猪瀬直樹の発言 (憲法審査会)

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○猪瀬直樹君 日本維新の会の猪瀬直樹です。
 日本の意思決定はロジックでなく空気によってつくられて動いていくと、それでよいのかというテーマで述べさせていただきます。
 憲法九条に自衛隊を明記する是非の議論が今年四月に衆議院の憲法審査会で行われました。御承知のとおり、自衛隊は、昭和二十五年に警察予備隊として発足してから、実に七十年以上もその憲法上の位置付けが曖昧なまま今日に至っています。
 本日は、この曖昧さが我が国の国際貢献を妨げ、防衛産業の発展を阻害する結果を招いてきたことを防衛装備移転三原則の歴史的経緯を振り返りながらお話ししたいと思います。
 昭和二十五年から始まった朝鮮戦争の中で、当時のGHQの生産許可を得て、日本の防衛産業は兵器や砲弾の製造を行いました。その結果、日本はいわゆる朝鮮特需で戦後復興を果たします。その後、一九六〇年代に東南アジア等への輸出も行われていましたが、東大が開発したロケットがユーゴスラビアに輸出された件をきっかけとして、共産圏諸国、国連禁輸国、国際紛争当事国等への武器輸出を禁止すると、いわゆる武器輸出三原則が佐藤総理の国会答弁として一九六七年に表明されました。
 お配りした資料、ちょっと見てください。資料の一番左の部分です。このときまで輸出禁止地域以外への武器輸出は可能とされていたのですが、野党からの批判を受けて通産省が慎重に対応するようになり、民間機YS11のフィリピン軍への輸出にも否定的な方針を立てたりしました。
 武器輸出三原則は法律で規定されたものではありませんでしたが、外為法上の輸出許可品目となっており、その許可権限は当時通産大臣が持っています。当時も民間産業界には武器輸出や国際共同開発のニーズはありましたが、それにもかかわらず国会での追及などを受け、徐々にその制約はきつくなりました。
 資料左から二番目ですが、一九七六年の二月に、当時の三木内閣が武器輸出に関する統一見解を表明しました。このとき、三原則対象地域以外の地域については、憲法及び外国為替及び外国貿易管理法の精神にのっとり、武器の輸出を慎むものとすると。慎むものとすると記述されたことで、これまで外為法の運用基準になかった武器輸出抑制政策が憲法及びと付け加えられたことにより、憲法の平和主義精神と結び付けられてしまったのです。
 その後、一九八一年に内閣法制局長官が武器輸出三原則は憲法の平和主義の精神にのっとったものと答弁したり、八三年に山中貞則通産大臣が、日本は人を殺傷するための武器を輸出する国に絶対してはいけないし、ならないと答弁しました。憲法とのひも付けが明確な根拠もなく、平和という言葉が無制限に膨張していきました。
 日本という国が一旦強化された規範や規制を緩めるのは容易なことではありません。資料の右側にありますが、その後、一九八三年以降、アメリカに対する武器技術の供与を始めとする個別の例外化措置が十八回行われ、また、二〇一一年十二月の野田内閣において、防衛装備品等の海外移転に関する基準が官房長官談話として出され、例外化措置の類型化が行われましたが、曖昧なまま規範となってしまった。実質的な原則全面禁止、例外として一部のみ認めるという政府の姿勢は変わりません。すなわち、禁止というネガリストの上に、やれることを列挙するポジリスト型になってしまいました。
 二〇一四年四月に安倍内閣において策定された防衛装備移転三原則は、この憲法との曖昧な結び付きを再構成しようとする試みでした。ここでようやく積極的平和主義を打ち出し、憲法における武器輸出の解釈を国際法上のものに近づけ、一九六七年の佐藤総理の答弁に立ち返ろうとしたのです。しかし、その後実現した完成品輸出の成功例はフィリピンへの地上警戒管制レーダー輸出のたった一件のみです。
 この実態を改善すべく、三原則の運用指針見直しが与党実務者協議において議論されていると聞いていますが、なかなか議論が進まず、憲法の平和主義の狭隘な解釈に縛られているように思えます。
 本来普遍的であるはずの国際平和主義が我が日本においては憲法と奇妙に結び付き、武器を忌避する特殊な世界が生まれてしまいました。その結果、今般のウクライナ紛争においても……

発言情報

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発言者: 猪瀬直樹

speaker_id: 12449

日付: 2023-12-06

院: 参議院

会議名: 憲法審査会