山田健太の発言 (法務委員会)
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○参考人(山田健太君) おはようございます。発言の機会をいただきまして、ありがとうございます。専修大学ジャーナリズム学科の山田健太です。
本日は、主として侮辱罪の在り方につきまして、言論法の立場から意見を申し述べさせていただきます。
皆さん、スマートフォンはいつ買われましたでしょうか。思い出していただければ、東日本大震災のときには、まだほとんどの方が携帯自体を持っていないか、持っていてもガラケーと呼ばれるような携帯電話でした。それが二〇一五年には半数を超え、同時にSNSが広く普及し始め、それとともにネット上での誹謗中傷が社会問題となってきたわけです。あえて言えば、ここ五年ほどの新しい社会問題と言えます。これに対し、よく野放しとか無法地帯という言い方がされています。今回の法改正も、ようやく法がネット対応してくれるという声も紹介されております。
しかし、果たしてそうでしょうか。ここ一、二年の間に急速にインターネット上の法整備が進んでいます。昨年、プロバイダー責任制限法が改正され、今年一月からは具体的な運用も始まっています。警察庁や総務省が主導する業界とともに行う共同規制も、より細やかに、そして広範囲に、更に強力に運用が始まってもいます。プラットフォーマーも、ようやくではありますが、自らを表現者として認識するに至り、扱う情報に社会的責任を負うことを公的にも表明し、また人もお金も掛ける形で自主的な取組も始めています。
さらに、フェイクニュースに惑わされないぞといったユーザーの意識も大きく変わりつつあります。まさに今、ネット環境は急速に変わっているのです。確かに、デジタル庁もできてまだ一年ということになると思います。
新しいデバイスであるスマホ上で、新しいメディアであるSNSにおいて、行き過ぎた表現があることは事実です。しかし、残念ながら、みんなが幸せな環境を享受するような秩序が整うまでの間、多少の混乱をするのは新しい技術が誕生した時期の宿命であり、私たちが通らざるを得ない道です。そのときに過剰反応して必要以上の規制をつくることは、そのメディアの良さを殺すことにもなりかねませんし、社会全体のバランスを損なうことにもつながります。今回の場合でいえば、何よりも問題は、表現の自由の話であることにあります。今日現在、ネットは決して無法でも野放しでないことをまずは冷静に見詰め直していただければと思います。
もちろん、インターネット上の誹謗中傷で苦しむ方々を少しでも減らしたいと思うのは当然であります。その一つの方策として、法規制を強化することによって犯罪行為を抑止するという選択肢は確かにあります。一方で、既に本国会でも多くの指摘があるとおり、そのデメリットにどのようなことがあるかについてはよく吟味する必要があります。
一般に、法規制、とりわけ刑事罰を重くすれば犯罪の抑止につながり、発生件数は減少するでしょう。これは間違いありません。しかし一方で、そのために私たちの社会のゴールである民主主義が壊れることがあってはなりません。目の前の個別具体的な被害の救済はとても大切なことでありますが、それによってより大きな社会的損失を生むことがあってはならないのです。とりわけ、今回の場合、その壊れる可能性があるのは、民主主義社会の根幹である言論の自由、とりわけ批判の自由です。
昔から、表現の自由はガラスの城に例えられてきました。それは、一旦ひびが入ると、それがどんなに小さい傷であっても徐々に広がり、そして最後には全体が壊れてしまうという性格を持っていること、そして一旦入ったひびは修復できないことを指し示しています。取りあえず一旦試しにやってみて、もしうまくいかなかったら後でやめればよいというわけにはいかないのです。一度失われた表現の自由、批判の自由は元に戻らないことを私たちはこれまでの歴史から学ばなくてはなりません。
最初に、一ですが、批判の自由は民主主義の根幹であることについて確認をさせていただきたいと思います。
表現の自由が民主主義社会の基盤を成すことについては、ここで改めて言うまでもありません。その中で、批判の自由の拡大の歴史こそが表現の自由の歴史でもあります。
日本に限定してお話をするならば、戦後、現在の憲法が制定され、名実共に表現の自由が保障される時代を迎えました。同時に、刑法の名誉毀損罪には新たな条項が加わります。二百三十条の名誉毀損罪の追加条項である二百三十条の二の免責要件と言われるものです。これによって、たとえ為政者を批判しても、それが公共性、公益性を有し、真実であることを証明できれば、その自由な批判を保障することが定められたわけです。
それまでは、天皇、政治家、高級官僚を批判することは罪でした。むしろ、事実であれば事実であるほどその罪は重かったとも言えます。しかし、戦後、百八十度異なり、民主主義社会のためには、公人を自由に批判できる環境こそが大切であるとされたのです。その後、判例上でも批判の自由の範囲は徐々に広げられ、今日に至っています。
そして、国際的な潮流でも、国連自由権規約委員会の一般的意見でも、名誉毀損等については非犯罪化を検討すべきといった見解も出されているところであります。それは、国家の判断で、為政者を批判する発言を刑事罰で厳しく取り締まることの危険性が大きいことを表しています。にもかかわらず、今回の改正は、こうした流れに真っ向から逆らうものでもあると言えます。
日本の場合、いわゆる広義の名誉毀損法制は、中核の名誉毀損罪のほか、威力業務妨害、信用毀損、そして侮辱です。この侮辱罪は、名誉毀損罪の弟分のような存在ですが、事実の摘示がない抽象的な表現を幅広く対象にする代わりに、制裁である罪を極力軽くし、バランスを取ってきました。これは明治の制定時からの制度設計です。
同時にまた、名誉毀損自体も、公権力の行使を抑制的にすることで表現の自由への配慮を実現してきました。侮辱罪についても同様で、しかも侮辱の範囲が曖昧であるがゆえに、より恣意的な権力行使が可能であることを考慮し、より慎重な運用がなされてきた結果、既に審議されているように、過去の検挙件数が少ないという結果を生んできたわけであります。
今回の法改正は、こうした制度設計や運用を大きく変更するもので、名誉毀損と大きく変わらないような罰則に強化するにもかかわらず、その定義は曖昧なままで、しかも免責要件を有しないという意味では三重の過ちを犯していると言わざるを得ません。
二つ目には、大衆表現こそ一般市民の大切な表現活動であるということについてお話をしたいと思います。
今般、審議に何度か登場してくるやじ行為、あるいはデモや集会、立て看やポスター、チラシなどは、一般に大衆表現と呼ばれるものです。別の呼び方としては、原始的表現、プリミティブ表現と呼ぶこともあります。一般市民がお金や手間を掛けることなく、メディアを持っていなくても気軽に行使可能な表現形態であります。SNSも、時にネットデモと呼ばれることがあるように、今日的な大衆表現という側面を持ち合わせています。
この表現行為の特徴は、ショートメッセージであることが多く、また感情的な表現になるような場も多いと言えます。その結果、時には言葉が激しくなったり汚い言葉になったりもします。会社を首になった労働者が社長に抗議する場面などが当たります。そして、政府や政治家に対する抗議活動も同じです。国会や官邸前でも、あるいは沖縄の地でもよく見かけるところであります。
そうした激しい表現活動が特別な感情を社会に植え付けている側面を否定できません。もしかすると、それは政治家である皆さんにも共通しているのではないでしょうか。言わば、やじ、デモ、チラシへの偏見です。大衆表現について、一般社会から逸脱した人の行為である、負け犬の遠ぼえだ、金で動く人たちでプロ市民だ、一部過激派の運動にすぎないなどなどです。
なぜ迷い猫を捜しての張り紙がオーケーで戦争反対はNGなのか、もう一度立ち止まって考えてみる必要があります。そば屋の宣伝チラシはよくて政党活動報告が駄目なのはなぜなのかであります。同一線上に問題とされる侮辱表現行為があります。
そして、こうした運用上の差異を生むのは、取り締まる者、すなわち行政の恣意的な判断となっています。新聞やテレビを直接制約するのは好ましくないけれども、面倒くさくてうるさい大衆表現は多少厳しめに制限しても構わないという意識が世間一般にないでしょうか。
侮辱罪の適用対象は、多くの場合、こうした大衆表現であります。実際、法制審でも、侮辱的表現は低位な表現で保護する必要がないという発言があり、それが部会の空気を支配しているような印象さえ受けました。
表現の自由は必ず周縁から制約が始まります。言わば、社会の空気感で多くの人が気にしないところからです。まさに、侮辱表現であることを理由に大衆表現が恣意的に刑事罰の対象として取り締まられることは、表現規制の典型例でもあり、批判の自由の制限の始まりであります。
三つ目は、表現規制の特徴である曖昧さは自由拡大の方向で使うことの徹底であります。そして、法規制は最後の手段であることを、これまで私たちが守ってきた大原則でもあるということをお伝えしたいと思います。
さきにも触れましたが、侮辱は低位とのラベリングがなぜ危険かといえば、誰がどういう状況で言うかを考えると想像付きます。
確かに、強者から弱者への侮辱的言動は許し難いものです。その一つが、ネット上のマジョリティーの側から発せられるマイノリティーへの人格否定や罵詈雑言です。実際は情報発信者自身も社会の強者とは言えない、必ずしも言えない場合も少なくないのですが、匿名という殻に守られていることで強者の立場に立てるという構図が生まれています。
一方で、弱者から強者への典型が、一般市民から政治家、労働者から使用者、マイノリティーからマジョリティーへといった発言です。それらは、往々にして言葉が多少汚くなることも強い表現になることもあります。しかし、それらの多くは、勇気を振り絞り、やっとの思いで口にした、言わば心の叫びとでもいうべき必死の抵抗でもあるわけです。その場合、強者は、反省のきっかけにこそすれ、それを力で封じ込めることがあってはならないのです。
それを考えた場合、両者にもし同じルールを当てはめるならば、後者の心の叫びが罰せられないようにすることが大切なことは言うまでもありません。これまで罪をあえて重くしてこなかった理由を私たちは思いをはせる必要があります。こうした少数者の意見が出やすくすること、強者に対して物言いがしやすい環境を用意しておくこそが、民主主義の懐の深さでもあります。
言うまでもありませんが、もう一つの後者の発言を守る方法が免責要件と言われているものです。これについてはレジュメ右側のお手元の図を参考になさってください。
①は、一般的な刑事罰のありようで、境界線を境に、やっていいことと悪いことがはっきりしていることを表しています。そして、②のように、一線を越えると罰せられます。しかし、③で分かるように、表現活動の場合は、限界線が明確でないため萎縮効果が働き、手前で自制するのが一般的であります。そこで、④にあるように、批判の自由を最大限行使できるように、限界を超えられる工夫を施しています。これが免責要件です。その結果として、⑤に見られるように、目いっぱいの批判が可能になるわけです。ただし、往々にして、行政等が新たな限界線、境界線を本来よりも手前につくることがあります。これが⑥の状況と言えます。
それからすると、今回の侮辱罪の強化は、適用対象を変えていないということでは限界に変更がないというのが政府説明でありますが、実態として、政府が同時に繰り返し説明しているように、抑制効果を期待しているというわけですから、まさに壁自体を手前にずらす効果を生むことになるわけで、最もやってはいけないことであることが分かると思います。
この意味するところは、今回の改正が、批判の自由拡大のための工夫の成果である免責要件を有しないという危うさを持つだけでなく、罰則の強化ということによって全く逆に自由の限界線を引き下げる効果を生むという意味で大きな欠陥があると言えます。しかも、行き過ぎた表現行為に対処する場合には法規制は最後の手段であること、どうしても必要な場合もより制限的でない方法を取ることも、規制ルールの大原則としてこれまで国会が守ってこられた大切な規範です。
最初にお話ししたように、この一年で様々なネット表現ルールの改定がなされ、その効果も検証がされていないうちに最後の手段に踏み込むのは、勇み足と言われても致し方ないのではないでしょうか。
さらに、本当はもう一つ、民事訴訟を含めた表現活動に対する影響についてもお話をしたかったのですが、この点については、時間が参っているようですので、また別の機会にとさせていただきます。
以上、今般の刑法改正が持つ民主主義社会への影響、表現の自由への関係についての大きな話をさせていただきました。
私は、本法案に反対の立場であり、いま一度ゼロベースから誹謗中傷抑制のために何が必要なのかを議論いただきたいと思うわけでありますが、もし改正案が成立した場合においても、その運用において誤った方向に進み、私たちが大切にしてきた民主主義社会が揺らぐことがないよう、様々な運用可能性を十分に吟味し、可能な限り事前に歯止めをつくっておくことも立法作業の重要な役割であると思っております。
また、個別具体的な法条文の問題については、正当行為で運用上免責され得るのかとか、繰り返し確認されている適用対象が変わらなければ問題は発生しないのか、あるいは統一見解や衆院附帯決議にあったように現行犯逮捕されなければ問題は解消するのかなど、是非皆様からの質問の中で触れる機会があれば幸いです。最初に指摘した誹謗中傷対策として、より効果的な方法として今何をなすべきか、その解決策についても是非お答えができればと存じます。
委員長始め法務委員会の皆さん、今こそ良識の府である参議院の意義を発揮していただきたいと思います。政治家としての良心を示していただきたいと思います。
冒頭お話ししたように、目の前の声に過剰に反応することで、全体状況、森を見失うことは立法府が一番やってはいけないことではないでしょうか。皆さん方がこの七十七年間守り育ててきた民主主義を是非とも引き続き守っていただきたいと思います。皆さんの手で批判の自由を奪い、民主主義を壊すボタンを押さないでいただきたい。
自らの地位を守り、批判をさせないための悪法を作ったということを記録に残し、後世に引き継ぐことについてためらいを持っていただけると強く信じております。
以上で意見陳述を終わります。ありがとうございます。