江島潔の発言 (文教科学委員会)
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○江島潔君 おはようございます。自民党の江島潔です。
今日は、委員長また理事各位の御理解を頂戴をいたしまして、私としては初めて文教科学委員会で質問をさせていただく機会を頂戴いたしました。
文科委員会では初めての質問なんですが、私自身は、社会人になりましてずっと人づくりに携わってきた者でございます。
最初は、社会人になりましてプラント建設会社に入りまして、東南アジアでプラントのオペレーターを育成をする仕事に関わっていまして、その後は地元の山口県に帰りまして大学の教壇に立って若者の人づくりに取り組んできまして、そしてその後は下関市長として四期務めさせていただいたんですが、この自治体経営というものを通じて、いつも町づくりというのは何だろうなということを自問自答する中で、これはもう結論は、人づくりこそ町づくりだという思いに達したところであります。すなわち、人材を育成するということこそ、その町を発展をさせる唯一にして最大の方法だという思いを持っておりました。
その後、市長を退職してまた大学に戻りまして教育活動に専念をしておりましたんですが、その後、機会をいただきまして、現在は国政に参画をしているところであります。現在の私の信じるところは、この町づくりのところは国づくりに変わりまして、人づくりこそ国づくりという、そういう思いで取り組んでいるところであります。
本日は、この人づくりの一番の最前線になります学校教育、その中で、私の地元で、ある学校でありますが、今どんなことが起きているかということを事例を取り上げさせていただきまして、文科省に幾つかの見解を問いたいというふうに思っております。
今回取り上げさせていただきますのは、私の地元下関にあります梅光学院という学校でございます。随分長い歴史を持っておりまして、その一番の原点は、一八七二年、これ明治五年になりますんですが、長崎にアメリカから宣教師がやってまいりまして、聖書を教科書として英語教育をするという、そういう夜間英語塾として始まった学校でございます。
明治五年といいますと、まだ、キリシタン禁止令というのが解かれたのが明治六年のことですから、かなりやはりいろいろなリスクも負いながら宣教師がこの日本の地で英語塾を始めたんだろうなと思いますけれども、その後、変遷を経まして、当時は長崎より下関の方が地勢的にもいろいろ有利な条件だったということで、学校を一九一四年に下関に移しまして、そこに梅光学院としてスタート、再スタートといいますか、したわけでありますけれども、当時のこの建設費用というのは、これは全て米国の大富豪が教会に託したその基金が拠出をされたというものだそうでございます。
その後、だんだんとこの学校が、中学校、高校、それから幼稚園もつくり、そして短大、四年制大学、大学院と規模も充実をしてきているところでありますが、その途中には、一九四五年の終戦間際には空襲によりまして校舎が全部焼けたりと、いろいろな幾つかの困難も経ておりますけれども、その後の再建に際しては、また、米国の伝道局というものから大半の費用が出て再建をされたという歴史を持っております。
言わば、言ってみれば、本当に日本を代表する伝統的なプロテスタント系のミッションスクールだというものでありますんですが、近年、この学校におきまして、保護者の同意とか、あるいは、長い歴史を持つ学校ですから同窓会もたくさん充実した組織があるんですが、この同窓会の理解や許可というものも全く得ないままに、このミッション系スクールの一番の真髄であります宗教の部分をつかさどる組織がいつの間にか新興宗教に取って代わっているという事態が起きております。これは、具体的に申し上げますと、オンヌリ教というそういう教団が今はこの梅光学院の中心的な存在になっているところであります。
まず、私から文科省の方に確認申し上げたいんですけれども、このオンヌリ教というものがどういう宗教団体なのかを教えていただければと思います。