栗原敏郎の発言 (経済産業委員会)

⚠️ コピーしたテキストを転載する際は、転載元URL(kokkai-data.com)および原典URL(kokkai.ndl.go.jp)を必ず残してください。発言内容の改変・出典削除は禁止です。 詳細は利用規約をご確認ください。

○栗原参考人 ただいま御紹介をいただきました神奈川県中小企業団体中央会副会長を仰せつかっております栗原でございます。
 本日は、この場で意見を述べさせていただきます機会を与えていただきまして、本当にありがとうございます。
 私どもが加入をしておりますメッキの業界、神奈川県では神奈川県中小企業団体中央会、上部団体の全国鍍金工業組合連合会、こちらの方は全国中小企業団体中央会さんに加盟をさせていただいております。本日は、我々の業界のことにつきまして、絡めましてお話をさせていただきたいというふうに思います。
 まず、メッキの団体の概要でございますが、平成三十一年四月一日、ことしの四月一日現在でございますが、現在全国会員数が千二百六十八社でございます。平成元年には二千七百十九社ございました。残念ながら、百四十五社この平成の中で転廃業ということになっております。そして、従業員が三十名以下が七〇%、その中で一名から三名までの企業さんが一一%という非常に小さな中小の集まりの団体でございます。
 しかしながら、五一%が創業五十年以上、そして、後継者としまして二代目が約五〇%、現在そこで頑張っております。そして、創業者でございますが、もう一二%というふうに大分少なくなってきております。ということは、若い方がふえているということは、活発に若返りを図って活動をしているということでございます。
 そして、このメッキの業界が取り組んでいる一つが、災害時の連携でございます。
 私どもの神奈川県のメッキ工業組合が最初に、今からさかのぼること十一年前、平成二十年六月に、防災力と経営革新を図る横浜市中小企業製造業事業継続方策推進検討委員会というものが設置されまして、その中に我々も参加をさせていただきました。そして、組合の中で、もちろん大小ございますので、やはりなかなかこういう中小の集まりで事業に取り組めないという会社が集まって、八社でもってとりあえずメッキ分科会というものを立ち上げました。
 そして、二十一年の九月に、横浜市のNPO法人立会いのもとに、神奈川組合の二社が代替生産を可能とする協定書を交わしました。単体の中小企業同士では全国初めてのケースでございます。これも、東日本大震災発生の一年半前のことでございます。
 そして、二十三年四月、震災の年でございますが、四月に、災害時でのメッキ製品の代替生産をするということで、神奈川県と新潟県の同じ業界が県境をまたぎまして協定を結びました。これも、県境をまたいでこういう協定をしたというのが多分初めてのことではないかというふうに思っております。
 その中での考え方、協定を結ぶ上の考え方ということでございますが、お互いさまの精神で、信頼関係に基づく事業継続計画の応援ということで、目的としては、被災から早期復旧、お客様に安心を提供し、事業継続を確保する、事業継続への成長、相互交流による技術、事業の創出、そして、特徴としては、お互いに負担にならないよう緩やかな関係ということで、やる内容につきましては、応急支援物資、資材の供給、応急対策及び復旧に対する要員の派遣、代替加工の紹介、これは県境を挟んでおりますので、組合が窓口になってお互いを結びつけるということでやりました。原則としては、応援を申し出た側の金銭の負担がございます。
 ということで、お互いさま、助け合いとして協定を結びましたが、そうそう震災というのはあるものではございません。ただし、災害というのは常にやはり起きます。
 その中で、最近ありました事例を二つほど挙げさせていただきたいというふうに思います。
 そのうち一つは、これは、済みません、東日本大震災のときもありましたので、それを含めて言わせていただきますと、宮城県の空港の近くのメッキの業者が津波に遭いました。それで、危うく二階建ての二階に避難をしたところ、一階が全部海水で埋まってしまった。ということは、機械が全て海水の中に入ってしまった。
 そういう中において、一時は諦めようかと思ったんですが、後継者がございました。その方が、ぜひやりたい、もう一度何とかしたいということで、父親であります社長が、それでは何とか頑張ってみようということで、いろいろあちこちに手を打ちました。
 そのときに、同じ宮城県内の仲間のメッキ屋さんが、うちのラインがあいているからうちのラインを使っていいよ、もしあれならば、時間がつけば夜なら幾らでも使ってもらっていいよとか、又は、こういうメッキはうちでできるから、うちでもって処理をしてあげるよというようなお声があちこちから上がりまして、おかげさまで、丸二年かけて、お客様の流出もなく、その会社は今も頑張って稼働をしております。
 それともう一つ、これは火災なんですが、三年前に愛知県で、平成二十八年の二月、忘れもしない二月十五日、休みの日だったんですね。休みの日に、誰もいないところで火事が起こった。三階建ての建物が全部全焼してしまったということで、これも本当に途方に、連絡をいただいて行ったときにはもう全て火にくるまれていてどうしようもなかったということで、消防の方も、メッキ屋さんというといろいろな原材料がございます、勝手に、簡単にホースで水をかけるというのはなかなかできないらしいですね。そういうことで全部燃えてしまったということなんですが。
 そのときも、やはり仲間の、愛知県の、これは名古屋でしたから、名古屋のメッキ屋さんがみんな、我々のところで何とかするよ、お手伝いするよ、もしあれだったら、東北と同じように、ライン、あいているやつを使ってもらっていいよ、夜でもいいよというようなことで、材料だとかそういうのは全部自分のところで持ち運ぶ。
 一つ、あいているラインをお借りするというのは、変な話なんですが、ノウハウの流出にならないわけですよ。その会社さんが、ふだんやっている方が行ってやるわけですから、原材料の使い方だとか温度だとか、いろいろな条件というのがありまして、そういうものを自分たちでふだんやっているようにできるということで、こちらの方は半年ぐらいで全部復旧させましたね。それで、お客さんの流出がなかった。
 すばらしいと思うのは、そのときに、いただいたところに、お客さんの方で、何、あそこでもできるの、ほかでもできるのというような話がありまして、声もかかったところもあるやに伺っております。しかしながら、そういう流出したということは一切ございませんでした。
 やはりこれもふだんからのつき合いなんですね。地元でのおつき合い、そういうものがやはり、BCPにしてもこういう災害においても一番大切なことだというふうに思っております。
 それともう一つ、事業承継の件についても話せということでございますので、私どもの事業承継の件についてちょっとお話をさせていただきますと、私は二代目です。息子が今社長をやっていますが、三代目になります。創業者が今から六十五年前に工場をつくりまして、今はもうこの世にはおりませんが、私が平成二年に社長を継ぎました。
 そのときに、本当は、私も息子も会社に入ったわけじゃないんですよ。違う会社に勤めました。メッキ屋はやりたくない、もっとほかの仕事をやりたいということでほかのところへ就職したんですが、三年、五年やっていくうちにだんだんだんだん、親の背を見ていますと、やはり自分が後を継がなきゃいけないのではないかということで、私も息子も両方とも、頭を下げて戻らせていただいたということです。
 そのときに、私もそうですけれども、私の親も一切、戻ってこいとかやれという話は一言もなかったですね。でも、そういうことがございましたので、一応、本人がやりたいという、その意思でもって全部継がせているということで、そうなりますと、やはり設備投資が違ってきます。後継者がいないとなれば、そういう無駄な投資はしなくなりますが、やはり借金してでもそういう設備投資をしようという前向きな会社としてやり方ができてきたということで、非常によかったのかなと。
 ただ、私のときはそれほどでもなかったんですが、今、息子の代になりますと、全国にやはりネットワーク、いろいろ若手の方のつながりができまして、メールでのやりとり等を常にやっておりまして、何か災害のときには必ず応援をしているというような状況でございます。
 ですから、今後、この業界というのは非常に明るくなってくるな、数は減ってきても、業界全体としてはますます活性化してくるのではないかなというふうに思っております。
 最後になりましたが、私どもメッキの業界というのは、今お話ししたように、非常に中小零細でございます。そういう業界で、なかなか大きな声を上げることができない。そういう中において、神奈川であれば中央会だとか、業界としては全国中央会さんに、我々のやはり苦難とか窮状をお話をして、そちらの方からお話を国の方にしていただく。そういうことで、本日の委員の皆様方、御出席の先生方には、そういうことも踏まえながら、こういう業界もあるんだということで、ぜひ御理解をいただければというふうに思います。
 私からは以上でございます。本日はありがとうございます。(拍手)

発言情報

speech_id: 119804080X00920190424_002

発言者: 栗原敏郎

speaker_id: 14509

日付: 2019-04-24

院: 衆議院

会議名: 経済産業委員会