池田賢市の発言 (文教科学委員会)
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○参考人(池田賢市君) よろしくお願いいたします。中央大学の池田賢市といいます。よろしくお願いいたします。
今日はこのような機会を与えていただきまして、誠にありがとうございます。
今回の改正案につきまして、まず、これまでの免許更新制度がどうだったのかという点について述べたいと思います。
結論としては、ほとんどいいことはなかったという印象です。あと、制度設計そのものにも大分問題があったなということです。
今大学では教員養成課程など担当しておりますけれど、教員養成を主とした学部ではない限りは、学生たちは本当に卒業まで苦労して単位を取り、またそれにプラスアルファで教職の単位を取り、かなり苦労しています。で、教育実習に行くし介護等体験もするしということで、ようやく免許取得にたどり着いたんですけど、ところが、それ十年間しか有効じゃありませんとなると、しかも、仕事続けたければ十年に一度それなりの費用を払って講習を受けて合格しないと続けられないということになってしまいますので、まあ法的には正しい言い方ではないんですけど、任期付きの仕事というイメージを学生に与えたということは確かです。また、教員の多忙化がなかなか解消しないとなれば、やはり教員志望者は減っていくということになるかなと思います。
ただ、二〇〇六年の中教審答申でも、ではと言ったらいいのかな、免許の更新については、教員として日常の職務を支障なくこなし、自己研さんに努めている者であれば、通常は更新されることが期待されるものと述べられていたんですけれど、どういう状況なら支障なくこなしているのかということの基準は明確ではありませんし、また、実際に講習を担当している大学側の方に受講している先生方の勤務状況が知らされているわけではありません。この人が支障がない人なのかどうかと分からないわけで、そうなってくると、結局、免許更新できるかどうかと常に不安な状態に置かれているんではないかというふうに思います。
あと、制度運用上の問題で、細かい点はいろいろ指摘できるかと思うんですけれど、私が聞いたところ、私に直接相談を受けたんですけれど、その人は三十四歳、五歳で先生として正規採用されたんですね。ところが、初任者研修と免許更新講習を今同時に受けているんですけど、どうなんでしょうかということです。これ本当に不思議なんですという話をしてくれました。ちょうどその年齢になっちゃったわけですね。そんなおかしなことが当初は起こっていた。まあその後いろいろその辺は調整をしていったわけですけれど、結局、微修正、微修正を繰り返していかないと続かない制度だったということかなというふうに思っています。
あと、講習内容についても違和感がありました。最新の子供の変化を先生たちに話すみたいな、そういう講習内容が設定されているわけなんですけど、大学の特徴の大きな一つは、子供がいないということなんですよね。つまり、立場は逆じゃないかということです。子供の変化も含めて最近のいろんな教育の実情をよく知っているのは現場の先生たちなのであって、むしろ学ばなくてはいけないのは大学の方でしょうという、そういう違和感を持ちました。
また、更新講習は大学教員の働き方にも大きく影響しました。更新講習自体は夏休み期間中に設定されることが多いですし、また通常の土曜日とかですね。特に夏休み中は、大学の先生方、自分の研究時間に充てたりするんですけれど、更新講習担当となると、その時間のやりくりがすごく難しくなってくるということになります。その辺も大学へのインパクトがかなりあったということです。
しかも、その免許更新のための講習をやっているわけで、その先生をどう評価するのか、評価を付けて合格か不合格かということをやらされるわけでして、そうすると非常に精神的な負担も大きいということで、結局、講習の在り方もやや形式的なものにならざるを得なくて、全員合格にしていくという措置を、じゃ、どうやってとろうかという、そういう悩みになっていくということかなと思います。
そんなもろもろのことを考えますと、今回更新制度自体が廃止になるということは、まずは良い判断がなされたというふうに思っています。
その上で、少し求めたいことといたしまして、今所持しているいわゆる新免許状と、あと旧免許状で、それが失効している先生たちというか元先生たちがいらっしゃるんですけれど、再度免許状の授与を希望する場合の手続は、是非簡素化しておいてほしいというふうに思います。
授与審査に当たっては各教育委員会で求めることもいろいろ違ってくるんだろうと思いますけれど、今も参考人の方々で触れていただいていますけど、学校現場は本当に多忙で人が足りないんですよね。となってくると、免許をかつて所持していて教員として勤務し得る、希望しているという人がなるべく簡単な手続で学校で働けるようにしてほしいなというふうに思っております。
これが免許更新制についての、ごくごく簡単ですけど、私なりの評価です。
次に、研修の在り方についてお話をしたいと思います。
これも、改正案の第二十二条の五の第二項第四号のところです。つまり、任命権者に研修等の記録が義務付けられているわけですけど、何を記載していくかというときに、任命権者が必要と認めるものと規定されている点に関してです。
これに対しては迷うところもありますが、記録するのであれば、法定研修も含めて全ての研修等の取組にした方がよいんじゃないかなというふうに思っております。その理由は次のとおりです。
もし記載するものとしないものとを分けるとすると、その判断のための基準が必要になります。しかし、そういう基準を一律に決めて適用していくことが可能かどうかということ、あと、研修などの取組は今目の前にいる子供たちが抱える課題からスタートするものなので、どんな取組も学校現場にとっては必要に決まっているんですよね。必要だからいろんな形で行っているんです。それに対して、どのような基準で記載する必要があるかないかを判断するのはとても難しい。
その判断するためには、その記録をどう使うのかということが明確でないと、じゃ、これは書こう、書かないとなってくると思うんですけれど、記録を基にして対話に基づく指導助言ということになるんでしょうけれど、だとすれば、指導助言に不必要な研修等の取組があるということになってしまいます。そもそも、学校とか学級の課題から出発して、校内研修を始めとして各教員の様々な取組があるわけですから、どれも必要なことで、そこの線引きは難しいだろうというふうに思っています。
さらに、もし記載するものとそうでないものとを区別するとなっていくと、本来自主的あるいは主体的であるはずの研修の取組に対して、資質向上のために認められるものとそうじゃないものということをかなり明確化するというそういう作業が必要になってきて、それが任命権者にできるかどうかと、してよいかどうかという問題があるかなと思います。
いかに活用するかという点と関連するんですけれど、この記録を取った場合には注意しておくべきこととして、記録の閲覧者の範囲をどうするかということかなと思います。結論的に言うと、もちろん個人情報ですから、本人と、それから管理職と、そして任命権者という範囲に限っておくことが必要かなと思います。いずれにしても、個人情報ですので、漏えい防止とかそういう細心の注意を払う、そういう制度をしっかりつくっておかないとまずいだろうというふうに思っております。
研修は、法律にあるとおり、権利であり、また義務であるとも書いてありますけれど、そういう趣旨ですけれど、権利としてしっかりと保障していくこと、これ教員という仕事を続けていくためにはとても大切なことですけれど、その観点からいうと、臨時的任用の先生たちですね。今すごく学校現場はそういう先生たちで回っているんですけれど、臨時的任用の先生たちにも研修の機会は保障されなければいけないだろうと思っています。もちろん強制になってはいけませんけれど、その点も注意しておく必要があるのではないかなと思っております。
これまでの話にも出ておりましたけれど、今学校は研修する時間さえないほどの多忙の中にあります。これは国際比較調査などでも明らかにされていることです。研修の充実は専門職としての教員には不可欠でありますから、まずは教員が働く環境の整備が必要になるだろうと思います。その上で、様々な形での研修の保障が実現できるような、そういう制度設計を望みたいというふうに思います。それぞれの現場の必要に応じて、自由な学びの機会が、勤務として、あるいは勤務場所を離れる場合も含めて、かなり幅広く保障されていく必要があるのではないかなというふうに思っています。それが現実的に課題に応えるということですし、先生方のやる気にもつながってくるのではないかというふうに思っております。
最後に、やや一般的な言い方になるんですけれど、教育という行為における評価とか成果の在り方とか、あるいは教員として信頼されるってどういうことかということについて少し述べたいと思います。これは、ある学校の先生から聞いた一つのエピソードからお話をしたいと思います。
その先生は、四十年前、高校生でした。高校の古典とか漢文の授業で、これが一体何の役に立つんだろうか、どんな意味があるんだろうか、とても不思議というか、何でだという気持ちがあって、その担当の先生にそう聞いたそうです、どんな意味があるんだ。そうすると、担当の先生の答えは、今に分かるということだったそうですね。ええっと思いますね。今だったらこれちょっとあり得ない回答かもしれません。説明責任どうなっているんだとなるかもしれませんけど、でも、四十年後の今、本当に分かったと。ようやく分かった、あの先生いいこと言っていた、いい授業だった、あれはいい先生だったんだということですね。遅いと思うかもしれませんけど。
当時、もし数値化できて、すぐ分かるような成果によって教員評価がなされていたとしたら、もう取り返しが付かないですよね。もちろん逆のこともあります。ああ、いい先生だなと思っていたけど、しばらくたって、ううん、どうだったのかなということもそれは起こります。なので、まあそんなエピソードを聞いたんですね。
このことから、三つの事実が指摘できるかなと思います。
一つが、教育という行為の効果測定は非常に難しいということです。もちろん、だから何もしなくていいというわけではない、そう言いたいわけではないんですけど、非常に慎重に行う必要があるだろうということです。
二つ目が、この授業にどんな意味があるのかという疑問を持つ時間的、精神的ゆとりがあったということですね。教員の方にも、自分の授業を振り返って、今目の前にいる子供たちに何をどう伝えようかとか、今自分はどんな存在としてこの子たちの前にいるんだろうかとか考えていたと思うんですね。その究極の答えが多分今に分かるだったんだと思うんですけど、これは自主的、主体的な研修の前提ですよね、こういう余裕がないとですね。で、その反省的思考の中からいろんな課題が見えてくるということになるのではないかなと思います。
ただ、今こんなこと考えていたら教科書終わんないになるし、生徒の方も、何でこれやっているんですかって言っているうちに授業は進んじゃうので、置いていかれちゃうということになっています。いろんな意味で多忙化です。
あと三番目、授業に対する疑問を教員にぶつけることができるくらいに、教員と生徒との間に信頼関係があったということです。これも、じゃ、どうやって信頼が築かれていくんだろうかということですね。多少ノスタルジックに過ぎたかもしれないし性善説だと言われるかもしれないんですけど、ただ言えることとしては、信頼される教員であるということは、子供たちといかにたくさん関わっているかということ、たくさんの声を聞いているかということに懸かっているのだということです。もちろん、研修の大切さはもう大前提で、それを保障する制度の重要性も大前提なんですけれど、でも保護者として、うちの子のことをちゃんと見てくれていますかと、声聞いてくれているんですかという、そこが一番大事なことですよね。
これもある先生から聞きました。家庭訪問に行って、何か学校に要望することがあるのかと聞いたところ、そこのおばあちゃんから、ともかく、先生もいろいろ大変だろうけど、うちの孫を笑顔にしてくれと言われたということですよね。それに尽きるということです。
その先生がどんな研修を受けたのかということだけでは信頼は得られないということですし、研修研修で今度は逆に忙しくなって子供の話聞けないでは本末転倒になってしまうので、その点をしっかり見据えた制度設計をしていかなければいけないのではないかというふうに思っております。
私の発言は以上です。ありがとうございました。