杉本和巳の発言 (外務委員会)
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○杉本委員 維新の杉本和巳であります。よろしくお願いします。
まず、ちょっとこの場をおかりして恐縮なんですけれども、去る一月十二日に亡くなられました歴史研究家、近現代史の大家であられた半藤一利さん、御冥福をお祈りさせていただきたいと思います。
それで、半藤さんの書物で、茂木大臣は博識なのでもう御存じだと思うんですけれども、この場の皆さんが御存じないことかと思ったので、ちょっと一つトピックスを紹介させていただきます。半藤さんの研究によると、大日本帝国という名前が昔ございました、この名前というものを決めたのは、どこでいつ誰が決めたのかというのが書物にありましたので、読まれた方もいるかもしれませんが、昭和十二年、決めたのは外務省ということが書いておられました。それまでいろいろな呼び方があったんですけれども、この昭和十二年から大日本帝国に統一することになったということでありますが、一方で、これは半藤さんが書いているわけではありませんが、私が調べた限り、英文表記についてはその際にきちっと決まらなかったということがあったようでございます。
その半藤さんではないんですが、多くを歴史から我々は学ばなければならないということで、安保の委員会でトゥキュディデスのわななんかについても大臣と質疑させていただいていますが、今日は、ちょっと、所信というか政府四演説でお話は伺っているんですけれども、外交の重要性を、2プラス2もありましたけれども、改めて大臣と共有させていただければということで、冒頭、その基本姿勢というか大臣の思いを伺いたいんですけれども。
歴史を振り返りますと、日露戦争前の日英同盟を結んだのは、第十八代また二十三代外務大臣であられた小村寿太郎さんの存在がありました。一方で、太平洋戦争突入前の国際連盟の脱退、あるいは日独伊三国同盟締結、あるいは日ソ不可侵条約、あるいは日ソ中立条約とも言われますが、この辺りの中心人物は松岡洋右さんという第六十三代の外務大臣でいらっしゃいました。
また日露開戦時に戻りますけれども、外務大臣の任にはなかったんですけれども、後に司法大臣、法務大臣に当たると思いますが、セオドア・ルーズベルト、フランクリン・ルーズベルトさんではない方の、親戚でいらっしゃいましたけれども、このセオドア・ルーズベルト大統領のハーバードの大学の法律分野の同窓であるという縁で、福岡県人、そして、私も知らなかったんですけれども、ニッポン大学、ニホン大学ですね、ニホン共産党さんとも言うしニホン大学とも言うので、我々はニッポン維新の会なんですが、日本大学の初代校長の金子堅太郎さんという方がいらして、この方が、いわゆる、タイミングを見て、米国による日露戦争の停戦講和への道を開くように、アメリカにおいて広義の外交活動をされたということがあったようでございます。
四演説でも伺いましたけれども、平和を希求する日本にあって、抑止力、最近は対処力という言葉も重なるようになりましたけれども、その防衛とともに、あるいはそれ以上に必要不可欠なのは、賢者による、巧者による、よく、あの人はいい人だ、人物だと言われることよりも、その役職にあってその職責を果たすかどうかが私は政治家には求められているのではないかと、僭越ですけれども思っております。
そういった意味で、その外交、的確な外交、あるいは私は積極外交とこの間予算委員会で言わせていただいたんですけれども、極めて重要と感じるところであります。
我が国の平和と繁栄、広く見て、世界の平和と繁栄のために、外交の重要性、また、よく普遍的価値と使われたり基本的価値という言い方をされたりする、このことの共有性の大切さ、ここにおいて、この場をおかりして、菅内閣の最重要閣僚の一人でいらっしゃる、第百四十七代を終えられて、今百四十八代という茂木大臣に改めてその御見識を伺えればと思います。お願いします。
〔委員長退席、伊藤(信)委員長代理着席〕