阻害する要因にもなるということになりますし、記録化されていなければ、時間と空間を超えて情報の共有ができないというそもそもの大限界があるというところの限界をみずからつくるということになります。
そういうことを考えますと、政府運営の転換が、知る権利や開示請求権の本来的効果を発揮するためには不可欠であるということになりますし、それが果たされる政府であれば、それは市民とのよい相互効果を生み出すことができるということになるだろうということになります。
一面、それができておりませんと、制度を使えば使うほど不満、不信感が募るということになります。不開示が広い、不存在が多いとなりますと、情報を出さない政府という消極的な認識に請求者側はなるというところでありまして、制度を使えば使うほど不信感や不満が募るという悪循環から逃れられないということになり、それが政府の正当性にかかわる問題になるというふうに考えてございます。
そういうことを考えますと、知る権利の保障といったときには、具体的な権利の保障として開示請求権というものもございますけれども、それを前提にした政府の運営そのものの転換につなげていく、そういう考え方あるいは議論が一方で必要だということになるかと思います。
情報公開あるいは知る権利の問題でいいますと、非公開、秘密保護の問題も大きなテーマでございますので、意見を述べさせていただきたいと思います。
非公開や秘密保護が成り立つ大前提といいますのは、政府そのものが信頼できる、あるいは信頼されるための努力をしているということが大前提となります。
非公開や秘密保護というのは、これは事実上、政府自身がアカウンタビリティーを回避している状態でありますし、市民に対する、知る権利を制約しているという状態でございます。それであっても政府にそれを委ねられるということは、信頼性を獲得する努力なしには実はなし得ないというところがあります。
しかも、非公開や秘密が多い分野は、外交や安全保障、治安維持など、人権とぶつかりやすい分野でございます。こういう分野について非公開や秘密保護という議論をする場合は、それは、いかに政府がその分野についての信頼を獲得する努力をするかということとセットであるというふうに言えるわけであります。
そのためには、非公開や秘密保護と知る権利の調整は大変重要でありますし、それから、それを、知る権利の保障といったときに、いかに情報を出すかということだけではなくて、いかにその活動を監視するかとか、監視活動、検証結果について積極的に情報公開をするかとか、あるいは、その情報公開の結果、私たち自身が理解をする、何が起こっているかを理解し、監視をする一端を担うということが必要になってくるだろうというふうに考えているわけであります。
そう考えますと、知る権利をどう保障し、アカウンタビリティーを政府が果たしていくのかということの議論の射程は意外に広いというふうに私自身は考えております。
知る権利と憲法改正について申し上げますと、知る権利の法的性格は、これまで議論されているとおり、非常に複合的であるという一面はございます。ですので、何の知る権利を保障するのかという議論が非常に重要かと思います。例えば、今、行政機関に対する情報公開法制はございますが、国会である立法府にはない、あるいは司法にはないということもございます。
ですので、国の機関という位置づけで考えますと、知る権利という議論をするときに、一体何を保障するのかという議論は必ず必要になってくるであろうというふうに考えます。かつ、知る権利で何が達成、実現するのかという議論をしていただくということが非常に重要であるというふうに考えております。これを憲法に位置づけることがどのような展開になるのかということについて、十分な御議論をいただきたいというふうに考える次第でございます。
以上でございます。ありがとうございました。(拍手)