阿部秀保の発言 (東日本大震災復興特別委員会)
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○阿部参考人 皆さん、おはようございます。
きょうは、東日本大震災復興特別委員会に御案内いただきました。
四月の二十八日まで宮城県東松島市長を三期十二年間務めさせていただき、任期満了ということで退任をいたしました。
きょう、こうして皆さんからこうした機会をいただいたことに、まず改めて感謝を申し上げたいというふうに思います。
震災から六年と二カ月余り経過いたしました。復興は道半ばではありますけれども、私として、退いてからも、今も同じ考えなんですけれども、当初、震災時、この復旧復興をどうしようかと思ったときにすぐ頭に浮かんできたことは、一つは財源の確保。二つ目は、地方ですので土地に制限があります。ほとんどが市街化調整区域ということで、学校とかそういったところが同じ場所でいいんですかということになれば、当然そういうわけにいかないわけでありますので、そういった復興するための環境整備、要するに制度設計、これが二つ目です。三つ目が、これは情けない話なんですけれども、真面目に行政改革にほとんどの自治体が取り組んだわけでありますので、その復興の仕事を誰がするんですかというマンパワーの確保。この三点というのは、スタートから、私がこの復興をどうしようかと思ったときから現在も変わりない課題だというふうに思っています。
そういった中で、六年二カ月余り経過しまして、お手元に、二十九年三月の宮城県東松島市ということで、風化させないための資料、これは第二号になるわけですけれども、東松島市に視察に来られた皆様にお渡ししております。研修会、講習会等で生かしていただいています。
あの日を忘れず、ともに未来へ。あの日というのは言うまでもなく三・一一。そして、未来へのまちづくりをしようということで、ポジティブに考えていこうということです。
そういった中で、一ページ、若干触れさせていただきますけれども、東松島市では、死者が千百十人、行方不明者が二十四人、合わせて千百三十四人のとうとい命を失いました。そして、東松島市の世帯数というのは大体一万五千世帯なんですけれども、全壊、大規模半壊を合わせますと一万一千を超えるということで、全世帯の七三%。
この中で、特に皆様から御理解いただきたいのは地形の問題でございます。東松島市はもともと海抜が低くて、大体海抜一・五メートルくらいでございます。ですから、満潮になりますと、海岸部の水田は強制排水、ポンプアップするということになります。そういったことで、全国の被災市町村の中では一番の浸水区域。六五%、市街地の三分の二が浸水したということで、非常に大きな被害だったわけでございます。
そういった中でもここまで歩んでこられたというのは、いち早く、国、県、そして全国の、あるいは国内外になりますが、皆様から御支援いただいたということで、私としては震災当初から、千百三十四人のとうとい命を失いましたので、鎮魂、あわせて感謝、この二つを合い言葉にこれまで復興を歩んできたということでございます。
東松島一心というのは、心を一つにして新しく前に進むということです。東松島一心ということで、今でも第二次総合計画にもそういった将来像を示させていただいております。
資料は相当長いので、十五分間でございますので、後で参考資料ということでぜひお目通しいただきたいわけでありますが、この中で、私が特にこの十五分の中で皆様方にお訴えを、あるいは感謝も含めてなんですけれども申し上げたいのは、先ほど財源の確保と制度設計とマンパワーの確保のお話をさせていただきましたけれども、きょう私たち東松島市がもし少し順調に進んでいるというような評価があるとすれば、それは、二〇〇三年、平成十五年になりますが、熊本地震と全く同じ直下型の地震が一日に三回、六強が一回、六弱が二回、大変な被害でございました。平成の大合併が十七年でしたので、合併協議会も、当時私も町の議長でしたので、これは合併は延期だなというふうに正直思いました。しかしながら、住民の皆さんの御協力もありまして、非常に力強く復興を歩んだわけであります。
平成十五年、二〇〇三年の直下型、一日に六強が一回、六弱が二回、このときに応急仮設住宅を百を超えるほど建設しました。瓦れきも、当初の見積もりが八億円でしたけれども、十二億三千万かかりました。一・五倍ですね。この理由は、瓦れきの場合は分別できなかった、パニックになったということですね。それから、応急も経験させていただきました。ですから、二〇〇三年、平成十五年の北部連続地震が、言い方は適切ではないんですけれども、財産という言い方もどうかと思うんですけれども、教訓となって東日本大震災の対応に非常に生きたということになります。
そういったことで、瓦れきについても東松島方式ということでかなりの成果を、雇用ですね、職を失った皆さんの雇用だったり、あるいは資源として生かしたり、後で資料を見ていただきたいんですけれども、相当な成果を上げた。
それから、何といいましても応急仮設、これは非常に参考になったなというふうに思っています。そういったことで、応急仮設を千七百五十三戸建設したんですけれども、お盆の八月十二日までには千七百五十三戸全てに鍵を渡すことができました。これは予定どおりです。
私はあえて、被災者の立場になって、立場を入れかえるというのは簡単なんですけれども、被災者に寄り添うという言葉になりますが、被災者の身になってということで、全てにいつまでという期限をつけました。これはお約束になりますので、約束を破ることもありますので、議会もありますので、マスコミもあります、非常にリスクがあることですけれども、被災者にとりましてはそれが励みになるんですね。
何月までに仮設ができる、何月までに災害公営住宅ができる、これはハードルを自分で上げることになりますけれども、被災者にとって何が励みになるか、何が元気を皆さんに与えることができるかということで、非常にそういったことも工夫しながら、これも二〇〇三年、平成十五年の北部等々を生かしたということになるんですけれども、そういった取り組みをさせていただきました。
そういった中で、東松島市では、最初に家を建てるという方がいたのは、七百十七世帯、七百軒でございます。七百十七軒が家を建てる。これについては、去年の十一月に、画地になりますが、全てお渡ししております。
それから、災害公営住宅を希望した方が当初は千十戸でございました。千十戸でございましたけれども、東松島市に石巻管内から避難されてきて子供の学校でなれたとか、職場が東松島市だった、それから家を建てようと思った方が災害公営住宅に変更したとかということで、災害公営住宅が最終的には千百二十二必要になりました。そういったことで、復興庁の方から御配慮いただきまして、百十二戸の追加をいただきました。現在は、八百三十一戸まで完成していますけれども、入居率が大体九九%前後で動いております。高齢の方が亡くなったり、そういったこともございますので、そういったことでは順調に推移しているというふうに考えております。
そういった中で、私自身、皆様方に今回法改正で見直しをいただきましたけれども、やはり応急仮設ですね。応急仮設については狭隘で、時代とともに当時の法律から、その法律を運用し、我々は法令を遵守する立場でございますけれども、狭隘だということはすごく感じていたわけでありますので、それが今回、法改正で仮設の面積等も緩和されたことは非常にタイムリーなことだというふうにも感じております。
時間もあと五分しかありませんので、東松島市の復興について少しお話しさせてください。
私は、今回の東日本大震災のときに決意したことがございます。それは、せっかくという言い方もどうかとは思うんですけれども、これまでの、震災前までの課題ですね、土地利用とか、そういった課題も今回あわせて課題解決しようと。
それはどういうことかといいますと、例えば、たくさん被災したわけでありますので、集団移転とかになります。集団移転につきましては、住民の皆さんのコミュニティーの中でお決めいただいた。岩手から福島までの間の中で、全ての七つの集団移転地を被災者の皆さんがお決めになったというのは、多分、東松島市だけなのかなというふうに受けとめております。私が口を出して、ここだというところは一件もございません。コミュニティーのすばらしさになるわけですけれども、そういった中では、これまで土地区画整理をしたいなというところがうまく集団移転先にマッチされた。土地の有効利活用ですね。
それから、農業でいえば、基盤整備、圃場整備、これらについても今回の震災の中ではうまく集約できた。これは、圃場整備について口酸っぱく言ってきた、そういった取り組みと今回の農林水産省の英断で集約ができたというふうに私は思っていますので、やはり常日ごろの取り組みが震災時に生きたというふうに思っています。
それから、震災のときに気づいた課題、これは言うまでもなくエネルギーの問題だというふうに思います。
三日間は少なからず身動きがとれない。それから、私の町の方は、場所によっては二カ月、大体一カ月前後、水も電気も非常に厳しかった、要するに供給されなかったことになりますので、そういったことからすれば、やはり自分たちで命にかかわるものを、避難所、それから病院ですね、特に透析関係。透析する病院が二つありましたので、そういった中では、市長、何とかしてくれと。本来であれば、平時であれば搬送でそういったことは乗り切れるんですけれども、やはり自分たちで水と電気はいざというときはやはり供給するようにしておかなならぬということで、再生可能エネルギーに集中的に特化といいますか、取り組みをさせていただいた。それも資料の中にお示しさせていただいています。
そういったことで、町としては、これまでの課題解決、それから震災で気づいた課題、宮野森小学校という木造校舎、新しい課題にもチャレンジさせていただきました。
結論から言いますと、せっかく宮城県で創造的復興という言葉を使っておりますけれども、私どもはやはり、課題解決型、持続的な発展をする東松島市を実現するためには、これまでの課題、それから震災で気づいた課題、それらをしっかりと持続する社会に向けた取り組みにしたいということで、その資料の中にお示ししたエネルギーだったり学校の取り組みだったりコミュニティーだったりというふうになります。
総合計画、復興計画、環境未来都市、地方創生、これらをあわせて今まとめて市としては取り組んでいるわけでありますけれども、これは単なる復旧ではなくて、やはり人口減少、少子高齢化といった中でエネルギーだったり防災だったり課題がまだまだありますので、それらを解決できるようなまちづくりが求められているなというふうに思っているところでございます。
最後になりますが、ここまで復興に進んでこられたのは本当に皆さんの御支援のおかげだというふうに感謝申し上げるわけでありますが、ぜひ被災地の、私は、沿岸部、私のところの東松島市、隣の石巻市、そして女川町、南三陸、気仙沼、やはりここが復興しなければ宮城県あるいは東北の復興は進捗しないというふうに思っています。それは最大被災地だからでございます。そういった意味で、ぜひこれからも現場の方に足を運んでいただき、そして加速するような御提言等をいただければ幸いだというふうに思っております。
まず、十五分間の私の意見とさせていただきます。ありがとうございました。(拍手)