工藤彰三の発言 (本会議)

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○工藤彰三君 ただいま議長から御報告がありましたとおり、本院議員白石徹先生は、去る三月十七日、逝去されました。
 体調を崩され、東京都内の病院に再入院されていると伺いましたときには、一日も早い御回復と議員活動の再開をお祈りいたしておりましたが、その願いもむなしく、今はこの議場に先生の元気なお姿を拝見することはできません。よわいまだ六十、政治家として一層の御活躍が期待されていたやさきに突然の訃報に接しましたことは、まことに哀悼痛惜の念にたえません。
 また、真奈美夫人を初め御遺族皆様の御心情はいかばかりかと存じ、お慰め申し上げるすべもありません。
 私は、ここに、皆様の御同意を得て、議員一同を代表して、先生の御遺徳をしのび、謹んで哀悼の言葉を申し述べたいと存じます。
 白石先生は、昭和三十一年四月一日、愛媛県新居浜市においてお生まれになりました。周囲の人々の温かい愛情に包まれて、ふるさと新居浜でその幼少期を過ごされました。
 白石先生は、昭和四十九年、愛媛県立新居浜西高等学校を卒業されて、早稲田大学理工学部に進学。昭和五十三年には同理工学部工業経営学科を、昭和五十五年には土木工学科を卒業されました。
 白石先生は、学生時代から親分肌の熱血漢で、幅広い御見識と決断力、行動力に富んでいながら、おちゃめで、いつも冗談を言って周りを笑わせていたとのことです。
 大学卒業後は、建設会社勤務を経て、家業の白石建設工業に入社され、中小企業の現場で経験を積み、地方経済の実態を肌で感じておられました。後に同社の社長に就任され、経営者としての手腕を発揮されました。
 同時に、青年会議所での活動にも取り組まれ、新居浜青年会議所の理事長、日本青年会議所四国地区協議会会長、日本青年会議所副会頭を歴任されました。青年会議所の活動を通じて、政治の師と仰ぐ麻生太郎先生と出会うことになりました。
 平成十一年四月には、愛媛県議会議員選挙に立候補され当選。その後、三期にわたって務められ、白石先生のスローガンである、「あふれる愛、広がる夢、込み上げる感動のまちづくり」を掲げ、地域の発展に全力を傾注されました。
 白石先生を語る上で欠かせないのは、そのボランティア活動です。白石先生は、ボランティアが政治活動の原点とおっしゃっていただけあって、地域活性化、障害者支援、被災者支援など幅広い分野でボランティア活動に情熱を持って取り組んでおられました。
 阪神・淡路大震災の折には、百五十人ほどの仲間とともにいち早く被災地に駆けつけ、傷跡も生々しい神戸の町で、千五百食のうどんの炊き出しをされました。総勢数十台の車両で瀬戸大橋を渡って神戸に向かう際、先頭を走る四トントラックを運転していたのが、白石先生その人でした。
 全国的に台風の当たり年だった平成十六年には、先生の御地元新居浜でも、台風に伴う集中豪雨により、道路の寸断や住宅の損壊、浸水が相次ぎました。このとき、白石先生の呼びかけに応える形で、地元新居浜の企業、さらには愛媛県下各地の企業が多数ボランティアに参加されました。トラックや重機を動員して、民家に押し寄せた土砂を取り除くという大規模な作業を強いられましたが、先生は、支援を必要としている人の気持ちに寄り添う優しい心と、それを実現する行動力を持ち合わせておられました。
 あの東日本大震災の直後、先生はブログに、「まだまだ寒い、東北の、被災されたみなさんのことを思うと、いたたまれない」「何かさせてもらいたい! 何ができるだろうか? 同じ、日本人として、助けたい!」と記されております。そして、発災の翌日には、代表を務められていた新居浜災害救援ボランティアネットワークを通じて、募金活動を行う旨を告知し、さらには、支援物資の調達、輸送や人材の派遣などに向けて具体的に動き始めていたのです。
 白石先生は、地域に根差した地道な活動にも取り組んでおられました。
 地元の新居浜の沖合にある新居大島では、サツマイモの一種である特産の白芋の生産振興に取り組まれ、新しい農業のあり方を模索しておられました。国や地方自治体と地道に協議し、大島白いも特区の認定を受けることで、農村と都市を結ぶ新たな農業プランを実現することができました。特に、先生が設立されたNPO法人による農業への参入は、全国的に見ても極めて先進的な事例で、地域づくり総務大臣表彰を受賞されました。
 また、諸外国との友好関係の構築に対する貢献も多大なるものがあり、特に、ペルー共和国、サウジアラビア王国との間には、先生個人の力によって、強いつながりが形成されるに至りました。
 新居浜の近代産業遺産である別子銅山の東平地区を東洋のマチュピチュとして国内外に発信しようと尽力され、本家のマチュピチュがあるペルーの在日大使館に直接アプローチされておりました。その過程で、友好関係を築き上げることに成功したのであります。昨年秋には、在日ペルー大使館の全面協力のもと、新居浜市内の美術館において大ペルーアンデス文明展が開催されました。これは、これまでの先生の活動が目に見える形で結実したものと言えるでしょう。
 また、サウジアラビア駐日大使を新居浜に招いたほか、白石先生みずからの発案で、同期の国会議員の協力も得て、日系の中小企業関係者とともにサウジアラビアを訪問するビジネスマッチングツアーを実現されました。地域に軸足を置きつつも、白石先生は、常に世界を見据えて活動をなさっていたのです。
 平成二十一年八月、白石先生は、十年務めた愛媛県議会議員を辞職、同月に行われた第四十五回総選挙に自由民主党公認で立候補されましたが、当時は完全に逆風の中での選挙で、白石先生もあえなく落選となってしまいました。
 しかし、落選の翌日から毎日駅頭でのつじ立ち演説を続けられ、平成二十四年に行われた第四十六回総選挙で見事に雪辱を果たし、晴れて衆議院議員となられました。さらに、平成二十六年の第四十七回総選挙で二回目の当選を果たされました。
 平成二十七年十月、白石先生は、周囲の期待の声に推されて環境大臣政務官兼内閣府大臣政務官に就任され、主に、東日本大震災からの復興、廃棄物・リサイクル対策、そして原子力防災を担当されました。従前から災害復興のボランティア活動に取り組まれていた白石先生にとって、その能力を存分に発揮できる適職であったと言えましょう。
 東日本大震災からの復興に当たり、除染で取り除いた土や放射性物質に汚染された廃棄物を管理、保管するための中間貯蔵施設の設置は、環境省において取り組まねばならない課題の一つです。
 白石先生は、政務官就任記者会見において、これまでの経験を政務官の職務にどのように生かすか問われた際、私は間違いなく田舎の政務官です、田舎の人たちの心を理解してあげられる、それに努めていきたいと思っています、私は二世議員でもなければ役所出身でもなく、中小企業のおやじをやっていました、そういう中で始めた自分の政治の道ですけれども、やはり今までの経験というのは必ず役に立つと思っていますと前置きし、中間貯蔵施設の用地買収や補償の交渉に当たっても、理論的に幾らになりますよ、幾らでやってくださいよというのではなく、やはりその人と私の信頼関係を築いていくしかないと思っていますと述べられました。
 事実、白石先生は政務官在職中、何よりも被災地の人々の思いに寄り添い、人と人との信頼関係を大切にして、この困難な課題に誠心誠意取り組まれました。
 私の想像ですが、白石先生の病との闘いは、政務官を務められているときに既に始まっていたのではないかと思います。体調が万全ではないこともあったのではないでしょうか。しかし、白石先生はその強い責任感により、平成二十八年八月に政務官を退任されるまでその職務を全うされました。それはまさに先生の政治にかける熱い情熱の発露であったと思います。
 白石先生の座右の銘は経世済民でした。経世済民とは、世を経め民を済う、つまり世の中をよく治めて人々を苦しみから救うこと、また、そうした政治のことです。白石先生は、まさにその言葉を実践するべく、家業の後継ぎという地位に甘んじることなく、地元愛媛県の地域おこしに奮闘しながら、愛媛県議会議員を務め、衆議院議員に二回当選、大臣政務官の職を経験され、年齢も還暦を迎えたばかり。政治家白石徹の活躍はまだまだこれから、先生の活躍のフィールドはこの先も無限に広がっていました。
 私は、白石先生が、病魔に打ちかち、その持ち前の情熱でさらなる御活躍をされるであろうと確信していました。同期当選の仲間であり、御家族との親交も深く、うちの家族は最高よ、いつでも地元に遊びに来てよと言われておりました。そして何より、本人の政治家としてのスケールの大きさには驚愕しておりました。
 この本会議場の議席も隣であり、さまざまな話も聞かせていただきました。
 入院中の病室から本会議に出席されているある日、工藤ちゃん、薬を飲まないかんけん、一時間したら教えてくれなと言われ、無理せずに休んでいなよ、徹さんと答えると、本会議は日本で一番重要な会議だから、寝たらいけん、しっかり聞くけん大丈夫だよ、でもね、目がかすんで見えんのじゃ、壁の時計もわからんのじゃと言われていましたね。そんな容体で登院される徹さんに、責任の重さを痛切に感じさせられました。
 昨年十月二十八日の本会議開会後、徹さんは自席で気を失い、前のめりに倒れ、机に額をぶつけられました。僕は二度と倒れないよう、彼の机の前に左手を置きながら、危ないから、お願いだから眼鏡だけは外してよと言うと、徹さんはにこにこ笑いながら、迷惑かけてごめんな、しかしな、まだまだやること、いっぱいあるけん、こんな病気に負けられんのよ、それと工藤ちゃん、頼むから病院には来んでな、必ず克服してくるからねと語っていました。
 心底明るくて、絶えず前向きで、本当に強い人なんだと思いました。しかし、その会話が徹さんとの最後のやりとりとなりました。
 先日、密葬に伺いました。新居浜市の御自宅でにこやかな顔で寝ている徹さんに、いつまで寝ているんだよ、早く起きなよと声をかけようとしましたが、私にはできませんでした。
 議場でぶつけた額に手を当てて、徹さん、あのときは本当に痛かったよね、もうゆっくり休みなよ、今までよく頑張ったよと声をかけ、手を合わせてお別れとさせていただきました。そして、この世の無情を恨みました。白石先生を失いましたことは、地元愛媛県はもとより、本院と我が国にとりまして、まことに大きな損失であると考えます。
 白石先生は歌を歌うのが大好きでした。みずから作詞作曲され、地元のイベントに参加される際にはギター持参で熱唱されることがしばしばありました。きっと天国においても、大好きな歌を歌いながら、私たちにエールを送ってくれているに違いありません。
 私たち議員一同は、白石先生の御遺志と情熱を引き継ぎ、地域の振興、東日本大震災並びに全国各地の被災地の復興、日本と世界の国際交流の発展のために尽力することを改めてお誓い申し上げるものであります。
 ここに、白石先生の御生前の御功績をたたえ、その人となりをしのび、御冥福を心からお祈りするとともに、白石先生を今日まで支えてこられた真奈美夫人、御遺族の皆様の胸中に思いをいたし、追悼の言葉とさせていただきます。
 白石徹さん、ありがとう。私たちは、あなたのことを忘れません。
     ――――◇―――――
 日程第一 地域包括ケアシステムの強化のための介護保険法等の一部を改正する法律案(内閣提出)
 日程第二 将来にわたる質の高い介護サービスの提供の確保等のための介護保険法等の一部を改正する法律案(初鹿明博君外六名提出)
 日程第三 介護・障害福祉従事者の人材確保に関する特別措置法案(初鹿明博君外六名提出)

発言情報

speech_id: 119305254X02020170418_004

発言者: 工藤彰三

speaker_id: 11551

日付: 2017-04-18

院: 衆議院

会議名: 本会議