隠岐さや香の発言 (文部科学委員会)

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○隠岐参考人 皆さん、おはようございます。
 本日は、このような機会をいただき、誠にありがとうございます。ここの衆議院文部科学委員会の皆様、そしてここまで私を導いてくださった方々の全てに、心からお礼を申し上げます。
 さて、私は東京大学の教員ではありますが、今日はどちらかというと一人の研究者として発言をしています。また、近年、国際学術会議という国際機関の、科学の自由と責任に関する委員会の委員を昨年より務めておりますが、その関係で、国際的な学問の自由についての議論に触れた者として、今日は意見を述べさせていただきたいと思います。
 まず、今回の国立大学法人法の改正でございますが、現場の教員としては、急に降ってきたという性質のものでございます。確かに、法案には、管理運営の改善、教育研究体制の整備及び充実のためと書いてありました。ですが、それはいつも常に大学が心がけていることのように思います。つまり、立法事実がよく分からないというのが個人的な気持ちであります。
 そして、法案を拝見したところ、どうしても、今日、やむにやまれず、意見を言わずにいられないというふうな点を見つけました。それは、この法案に大きな問題点があるということです。
 問題点というのは、資料の三ページを御覧ください。この法案は、トップダウン経営と大臣の承認という二つの要素を掛け合わせています。この片方だけなら、まだ何とかなるでしょう。しかし、この両方というのは非常に問題があると私は考えています。特に、この形というのは、民主主義的な先進国の大学には見られない、そのような構造であるからです。つまり、憲法第二十三条の学問の自由を損なうのではないかというのが、私の最も大きな懸念でございます。
 では、少し詳しく、改正法案の主な内容を見ていきたいと思います。
 四ページの資料を御覧ください。まず、こちらの法案ですが、特定国立大学法人、準特定国立大学法人に、中期目標、中期計画及び予算、決算に関する事項等の決議、決定権を持つ運営方針会議を置くとなっています。
 最近、CSTI、つまり総合科学技術・イノベーション会議が最終まとめを九月頃に出しまして、その中では、こういった合議体というか、トップのそういう運営方針会議のようなものを置くのは国際卓越研究大学、つまり、大学ファンドをもらう大学だけだというふうに書かれていたように思います。我々もそのような気持ちでおりました。しかし、急に、それに関係がない大学にもこれが降ってくる。そして、申し上げたように、この会議には、トップダウンと大臣の承認という二つが組み合わさっているというところが非常に問題だと感じています。
 あと、では、なぜ文科大臣の承認が問題かといいますと、これは言ってしまえば、政府の介入を可能にする仕組みであるからです。もちろん、今は何か事情があって、これが必要だと考える方が多いのかもしれません。しかし、十年後、二十年後はどうでしょうか。これが、ある種の、大学にとっての弱点にならないでしょうか。それを私は申し上げたくて、ここに参りました。
 あと、もう一つ問題と感じる点がありまして、それは財務制度でございます。財務制度が柔軟にいろいろなものを運用できるようになる、それはすばらしいことだと思います。その必要があるタイミングに来ているのだと思います。しかし、そこでトップダウンということの問題が生じてまいります。つまり、今までは土地等の貸付けなどは許認可制だったわけですけれども、これからは、個別的な認可の廃止で、計画による届出制になります。つまり、柔軟な財産運用ができるわけでございますけれども、例えばサークル等のグラウンドの利用といったことに対して、これまでのようにうまくやり取りができるんでしょうか。そこが気になっております。
 といいますのも、例えば、五ページ目を御覧ください。日本の国立大学というのは、現在、下からの牽制の機能がほとんど働かないようになっております。監事による上からの牽制、経営協議会による横からの牽制、教育研究評議会による下からの牽制、これはありますが、いずれも現場の教職員や学生にとって遠い存在です。このような有様ですと、非常に、トップダウンになってしまうと、研究、教育、医療の現場と大学執行部の亀裂や対立が生まれることが懸念されます。実際にSNS等では、そのような状況に不満を持つ学生のつぶやきが見られます。
 ここで我々が、ではどうするべきなのかと考えるために、これまでの大学改革でお手本にされていた米国の状況、アメリカの状況を見てみましょう。
 アメリカの大学は確かにトップダウンです。歴史的な経緯があって、そうなっています。しかし、トップダウンというのは、当然ながら、教員等の雇用において問題を生みやすいわけです。アメリカの場合は、理事会が完全に外部の人で構成されていることもあり、そして教員を自由に解任できるようになっていました。しかし、それゆえに大きな問題も生じました。例えば、昔の話ですけれども、進化論を教えた教員を解雇するというようなことが起きたわけです。それに対して、やはり研究の自由のためにはあってはならないことですので、教員たちが立ち上がり、大学横断型の組合を活性化させる、そういったものをつくって一世紀以上闘ってきたという経緯があります。つまり、幾多もの裁判闘争を経て、トップダウンだけれども、ボトムアップの仕組みが利くというふうな形でうまく釣合いが取れています。
 実際に、そして大学のガバナンス体制を見てみますと、七ページを御覧ください。ちょっと早口で申し訳ないです。カリフォルニア大学では、例えば、学生や教職員の代表が学長を選ぶところにまで関わるという仕組みが入っています。
 特に、八ページを御覧ください、チャンセラー、これは学長と訳されていますが、その選考委員会の中に学部生、院生、同窓生、基金代表、職員代表までが入っています。もちろん教職員も入っています。つまり、ボトムアップで、かつ社会に開かれた議論が可能な仕組みが大学の中にアメリカの場合は備わっているわけです。この部分を欠いたまま、日本でトップダウンの構造をつくってしまうことは危険だと私は考えます。
 アメリカについてですけれども、九ページ目を御覧ください。九ページ目にありますように、アメリカの大学では、トップダウンだけではなくて、共同統治、つまりシェアドガバナンスの原則というものが根づいております。これは、詳細は読んでいただければお分かりになると思いますが、各教員なりアドミニストレーターなり理事会なりがそれぞれ役割を持ってガバナンスに参加するということです。そして、これらの構成要素を成す方々の十分なコミュニケーションが大事にされています。このような部分を視野の外に置いたまま学長のリーダーシップや大学経営論だけを考えるのは、言ってしまえば、ブレーキを欠いたまま車を造るようなもののように私は考えます。
 同じようなことは、ほかの国の大学を見ても言えることです。例えば、ドイツの例を十ページ目に掲げておきました。ドイツの場合は更に民主的な仕組みが徹底されておりまして、というのも、ヨーロッパの場合は、アメリカと違って、外部の理事会が教員を任命したりするということはしなくて、基本的には教授団の自治というところから大学が始まっていますので、仕組みが全く違います。それもあって、御覧のとおり、大学の大事なことを話し合うのが、大学評議会という学内の合議機関があるんですけれども、学内の議会みたいなものですね、そこに教職員、職員、そして学生の代表が入っています。そして、この学長の任命についても、十ページ目の下のところを御覧ください、これは政府の資料だと思うんですけれども、大学評議会の推薦を受けて学長は任命されるとなっています。
 同じようなことが、より中央集権的だと言われるフランスでも見られます。フランスの場合は、管理運営評議会というところが学長を選びますし、大学のいろいろなことは、三評議会というふうな、十一ページにありますように、三つの評議会が決めるのですけれども、そこに必ず教員、職員、学生、学外者を含む人々の代表が入っています。
 フランスの教育法も十二ページにつけておきました。この中に見られますように、かなり教職員そして学生など学内者の割合が多くなっております。数は、是非、御関心があれば数えていただければと思います。
 十三ページ目は参考レベルですので、特に深くは言及いたしません。フランスの中央集権的なシステムの情報です。
 さて、私がここまでちょっとテンション高く申し上げるのは理由がありまして、先ほど申しましたように、私は国際的な学問の自由についての議論を日々聞いております。
 この度、ちょっとこれは学問の自由度指標と訳しちゃったんですけれども、学問の自由度指数と言った方がいいと思います。ちょっと、間違いではないですけれども、よりよい言葉として指数というふうに訂正していただければ幸いです。
 学問の自由度指数という、いわばランキングのようなものが近年開発されております。ジェンダーギャップ指数の学問の自由版と思っていただければ幸いです。この学問の自由度指数において日本は〇・五八、これは、下から三〇%から四〇%の集団に相当します。つまり、余りよろしくないという、残念ながらそういった現状があります。
 少し時間が押しておりますので、ページを飛ばして、十七ページを御覧ください。この学問の自由度指数の構成なんですけれども、五つの基準で点数がつけられています。このうち、上から三番目、大学等の組織自治というところの数字を御覧ください。これが一・七三、かなり日本は低い値となっているのです。この数字、今は余り知られていませんが、このような評価基準ができていますので、そのうち、日本の例えば大学間の協力の信用査定なんかに使われる可能性がありまして、全く無視していることはできないのではないかと私は考えます。
 つまり、まとめに入りますが、十八ページを御覧ください。日本の学問の自由度というのは、最悪とまではいかないですが、よくない状態と評価されています。そして、今回の国立大学の法人法改正というのは、言ってしまえば、政府の介入を増やし、もちろん、今ここにいらっしゃる皆さんが何か悪意があってそうなっているとは思わないんですが、十年後、二十年後を考えてください。未来を考えていただきたいんです。未来の世代において、例えば問題のあるようなことが起きないか、そして、日本の学問の自由度を更に下げていくきっかけとならないかというのが、私がここで本当に声を張り上げている一番の理由でございます。
 つまり、アメリカの大学のトップダウンなだけをまねるだけではいけないのです。アメリカのトップダウンというのは、ボトムアップの激しい動きがあってこそ成り立っているものです。
 つまり、我々は今、いわばアメリカの百年前のような状況をつくろうとしているわけですから、これから訴訟が続くかもしれません。そしてまた同じことを繰り返して、百年後にはよくなっているかもしれないですけれども、でも、今はそういうことをするときでしょうかというのが私の申し上げたいことです。つまり、ほかの民主主義的な先進国の大学にあるようなボトムアップの仕組みづくりを無視したまま、この法案を通していいのか。
 それから、ボトムアップの仕組みというのは大事です。それは、創造的な研究、イノベーションのために必要だということが、大学人ならば直感的に分かっていると思います。もちろん大学の関係者じゃない方もいらっしゃるので、ここで私はそれが必要だと。もし質問があれば、是非聞いていただきたいと思っております。
 つまり、現行の国立大学法人法の改正法案は、重要な疑念を生む部分があるんです。疑いを生みます。疑いを生んで、私の周りの人々は非常に不安がっていますし、怒っている人もいます。それなのに、急速に採択されようとしているんです。
 大学というのは公共信託の場です。公共信託というのは、つまり、社会から託されている、信じられ、託されているということです。大学は、自由な知を追求する使命を社会から託されています。そして、現在のみならず、未来の世代にも責任を負っています。私たちの子供が通う大学、そういったものを考えなければいけないのです。
 そして、これは国立であろうが私立であろうが変わりません。これはアメリカの議論でもそうだったということです。アメリカには私立の大学がたくさんありますが、ヨーロッパには余りないんですけれども。
 つまり、何が言いたいかというと、特定の時代の政府や私企業の意図を反映した研究や教育をしているというふうに疑われるようなことがあってはならないのです。そういった条件、そういうふうな疑いを生むような条件は、未来の世代のためにも徹底して排除しなければならないと私は考えます。さもなくば、研究と教育の本当のクオリティーを保つことは、現場の教員としては難しいと思います。
 それなので、本当にこのような貴重な機会をいただいたことに改めてお礼を言いますとともに、本当に心からのお願いです。自由と民主を掲げる全ての党の皆様、もちろんそれ以外の党の皆様にも、憲法第二十三条の学問の自由の守護者になっていただきたいと思います。
 学問の自由というのは、主観的な権利としての側面、つまり、個人の研究や自由だけではなくて、客観的な権利としての側面、組織の自律的な意思決定を国が保障する権利のことも意味しています。そうでないと、個人の権利や自由は守れないからです。安心して学生や教員が自分のやりたいことをやる、そういった環境を実現するお手伝いを是非してください。もちろん我々も必死で頑張りたいと思います。是非、この叫びを、思いを聞き届けていただければありがたいと思っています。
 お時間をいただき、そして聞いていただき、本当にどうも皆さんありがとうございました。(拍手)

発言情報

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発言者: 隠岐さや香

speaker_id: 21192

日付: 2023-11-14

院: 衆議院

会議名: 文部科学委員会