渡海紀三朗の発言 (本会議)

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○渡海紀三朗君 ただいま議長から御報告がありましたとおり、本院議員園田博之先生は、昨年十一月十一日、御逝去されました。
 前回の総選挙後に体調を崩され、都内の病院に入院されましたが、昨年の四月には一時復調され、さきがけ時代の仲間との食事会で旺盛な食欲も見せておられました。
 その後、夏の初めから入退院を繰り返されておると聞き、一度お見舞いに行こうと三原先生と話をしていたところでした。そんなやさきの突然の訃報を、私はにわかには信じることはできませんでした。
 翌日、赤坂宿舎をお訪ねすると、先生は静かに眠るように横たわっておられました。奥様の幸子様は、主人は最後まで、俺は必ず復帰すると言っておりましたと話しておられました。
 まだまだ政治家としてやりたいことがあったのだと思います。志半ばに倒れられたことは、まことに痛惜の念にたえません。
 私は、ここに、ありし日の園田博之先生の面影をしのび、皆様の御同意を得て、議員一同を代表し、謹んで哀悼の言葉を申し述べたいと存じます。
 園田先生は、昭和十七年二月十九日、熊本県天草郡河浦町でお生まれになりました。お父様は、厚生大臣、内閣官房長官、外務大臣、そして衆議院副議長を務められた園田直先生であります。
 河浦町は、天草の下島の南部に位置する、山に囲まれた自然豊かな地域であり、先生はそこで中学生まで伸び伸びと過ごされました。そのころから、新聞を毎日精読され、激動する世界情勢を自分なりに読み解き、理解されていたそうであります。
 都会に出て誤解だとわかったが、自分は神童かと思っていたと、後に当時を思い浮かべながら苦笑されておりました。先生の冷静な分析力と大局に立った識見は、このころに育まれたのでありましょう。
 先生は、その後、千葉県に移られ、創立されたばかりの習志野市立習志野高校に進学、後に強豪となった野球部の創設時のメンバーでもあったと聞いております。習志野高校はことしの選抜にも出場しており、先生はOB会長であったということだと、このことも皆さんに御報告をさせていただきたいというふうに思います。
 大学は日本大学経済学部に進まれ、卒業後は、水産の名門である日魯漁業に入社されました。
 日魯漁業では労働組合の委員長も務められております。当時の日本経済はオイルショックに襲われておりました。銀行管理下に置かれた日魯の経営陣は、倒産を免れるために、工場閉鎖や従業員のリストラという方針を出したそうです。先生は、それだけは何としても避けなければならないと連日の労使交渉に立ち向かわれ、一人の解雇者も出されずに難交渉を乗り切られました。まさに、先生の調整力の片りんをのぞかせた一場面と言えるでしょう。
 昭和五十八年、病に倒れられたお父上のたっての願いに応え、先生は園田直事務所に入られました。お父上が亡くなられたのは、その一年後のことであります。
 後援会からの強い出馬要請を受けた先生は、昭和六十一年七月の総選挙に立候補、見事にトップ当選で初陣を飾られたのであります。以来、連続して当選すること十一回、在職三十二年六カ月の長きに及び、平成二十三年五月には、永年在職議員として栄誉ある表彰を受けられました。
 本院に議席を得てからは、逓信委員会、環境委員会、予算委員会など多くの委員会で理事を務め、各般にわたる国政審議に卓越した調整力を発揮されました。
 また、法務委員長をお務めになられた際には、持ち前の円満な人柄により、公平かつ円滑な委員会運営に尽力されました。
 自由民主党においては、幹事長代理、副幹事長、政務調査会長代理、行政改革推進本部長代理等々を歴任され、諸般にわたる政策の立案、調整などに精力的に取り組んでこられました。
 特に、平成十七年四月、郵政改革関係合同部会で、民営化賛成派と反対派が激しく対立し、出口の見えない議論が連日連夜続いた際、先生は、座長としてどこかで判断して結論を出さないといけないと腹をくくり、座長一任を取りつけたのであります。
 激しく怒号が飛び交う中での決着ではありましたが、何事にも動じない先生の毅然とした姿勢が事態の収拾を可能にしたのだと思います。あのときの先生の姿は神々しくさえありました。
 一方、先生は、長年にわたる議員活動を通じ、一貫して二大保守政党による政治体制を追求されてこられました。
 平成五年四月の政治改革に関する調査特別委員会において、宮沢喜一総理への質問の中で、先生は次のように述べられております。
 国際情勢が変わりました。国内では、自民党と社会党を中心とする野党が緊張感を持って対立した時代もありました。しかし、それは世界のある意味では縮図であったわけで、世界が変わったのであれば日本の政治体制というのは変わるのは当然でありまして、そうじゃなければこれからの日本の、次の世代に向けての豊かで自由な日本を引き継ぐことはできません。自民党の皆さんも、制度改革と同時に、やはり政権党である自民党を活性化させる、こういうことでぜひ御認識いただけたらありがたいと述べられ、日本の政治体制が緊張感を持った政治体制でなければならないと主張されたのであります。
 この質問から二カ月後の平成五年六月、政治改革関連法案の協議が調わず、宮沢内閣不信任決議案が可決されました。
 園田先生や私は、不信任案には反対票を投じましたが、理想の政治体制を追求していくため、武村正義先生ら総勢十名で自民党を離党、新党さきがけを結成しました。
 一方、不信任決議案に賛成票を投じた自民党議員からも離党者があり、政界再編への大きな流れが生まれました。そして、その後の総選挙を経て、非自民連立政権への動きが加速化し、細川政権が誕生するのであります。
 細川連立政権下、先生は新党さきがけの代表幹事として連立与党と官邸の間の仲裁役を担われました。当時の日本新党幹部をして、連立と官邸が何とかもっているのは園田氏によるところが大きいとも言わしめたものであります。
 平成六年、自民、社会、さきがけの連立による村山内閣が誕生した際には、先生は総理の強い要請により、内閣官房副長官に就任されました。
 村山内閣では、阪神・淡路大震災による被災地の復旧復興、サリン等を取り締まる特別立法の制定など難題が続出しましたが、先生は、事務担当の副長官との連携のもと、政府内や与野党間の調整に奔走され、まさに黒子として連立政権を支えられたのであります。
 当時、そんな先生に、村山富市総理は絶大なる信頼を寄せておられました。
 自社さ連立政権下、少人数ながら与党の一員として活動を続けてきたさきがけでしたが、党勢拡大は思うように進まず、平成十一年、解散に追い込まれ、先生は政界再編の意欲を秘めつつ、自民党に復党されるのであります。
 復党後、先生は、党の政調会長代理のポストを得て、盟友与謝野馨先生を党の財政改革研究会の会長に担ぎ出されました。この研究会では、社会保障財源を賄うために、消費税率を一〇%程度まで引き上げる提言を取りまとめました。提言の趣旨は、平成二十一年度の税制改正法の附則に盛り込まれ、その後の社会保障と税の一体改革の実現へとつながっていくのであります。
 先生のお通夜の席で、私の両隣が谷垣元総裁と野田元総理でありましたが、お二人は、園田さんがいたから三党合意もできたんだよなあと感慨深げに話しておられました。
 民主、自民、公明の三党交渉の裏で、当時、たちあがれ日本に所属しておられた先生でありますが、幅広い人脈を駆使し、各党有力者に対して水面下で粘り強い説得を繰り返しておられたのであります。
 まさに先生は、鋭い直観力を有し、人を説得して、正しいと思った政策を形にできる方であったのです。
 こうした国政の中核での御活躍の傍ら、先生は初当選以来一貫して地元熊本県の水俣病被害者の救済にも精力的に取り組まれました。
 官房副長官在任の平成七年には、与党三党により、長らく続く水俣病紛争を終結させる新たな救済案がまとめられ、関係当事者間の合意もなされました。
 これにより、問題は一旦終息したかに見られましたが、平成十六年の関西訴訟において損害賠償の対象者拡大を認める最高裁判決が出され、それ以降、認定申請者が急増いたします。そのため、先生は、再度政治的解決を目指されるのであります。
 平成十九年十月、先生は、与党のプロジェクトチームの座長として、提訴した人たちの気持ちを酌み、更に幅広い救済案を取りまとめられました。この案を実行する法律が平成二十一年に成立し、救済の拡大を求める多くの人々の声に応える制度ができ上がりました。
 被害者の声に真摯に耳を傾け、どうすればその声に応えられるかを考え抜き、粘り強い交渉を重ねて、政治決着によるぎりぎりの公平な救済案をまとめられたのであります。まさに、水俣病の問題解決は先生なくしては実現し得なかったと言っても過言ではありません。(拍手)
 園田先生は、公害問題から社会保障、財政、金融、法務まで、幅広く政策に通じておられる政治家でありました。また、表舞台で目立つことを好まず、手柄は人に譲り、いつも仲間のことを気遣っておられる方でした。数度にわたり入閣の要請を断られたとも言われております。
 飾らない気さくな人柄で、与野党を問わず、幅広い議員の方々と交流がありました。誰の話もバランスよく聞かれる一方で、本質を見きわめられる洞察力があり、広く慕われると同時に、多くの尊敬を集めた政治家でありました。
 内外ともに政策課題が山積している今の日本。我が国の政界は、識見に富む先生の力をまだまだ必要としておりました。まことに残念でなりません。
 しかし、先生の思いや理念は多くの政治家の心の中に生き続け、先生を慕っていた多くの後輩たちが日本の未来を切り開く道しるべとしていくことでしょう。
 ここに、謹んで園田博之先生の生前の御功績をたたえ、その人となりをしのび、心から御冥福をお祈りして、追悼の言葉といたします。(拍手)
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発言情報

speech_id: 119805254X00320190131_018

発言者: 渡海紀三朗

speaker_id: 30413

日付: 2019-01-31

院: 衆議院

会議名: 本会議