福島伸享の発言 (東日本大震災復興特別委員会)
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○福島委員 有志の会の福島伸享でございます。
この法案審議、最後のバッターとして立たせていただきますので、大臣そして政府の皆さん、よろしくお願いを申し上げます。
私自身、かつて通産省で原子力の立地をやっておりまして、浜通りもしょっちゅう出張で行っておりました。最初の原子力災害というのは、一九九九年のジェー・シー・オーの東海村の災害でありまして、私も地元出身ということで、科学技術庁に出向して、その様々な後処理に奔走いたしました。
原子力災害対策特別措置法というのを、今国土交通大臣をやっております斉藤政務次官などとともに作り、また、その後、実はあの後も、東海村では、復興のためにエネルギー大学院大学をつくろうという構想を当時の東海村の村上村長がぶち上げまして、私もそのお手伝いなどをさせていただきました。
その後、二〇一一年に三・一一が起きて、私の地元もかなり大きな被災を受けて、しかも、原子力災害対策特別措置法を作ったにもかかわらず、この原子力災害に対して、当時与党の議員でしたけれども、当時の政権は十分な対応ができなかったというじくじたる思いを持っておりますので、何としても、この福島国際研究教育、研究機構、教育機構、研究と教育、どっちが先なのかちょっと分からなくなっちゃいましたけれども、成功させたいという強い思いを持って、本日は質問させていただきたいというふうに思っております。
この審議でも何度も出ておりますが、やはりOISTとの比較をしなければならないと思っております。二〇〇一年に尾身幸次先生がOIST構想を提唱したときに、私は通産省のバイオ課というところにおりまして、課長のペットアイテムとしてその下請の仕事をしておりました。当時は、政府の中はみんな冷ややかで、私自身もかなり懐疑的でした。尾身先生が書かれたこの「科学技術で日本を創る」という本があるんですけれども、その中でも、政府部内に強い異論もあったという中、尾身先生の強い思いでこれが実現したということであります。
資料一がございますけれども、論文数と論文一%の割合というグラフがありまして、大体、日本の大学は、東大とか京大であっても、一番下の紫で、論文の数は多いけれども革新的な論文は少ないというのが日本の大学の平均です。ところが、OISTは、この緑色の左側のところに黄色い線が、マーカーが引いてありますけれども、論文数は確かに少なくてもトップ一%の論文の割合が高いということで、これは東大なんかも上回り、世界九位の、世界でトップの水準であるという成果を見て、これは本当に尾身先生の先見の明はすばらしかったんだなというのを改めて感じました。
そこで、内閣府にお伺いするんですけれども、こうした沖縄科学技術大学院大学、なぜこれだけ成功したのか、その要因について端的にお答えいただければと思います。